引用聖句:ルカの福音書2章10節-11節
コリント人への手紙第I、15:51-52
ヨハネの黙示録1:7
題名は「待ち望むことの大切さ」です。どうして待ち望むことは大切であるかと言いますと、どういう状況に置かれていてもあきらめる必要はないからです。なぜならば、主は生きておられ、また来てくださるからです。 もちろんもうクリスマスは終わりです。けど忘れたら困る。集会のある兄弟は言ったんです。「私にとって、毎日クリスマスです。」と。結局私は毎日イエス様の来られたことについて考えると、嬉しくなっちゃう。 聖書はイエス様の来られたことについて、たくさん言ってますけども、イエス様の3回にわたる出現について、多くのことが書かれています。 最初に、イエス様は全人類を救うために、みどりごとして来られました。 第2番目に、イエス様は主の恵みによって救われた信者たちをご自分に迎える花婿として出現なさいます。 そして第3番目に、イエス様はいわゆる千年王国を建てられるメサイアとして出現なさるのです。 私たちは毎日、この3つの出現について考えるべきなのではないかと思います。イエス様が来られる時には、いつも人々は2つのグループに分けられるのです。イエス様の第1の出現について考えてみると分かります。 今から2,000年ほど前にお生まれになられたときに、イエス様の誕生を心から待ち望んでいた人々、少数の人々がおりました。初めての人間であるアダムとエバに、すでにひとりの救い主が与えられることが約束されておりました。それ以来、自分の救いの必要性を認めたすべての人々は、この救い主の出現を心から待ち望んでいたのです。 この約束された方の出現を待ち望んでいたすべての人々は、この方が出現された時に、その方をどういう方であるかということを知ることができたのです。またそのことを知ることができた人々は誰でも、この方を喜んで受け入れ、自分の救い主として体験したのです。 けど大多数の人々は、この方、すなわち主イエス様を拒んだのです。ヨハネの福音書の1章の中で、次のように書かれています。 ヨハネの福音書1:11
意識して拒んだということです。これらの人たちは、心の目が暗くされていたので、自分たちが主イエス様を必要としているということが分からなかったのです。 宗教的な指導者たちは無関心であり、イスラエルの民は悔い改めようとしなかったし、当時のヘロデ王はこの方を殺そうとしたのです。 主イエス様を待ち望まないということ、またイエス様を求めないということは、イエス様を拒むことを意味しています。そして、これほど悪いことはほかにありません。 真理は真剣に求められなければなりません。「求めよ。そうすれば与えられます。」 東の博士たちは、非常に遠いところから、主にお会いするために来ました。そしてそれはこの人たちにとって、決して簡単なことではなかったはずです。 しかし彼らにとって、これほど大切なことはほかになかったのです。だから彼らは真剣に真理を求めて、長い旅をし、そして真理をついに見出すことができたのです。 彼らは、いったいどのような態度をもって、主イエス様にお会いしたのでしょうか。 まず第1番目に、幼子のような信仰をもって。 第2番目に、まことのへりくだりをもって。 そして第3番目に、心からの感謝をもって彼らは主イエス様にお目にかかったのです。 幼子の信仰をもって、彼らは、イエス様が自分たちのためにお生まれになられたこと、そして主イエス様が救い主であられることを信じたのです。 彼らは教養の深い人たちだったんですけれども、これらのことを説明することも、証明することも、もちろんできませんでした。けど、彼らはこれらのことを信じたのです。 それから、彼らはへりくだった人々でした。そのことを私たちは「博士たちが幼子の前にひざまずいていた」という、その態度の中から知ることができるのです。 私たちは、自分たちの生活の中に、主イエス様をただちに受け入れることをしない人たちのことを思うとき、悲しくなるなのではないでしょうか。またこの最も大切な決定を、先へ先へと延ばしている人々のことを思うときに、確かに悲しくなります。 当時の博士たちは、幼子の信仰を持ち、またまことのへりくだりを持っていたので、祝福されたのです。 もうひとつ、彼らは心からの感謝をささげることができたのです。彼らの感謝のしるしは、彼らがささげた贈り物を見ると分かります。彼らは自分たちの持てる最高のものをイエス様にささげたのです。 私たちもまた、私たちの救い主となるために天の栄光を捨てておいでになられたイエス様の前にひざまずき、感謝しようとお思いにならないなのでしょうか。 前に読んでもらいました箇所は、初めてのクリスマスについて知らされた福音でした。 ルカの福音書2:10-11
