引用聖句:ローマ人への手紙13章11節-14節
最近、ある姉妹はちょっと悲しそうな顔、驚いた顔で何と言ったかと言いますと、 「私は今まで全く忘れていたことがある。今まで、家族の人々、親戚、友人たちに十字架の上で死なれたイエス様、また、復活なさったイエス様について話したし、イエス様を紹介するつもりだったのですけれど、忘れたのは、再臨なさるイエス様について何も言わなかった。」 これは確かに大問題ではないでしょうか。 今、兄弟のお読みになりました個所の中で、「救いは近い。」、救いとはもちろん救い主なのです。救い主なしの救いはあり得ないからです。結局、再臨なさるイエス様は、近いのです。 確かに今言われたように、アメリカのテロ事件はもう大変な問題でした。結局、解決できない問題です。 いくら復讐しようと思っても、無理。この世界はメチャクチャな世界になってしまったのです。宗教が存在している限り、平和になり得ません。 テロ事件よりも大きなことが起こったのです。すなわち、ユダヤ人は自分の国を持つようになったということです。58年前、急にイスラエルの国は存在するようになった。もうだれも考えられなかった。 けれどもこれを聞いた世界中の多くのクリスチャンたちは、主は近い、もう長くない、と思うようになったのです。 それから、39年前でしょうか、イスラエルの軍隊は、今までアラビヤが持っていたエルサレムの土地を征服したのです。ほとんど1900年以来初めて、全エルサレムはイスラエルの民を自分の所有としたのです。そして今の世界を見ると、あのちっぽけな国は何もできないじゃないか。 けれども将来の世界の一番大切な町になるのは、ワシントンでもないし、東京でもないし、ベルリンでもないし、ロンドンでもないし、パリでもないし、間違いなくエルサレムになる。 けれどもそのための戦いはもうだいたい3,000年間続いているのです。 イエス様は近い。イエス様の空中再臨について聖書の中で一番大切な個所はおそらく、テサロニケ人への手紙第Iではないかなと思います。ちょっと読みましょうか。 確かにイエス様がまた来られるということを、イエス様を信ずる者はみな例外なく信じています。けれどイエス様の空中再臨を信ずる信者は少ない。これこそ問題なのです。 私はドイツへ帰ると、いつもショックを受けます。イエス様はもちろん再臨されます。エルサレムの近くのオリーブ山を下りるようになる云々と、イエス様の公の再臨、千年王国を建てるために来られると、みんな疑わずに信じています。 けれど空中再臨を信ずる人はドイツであまりいない。けれどこれこそ悲劇的です。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
今、兄弟も毎日戦いの連続ですと言われました。もちろんその通りです。悪魔の怒りを感じない人の信仰は、本物ではない。だから毎日戦いの連続です。 けれども初代教会の人々は、本当に元気でした。なぜならば、このことばを信じたからです。このことばをもって互いに慰め合いなさい。 「主は近い。」 日本で、ひとりの非常に悩んだ姉妹がいました。本当に重病人になって、けれども、奇跡的にちょっとひとつの指だけ動かすことができたのです。パソコンに繋がっていて、時間がかかったのですけれども、自分の言いたいことを表わすことが出来たのです。 もちろん見舞いに行く前に、やっぱり少なくとも半年前に知らせないと、もちろんひと文章も書けません。無理なのです。けれども、あるとき行った時、彼女はどういう文章を書いたかと言いますと、「痛みのかたまりです。だからいつも祈っています。」 その痛みとは心の祈りの材料でした。それがなければおそらく、いつも祈らなかったのではないでしょうか。「痛みのかたまりです。だからいつも祈っています。」 耳も聞こえないし、食べることも出来ず、だから早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと首を長くして待っております。 幸せな姉妹だったのではないでしょうか。 大切な問いは次のようなものです。私たちが、私たちの個人的な生活に対して、歴史の出来事から引き出す結論は、いったい何なのでしょうか。 私たちは単に歴史の傍観者なのでしょうか。なるほど全ての出来事に非常に関心を持ってはいるけれど、しかしこれらの出来事は私たちの生活にほとんど影響を及ぼさないのではないでしょうか。 英語のヒストリーという言葉は、「His story.」、結局、主のストーリーであり、主は支配者です。偶然はない。 初代教会の人々は、「イエス様は救い主だ。」、云々とあまり宣べ伝えなかったのです。イエス様は救い主である、という聖書の個所は、26ヶ所しかないのです。 けれどイエス様は主、歴史の支配者であるという個所は、何百回もあります。初代教会の信じたイエス様とは結局、徹頭徹尾、主そのものでした。 聖書は終末が近いことを明言しています。そして私たちはこのことをよくもちろん知っています。けれど知っていても何もしないことは、聖書によると罪です。ペテロは次のように書いたのです。 ペテロの手紙第II、3:11-14
