引用聖句:ペテロの手紙第II、3章9節
ヨハネの福音書6:40
マルコの福音書1:16-18
主の願いとは、もちろん考えられないほど大切です。人間は何を考えているか、思っているか、感じているかは全然大切ではない。「主は何を願っているか、御心とは何であるか」、大切なのはそれだけなのではないでしょうか。 今読んできてくださった3箇所を通して、もちろん解かります。主の願いは、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。 結局、正直になれば、へりくだれれば、「ごめんなさい」そういう気持ちがあればOK。 主は何を欲しておられるか、何を望んでおられるか、主の願いはいったい何なのでしょうか。この箇所によると、イエス様は、一人も滅びることがないように願っておられます。 それからイエス様は、もちろん父の願いと自分の願いとは全く同じです。「わたしの父のみこころは、わたしを見て、十字架につけられた主イエス様を見て、信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」 永遠のいのちとはどういうものか、ちょっとピンとこない。普通の人はやっぱり永遠に続くものだと思っているのですけれど、それだけではない。初めての人間であるアダムでさえも、永遠のいのちを持っていなかったのです。造られたいのちしかなかったのです。 けれども主なる神は、やっぱり初めての人間は、エデンの園の真ん中にあるいのちの木の実を取ってもらいたかった。そうすると永遠のいのちを持ったということです。 神の願いは、人間が救われることです。主は人間を救うために、ご自分の最も愛する者、すなわちイエス様をお与えになりました。 我々の心の願いは、やはり人を救うことなのでしょうか。もしこの目標を頭に入れていない者は怠け者です。 それからイエス様はまた願ったんです。「おいで。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」自分でできないのは決まり。でもついて来ると成りますよと。 当時の弟子たちは、「もうちょっと、明後日まで考えさせて。」と言わなかったのです。すぐに彼らは網を捨て置いて従った。大切にした物、必要な道具を捨ててイエス様に従った。 「毎月おいくらもらえますか。」と聞かなかった。「何日間か休んでもいいの。」と彼らは言わなかった。このイエス様に従えば、後悔しないと彼らは確信したんです。イエス様は真理です。 イエス様は、シモンをご覧になった。シモンは名前を2つ持っていました。そのうちのシモンは人間の弱さを表しています。 イエス様がシモンを始めてご覧になった時、シモンを特別に良い人間とは思わなかったのです。事実シモンペテロは、十字架にかかるイエス様を鶏が鳴く前に3度も否定することを知っていました。けれどもイエス様は、結局目の前のものよりも、長い目で見ておられたのです。そうするとやっぱり違います。 ペテロはイエス様について行ったのです。後悔しなかったのです。彼もイエス様と同じように十字架につけられるべきだったのです。けれど彼は、「ごめんなさい。私の主と同じように十字架につけられるのはもったいない。逆さまにして。」、そういうふうになったそうです。 ペテロが五旬節の時、イエス様を紹介しました。すばらしい説教をすることを、イエス様はもちろん初めから解かりました。イエス様は人間だけを見るのではなく、主の恵みによって、その人間がいかに変わるかも、もちろん見ておられます。イエス様はシモンをご覧になった。 このイエス様は我々をもご覧になってます。私たちが良い人であろうが悪い人であろうが、また私たちが適当な人であろうが不適当であろうがかまわない。とにかく私たちをご覧になって、私たちを呼んでおられるイエス様のことばを聞きましょう。 イエス様は今日も「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」、イエス様に従っている者は、それはとりもなおさずイエス様から、人を漁る(すなどる)人として召された人を意味しているのです。 私たちはこの大切な事実を確信し、自覚するでしょうか。けれど、どうしたらイエス様のために魂を獲得することができるのでしょうか。この問題は、私たち生きる瞬間瞬間に最も大切な、差し迫った問いです。 