主イエス様は救いをもたらすために来られました。まことの救いを与えることがお出来になるのは、主イエス様だけです。 主イエス様の救いには、7つの面があります。 第1番目、イエス様は罪の債務からの救いをもたらしたのです。イエス様がお生まれになる前に、天の使いが命令してくださったのです。 マタイの福音書1:21
イエスという名前は、「罪から救うお方」です。イエス様はこれを証明してくださったのです。 もうめっちゃくちゃな女性に向かっても、イエス様は言われました。 ルカの福音書7:48-50
イエス様は罪を赦してくださるお方です。何年か前にある共産党員、いろいろな国で活躍した方がいまして、奥さんはイエス様の恵みに出会いまして救われました。けど彼はなかなか心を開こうとしなかったのです。 幸いなる病気、「ガン」が与えられて、そしてもう末期だ、長くないと彼は分かったんですけども、初めて病院で会った時聞く耳があると、備えられている魂であるとすぐ分かったんです。 最後に彼は急に泣き始めました。ちいちゃい子供のように、大きな声を出して泣くんです。そして「私は嬉しくて嬉しくてしょうがない。喜びのあまり今泣いている。イエス様は私のあやまち、わがままを赦したからです。」と。彼は希望を持って、確信を持って、「行き先は決まり。天国です。」と言うように変えられたのです。イエス様の救いとは、罪の赦しです。 2番目、イエス様は罪の力からの解放をもたらしたのです。パウロは次のように言ったのです。 ローマ人への手紙7:24-25
自分自身を変えようと思っても無理。パウロは「私のうちに良いものが住んでいない」と言ったのです。けども彼は変えられました。彼自身は相変わらずどうしようもない者でしたけども、彼は「私は、自分を愛してくださる方によって、圧倒的な勝利者となる。私を強くしてくださる方によって、私は何でも出来る。」と言うようになったのです。 3番目、イエスさまの救いとはのろいからの解放であります。イエス様は、罪ののろいを取り除かれたのです。 ガラテヤ人への手紙3:13
とあります。イエス様はのろわれたから、私たちは主の恵みをほめたたえる者になったのです。 4番目、イエス様は「死の恐れからの解放」をもたらしたのです。 ヘブル人への手紙2:14-15
主の目から見ると、人間は本当にみじめなものです。すなわち「一生涯死の恐怖につながれている奴隷」です。けどもイエス様のおかげで、信ずる者はこの「死の恐れ」から解放されます。 先週天に召された姉妹は、本当に喜んで召されたのです。彼女は待ち遠しかったのです。「早く召してください。イエス様、早く行きたい行きたい。」 最後の電話の時、「いつでもいい。」と彼女は喜んでいたのです。イエス様のおかげです。 第5番目、イエス様は「来たるべき神の御怒りからの救い」をもたらされたのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:10
とあります。将来は決してバラ色のものではない。主の怒りそのものは来ると聖書は言っています。 ヨハネの福音書3:36
頭を下げたくない人々のために将来はない。正直になりたくない人々は決して祝福され得ない。のろわれた者そのままです。 6番目、イエス様は「いつも逆らう自己からの解放」をもたらしたのであります。 ガラテヤ人への手紙2:20
これこそが、まことの解放です。 もうひとつ、7番目ですけども、イエス様は「今の邪悪な世からの解放」をもたらしたのです。 ガラテヤ人への手紙1:4
「私のためにイエス様はご自身をお捨てになった。」ということについて考えると、もう言葉がない。どうしよう・・・。 この完全な主イエス様の救いを自分のものとして体験した人は、誰でも心から喜ぶことが出来るのです。 ルカの福音書1章には、3つの讃歌が載っております。ひとつはエリザベツ。もうひとつはマリア。そしてもうひとつはザカリヤの讃歌であります。 ルカの福音書2章には、御使いの讃美、羊飼いの喜び、そしてシメオンとハンナの証しが載っております。これら全てのものは、喜びに満ちあふれているのです。全てこれらのものは主への感謝であり、主に対する讃美です。 私たちの場合はどうでしょうか。パウロは歓呼の声をあげて書いたのです。 テトスへの手紙2:11
