引用聖句:マタイの福音書25章1節-13節
昨日の題名は何であったかと言いますと、「あなたは安心して死ねますか。」、今日の題名は、「あなたは主イエス様の再臨を待ち望みますか。」、非常に大切な質問ではないかと思います。 今の兄弟の話によると、やっぱり昔、妥協せず、主に従った人々がいたのです。今は仏教の現われそのものになってしまったし、いったいどうしてでしょうか。信ずる者が妥協してしまったからです。 昔アフリカでもう考えられない大勢のイエス様を大事にする人々がいました。完全にイスラム教徒になったのです。どうしてでしょうか。結局、イエス様だけを見ようと思う人々が少なくなったからです。 トルコだっていわゆるキリスト教の国でした。もうすごかった。今完全にイスラムの国になってしまいました。どうしてでしょうか。結局、信ずる者は妥協してしまったからです。もう悲劇的ではないでしょうか。 結局今の問題は、いわゆる世代、ジェネレーションの問題ではないでしょうか。親はイエス様を大事にしても、子どもはなかなかついて来ない。どうしましょうか。 もちろん祈りしかないけれども、親は少なくとも二つのことを子どもに教えるべきです。小さいときから。すなわち、あなたのわがまま通りません。何があっても。 第二番目。同情はいつもダメ。100%ダメ。 やっぱり子どもは可愛らしい。気の毒ではないかと多くの親は考えていますけれど、この考え方は間違っている。愛のかたまりである主ご自身が同情しません。絶対に。愛しているからです。 もちろん世界中の親は自分の子どもを思うように育てられません。それは無理です。 けれどもやっぱり祈り続けなくてはなりません。妥協せず、主にだけ頼ると、主は必ず恵んでくださいます。 昨日、ある兄弟は狭い道と広い道について話されました。広い道の行く先は地獄です。狭い道の行く先は天国です。 地獄へ行く人々とはいわゆる未信者と呼ばれている人々で、信じられないからではない。信じたくない人々です。光よりも暗やみを愛する人々です。何があっても頭を下げたくない人々です。結局、天国へ行きたくない人々だけです。 正直になりたくない人々は何かを隠すものは本当に可哀相なのではないでしょうか。けれどもイエス様を信じ、救われることだけでは十分ではありません。 新約聖書の手紙を見ると、はっきり分かります。手紙を書いた人々とは本当に悩みながら、苦しみながら、おそらく泣きながら手紙を書いたのです。 折角イエス様の救いにあずかった人々の多くは、なかなか成長しなかったから。 結局、信ずる者の中でもはっきりふた種類がいます。パウロは、私はいつもあなたがたすべてのために感謝しています。すごい言葉です。 私はこの辺の信ずる者の状態はよく分からないけれど、少なくても吉祥寺について考えると私はこういうふうに言えません。すなわち、私はいつもあなたがたすべてのために神に感謝する、と言えません。 もちろんパウロもある兄弟姉妹のことを考えたとき、心から言えたのです。けれども彼の手紙を読むと、「私は困っている。」、「私は悩んでいる。」、「私は苦しんでいる。」、そういう言葉がたくさん出てきます。 パウロは未信者にイエス様を紹介するためにそんなに力も時間も必要なかったようです。けれども救われた人々を導くためにパウロは本当に苦労しました。 どうしてその違いがあるかと言いますと、結局イエス様の再臨についての考え方によって違うのでしょうか。 イエス様によって新しく生まれ変わった人々とは、みな、イエス様が来られることを信じます。もちろん信じざるを得ません。聖書は何回も何回も言っていますから。 けれどもいつになるか分からない、と思えばちょっとおかしい。やっぱり期待をもって待ち望むことこそが大切です。 悪魔でさえもイエス様の再臨を信じています。疑い得ない。けれども悪魔の目的とは、みなのんびりするように。妥協するように。もうちょっと寝たらいいではないの。 今読んでもらいました個所の中で、「みな」という言葉が出てきますね。 5節。 マタイの福音書25:5
五人だけではありません。十人とも、みな、 マタイの福音書25:5
ですから今日の題名は13節でしょうか。「目をさましていなさい。」、もっとも大切な命令です。だから、「用意が出来ているの?あなたは愚かか賢いかのどちらかなのでしょうか。」 ドイツのアドルフ・ヒットラーは確かにメチャクチャな男でした。悪霊によって支配されていたのです。やっぱり占い師から色々なことを伺った男でした。 けれどもたまにいいことを言ったことがあります。「備えあれば憂いなし」と彼は盛んに叫んだのです。その通りです。だからやっぱり「目をさましていなさい。」という主の呼びかけとは本当に大切です。 今の世とはやっぱり末の世になりました。今からどういうふうになるか分からないけれど、明日またドイツへ行きます。いつもがっかり。