引用聖句:マタイの福音書25章1節-13節
前に私たちが歌った歌の中で、みなさん意識してるかどうかわからないけど、素晴らしい歌が出てきたんです。 『われはイエスのもの、主はわがもの。』 それを言える人は幸せです。それで十分です。ダビデは3,000年前に似てることを言ったことがあります。 詩篇23:1
だから乏しいことはない!!!私の杯は溢れています、私は喜びと希望に満たされてる。死の陰の谷を歩くことがあっても私は災いを恐れません。あなたが私とともにいるからです。 それから最後に、 詩篇23:6
こういうふうにいえる人こそが『幸せです。』 ダビデも、われはイエスのもの、主はわがものということができたのです。 確かに人間は迷える羊と呼ばれています。けどある迷える羊は羊飼いによって知られてるし、ある迷える羊は、羊飼いによって知られていないと、聖書ははっきりと言っているのです。 誰が主によって知られてるか、知られてないか?われわれはわかりません。ある意味で困っちゃう。結局、私たちは目に見える者しか見えないでしょう?人間の心の奥底わかりませんし、動機もわからない。 けども私は主のものと言う確信がなければ、本当にちょっと大変なのではないでしょうか。 今、兄弟が言われたように、11日からニューヨークにいたんですね。またあとでいろいろなこと聞いたんです。 ひとりの姉妹は若いときイエス様に出会って、けど途中で妥協してしまって、未信者と結婚したのです。それで苦しみが始まったんです。ずっと、不幸な結婚生活を送ってしまったけど。 戻るようになったんです。祈るようになったんです。彼女の祈りの結果として、いろいろなこと動かされるようになったんです。ちょっと不思議なんですけども。 彼女は仕事の帰り道であるレストランで食べたんです。経営する人はいつも見てたんです。「あの女性は祈ってるか。クリスチャンらしい。」、それで終わり。 けどもあるとき、困ったひとりの母親はあの経営者の所に行って、「大変なことになった。うちの結婚してる娘は、十階のビルから飛び降りてしまった。死のうと思ったけどできなかった。 下で古い洗濯機の中に入っちゃったから。国産の洗濯機だから助かった。外国製だったら丈夫にできてるから死んじゃったでしょうけども。 足はもちろんだめになっちゃったし、ご主人はアルコール中毒で、子ども4歳と8歳の男の子がいまして、けどもやっぱりもうおしまいだ!」 前向きに生活することができないと思って、飛び降りたんです。どうしましょうか? 母親は本当に悩んだんです。けどあのレストランの経営者は、どうしたらいいかわからないけど、そのときあの祈ってる女性を思い出したんです。あの人だったら何とかなるよ。紹介されてあの母親は集会に来るようになって、イエス様を受け入れたんです! 初めて娘さんを見舞いに行った時、やっぱりどうしたら良いか...。父親は病院の廊下の前に座って入ろうとしない。結局娘の顔を見られない。あんまり気の毒だから。 「けどね〜、お父さん。せっかくですから、私も娘一回も見たことがないけど、いっしょに見ようよ。」、と言いって、彼はその日祈るようになり、イエス様を信じるようになっちゃった。娘もそう。そして、最近歩く練習になっちゃったんです。ちょっと考えられない奇跡です。 結局回復され、祈るようになった姉妹を通して、あの家族は結局導かれたんです。 けども、あの姉妹のご主人は、あのニューヨークのビルの中で働いたんです。93階で?結局もう、みないのちがけで逃げて、下の降りるまで一時間半かかったようです。 助かった。けど彼はこのことについて、奥さんともひと言葉もはなさない。おそらく、考えられないショックだったでしょう。彼はまだ救われていないから助かったとしか考えられない。 この2番目のビルに入った飛行機のパイロットは、集会の姉妹の友達の友達の主人だったんです。彼女は日本人で、彼はアメリカ人なんです。信仰を持っていたかどうか、まだわからない。 それから集会のある兄弟は、やっぱりビルに入ったんです。それから、のんびりしようと思って110階までの切符を買ったんです。ただで行けないらしいね、切符買わなくちゃあ行けない。 そして買っちゃって、エレベーターに乗る瞬間に1回目の飛行機、上に入っちゃったんです。それで逃げて、助かったと言ったら良いかわからない。気の毒だったと言ったら良いかなあ、5分後だったら天国でしょう!! 考えて...。また歩かなくちゃ行けない。苦労しなくちゃ行けない。心配しなくちゃ行けない。いやぁ〜大変だ。 結局、人間は偶然だと考えるかもしれない、でももちろんありえないよ!?必ず、その日死んではいかんと主は思って、その朝急にお腹痛くなって行かれない人もいるでしょうし、結局もう偶然は絶対にない! けども、私たちはみなこの出来事を通して知るようになったのは、今読みました13節でしたね。 コリント人への手紙第I、16:13
