前山兄姉結婚式


ベック兄

(前山兄姉結婚式、2002/04)

引用聖句:エペソ人への手紙5章18節-33節
18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
21キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
22妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
23なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
28そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
29だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
30私たちはキリストのからだの部分だからです。
31「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
33それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

今日このようにして、愛するみなさまと一緒に神のみことばである聖書について少しだけ一緒に考えることができるのは、本当に感謝であり、また喜びです。

新郎新婦が結ばれたということは、本当に喜ばしいことです。
確かに、「結婚式」という言葉が使われていますけれども、私たちは、儀式そのものをあんまり大切にしたくない。なぜならば、多くの場合は表面的なこと、形式的なもの、宗教的なものであるからです。
今日のいわゆる「結婚式」とは、一つの儀式よりも、愛する兄弟も、また愛する姉妹も知るようになった、今日も生きておられる「イエス・キリストを紹介するための集い」です。

なぜならばイエス・キリストを知ることによってのみ、人間は本当の意味で満たされることになり、祝福された結婚生活を送ることができるからです。
人間とは一つの点でみんな同じでしょう。すなわち人間はみな例外なく幸せになりたい気持ちでいっぱいです。なぜならば、本当の意味での幸せを知るようにならなければ、人生とはおもしろくないし、虚しいものであるからです。
確かに、最近多くの人々たちは、何をやっても「おもしろくない」「虚しい」と感ずるようになってるなのではないでしょうか。なぜならば将来のこと、わからないからです。全部、もう不確実になってるなのではないでしょうか。

人間の特徴とは「孤独」です。友達いっぱいいたとしても、人間そのものはあいかわらず、寂しい自分の気持ちを理解できる人間は、結局いないからです。人間の心を理解できるお方とは、人間の心の造り主しかない。
ですから人間の心を励ますことができ、力づけることができるのは、神のみことばである聖書だけです。愛する兄弟も、愛する姉妹も、それを体験的に知るようになったのです。

聖書とは、学ぶべき教科書なのではない。守らなければならない戒めの本でもない。
私たちはどうして聖書を知るべきかと言いますと、聖書を通して、今日も生きておられ、私たちの真ん中におらるるイエス・キリストを知るようになるからです。
結果として、変わらない喜びを持つようになります。心の平安を得るようになります。それだけではなく、安心して将来に向かうことができるからです。

愛するお二人の聖書から選ばれたみことばとは、主をほめたたえる言葉なのではないかと思います。コリント人への手紙第Iの2章からの言葉です。
本当は、2章はすごい、素晴らしい書でありますけど、今日は時間がないので、ちょっとお二人の選んだ箇所だけお読みいたします。

コリント人への手紙第I、2:9
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

その前の3節見ると、次のように書かれています。

コリント人への手紙第I、2:3
3私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

主なる神の備えてくださったものは、十字架につけられたキリストです。
主の賜わったものも、十字架につけられたキリストであり、また十字架につけられたキリストを受け入れることこそが、要求されています。それによって、目で見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないものが自分のものとなり、それによって人間は、絶えざる喜び、真の心のよりどころ、また永遠のいのちを持つようになります。

最も大切なのは、主なる神を知ることだけではなく、主なる神を愛することです。
主なる神の存在を認むる人は、決して少なくないでしょう。そして、主なる神について、多くの知識を得てる人も、多いでしょう。けど、主なる神を本当の意味で知り、そしてまた心から愛する人々は非常に少ないなのではないでしょうか。
主なる神を愛するための条件とはいったいなんなのでしょうか。まず、「主なる神の啓示」です。二人の選んだ言葉の次の節は

コリント人への手紙第I、2:10
10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。

と書かれてます。使徒パウロも回心の奇跡について次のように告白しています。

ガラテヤ人への手紙1:12
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

天からの声、啓示なしに、人間はめくらであり、つんぼであり、無関心です。だから、使徒パウロは次のように書いたのです。

コリント人への手紙第I、2:14
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

主イエス様を愛するための条件とは、今話したように、「神の啓示」です。
2番目。「神の御霊を受け入れること」です。選ばれた言葉のすぐ後で、次のように書かれてます。

コリント人への手紙第I、2:12
私たちは、...神の御霊を受けました。

御霊を受け入るることによって、人間は生かされます。
救いとは、御霊の宮になることです。御霊の宿になることによってのみ、人間は救われます。パウロとは、また次のように書いたのです。