いわゆるキリスト教の国々とはみんな主から離れています。みことばから離れています。 結局、妥協せず、主にだけ頼る人々、意識してイエス様の再臨を待ち望む人々とは、非常に少なくなっています。 26の国々とは、今もう一致しているのです。新しい憲法の中で「神」という言葉を入れないようにしましょう。いるかどうか分からないし、少なくても必要ない。私たちは心を一つにすればうまくいく。 100%うまくいきません。 結局このすべてを支配するものは近いうちに出てくるでしょう。いわゆる反キリスト。けれどもその前に私たちは早くイエス様といっしょになりたい。 だから初代教会の人々のように、「主イエスよ、早く来てください。」と祈り続ければ、われわれは解放され、イエス様も大いに喜んでいます。 私は前にヨハネの黙示録について吉祥寺で何年間か話したのですけれど、そのとき色々な本を読んだのです。 たぶんヨハネの黙示録についての36冊読んだのですけれど、そのときもうがっかりしたのは、空中再臨についてドイツの本の中であまり書いていませんでした。 結局もう関係ない。やっぱり公の再臨のことを考えなくてはいけないけれど、公の再臨のために待つべきなのはユダヤ人です。イスラエルの民です。私たちではない。結局われわれにとって大切なのは、いわゆる空中再臨です。 確かに空中再臨についての個所はあんまり多く書いてないのです。なぜならば、イエス様もおもにユダヤ人の将来について語られたのです。けれども空中再臨についてのもっともみなさんご存知である個所は、テサロニケ人への手紙第Iではないでしょうか。 ちょっともう一回読みます。結局テサロニケでイエス様を信じ、救われ、妥協せず主に従った人々の中で色々な人々は病気になり、亡くなったのです。先に召されたのです。 「いったいどういう話ですか?」と彼らはパウロに聞いたから、彼は返事として書いたのです。13節から。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
もうすでに亡くなった主イエス様を信ずる テサロニケ人への手紙第I、4:13
ありうるから。 テサロニケ人への手紙第I、14-15
それは私の考えでもないし、勉強したことでもないし、主から与えられたことです。主のみことばのとおりに言いますが、 テサロニケ人への手紙第I、15-18
悩んでいる、救われている人々、どういうふうに慰めたらいいかと言いますと、「主は近いよ。」 もうちょっとと考えればやっぱりまた嬉しくなります。結局、明日のことは確かに分かりません。どうでもいいけれど、遠い将来のことは分かります。私たちは、いつまでも主とともになる。 本当はそんな資格はありません。けれど、それを考えればもう・・・。 天国についていくら考えてもピンと来ませんし、言葉が無いのです。結局、イエス様を信じたのは良かった、としかありません。 イエス様は人の子として、神の小羊として永遠に渡って崇めざるを得なくなります。 この間、御代田である兄弟にも言ったのです。「あなたは生きている間しか仕事がありません。天国で指揮者は必要ありません。」と言ったのです。ちょっと驚いた顔したのですけれど。医者も必要ありません。 時々音楽会へ行くと、大きな合唱団だったら、例えばドイツ語を歌われてもテキストがなければピンときませんし、分かりません。日本語も同じでしょう。 けれど天国でもう数えられない人々が歌います。必ず。言葉、全部分かります。練習しなくてもいいし、指揮者は必要ないし、みなすべての楽器、100%弾くことができます。間違いなく。みな完全です。もう考えると嬉しくなっちゃう。 今読みました個所の中で、三つのことが書かれています。第一番目。主イエスご自身が天から再びおいでになる。 今まで教会歴史を見ると、三百何十人の人々は「おれは再臨されたキリストだ。」と言い張ったのです。 韓国の文鮮明もそうなのです。「おれは再臨されたキリストです。」 「ちょっとあなたの手と足を見せてください。釘の痕が無ければ偽者だよ。」、と。ちょっと考えられない。結局、十字架の上で犠牲になったイエス様ご自身が天から再び来られます。もう一回死ぬためではありません。迎えるためです。 第二番目。イエス様にあって先に死んだ人々のからだがよみがえる。灰になったからだはあまり役に立たない。もう全然使い物にならないけれど、主の目から見ると大切です。 ある人々は死でもって全部終わりと言います。自分の灰を海の上にまくようになるのです。そうすると必ずおしまいと思うと。 主にとって、あのからだ、灰を集めるのは簡単です。もうまったくおかしい。結局、いつかよみがえりのからだ、栄光のからだを持つようになります。 第三番目。生き残っている主の恵みによって救われたひとりひとりが変えられます。 そのとき初めてでしょう。私たちはイエス様に似た者と書いているのです。みんな小さいイエス様になります。 