悪魔は一日中、どうしたら人間を滅ぼすことができるか、どうしたら人の目を見えなくできるか、そればかりを考えています。その反面、イエス様はすべての人のために十字架で完全な救いを備えられました。 罪人としてイエス様のところに来て、イエス様の成した救いを感謝したらその人は救われます。イエス様はこの福音を他の人に伝える人を探しておられます。「わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろう。」と主は昔2,600年前にイザヤに言っただけではない。今日も同じように用いられる器を探し求めておられます。 私たちは、イザヤのように「ここにいる私を遣わしてください。」と応えることができればありがたいのです。 私たちはまだ救われていない人々の真ん中で生活しています。私たちは毎日、間違った望みをいだいている人々に会います。 イエス様は「あなたがたは世の光である。」と言われます。私たちはそのような人々をイエス様のところに導くべきですけれど、そのような人をいかにして取り扱うのでしょうか。 救われるための必要条件とはいったい何なのでしょうか。いかにしてイエス様を知ることができるのでしょうか。救いを自分のものにするために、主なる神は何を成されたのでしょうか。3つのことが言えます。 第1番目イエス様は、神の御子として約束された救い主として、この世に来てくださった。このイエス様は、いろいろな名前を持っていたのです。1つのすばらしい名前は「罪人の友」でした。 第2番目救われるために、私たちはこのイエス様に会わなければならない。神と人との間の仲介者はイエス様です。したがって最も大切なのはこのイエス様に会うことです。 テモテへの手紙第I、2:5
神としてのキリストではない。 使徒の働き4:12
第3番目神の御霊、聖霊はすべての人にそそがれたのです。 ゼカリヤ書4:6
聖書の知識、祈りによらず、 ゼカリヤ書4:6
聖霊のみが人の魂を解放することができます。聖霊はそれをしたいのです。聖霊の働きなしに誰も自分の罪を認めることはできません。また悔い改めることも信じることもできません。これは神の側から成した事柄ですけれど、罪人は何をしたら救われるのでしょうか。 一番大切なのは悔い改めること、信じることではありません。またイエス様は、自分の罪のために死なれたという知識も一番大切なのではありません。 一番大切なのは、正直な心を持って、真心でイエス様のところへ行くことです。結局イエス様に祈ることであります。罪人の友であるイエス様に助けを求めることです。 イエス様の時は、いつもイエス様を罪人の仲間だと呼びました。何と言う真理でしょう。イエス様は罪人の友です。イエス様は、この地上におられた時、初めに人々の友として歩んだのです。後でイエス様は彼らの救い主になられたのです。 今日でも同じではないでしょうか。主イエス様は我々の救い主になるために、主は初めに我々の友となってくださいます。 私たちはイエス様を自分の救い主として迎える、受け入れる時期が来る前に罪人の友としてのイエス様は、私たちを迎えてくださいます。 ある日、一人の若い女の人が信じる者のところに行って「私は救いを欲しくない。」と言ったのです。彼女はミッションスクールを卒業したのですけれど、確かに聖書の知識はありました。けれど、彼女は自分勝手な道に行こうと決心したのです。 イエス様を信じる人は、何と答えたかと言いますと「そしたらまず、ちょっと一緒に祈ろうよ。」と言って、相手はびっくりして「私は何を祈ったらいいの」と尋ねました。「いやそれは私の責任じゃない。初めに私は祈り、その後であなたも祈ってくださいよ。今私に言ったことを全部、イエス様に言ったらいいんじゃないの。」 「いやそんなことはできない。」ともちろん言われたのです。「どうしてできないの。イエス様は罪人の友であることを知らないの?」と信じる者は質問したのです。イエス様は罪人の友という事実によって、彼女の心は動かされて、この罪人の友に祈って数日後に彼女は救われました。 聖書ははっきり言っています。すなわち罪人はイエス様のところへ行くことが出来るために、イエス様は罪人の友としてこの地上に来られたのです。 イエス様は世が造られる前に、万物よりも先に、父なる神の御そばで栄光をお持ちになったと聖書ははっきり言っています。いっさいのものはイエス様によって造られ、イエス様のために造られたと書いてあります。 何というすばらしい主でありましょうか。そして聖書の中の最もすばらしいことばの一つは、使徒の働き16章31節ですね。 使徒の働き16:31