ローマ人への手紙8:9
9キリストの御霊を持たない人はキリストのものではありません。

キリストのものとなるのは、救いにあずかることです。
主イエス様を愛するための条件とは、今話したように、「神の啓示」であり、「神の御霊を受け入れること」です。
もう一つ、第3番目になりますけども、「キリストの心構えを持つこと」です。

コリント人への手紙第I、2:16
16私たちには、キリストの心がある

とパウロは告白したのです。キリストの心構えの反対は、自己中心的であり、人間のわがままです。
愛する兄弟も、また愛する姉妹も、生けるまことの主なる神の愛を信ずることによって、知るようになり、愛するようになり、そしてそれによって彼らの人生は豊かなものになったのです。
主なる神を愛することは、決して宗教的な訓練ではありません。主を愛することは、主を知ってる者、生けるまことの神に出会った者だけができることです。
そして、主を愛することは、ただ単にもはや反逆しないということや、しかたがなくて従うということではなく、主に喜んでいただきたいと願わざるを得ないということを意味してます。

主なる神は、すべてのものを存在するようになさった大いなる創造主です。この造り主は聖書の中で、よく「万物の支配者」と呼ばれてます。すなわち「偶然」は存在しません。
すべての背後に、この支配者は導いていてくださり、この偉大なる支配者は、今日まで愛する兄弟も、愛する姉妹も、導いてくださったのです。
人間は、決して偶然の産物ではありません。今日までの経験したことも、単なる「運命」ではなく、「主なる神の導きの結果」です。万物の創造主は、万物の支配者であり、万物の救い主でもあります。

創造主なる主、また支配者なる神は、いかにして救い主になったなのでありましょうか。
十字架につけられたことによってです。

コリント人への手紙第I、2:8
8栄光の主は十字架につけられたのです。

と書かれてます。
イエス様はここで「栄光の主」と呼ばれています。また、

ヘブル人への手紙1:3
3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

主なる神の栄光の輝きである主イエス様が、栄光の主として十字架につけられ、人間一人一人の受けるべきいわゆる天罰をお受けになり、呪われ、捨てられ、殺されたのです。どうしてでしょうか?

コリント人への手紙第I、2:7
7私たちの栄光のため

と書かれています。

コリント人への手紙第I、2:7
7私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

とあります。すなわち世界のはじまる前に、造り主なる神、万物の支配者なる神は、いつか創造される人類また堕落される人類の代わりに死ぬ。救いの道を開く。と決心してくださったのです。
そのために主イエス様が、2,000年前に、この罪にまみれた世界にお入りになり、十字架につけらるることによって救いの代価を払って、救いの道を開いてくださったのです。

今日結婚する愛する兄弟、また愛する姉妹も、この神の愛を体験的に知るようになったのです。お二人の証しとは、次のようなものでしょう。

私たちそのものは、生けるまことの神に対して、全くめくらでした。
そしてまた、自分たちの滅び行く状態に対しても、同じくめくらでした。
けれども、生けるまことの神は、私たちの人生に入ってくださいました。
主は私たちの失われている状態に対して、心の目を開いてくださったのです。
そしてまた提供された救いに対しても心の目を開いてくださいました。
そして主の恵みにより、私たちはへりくだって、悔い改めることができるようになり、私たちの債務は赦されています。

主イエス様が、私たちを受け入れてくださり、罪が赦されて、永遠のいのちを持っているということを知っていますから、愛するお二人は証しすることができます。

「栄光の主の犠牲によって、十字架につけられることによって、私たちは贖われ、救われ、義と認められたのだ。」

これこそが、共なる人生の土台であるべきです。この栄光の主に頼ると、決して失望させられません。

「回心」「主を知ること」と、「結婚」は、共に新しい出発を意味します。
「結婚」は、今まで一人で生活し、一人ですべてのことを決定してきた者が、結婚を通して、いわば二人三脚のようにいつも二人で物事を決定し、行動をともにするよういなります。
他方、「回心」は、今まで一人で生きてきたものが主イエス様とともなる新しい生活を、意味するのです。

回心が最も大切な決断であることの理由としては、次のようなことが考えられます。
すなわち、回心によって私たちが本当の喜びを持つか否か、あるいは報わるるべき人生の目標を持つことができるか否か、という根本的な問題が、この世において解決するだけではなく、真理から何処にいなければならないか、天国であるか地獄であるか、という永遠の問題も、決定されるからこそ、回心は最も大切なのではないでしょうか。
この世は、今の見える世界は、求められてるのは頭のいい人、優秀な人々、有力な人々、金を持つ人たち、権力を持つ人々なのではないでしょうか。
主なる神の求めているのは、心を砕かれ、神のみことばである聖書におののき、そして主なる神を恐れてる人々です。