ちょっと、いくら考えてもあり得ないんじゃないの? わがままではないか。私たちは。イエス様はわがままを知りませんでした。イエス様は何かを聞いたり、見たりして行動したことがありません。祈る前に。われわれとまったく逆です。 イエス様はいつも、お父様、今見たでしょう。聞いたでしょう。わたしは何を話せばいいのですか。分かりません。教えてください。祈ってから初めてイエス様は行動したのです。その意味でイエス様と私たちはもう全然違います。 けれどイエス様は見て会った瞬間、イエス様に似た者となります。想像できない。考えられない。けれど聖書はそう言っているから必ずそう。私たちは主イエス様とともになるということです。 イエス様はおいでになります。だから準備をしなければなりません。もし準備がなければ後で必ず後悔します。 将来に備えるために、もちろん私たちは将来のことを知らなければいけません。ですからパウロは知ってもらいたいとはっきり書いたのです。イエス様の再臨の日は大きな啓示の日です。 すなわち第一番目。イエス様が信ずる者の前に姿を現わされる日です。第二番目。イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日でもあります。 私たちはイエス様の本当の姿を見うるのです。それはすばらしい瞬間です。今は想像できません。 目に見えない方はその覆いを脱ぎ捨てて、イエス様は私たちの目の前に深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立つのです。 ちょっと瞬間的なことをイエス様の弟子たちは経験したでしょう。マタイの福音書の17章を見ると次のように書かれています。いわゆる変貌山の話なのですけれども、 マタイの福音書17:1-2
弟子たちにとって忘れられない経験でした。今からここで過ごそうよ、とペテロは思っちゃったのです。もう戻りたくない。 この山の上におけるイエス様の変容は、来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。 イエス様はまた来る。使徒の働きの1章11節。ひとりの使いは次のように弟子たちに言ったのです。 使徒の働き1:11
とあります。イエス様が再び来られます。この日はイエス様が昇天された日とまったく同様に確かです。歴史的な真実です。 イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように現われます。イエス様の再臨の日は信者たちの前にイエス様が姿を現わす日であります。けれどもそれだけではなく、今話したように、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。 その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結ばれを持っている人々が明らかにされます。今は分かりません。 私たちは、あの兄弟、真面目で熱心でいつも集会に来るから大丈夫。心配ないと思うかもしれない。主は、違います。「まだです。」と言うかもしれません。 あるいは、あの姉妹だって中途半端ではないか。まだまだと思うかもしれないけれど、主は、違います。「あの姉妹はわたしのものです。」という判断をするかもしれません。結局分かりません。 私たちは外側のことしか見えないから、結局分かりません。けれどその日、はっきり分かります。すなわち、その日、信者たちは分かります。 マタイの福音書の25章。主はある信ずる者に言われることばです。 マタイの福音書25:22-23
本当にいい褒め言葉ではないでしょうか。逆の言葉も書いてあるのです。山上の垂訓の終わりのほうに。マタイの福音書7章の21節から。ちょっとあのことばを読むと、もう大変だとしか考えられません。 マタイの福音書7:21-22
ここで、ある者と書いていれば、そうだろうと思うのです。けれどもここで、大ぜいと書いています。大ぜいの者 マタイの福音書7:22-23
このことばを聞くようになる人々の将来は、もう真っ暗やみです。もうおしまい。イエス様は、「わたしはわたしの羊を知っている。」と言ったのです。結局へりくだった人々は、イエス様をよく知っているし、決して捨てません。 けれどもこの連中たちは預言をしました。預言をすることとは、みことばを宣べ伝えることです。私たちはみことばを宣べ伝えたでしょ。私たちはあなたの名によって悪霊を追い出したではないか。あなたの名によって奇蹟を行なったではないか。 結局、主に頼らないで、悪魔の力によって行なわれました。ありうることです。結果として、みことばを宣べ伝えても、悪霊を追い出しても、奇蹟をたくさん行なっても、これは不法をなすことです。わたしは認められない。あなたたちだって全然知らない。 