毎日、覚えるべき約束です。いくら不可能に見えても家族は約束されている。約束を与えた方は、何でもできる。主にとって不可能なことはない。 もし誰かが「私は信じることができない。」と言ったらどうでしょうか。一人の非常に困った人がいました。その人は「私はいくら努力しても信じることができない。信じたいけれどできない。家の人々は、あなたは信じなくちゃならないと言いますが、どうしてもできません。」 信じる者の一人は「それは別にどうでもいいよ。かまわない。けれど、あなたは、イエス様、私は信じることができませんから信仰を与えてくださいと祈ることができるでしょう。」、イエス様は罪人の友として、喜んで必要な信仰をまちがいなく与えてくださるお方です。 聖書は、悔い改めの大切さについてはっきりと言っています。けれど、多くの人々は悔い改めたくないのではないでしょうか。その人々をいかに取り扱ったらいいのでしょうか。 ある時、大学生が「私は若いからこの世の喜びを味わいたい。だから今、救われたくない。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗は、この世の喜びを味わったでしょ。そして彼は救われたのではないか。彼のためにすぐ悔い改める必要はないのでした。けれど、私は若い。もう40年間楽しく生活したい。その後で悔い改めますから。」と言ったのです。 相手の信じる者は、「そうか。けれど祈りましょう。」と言ったのです。「私は祈りません。」と学生は答えました。 「そうではない。あなたはできる。私に言ったことを全部、イエス様に言ってくださいよ。イエス様は、悔い改めたくない人々の友です。」と。 学生は「いや、そんなこと言えないよ。」と。しかし最後に彼は祈りました。「イエス様、私は今、悔い改めたくない。あなたの救いを欲しくない。」と祈ったのです。 主はこの若者の心にお働きになってくださいました。その人は、同じ日にすばらしく救われたのです。結局、正直になることこそが、考えられないほど大切です。 100年以上前にイギリスのある女がいました。その女はクリスチャンの両親を持っていました。そして自分もどうしてもイエス様の救いを自分のものにしたかったんです。多くの教会を訪ねましたし、立派な説教も聞きましたし、けれども救われなかったのです。 ある日彼女はあきらめようというような気持ちを持って、ある小さな教会に行きました。牧師は説教の途中で、女に向かって「あなたも今日、イエス様の救いを自分のものにすることができる。自分で何もしなくてもいい。」と言いました。その瞬間に女は救われたのです。家に帰って次の歌を作りました。 ほふられたまいし神の小羊よ。御声に従い、我行くただちに。 ありのまま行く身などて、言い訳せん。頼むは清むなが血をあるのみ。 疑いは内に、戦いは絶えず、恐れは終え、我行くただちに。 心よく向かえ、ことごとく清い者となしたまわん。我行くただちに。 神のみことばである聖書は、強調しています。すなわち罪人のできないことを、罪人の友であるイエス様はお出来になるのです。 ですから救われるために待たなくてもいい。ただちに罪人の友であるイエス様のところへ行くことが出来るのです。 心の状態はどうであっても、どんな問題を持っていても、そのままでイエス様のところへ行くべきです。そしてイエス様に話せば、必ず応えられます。 救いとはいったい何でしょうか。多くの人は救われるために、イエス様が自分のために死んでくださったことを信じることが一番大切だと思っていますけれど、聖書はそのような事を言っていない。 イエス様は、自分の罪のために死んだことを信じることによって救われると聖書はべつに言っていない。何と書いてありますか。 「イエス様を信じなさい。理解しなさい。」、なのではない。「イエス様を信じなさい。そうすれば救われます。」と約束されています。そして御子を信じる者は永遠のいのちを持っている。 ヨハネの福音書1:11
結構です。悔い改めようとしなかったのです。 ヨハネは福音書を書いたのです。どうしてでしょうか。福音書を書いた目的とは、ヨハネの福音書20章31節に書かれています。 ヨハネの福音書20:31