御使いの知らせは「恐れるな。見よ。すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝えるために来た。」御使いたちの知らせを聞いた時に、当時の羊飼いたちはいったいどのような態度を取ったなのでしょうか。彼らは「さあ、行って見て来よう、と互いに話し合った」とあります。 羊飼いたちの態度は「幼子のような信仰」、それから「直ちに従うこと」、また「喜ばしい確信」でした。彼らの幼子のような信仰は、彼らが何が起こったのであるかということがはっきり分からなかったにもかかわらず、「御使いのことばに彼らが従った」ということの中に表われております。 彼らはいろいろと考えることなくして、直ちに御使いに従って、大急ぎで出掛けていったのです。 「喜ばしい確信」について、次のように書かれています。 ルカの福音書2:16、20
とあります。 最初に、イエス様は全人類を救うために、みどりごとして出現されたのです。第2番目に、イエス様は主の恵みによって救われた信者たちをご自分に迎えられるために、花婿として出現します。 ヘブル人への手紙、イエス様の初めての出現についての箇所ですけども、次のように書かれています。 ヘブル人への手紙9:26
この箇所は、先ほど学びましたイエス様の第1の出現のことを書いているみことばです。イエス様は救いを成就するために来てくださいました。ご自分の与えられた使命について、イエス様はまたよく言われました。 「わたしが来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 「わたしは犠牲になるために、救いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのだよ」とイエス様はよく言われました。 ヘブル人への手紙9:28
今の言葉の中に「罪を負うためではなく」という言葉がありますが、これは「罪なしで」という意味です。ということは、イエス様が2度目に来られる時には罪との一切の関係のないお方として、私たちのところへ来てくださるということです。空中まで来られるのです。 けどもこの場合においても、イエス様の前に人々は2つのグループに分けられるのです。イエス様が2度目に来られる時には、それは罪人を裁くためではなく、ご自分の花嫁である、からだなる教会をご自分のために迎えるために来られるのです。 イエス様はこの事実について、次のように述べました。 マタイの福音書24:40-41
引き上げられる人もいるし、残される人もいる。これは分けられる2つのグループのことを言っているみことばです。 集会の中においても、どの人がどちらのグループに属しているなのかということは、誰の目にも明らかではない。ある人は、確かに生まれ変わりを体験しているように見えるかも知れませんが、実際はどうであるかわれわれ人間は分かりません。 また逆に、ある人たちは信じているかどうかがはっきりしない人たちがいるかも知れないけど、このような人々の中にも「主が受け入れておられる」人々がいくらでもおられるかも知れない。 しかしイエス様が2度目に来られる時には、すべてこれらのことがはっきりとされるのです。イエス様が2度目に来られる時に、イエス様に属しているすべての人々、すなわち「その人の死んだ霊が、御霊によって生き返らせられた人々」は、みな急にその姿が見えなくなります。 テサロニケ人への手紙第Iの4章、よく知られている箇所ですけども、次のように書かれています。近いうちに起こる出来事についての箇所なのではないかと思います。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
「私たちは、いつまでも主とともになる。」、毎日考えるべき事実なのではないでしょうか。 主イエス様の最初の出現の場合にも、「見よ」という言葉が出てきます。そして前に兄弟に読んでもらいました箇所の中で、「聞きなさい」という言葉が出てきます。 コリント人への手紙第I、15:51-52
