引用聖句:ヨハネの手紙第I、1章1節-4節
ヨハネの手紙第I、1:7
今、読んできてくださった箇所は、イエス様の弟子であるヨハネの書いたものです。何歳だったか解からない。ある人々は100歳くらいだったんじゃないかと言うのです。他の弟子たちはみな殺されてしまった。 彼だけ残されて、一つの小さな島パトモス島に追放されてしまったのです。暇人になったから、こういう手紙を書くことができたのです。もちろんヨハネの黙示録も、あの寂しい所で書くようになりました。 ここで「私たちの交わり」という表現が出てきますし、また「私たちの喜びが全きものとなる」と書いてあります。もちろん聖書全体の必要な交わりについて書き記されています。 確かにある人々は、「結構です。家で聖書を読んだり、祈ったりすれば充分でしょう。」、重病人の場合はしかたがない、けど健康人にとって、交わることはやっぱり必要なことだと思います。 ずっと一人ぼっちだったら確かに平安かもしれない。喧嘩相手がなければ。 けれども、おもに使徒たちの書いた手紙の中で、交わることこそが大切であると言ったのであります。 ドイツで、ずっと年配になってボーデル・シュヴィンクという男がいまして、彼は一つの町を作ったんです。ベーテルという町です。孤児たちを集めて何千人いました。みなを食べさせるのは考えられないことでした。けども毎日必要なものが与えられた。奇跡の連続でした。 彼は、年配になって聞こえなくなった。けど関係なし、集会の時いつも現れたんです。 ある人は多分書いて聞いたでしょ。「あなた何も聞こえないのにどうして来るの。」、答えは、「信じる者の交わり。交わることこそが大切です。」 孤独な人間にとって、どうしても必要なのは、交わりなのではないでしょうか。 使徒の働きに出てくる、主の恵みによって救われた人々の交わりのようなものはどうしても必要です。 この交わりとは、もちろん本当の交わりでした。本当の交わりとはどうでしょうか。使徒の働きを見るともちろん解かります。 使徒の働き2:42-47 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。 ここに出てくる信徒たちは、あの五旬節の時に救われた人々なんですけど、ここで彼らは、「使徒たちの教えを守った」と書かれています。 この使徒の教えとは何でしょうかね。使徒が伝えたのは、もちろんイエス様の教えでした。教えよりもイエス様ご自身でした。 終わりの時代に生きる私たちに、どうしても必要なのは、この使徒の教えに留まることではないでしょうか。ですが私たちは、それとともに信徒の交わりとはいかなるものであるかを知っているのでしょうか。 この信徒の交わりを、本当の意味で知るべきです。使徒の教えがイエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりを意味しているのです。 聖書を見ると、聖書はただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子主イエス様との交わりです。 コリント人への手紙第I、1:9
この御子主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。私たちは、本当に父なる神ならびに主イエス様との交わりを知っているのでしょうか。この交わりは、表面的な気分によって生まれるものではありません。この交わりは、教理を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果生まれるというものではありません。 この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりの間には、少しの暗い所も陰もあってはなりません。父ならびに御子イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。 父は、御子であるイエス様を心から信頼され、ご自分の計画を全部教えてくださり、これに委ねられました。全部の計画を少しの不安もなく、委ねることができました。 反対に、イエス様の父に対する態度も、全く同じでした。イエス様は、父なる神に完全に拠り頼み、少しも疑わず父の御心を行なわれたのです。あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれた時も、少しも疑わないで、全き信頼を父においておられました。 イエス様と父なる神は、お互いにそんなに信頼しあっておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったんです。 このお互いの信頼が交わりです。この父と御子のすばらしい交わりに、人間も加わることができるとは、驚くべきことです。主は、何ゆえにこの交わりに召してくださったか、知ることができません。 ただ一つ解かることは、計り知れない主のご愛のゆえであるということです。イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、この世においでくださいました。イエス様が、地上におられた時、願っておられたことは、第1に弟子たちがこの交わりに入ることができるようになることでした。 私たちは、救われるために救われただけではありません。この交わり、このすばらしい交わりにあずかるために救われました。我々は、良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではない。この交わりにあずかるために召されました。 もし人が、父なる神に御子イエス様との交わりに入りますと、使徒の働きにある信徒の交わりに入ったことになるわけです。 使徒の働きに出てくる信者たちは、別に特別な人々ではありませんでした。 使徒たちは、同じく特別な人々ではありませんでした。けど、使徒はいかに造られたのでしょうか。使徒は、主に選ばれ特に召された人々です。 マルコの福音書3:13-14
イエス様は、これを見ますと解かりますように、使徒たちをまず第一にご自分のみもとに置くために召された。その次に、遣わすために召されたことが解かります。 イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた、父との交わりに使徒たちも入ることを願われました。 イエス様は、今日も全く当時と同じように、この交わりに私たちがあずかることを願っています。父ならびに主イエス様との交わりにあずかることができるとは、何というすばらしい特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては残念です。 私たちは、イエス様に仕えることが一番大切であると考えます。主の考えはもちろん違います。イエス様にとっては、まずご自分との交わりを持つように、我々に求めておられます。 人々は、熱心に働くならば良い働き人だと言いますが、主の考えは全く違います。主のために熱心に奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々が沢山いるでしょう。これは哀れなことです。 私たちは、弟子と同じように、この世と罪から逃れるために選び出されましたが、けどそれだけではない。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるべく召されました。 信徒の交わりは、父ならびに御子イエス様との交わりであり、これはいのちと霊の交わりです。 イエス様のからだの交わり、すなわち信徒の間の交わりは、霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。 この交わりに我々も召されています。