これは福音書の書かれた目的でした。人々はどうしてイエス様を受け入れなかったのでしょうか。ご自分の成し遂げられた救いを信じなかったためでしょうか。そうではありません。イエス様はまだその時、十字架につけられなかったのです。彼らはイエス様ご自身を受け入れようとしなかったのです。 一番大切なのは、イエス様の成し遂げられた救いの御業ではなく、イエス様は神の御子キリストであることを、約束された救い主であることを信じることです。 だから聖書の中の最も大切な箇所の一つは、有名なヨハネの福音書3章16節でしょう。 ヨハネの福音書3:16
御子は、自分のために十字架の上で死んでくださったことを信じる者は、永遠のいのちを持っていると書いてありません。御子を持つ者は永遠のいのちを持っていると。 もちろん私たちは、決してイエス様の救いの御業を小さくしたくない。けれど、救われるために大切なのは、いわゆる頭の知識ではありません。イエス様に会うことです。イエス様との出会いです。 ヨハネの福音書17:3
新約聖書からちょっとだけ3つの例を見てみましょうか。 ルカの福音書23:39-43
このイエス様によって救われた強盗は、もちろん罪人でした。そして彼の受けた罰も正しかったんです。どうして彼は救われたのでしょうか。強盗はイエス様に何を言ったのでしょう。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 そしてイエス様は何と答えたのでしょうか。「あなたは実に悪い生活をした。罪を犯した魂は死ななければならない。しかし、安心しなさい。わたしは今、あなたの罪のために死にます。」か「救われる可能性がある。」などとはイエス様は言いませんでした。どうしてイエス様は救いのご計画について話されなかったのでしょうか。 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。どうしてイエス様はこういうふうに言われたのでしょうか。なぜならば、あの強盗はイエス様は神の御子であることを、イエス様ご自身を信じましたからです。これは充分です。 2番目の実例は、マルコの福音書5章 マルコの福音書5:24-33
これですね。大切なのは。イエス様に真実を余すところなく打ち明けることです。 マルコの福音書5:34
24節に大勢の群衆もイエスに押し迫りながらついて来たとあります。ですから多くの人々は、イエス様の着物にさわったことでしょう。けれど一人だけ癒されました。 彼女の場合も解かると思います。知識の問題ではありません。イエス様ご自身に会うこと、イエス様に意識してさわることが大切です。弱い病気の女が力に満ちた罪人の友に触れました。そのとたんに病は癒されたのです。 33節の後半、御前にひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。そして罪人の友は、群衆の中から女を引き上げ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と。 3番目の実例はルカの福音書18章です。 ルカの福音書18:9-11
当時の宗教家、聖書学者 ルカの福音書18:11-13
イエス様の判断はすごい。 ルカの福音書18:14
意味は、救われ、永遠の幸せを自分のものにすることができるのです。 ここでパリサイ人と取税人の祈りについて書いてありますね。パリサイ人は、生贄や捧げ物について全部知っていました。けれど、彼は生ける真の神ご自身を慕う気持ちが全然なかったのです。 取税人は「神様。罪人の私をお赦しになってください。」と心から思ったのです。はっきりしているでしょ。一番大切なのは、すなわち正直な心を持って真心で主のところに行くことです。主に祈ることです。 ローマ人への手紙によって、私たちはイエス様の救いの偉大さを解かります。罪の恐ろしさ、またいかにして救いを自分のものにするかなどについて、たくさん書いてありますけれど、このローマ人への手紙は、もうすでに救われた人々のために書いた書物です。 これに対してヨハネの福音書は、おもに未信者のために書かれた書物です。救いのご計画について、あまりたくさん書いてありません。これは不思議ではないでしょうか。 もう一箇所読みます。 使徒の働き2:22-24
