イエスは主


ベック兄

(深大寺家庭集会、2008/07/07)

引用聖句:ローマ人への手紙10章9節
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

ローマ人への手紙14:8
8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

コリント人への手紙第II、4:5
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

コリント人への手紙第II、5:15
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

今読んでもらった箇所で、同じ言葉が出てきます。「主」という言葉です。
すなわち本当の意味での主、すべてを支配し賜うお方とは、十字架の上で、人間の罪とのために犠牲になられたイエス様です。
人間にとってどうしても必要なのは、このイエス様を知ることです。単なる助け手としてではなく、主としてです。

人間とは視野の狭い者で、助け求める人は多いけど、一時的に問題が解決されればそれで良いと、だいたいみんな思っています。けれども、主は一時的な問題を解決する気持ちはないのです。
人間の悩んでいるのは、主のせい。主は、いろいろな一時的な悩みと苦しみを与えて下さいます。なぜなら、人間が永遠なるものを求めるようにするためです。
イエス様を知るようになれば、やっぱり悩みながら喜ぶことができる。

結局、考えられない多くの人々は不幸になったから、病気になったから、幸せと言えます。辛いよ、けどうれしい。普通の人は考えられない。
普通は、人間は、悩むか喜ぶかのどちらかでしょう。違うよ。悩んでいない人はいない。信仰があってもなくても関係ない。
けど、悩んで絶望してしまえばもうたいへん。悩みながら喜ぶことができれば、これこそすごいなのではないでしょうか。

イエス様を、罪を赦してくださるお方として知ることは、考えられないほど大切です。けども、イエス・キリストとは単なる救い主だけではないのです。
新約聖書の中に、イエス様が救い主であるという言葉は、26回しか出てこない。
イエス・キリストが主であるという言葉は、670回出てきます。やっぱり考えるべきなのではないでしょうか。

イエス様ご自身がよく言われたのは、私は主そのものであると言われただけではなく、イエス様と出会った人は、みな例外なく同じことを宣べ伝えたのです。
パウロは、こう記しました

コリント人への手紙第I、8:6
6私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

ペテロも、同じことを何回も何回も言ったのです。イエス・キリストはすべての人の主です。単なる助け手ではない。単なる救い主だけではない。単なる解放者でない。主です。すべての背後で支配なさるお方です。これを考えると、やっぱりありがたい。
昨日、ちょっとある重病人のところへ行きました。もう話すことはできなくて、いつまでもつかわからないけど、けど、やっぱり心を開いていたのです。
彼も、おそらく何回も何回も、どうしてこんなひどい病気になっちゃったのか。どうして、私はそんなに悩まないといけないのかと悩んだのです。結局、誰も答えられないのです。

けども、支配なさるイエス様のせいだということができるのは、ある意味でありがたい。なぜならばイエス様は完全ですし、イエス様は変なことをなさいません。
どうして、悩むようになったのかと言いますと、必要だからです。そういう問題がなければ心を開こうとしない男でした。結局、すべての悩み、すべての苦しみ、すべての病気の背後で、イエス様が導いてくださいます。
そう考えると、本当に、楽になるなのではないでしょうか。

宗教的な考え方は違います。宗教は、運命だからあきらめなさいよと言います。天罰でしょう。過ちを犯したでしょう。曾・・・おじいちゃんが変なことしたから、こうなっちゃった。
でも誰のせいでもない。イエス様が導いてくださった愛の現れとして、人間はいろいろなことで悩むようになる。結局、悩まなければ本気になって祈ろうとしないでしょう。
本気になって祈らなければ、助け手であるイエス様と出会う可能性はありません。だからこそイエス様は、悲しむ者は幸い、幸せとおっしゃったのです。

もちろん悩んでる人に、「おめでとう。」と言っても、普通だったら通じません。
けれども集会の兄弟姉妹は、だいたいそうでしょう。いろいろな聞くと、たいへん悩むようになった人のお話しを聞くと「良かったねー」と言うのです。意味は、この悩みがきっかけとなって、本人が、イエス様に出会えればうれしいということです。
イエス様は、支配なさるお方です。人間がそれを認めようが、認めまいが関係ない。イエス様は全部知ってるし、イエス様は背後に目的をもって導いて下さる。これこそが、覚えるべきことではないでしょうか。

イスラエルの歴史こそがそれを物語っています。イスラエルの民は、あらゆる民よりも悩んだ、苦しんだ民です。
ある時、彼らがエジプトまで導かれて、はじめは非常に大切にされたものだったのです。でもだんだん大きくなったし、エジプトの王は、イスラエルを危ない存在と思うようになったのです。
もし問題になると、彼らは全部とるんじゃないか。それで、男の子供を全部殺してもらいたい、云々となったのです。