とあります。 何年か前のドイツの大学の教授は、あるとき学生たちに「いったい大切なのは、確かなこととはいったい何か。」と尋ねたのです。 それに対して学生たちは、ひとりひとり、思い思いのことを言いましたけれども、いつまでも経っても、らちがあかない状態だったので、ひとりの学生は勇気を出して聞いたそうです。 「先生。いったい何だと考えておられるのですか。」その教授は、「イエス様が来られることです。」と言ったそうです。 イエス様が来られるという確信こそ、光、喜び、希望、力です。パウロはテサロニケ人への手紙第Iの中で、私たちはイエスを待つために救われた。 ただ罪が赦されるために、いつか天国に行くために救われたのではない。主に仕えるため、それから、主を待つためです。待つために救われた。 テサロニケにいる兄弟姉妹はこれを確信したから、非常に早く成長し、多くの人々の祝福となったのです。 私たちは本当に主を待ち望んでいるのでしょうか。主の再臨を信じているだけではなくて、本当に待ち望んでいるのでしょうか。主を待ち望む生活が本当に大切です。どうしてでしょうか。四つの理由が考えられます。 第一番目。イエス様を待ち望む生涯は、本当の意味を持っているからです。それに対して、イエス様を待ち望むことのない生活には、本当の意味がありません。 なぜ私はあれこれを知らなければならないのでしょうか。あれこれをしなくてはいけないのでしょうか。全ては無駄なのではないでしょうか。このような質問を抱いている人は、もう世界中に数えられないほどいます。 もしも何かを待ち望む心が失われてしまったならば、人生は本当にもう、退屈で、どうしようもないものになってしまうのです。 この待ち望み、あるいは、期待を失ってしまった場合には、無関心になって何もしないか、あるいは、何十年か前の三島由紀夫のように自殺をするかしか道は残されていないのではないでしょうか。 何と多くの人々は諦めの中に生活していくのです。これこそが生き地獄なのではないでしょうか。けれど私たちはイエス様を待ち望んでいます。イエス様は必ず来られます。 第二番目。待ち望みの生活は、目をさましている生活です。 期待は目ざめさせます。眠っている者は聞くことも出来ません。イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身の本当の状態に対して目くらではありません。イエス様を待ち望んでいる者は、イエス様を悲しませないように、絶えず心を遣っています。 けれどイエス様を待ち望まない者は、目くらであり、イエス様の御声に対して難聴のため、聞き取ることが出来ません。 第三番目。待ち望みの生活は、責任ある生活です。 私たちひとりひとりはだれでも、ほかの人に対して責任をもっています。一緒に学校に行った人々をだれも選んだことがない。だれも自分の親戚を選んだことがない。隣にだれとだれが住んでいるか、だれも自分で選んではいないでしょう。やっぱり主は支配しておられるのです。 そして私たちは、知るようになった人々の永遠の幸せのために、責任をもっているのです。 待ち望む人々はやっぱり、自分は責任者であるということを知るようになるだけではなく、やっぱりそういう人々のために祈らざるを得なくなります。 イエス様を待ち望んで、責任ある生活を送っている人は、絶えずイエス様のまなざしを意識している人です。イエス様を待ち望んでいる人は、イエス様を信じているだけではない。イエス様を愛しています。 本当にイエス様を毎日意識して、イエス様を待ち望んでいない人は、イエス様を愛していない。自分中心の生活をしていると言わざるを得ないのではないでしょうか。 第四番目。待ち望みの生活は、喜びの生活です。 本当に主を待ち望んでいる人のために、今日、イエス様は来られるかもしれない。このような生き生きとした待ち望みの信仰が、人間を全く変えてしまうのです。 あらゆる思い煩いや、苦しみ、悩みなど、イエス様の再臨を思う時に、もうちっぽけなものになってしまいます。 そして待ち望みと喜びの生活を送る源は、私たちが罪を赦されているという事実にほかなりません。この確信を持っていない人でも、待つことを真に望むならば、得られます。 今日、恐るべき混乱と動乱、失望と闇の中にあって、イエス様が来られるという真理こそ、私たちに本当の喜びと平安を与えます。 イエス様に来てもらいたいと初代教会の人々は心から望んだのですけれども、初代教会の兄弟姉妹よりもイエス様はそれを望んでおられます。 イエス様はもう迎えに来たくて、来たくてしょうがない。必ず近いうちに来られます。 色々な世界的なことを考えると、全部反キリストのための準備なのです。 もうちょっとでイエス様が来られると考えると、やっぱり嬉しくなるのではないでしょうか。 |