ペテロは救いのご計画について、全然話ませんでした。 どうしてペテロは流された血潮の力について話さなかったのでしょうか。どうして彼は、イザヤ書53章を開いて、主イエス様の犠牲の死について説教しなかったのでしょうか。どうして彼は贖いの業について説明しなかったのでしょうか。 彼は、イエス様ご自身についてだけ話したのです。イエス様のなされた救いの御業について、あんまり話しませんでした。 使徒の働き2:36
ペテロは、救い主という名前でさえも使いませんでした。それにもかかわらず、この説教の結果は何であったかと言いますと、3千人以上の人々が「救われるために何をすべきでしょうか」と叫ぶようになりました。 後でペテロはコルネリオという異邦人のところへ行って、同じようにイエス様の犠牲の意味、また贖いの価値について話さなかったのです。彼らは異邦人でした。神の民に属していなかった人々でした。ですけれど、ペテロはイエス様ご自身についてばかり話したんです。 そして聞いていた皆の人々に悔い改めて、信じて聖霊が下ったと書いてあります。救いは知識の問題ではありません。救いを自分のものとするためには、イエス様に触ることが一番大切です。 私たちは、救いのご計画を解からなくてもいいのです。罪の結果などは解からなくてもいい。イエス様を見なければいけないのです。多くの人々は、救いについて全部知っています。けれど、いろいろな問題が起こると彼らはすぐダメになります。なぜなら、彼らはイエス様ご自身との交わりを知らなかったからです。 我々の救い主は生きておられます。イエス様は、十字架につけられた救い主だけではありません。イエス様は、高く引き上げられた主の主として、父の右に座しておられるのです。すべての力がわたしに与えられているとイエス様は言うことができたのです。 したがって、救われるために、私たちは十字架のところに行かなくてもいい。恵みの御座におられる主に近づきましょう。彼を信じる者が永遠のいのちがあるとあります。 普通、私たちは福音を述べ伝えると、悔い改めて信ぜよと述べ伝えますけれど、多くの人々はこのようなメッセージを聞いても救われません。 例えば、私は罪の恐ろしさまた罪の報いについて話します。けれどある人は、「このような話は何回も聞いた。もう解かっているよ。しかし私は、罪を犯したい。罪は大好き。」このような場合は、罪人の友だけが助けることができるのではないでしょうか。 自分の無力さをもちろん感じます。 また他の人は、私たちの話を聞いて、救われたいという願いがある。けれど、そのような人は別に頭のいい人じゃないから、次の日私たちのところに来て、「すみませんけれど、私はね、この間の話の第3番目の点を忘れましたが、どうかもう一回教えて」と尋ねます。 救われるために私たちは、このような説教のポイントを忘れてもかまいません。救われるのは意思の問題ではなく、理解力の問題でもない。 救われるための大事なのは、聖書の知識でもない。もちろん理解力の問題でもない。イエス様に会うことが大切です。 ルカの福音書8:15
この箇所を見ても解かります。主イエス様の御心は、正しい、良い心の持ち主です。 しかし正しい、良い心とは何でしょうか。正直な心、真心です。 エレミヤは、次のように言ったのです。2,600年前でしょうか。 エレミヤ書17:9
もちろん私たちは主の御心にかなった心を持っていません。けれど、偽りに満ちた悪に染まっている心の持ち主は、正直でイエス様に罪人の友であるイエス様に話すことができるのです。 前に読みました婦人のように、御前にひれ伏して、すべてありのままを申し上げることができるから、本当に幸いです。偽りに満ちた心の持ち主は、イエス様に向かって「神様、罪人の私をお赦しになってください」と言うことができるのです。 もう一箇所、旧約聖書の歴代誌第II、16章9節を読みます。 歴代誌第II、16:9
主は正直な心、真心の持ち主を探しておられます。救われるために信仰ではなく、悔い改めではなく、このような正直な心が必要です。 強盗は、「主よ。私を覚えてください。」と願った時、この正直な心を持っていました。取税人は、「神様。罪人の私を赦してください。」と祈った時、この正直な心を持っていたのです。 サウロは、イエス様による救いを全然求めていませんでした。かえって、彼はイエス様を信じる者を迫害した男でした。けれど彼は「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか。」と尋ねたのです。すなわち彼もこの正直な心を持っていました。 