彼らにとっては苦しかったのです。毎日毎日、奴隷の生活を送ったのです。解放されたい。絶望的な苦しみから救い出されたいと思ったのです。
けども、彼らは確かに奇跡的にエジプトから解放された。モーセという男は、主の器、僕となったのです。それから、彼らはエジプトから出て荒野を歩くようになったのです。
その間欠乏もあったし、不平不満もあったし、結局、イスラエルの民は40年間荒野の中でさ迷い続けたのです。この間、主が支配者であることを認めざるを得なかったのです。それにしても、自分の意志や、自分の考えで支配しようと迷い続けた。

ついに、40年のうちにヨルダン川にやってきました。このヨルダン川に来た時、イスラエルの民の指導者であるモーセの跡継ぎのヨシュアに主の軍勢の将が現れたのです。
「あなたは足の靴を脱ぎなさい、あなたの立ってる所は聖なる所です。」と言われたとき、ヨシュアは命令された通りに靴を脱いで、現れたお方の前にひれ伏しました。

ヨシュア記5:13-15
13さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
14すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
15すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

靴を脱ぎ、主の前にひれ伏すということは、この現れた主に、自分の持てる一切の支配の権利をおまかせすることを意味します。
この時からイスラエルの民は、主なる神が、前からすでに備えて下さっていた満たしを、約束された国を自分のものとすることができたのです。
主が支配すると、人間は解放されます。変わらない喜びを、まことの心の平安を持つようになります。

旧約聖書の士師記を見ると、この時のイスラエルの民は敗北の生活をするようになってしまったのです。
イスラエルの民はすでにヨルダン川を渡り、約束の国に入りました。そこには、絶望と束縛と捕らわれがあるばかりでした。けど、主の御心にかなった新しい王ダビデが、イスラエルの民の支配者となった時に、ふたたび民は解放され、大いに祝福されるようになったのです。
どうしてであるかというと神の御心にかなった王様であるダビデは、全部の支配を主にまかせたからです。

新約聖書にも同じことが見られます。初代教会の人達のうちに、イエス様が主となるまで大きな働きをした人々といえども、敗北と弱さに負けていたのです。
天におられ、もろもろの支配者であるイエス様が、使徒の働き2章に書かれているように、五旬節に使徒たちの心のうちで支配者となった時に、使徒たちはもういっぺんに変わりました。
そして、使徒たちが伝えたメッセージは何であるかといいますと、「イエス様は、罪を赦すお方であるだけではない。イエス様は、すべての者の主である。」

イエス様が、その時一番用いたのはペテロでした。ペテロとはどうして用いられたかといいますと、イエス様がペテロの支配者となったからであります。
けれどもそれは、たいへんな戦いの結果だったとわかります。
いうまでもなくペテロは3年間、イエス様と一緒に生活しました。イエス様の愛を受けたし、イエス様のなさった御業を自分の目で見ることができ、イエス様こそが約束された救い主であり、神の御子であると言うことを信じるようになりました。

けどペテロは、イエス様が捕らわれ、自分の身に危機が及んだとき何と言ったかと言いますと、あの人を知らないと三度もペテロは言ったのです。
その後、彼の心は本当に暗闇になりました。その後、イエス様がペテロの心のうちに光となり、本当の意味での、支配者となるまでに、たいへんな戦いが起ったのです。
そのうちのひとつの戦いについて、詳しく書かれています。ペテロはある時、知り合いの人々の所に泊まって屋上で祈ったのです。その時、いろいろな種類の清くない汚れた動物が天から釣り下ろされるのを見たのです。それだけではなく、彼は、こう言う声を聞いたのです。

使徒の働き10:13
13そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。

ペテロは、私は清くない物を食べるわけにはいかんと思ったから、逆らいました。「嫌です。」、そして彼は、この幻を一回だけではなくて、二回だけではなくて、三回も見たのです。
そしてその後、異邦人、イスラエルに属していない人の召使いが現れたのです。どうか、コルネリオの所に来てと頼まれました。
この幻を見たから、本当は嫌ですけど、いいよと賛成しました。そして、清くないとされていた異邦人の家まで行ったのです。

やっぱり、もう彼にとってたいへんだったのです。結局、私はこの主に従いますと必ず誤解されます。
ヤコブもヨハネも他の弟子達も皆、私を攻撃するでしょう。私のやってることを、彼らは絶対に認めない。けども、どうでもいいよ。主に従おうと決心した時、やっぱりもう考えられないことを経験しました。
彼は、コルネリオの家に行った時に、大勢の人が集まっていた。みんな聴く耳を持っていた。お願いします。主の言葉を聞かせて!