ある時、一つのおもしろいポスターを見たことがあります。「人間はだまされやすい」としか、書いてなかったんです。人間はだまされやすい。
けど、確信を持って言えるのは、主なる神は、だまされません。すなわち、砕かれている心を持たない人は祝福され得ないし、主のみことばに、おののかない者も祝福され得ないし、そして、主を恐れない人も決して祝福されません。

結婚は幸せのためであるべきです。けど、どうして多くの結婚は不幸な結果になってしまうなのでしょうか。自分のことを考えてるからです。
相手がどのような気持ちでそれを受け止めてるかに対しては、全く無関心でいるということが、多くの不幸な結婚の実情です。
自分や相手を不幸にしようと思うならば、自分のことばかりを考えてればいいでしょう。このことが、相手を愛し、相手を助け、相手を幸せにし、自分を虚しくして、相手に仕え、よしんば相手が間違いをしたとしても、それを赦すという態度で結婚生活を送ることこそが大切なのではないでしょうか。

まとまてみると、自己否定をともなわない結婚は悲劇的です。自分のために生きるとは不幸になる原因です。
自分のために生きるとは、結局いわゆる自己満足です。誰でもが自分自身のために生き、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追及することは、もちろん可能です。なぜならば、人間の最大の敵は自分の自我だからです。

イエス様の死なれた目的について、聖書は次のように言ってます。

ローマ人への手紙4:25
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、

罪ほろぼしのために、人間は何一つできないから、イエス様は代わりに罰せられたのです。
もう一つ。キリストがすべての人のために死なれたのは、

コリント人への手紙第II、5:15
15生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

自分のためではなく、十字架の上で犠牲になり、また3日目に復活なさったイエス様のために生きることは最高の特権であり、また幸せです。
自分のことばかりを大切にする人は、的外れの生活をします。けれども主イエス様のために生きたいと望む者は、自由になり、幸せになり、そして豊かな実を結ぶようになります。
自分自身が中心となって、イエス様を除け者にするか、あるいは自己否定によってイエス様がわれわれの中で、また、私たちを通して、自由に働くことができるか、二つのうちのどちらかの状態にならざるを得ません。

結婚生活は、確かに一人の時ほど簡単なものではないでしょう。なぜならば、あらゆることにおいて、二人の思い、二人の考えが出てくるからです。
生まれつきの自己愛から、本当の愛が生まれるために結婚生活があるといってもいいだろう。
ですから、まことの結婚生活とは、問題のない結婚生活いうなのではなく、その問題を、たえず主イエス様によって解決していく結婚生活です。
イエス様の弟子の一人は手紙を書いて、その中で本当に最も大切なこと、強調したといえます。

ペテロの手紙第I、4:8
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

何よりも、互いに愛し合いなさい。イエス様の愛を経験した者は愛することができます。もちろん自分のちっぽけな愛を持って愛せよ、なのではなく、イエス様の愛でもって愛しなさいということです。
エペソ人への手紙、前に読んでもらいました箇所の中で、次のように書き記されています。

エペソ人への手紙5:25
25キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

キリストが愛したように。全く同じように愛しなさい。これこそ全き献身であり、他人すなわち相手に対する、全き自己否定なのではないでしょうか。
けどこれこそが愛するお二人の結婚生活の特徴となることができますように。本当の愛は自分の幸せではなく、相手の幸せを願うものです。相手のために自分自身をささげること、自己犠牲、すなわち自己否定と献身を喜んで成すこと。このことが要求されてます。
私たちは何でもできるイエス様に、頼らなければならない。イエス様につながっていれば、うまくいくからです。聖書は言ってます。

ローマ人への手紙8:37
37私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

イエス様とつながっていれば、愛することができ、全き平安のうちに守られ、そしてすべてのことについて感謝することができるのです。
兄弟も姉妹も幸せです。どうしてでしょうか。イエス様によって、大いに愛されているからです。
イエス様に愛されていることを絶えず覚えながら、生活しなさい。イエス様によって、愛されているということは、最高の幸せであるからです。

今から、誓約いたします。証人としてご起立ください...




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