イエス様は罪人の友です。イエス様は、どのような罪人でも御許に来る人を拒まないで受け入れてくださるのです。 ひざまずいて、イエス様に、罪人の友に自分の考えていること全部言うべきです。正直な心の叫びは、主は聞きたまいます。 イギリスで起こった出来事です。ある婦人は、大きな富によって有名になりました。彼女はとても良い教育を受けて、音楽家であり、また若くてそして非常に美しかったのです。けれども彼女は全然満足していませんでした。 ある夜彼女は「神様、私は全部持っています。若さ、健康、富、美しさ、名誉、あらゆる荘厳、あらゆる栄光、享楽を持っています。けれど幸福ではありません。しかし神様、私はあなたの救いを欲しくない。私はあなたが大嫌い。あなたの提供している喜びと平安も嫌い。けれど神様、私の欲しくないものを与えてください。私は幸福になりたいのです。」 この婦人は、その瞬間に救われて、イエス様に本当によく用いられる人になりました。一番大切なのは、正直な心を持って、真心でイエス様のところへ行くことです。 罪人の友は、どのようにして真心の人を受け入れるのでしょうか。言うまでもなく、イエス様は喜びをもって罪人を赦し、受け入れてくださいます。 罪人の友は、いつ罪人を受け入れてくださるのでしょうか。聖書の答えは今です。「今は恵みの時、今は救いの日です。」御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得る。御子主イエス様を信じる者は永遠のいのちを持つ。私たちの父の御心は、子を見て信じる者がことごとく永遠のいのちを得るのです。 イエス様の名を呼び求めるならば、皆救われます。どうか正直な心を持って、真心で罪人の友のところへ行きましょう。その時から御霊は、初めて信仰と悔い改めに導いてくださいます。 ある日、一人の人が伝道者のところへ行って、いろいろなことについて話ました。伝道者は、この人の罪についてまた罪の罰について熱心に話しました。もちろん伝道者は、イエス様の救いの御業について説明しました。 けれど相手は「あなたは罪を犯すことの楽しみを味わっていないから、そのようなことを言っている。私は罪を犯すことが大好き。これなしに生活したくない。」と言ったのであります。伝道者は、「一緒に祈ろうよ。」と答えました。その人はもちろんびっくりして、「わたしは罪に満ちた者として祈りをすることができません。悔い改めたくないからです。」と。 最後にこのように祈りました。「神様。私は罪が大好きですから、悔い改めたくないけれど、私を救ってください。」その人はまもなく導かれ、救われたのです。 私たちは、いろいろな人について考えました。すなわち悔い改めたくない人、救いを欲しくない人、信じられない人、あんまり大きな罪を犯したからもう希望がないと思っている人、救いを理解することのできない人、また救いの計画を解かっているけれど、イエス様を拒む人についてちょと考えました。 このような人々は皆、救いを自分のものにすることができます。もし、彼らが正直な心を持って、すべてありのままを罪人の友であるイエス様に話すならば、主が働いてくださるのです。 もう一箇所読みます。 マルコの福音書10:46-52
結局、イエス様について行ったから、イエス様の弟子になりました。「何をしてほしいのか。」「先生。見えるようになることです。」 一番必要なこと、一番欲しいものをはっきりして、ひたすらに求めることは大切です。私たちは、純粋に求める心を持っているのでしょうか。バルテマイは「先生。私の目を開けてください。」と求めたのです。 どうか素直に「わたしは罪人です。罪を赦してください。私は恐ろしいのです。平安を与えてください。私は愛することができない冷たい人間です。愛をください。私は本当のいのちを持っていません。私にいのちをください。私はなぜ生きなくちゃならないのか、それも解からない。教えてください。私は盲人なのです。どうか私の目を開けてください。」そう言って、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちに永遠のいのちを与えてくださる唯一の方、神の救い主であるイエス様の前に、信仰の手を差し伸べてくださいませんか。 イエス様は、あなたが空手で御許に来るのを待っておられるのです。 空っぽの手をイエス様の御許に差し出そうではないでしょうか。 |