「私たちは変えられるのです。」「私たちは、みな変えられるのです。」 2回もこういうふうに書かれています。どうしてここで「聞きなさい。」と書かれてるなのでしょうか。それは「今まで以上に、待ち望みの生活をしなさい。」という意味です。 今イエス様を待ち望んでいない人は、不従順です。不従順は罪です。それから「今まで以上に主に喜ばれるような生活をしなさい。」という意味です。それは、自分自身の気に入るようなことだけをするのではなく、また人の気に入られるようなことだけをするというのではなく「ただ主の御心にかなうことだけをしなさい。」という意味です。パウロはそういう心構えを持っていたようです。 ガラテヤ人への手紙1:10
それから今までよりも、今までより以上にまだ救われていない家族のために、親戚・知り合いの・・・ (テープ A面→B面) ・・・祈りに対して、答えようとされているのです。 「イエス様への待ち望み」が、われわれの毎日の生活を決定するものでなければなりません。 私たちが救われたことの理由のひとつは、「イエス様を待ち望む」ということのためです。テサロニケ人への手紙第Iの1章、よく知られている箇所ですけども、パウロは3週間だけテサロニケという町へ行って、それから人々は次々と導かれ、すばらしい信者の群れになりました。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
彼らは「いつか天国に行くために救われた。」だけではなく、彼らは「主に仕えるために」、そして「主を待ち望むために救われた。」と確信したから、大いに祝福されたのです。 イエス様が2度目に来られる時には、多くの人々があとに残されるようになります。このような「引き上げられる」という体験をした人に、エノクという人があります。彼は死を見ないで、そのままで天に引き上げられたのです。ヘブル人への手紙を見ると、彼について次のように書いてあります。 ヘブル人への手紙11:5
人々は間違いなくエノクを捜しました。けど見つけ出されることがなかったのです。いなかったから。天に移されたからです。 もうひとり、同じような経験を持つ人がいまして、エリヤという預言者です。列王記第IIの2章の中で次のように書かれています。 列王記第II、2:15-18
彼らはどうしてエリヤを見つけられなかったかといいますと、もちろんいなかったからです。天に移されたからです。 これと同じように、すべてのまことの信者たちが一瞬のうちに取り去られる時に、あとに残された人々はこれらの人たちを捜し求めることになるでしょう。けどついに見つけることは出来ない。何百万人いっしょに、いっぺんに見えなくなるのです。その時に、多くの人たちは自分の人生について、また取り去られた自分の妻や両親あるいは子供たちのことについて真剣に考えるようになるのでしょう。 今は恵みの時です。救いの日です。イエス様をまだ自分の救い主として受け入れておられないなら、今日これからでも、新しい人生とそして永遠のいのちを得ることが出来るのです。 イエス様は言われました。 ヨハネの福音書14:2-3
確かに私たちは5分先のこと、明日あさってのこと、半年先のことも分からないけど、確信を持って言うことができるのです。「十字架の上で犠牲になったイエス様は、嘘つきではない。詐欺師でもない。ご自分の約束を守るお方です。」 そして「イエス様は『わたしは、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。』と約束してくださったのです。」、そして「私たちはいつまでも主とともにいることになるのは、動かすことのできない事実です。」 この地上におられた時、イエス様は次のように祈られたことがあります。この祈りももちろん必ず成就されます。 ヨハネの福音書17:24
イエス様は2,000年前に「みどりごとして」来られました。罪ほろぼしのために、ほかの道がなかったからです。イエス様こそが唯一の救いを与えるお方です。 それから、この救いのみわざを成し遂げられたイエス様は、近いうちにまた来られます。今度はみどりごとしてではなくて「花婿として」来られます。 私たちのようなつまらない者を迎えるため。考えられないけど、間違いなくそうです。 そして第3番目として、イエス様は「メサイアとして」「千年王国を建てられるお方として」また来られます。 マタイの福音書16:27