ペテロはその時、人間的に考えると的はずれのことをしゃべったのです。結局、みんな異邦人だったでしょう。
彼らにとって必要だったのは、イエス・キリストの十字架のこと。中心テーマは、教えよりもイエス様の代わりの死です。イエス様が代わりに罰せられたから赦された。
けどペテロはこの時、そういうこと話さなかったのです。ペテロは、「イエス・キリストは、すべての人の主です。」

使徒の働き10:36
36神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

救い主じゃないよ。救い主であるからこそ主です。そして、この伝えたメッセージの結果は、コリネリオも家族もその時集まった親族みんなイエス様を信じるようになっただけではない。彼らは、五旬節を経験し聖霊に満たされたのです。
それを聞いたほかの弟子達は、「考えられない。異邦人たちも五旬節・聖霊の満たしを経験したの?」、それを聞いたとき、反対するすべがない。理解できなかったでしょう。
けども、その時はっきりわかったのは、ユダヤ人は特別な民です。でもそれは特別、立派だからではない。特別に強い民ではない。用いられる器となるためです。

聖書は、誰に与えられたかと言いますとユダヤ人です。ですから彼らは、傲慢になったのです。
けども、どうしてユダヤ人に与えられたかと言いますと、聖書の中心なる人を宣べ伝えるためでした。
ペテロは結局戦った。でもその戦いの後で、イエス様こそが王の王であり、すべてのもの主であると宣べ伝えたのです。

使徒の働き11:17
17こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

「どうして、私などが神のなさることを妨げることができましょう。」と言ったのです。
結局、自分の考えは本当に制限され、イエス様に心の目を開くならば、主がどんなに偉大であるか、すべてであられるかがわかるようになります。
ペテロは、主イエス様は単なる救いをお与えになるお方だけではなくて、救いそのものであるだけではなくて、すべてを支配なさるお方ですと告白できました。

新約聖書の大部分の手紙を書いたパウロも全く同じことを経験しました。
彼は非常に早く霊的に成長した男でした。短い間に救われただけではなくて、用いられる器となったのです。いったいどうしてでしょうか。
確かに、パウロは当時の最高の学者のガマリエルの教え子だったのです。最高の教育を受けた男でした。だから用いられたのでしょうか。決して、そうではありません。

パウロは、イエス様を信じる者を迫害するために、外国まで行ったのです。そして、ダマスコに向かって急いでいる道すがら、主の光に照らされ、回心してから数日の間、ダマスコの兄弟姉妹と共に過ごし、それからすぐイエス・キリストは、万民の救い主であり、すべての者の主であると宣べ伝えたとあります。
どうして、パウロはそのように早く成長したのでしょうか?彼は、イエス様に出会った時に、非常にいい質問をしたのです。「主よ、あなたはどなたですか?」それから「主よ、わたしは、どうしたら良いの?」
パウロは自信がなくなりました。今まで、わかっていると思っていたのに、本当は何もわかっていなかった。私は、神に仕えていると思い込んでしまっていたのに、知らないうちに、悪魔に用いられてしまった。もう自信がない。どうしたら、いいの?教えてください。

パウロは、この態度をとるようになったから大いに用いられるようになったのです。
パウロも、結局イエス様を人間のわがままを赦すお方としてよりも、すべての背後にはっきりとした目的をもって導いてくださる主として宣べ伝えたのです。
イエス様が主となり導くことができるお方にその人のうちでなると、やっぱり解放されます。そうなると、大いに喜ぶことができるのです。

使徒の働きの26章をみてみましょう。
パウロは使徒の働きの中で3回も、自分と主との出会いについて記しています。

使徒の働き26:14
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

この時からパウロは変えられのです。
その瞬間、十字架に犠牲になったイエス・キリストは、生きている。ウソを知らないお方です。イエス・キリストが生きておられれば私の今までの信仰は全く役に立たないものだったと、認めざるを得なかったのです。
イエス・キリストは救い主であり、主です。

けども非常に残念なことがあります。
ある人々は、この主なるイエス様を主としてではなくて、僕として、奴隷以下のものとして取り扱っているのではないか。
すなわち、悩みに沈んでいる場合は、イエス様の助けを求めます。弱くなる時、イエス様から力を得たいのです。自分ひとりで、どうにもならない時だけ、イエス様に飛び込んできて助けてもらいたいのです。
結局、イエス様は仕えていて欲しいのです。けど、主の支配は欲しくない。

聖書はそのように、信じる者を「肉に属するキリスト者」と呼んでいます。なぜなら、肉・すなわち自己が、支配しているからです。
そこには、多くの心の悩みがないでしょうか。自分のための生活が、本当の信仰生活にとって障害となっています。
もし、イエス様が、私たちの主でなければ、私たちの人生はあまり価値のないものではないでしょうか。

イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主の目的の第一歩に過ぎない。
多くの人はイエス様の目的であり、イエス様の豊かな満たしに達していない。イエス様の支配に従う自然の結果は、まことの喜びに満たされることです。
私たちの目的とは、私たちの願いとは、いったいなんなのでしょうか。主の御心にかなったものとなりたい。そう言う願いを持っているのでしょうか。

イエス様が私たちの心のうちに、心の王座に、主としてあがめられ、限りなく支配をなし賜う。その時、はじめて主の御心は満足されるようになります。
パウロのように、「主よ。わたしはどうしたら良いのでしょうか?教えてください。導いてください。」、そうすると大いに祝福されるに違いない。




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