初めに読んでもらいましたマタイの福音書25章に出てくる五人の愚かな乙女と五人の思慮深い乙女の二つに分けられる。この大きな決定が行なわれるのです。 この愚かな乙女たちは、ランプ、形式、外部の入れ物を持っていますけれど、彼女たちは油と中身と死のいのちを持っていなかったのです。 すなわち彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読んだし、けれどそれは形だけでした。けれど思慮深い乙女たちは、油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを持っていたのです。 その日は愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は、わたしはおまえたちをまったく知らないと言われ、もう一方は、お入りなさいと言われるのです。 イエス様のからだの主体であるものが確実に明らかになります。 エペソ人への手紙の5章30節に、 エペソ人への手紙5:30
とあります。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様のほうに向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのあるところ、どこからも信ずる者のからだはこの偉大な大地の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。 またその日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人たちは特別な特権を持っているのです。すなわち彼らは死を見ないで、墓を知らない。 すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るようになります。 すべての本当に救われた人々のために、その救われた者たちがその日に死んだにしろ、生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだを持ってイエス様に会うようになります。 このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえり、栄光のからだであります。 コリント人への手紙第Iの中でこの出来事について次のように書き記されています。 コリント人への手紙第I、15:23
キリスト教に入った者と書いてないし、洗礼を受けている者とも書いてないし、よく勉強した人々でもないし、いい人になろうと努力する人でもありません。 キリストに属する人。イエス様に属しているかどうか、大切なのはそれだけです。 そして空中再臨の個所は51節から52節に書かれています。 コリント人への手紙第I、15:51-52
その日には、また多くのことが起こります。私たちがキリストに会ったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全にされます。キリストと同じ姿に変えられるのです。 初代教会の人々はこの事実について考えただけではなくて確信しました。ヨハネの手紙第Iを読むと分かります。 ヨハネの手紙第I、3:2
なお私たちの身についているすべての汚いものは聖め落ち、私たちのうちにあるイエス様はすばらしく形のうちに姿を現わすのです。そのとき次のことばはまったく完成されます。 すなわち、古いものは去って、見よ、すべてが新しくなった。蝶が蚕を脱ぎ捨て、翼を広げると同様に、古きものは私たちの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。 この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであった私たちのうちにある罪がもはや無くなるとき、そして罪の元、すなわち、私たちの生活のもっとも深い悩みであるその元が無くなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。 しかしその偉大な日にはわれわれの全生活も、またイエス様の光の前に現われるのです。 心の中にイエス様の姿を宿している救われたひとりひとりはイエス様の恵みの座の前に立つようになるのです。 コリント人への手紙第IIの5章10節。ここでパウロはなかなか成長しなかったコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:10
私たちとは、主の恵みにあずかるようになった救われた者。みな、 コリント人への手紙第II、5:10