マタイの福音書24:30
この第3番目のイエス様の出現の場合には、「見よ」という言葉が書かれています。前に読んでもらいました、ヨハネの黙示録です。 ヨハネの黙示録1:7
とあります。結局イエス様はその時、みどりごとしてではなく、花婿としてではなく、「メサイアとして」来られるのです。 この場合にもまた2つのグループの分離が行なわれます。 イエス様を信ずる者たちと、イスラエルの民にとってはメサイアとして。またすべての信じたくない者たちに対しては、裁き主としてイエス様は来られるのです。 すべてのユダヤ人は、イエス様をメサイアとして認め、受け入れます。結局その時のユダヤ人たちは、みな例外なく救われるということです。 日本人はみな救われると聖書は言ってない。アメリカ人だってドイツ人だってみな救われると聖書は言っていない。ユダヤ人たちは、その時みな救われます。 どうして?徹底的に悔い改めるからです。ですから将来性のある国とはイスラエルしかない。今の世界を見ると、笑い話じゃないですか。考えられない。けども間違いなくそうです。 ちょっと暇があれば、イザヤ書の13章と14章をお読みになってください。その中でバベルの滅びについて書いてあります。 歴史を見ると、バベル、今のイラクは完全に滅ぼされたことがないんです。部分的にだけです。けどイザヤ書13章と14章の中で、完全に滅ぼされるようになると書いてあるんです。近いうちに起こりうることなのではないでしょうか。 イエス様は来られます。ユダヤ人はもう奇跡的に勝利を得るようになり、守られるようになります。けども悔い改めたくない者たちにとって、イエス様は最もおそるべきお方になります。 ヨハネの黙示録6:15-17
とあります。今の箇所で、おそるべきほら穴の中での祈りのことが書き記されています。これらの人たちは、救いの時に祈ったのではなく、裁きの時に祈っているのです。これは「時すでに遅し」と言うべきでしょう。彼らは祈っておりますけど、それは救いの神への祈りではありません。従ってそれは何の値打ちもない祈りです。 彼らはなぜ祈っているなのでしょうか。彼らは小羊の御怒りを恐れているからです。また彼らはイエス様の裁きを恐れているのです。 しかしこの祈りは誰からも聞いてもらい得ないのです。 詩篇2:4
と書かれています。 イエス様は大いなる御力と、栄光のうちに再びおいでになられます。ひとたびイエス様とともに引き上げられた、からだなる教会は、イエス様とともに一緒に来るようになります。エルサレムはその時、世界の首都となります。 千年王国の特徴は、正義、平和、幸福、長いいのちと健康、物質的な幸せ。のろいは自然から取り除かれるのです。世界の国民の望んでいる事柄は、すなわちイエス様の再臨によってのみ成就されます。 パウロは、主イエス様の支配を受けたゆえに殺されたパウロは、その最後の手紙の中で次のように言ったのです。 テモテへの手紙第II、4:8
ここで大切なのは「主を信ずること」よりも「主の現われを慕うこと」なのではないでしょうか。初代教会の人々のように、毎日「イエス様お願い、早く来てください。」という心構えを持つことなのではないでしょうか。 私たちは本当の意味で、「主の現われを慕っている」なのでしょうか。このことに「正しい審判者である主」が、いかなる判断をわれわれのうえに下してくださるか、ということが掛かっているのであります。 最後に、2箇所読んで終わります。 マタイの福音書25:34
素晴らしい言葉です。けど41節に次のように書いてあります。 マタイの福音書25:41
「祝福された人たち」、じゃない。 マタイの福音書25:41
ここに私たちはひとつの招きと、ひとつの裁きとを見ることができるのです。従ってここでも人々は2つに分けられるのです。 今日でもイエス様のところに来て、イエス様を受け入れる人は、イエス様のこの招きにあずかることができるのです。けど自分の道を変えないで進もうとする者は、イエス様のこの裁きを受けることになるのです。 信ずる者にとってもっとも大切なのは、毎日覚えることです。すなわち「私たちはいつまでも主とともになる。」これは遠い将来なのではない。近いうちに起こることなのではないでしょうか。 |