けれども問題は、どうしてこの交わりに、全き信頼に入ることができるかということです。 弟子たちは、最初はイエス様と親しい交わりを持っていませんでした。一緒にいました。夜昼、3年半。聖書はただ、イエス様と関わりあいがあるといった態度にすぎなかったのです。 イエス様は、弟子たちを召し、彼らは確かに3年半の間、イエス様とともに生活しました。この間、イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちと、その親しい交わりに入ろうとなさいました。 イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導こうとなさいました。しかし、弟子たちはダメでした。全く理解できませんでした。 イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない、全き信頼をおく交わりに入りたかったんですが、いざイエス様が、深い御心を示そうとなさると、弟子たちはイエス様を誤解してしまいました。 弟子たちは、そればかりではなく、お互いの間にも本当の意味での交わりがなかったんです。ただ関わりあいがあるといった程度にすぎなかったのです。 間には交わりがなかったばかりでない、時々喧嘩でした。喧嘩しなければならないといった有り様でした。 12人の弟子は、ユダを除いて心からイエス様を愛していました。そのためにすべてを捨てて、イエス様に従ったのです。それにもかかわらず、彼らの間には本当の交わりがなかったんです。 お互いに妬み、誤解し、争いました。ヤコブとヨハネは、自分が一番偉くなりたいと思い、他の人々を除け者にして二人で相談しました。 マルコの福音書10:35-41
このように弟子たちの間には、本当の交わりがなかったんです。しかし、やがて五旬節の時が来ました。五旬節が来た時、弟子たちはいっぺんに変わりました。この時から彼らは、本当の交わりを持つようになりました。 ペテロが立ち上がった時、皆も他の11人も共に立ち上がったと使徒の働きに書かれています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったんですけど、これは前もってそのように相談していたわけではない。自発的に自然にそうなったのです。 12人の使徒は、もはや12人の一人ひとりではなく、12人が一つのからだをなしたのです。 五旬節の日の立役者は、確かにペテロでした。聖書を見ると、ペテロだけが目だったわけではなかったことが解かります。人々はみなこれを見て驚いたと書いてあります。ペテロだけを見たんじゃない。五旬節は、教会の誕生日です。 このまことの教会とは、一つの宗教団体でもないし、一つの組織でもありません。この時から信者たちは、もはや一人ひとりばらばらでなく、イエス様を頭とする肢体に綴りあわされたのです。 ペテロと他の人たちは一つでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、お互い恐れるといったことは見受けられませんでした。 五旬節の前までは、このような交わりは、天の父とイエス様との間にしかありませんでしたが、この日から、多くの人々もこの交わりに入ることになったのです。3,000人の人々がこの交わりにあずかったと記されています。これらの人々は、使徒の教えを守り、信徒の交わりを成したと聖書は言っています。 彼らはイエス様のみことばを自分たちの生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに信徒の交わりにあずかっているという自覚を持っていました。この交わりは、外から来るのではなく、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれた交わりでした。 エペソ人への手紙4章の中で、この交わりにつて次のように書かれています。 エペソ人への手紙4:4-6
使徒の働き2:44
誰も自分の持ち物を主張する者なく、日々心を一つにしたと書かれています。彼らは、霊において一つであるばかりでなく、考えも願いも心も一つでした。 これこそ信徒の交わりであり、イエス様のからだとしてあるべき姿です。 私たちの一人ひとりも、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりを成したと言える状態になったら、本当に幸いなのではないでしょうか。 使徒たちは、イエス様と共に過ごした3年間、このまことの交わりを知らずに過ごしていました。これは交わりに入る準備の時でした。この3年間は、実りのない3年間のように見える。しかしこの3年間の年月の間、彼らの古い性質は少しずつ取り除かれていったのです。 もし弟子たちが、イエス様に従わず自分の職を持っていたなら、彼らは信心深い人々として必ず尊敬されながら、生涯を終わったことでしょう。しかしイエス様と共に歩んで行った。彼らは自らの姿を教えられ、主の御許で本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗い所はだんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。 彼らの心に隠された思いが、現されてきました。もちろん弟子たちは、他の人々よりは悪い人々ではありませんでした。しかし、主の光に照らされた時、絶望的な自らの真相を教えられたのです。イエス様が十字架にお架かりになった時、彼らは全く絶望してしまいました。その時彼らは、ばらばらになって逃げてしまいました。 交わりの秘密はどこにあるのでしょうか。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。 しかし、私たちが今持っている悩みは、光の内を歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。 イエス様の光に照らされますと、我々の生まれながらのものは、徹底的にダメであり、役に立たない汚れたものであることが解かります。もし、イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなると言えます。御霊は、我々の上に注がれ、私たちは一つのからだとなるように、まことのバプテスマを受けました。 パウロは、有名なガラテヤ人への手紙2章20節にこの事実について、もちろん違うことばを使ったんですけど、次のように言ったのです。 信じる者にとって、おそらく一番大切な箇所じゃないかと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
この事実が土台になって初めて、まことの交わりが生まれてきます。私たちは日々この立場を取り、認め、主の御前にすべてを明け渡す時、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父ならびに御子イエス様との豊かな交わりにあずからせてくださいます。 まとめてみると、この交わりとはどういうものでしょうか。 第1番目、光の交わりです。 第2番目、いのちの交わりです。 第3番目、愛の交わりです。 もし、この交わりが我々の中に起きると、主そこにいますと呼ばれるほど、主の御栄を現す我々となることができます。 神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎であるとあります。私たちもこのような教会になりたいものです。 私たちを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れてくださった主に、本当に心から感謝しようではないでしょうか。 |