天国か地獄かではありません。彼らはもうすでに救われていた人々でした。一度救われた人々は永久的に救われている。けれど報いられる可能性がある。 例えばパウロの同労者のひとりデマスという男がいました。おそらくパウロによって導かれ、救われ、イエス様のために働きたい。もうパウロの同労者になったのです。 一緒に祈りましたし、一緒に賛美しましたし、一緒に礼拝しましたし、けれどあるとき、彼はもう嫌です。楽な道を選んだのです。パウロは、彼は私から離れて再びこの世を愛するようになった。失われた、ではありません。ただこの世を再び愛するようになった。結局、妥協してしまったのです。 天国へ行っても報いが無いのです。実を結ばないいのちだったのです。せっかく救われたのに。 聖書には二つのさばきがありますけれど、これは栄光かまたは破滅かを決定するさばきではありません。 ここでパウロに言っているのは。その日、この世におけるひとりひとりの救われた者の生活、働きが主の日によって試されるだけなのです。すなわち、信ずる者を行なった結果によって、主は救われた人々に報酬、栄冠を分け与えるのです。 コリント人への手紙第Iを見ても、やっぱり信ずる者は分けられるようになるとはっきり書かれています。 コリント人への手紙第I、3:11-15
原語を見ると、助かると書いてないのです。救われます。すなわち救われた人は救われている。一度神の子となった者はまた悪魔の子になることができない。けれども報いられるかどうかは問題なのです。 ある人はこの個所によると損害を受ける。ある人は報いを受ける。どちらかなのでしょうか。 その日がわれわれの生活が明らかになります。すなわちその日が金、銀、宝石、木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出た物か、または自分から出た物かが明らかになるのです。 もし主は、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれと言うことができれば何という幸いなのでしょうか。 結局われわれの生活に何が残るのでしょうか。初代教会の人々は妥協せず、イエス様だけを仰ぎ見たのです。いくら憎まれても、迫害されても、殺されても関係ない。彼らは何を思ったかと言いますと、ローマ人への手紙8章18節です。 ローマ人への手紙8:18
これを書いたパウロは考えられないほど悩みました。苦しみました。もう想像できません。コリント人への手紙第IIを読めば、少しずつ分かります。 パウロは自分の悩みについて、苦しみについてあまり書きたくなかったようです。けれどコリント人への手紙第IIはちょっと違います。彼は本当に悩みました。合わせてみると、七年間、刑務所の中で過ごしたのです。一週間ではありません。七年間。 彼は幸せだとあまり考えませんでした。あとで振り返ってみたとき、もちろん少し分かりました。けれど彼よりも私たちはよく分かっています。良かったね。パウロは。刑務所に入ったのは。多くの手紙があるから。 彼の手紙は聖書として残ること、彼は夢にも思ったことがありません。やっぱりわれわれのために必要だったのではないでしょうか。 けれども彼はローマにいる人々に何を書いたかと言いますと、 ローマ人への手紙13:11
もう寝るときではありません。命がけで福音を宣べ伝えましょう。彼はそういうふうに信ずる者を励ましたのです。 主と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはキリストのものとならなくてはいけない。 キリストのものとなることとはもちろん簡単です。へりくだれば、正直になれば、イエス様は喜んで受け入れてくださいます。けれどもイエス様によって受け入れられた者は、やっぱりイエス様を第一にすべきなのではないでしょうか。 手紙の中で色々な厳しいことばが書かれています。貞操のない人たち、とヤコブは書いたのです。主にあって愛する兄弟姉妹ではありません。結局彼らは中途半端な態度を取ったからです。 イエス様は来られます。たぶん今日かもしれません。今日かもしれないという希望の光によって毎日をささげることこそが、主は期待しておられます。 私たちは確かに色々なことを計画します。けれども心の中で、再臨によって自分の計画が全部ダメになるようにと考えるべきではないでしょうか。 イエス様の再臨は近い。 イエス様はすぐに来られる、と考えると、やっぱり今までよりも福音を宣べ伝えるべきではないでしょうか。今までよりも救われていない家族の人々、親戚、友人たちのために祈るべきなのではないでしょうか。 初代教会の人々は色々なことばで挨拶したらしいのです。ある挨拶は、「主は来たりたもう。」という挨拶だったそうです。 イエス様は来つつですから、本当に嬉しいのではないでしょうか。今、二日間だけいっしょになるのではありません。いつまでも主とともになることとは、もう考えられないすばらしい事実ではないでしょうか。 |