パウロも、当時の信ずる者に書いたことがあります。「あなたがたが眠りから覚める時がもう来てます。」、「寝てはいかん!」ということです。待ち望みなさい、ということです。 今読まれました箇所とは、一つのたとえ話しだけなんです。用意ができてるの?、という呼びかけです。あるいはあなたは愚かか賢いかのどちらかか?、ということでしょう。 備えあれば憂いなし。結局、安心して死に向かうことができなければ悲劇的です。 ここで書かれているのは、10人の娘さんたちが花婿を出迎えるためにいたのであり、そしてみんな寝ちゃった?みんなだよ。愚かな者だけじゃあないよ、愚かな者とは偽者だった。賢い人々とは本物だった。 けども、偽者も本物も寝ちゃったとはっきり書かれています。だからパウロは、あなたがた信じる者は、眠りから覚めるべき時がもう来てるよ、と。 ニューヨークの事件とは、何を意味しているかといいますと、「そら!、花婿だ!、迎えに出よ!」、ということなのではないか。 ねぇ、この3週間の間、この世界は「変りました。」もとの世界になりません。起こった問題は解決できない問題だからです。真っ暗闇です。今の世界がよくなる可能性は無い!!!、と聖書は言ってます。 ある意味で大変です。けど反面にイエス様は近い。もうちょっとと考えると、やっぱり嬉しくなります。もうちょっと。 ここではっきり書かれてるのは、用意のできた娘たちは、これとともに婚礼に行き戸が締められた。その後で他の娘たちも来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください。」と言った、しかし彼は答えて「確かな所、私はあなたがたを知りません。」 ちょっと想像できないことです。今まで、「おいでおいで、すべてつかれている人はわたしのところに来なさい。首を長くして待ってるよ。」、罪を赦したくて赦したくてしょうがない。この招いてくださったイエス様は、「私はあなたがたを知らない。」と言うようになると、本当におしまいなのではないでしょうか。 この間クリスチャンホームで育てられた二人の子どもか?まだ大人になってないから、本当に心配したんです。 男の子は15歳なんです。女の子はやっぱり同じクリスチャンホームに育てられたんです。けど二人ともは、もしイエス様が来ると私は残されるんじゃないか、という不安と心配を持つようになった。 結局、ある意味でみなさんご存知でしょう、クリスチャンホームで育てられる子ども達とは可哀想。ある人々は「良いじゃないの、すっばらしい特権じゃないか。」、ある意味でそうでしょうけども必ずしもそう言えない。 小さい時からイエス様イエス様、聖書聖書、集会集会、としか聞かないから、素直に信じますよ。疑おうとしないよ。けどもある時になると、やっぱりこのような素直な信仰は足りません。 悔い改めなければだめ、ということです。 ですから、あの二人の子どもは心配そうな顔で、集会に来たとき本当にある意味で嬉しかった。やっぱり、今まであなたがたの信仰はよかったかもしれないけども、やっぱり、今から本当にへりくだらなければ、やっぱり新たに決心して、イエス様に従おうという決断がなければ、心配です。 結局、ふたりともは「レフトビハインド」というビデオを見てたんです。そのビデオ見た時ショック受けたんです。集会のある兄弟は、初めてアメリカで見つけた「レフトビハインド」という本があって、そして持ってきたんです。 後で彼はビデオも買ったんです。あの本はひとりの新聞記者と牧師を書いたものなんです。5年前に。そして去年、アメリカでベストセラーになっちゃって、映画にまでなっちゃったんです。 結局、将来についての映画なんです。それだけなんですけども、結局、レフトビハインドは「残されてる。」、結局残されててしまった者の映画なんです。もちろん聖書に基づくものなんです。 初めて出てくるのは、ソ連はイスラエルという国を攻撃します。数えられない飛行機が出てくる。考えられない問題になる。 聖書は、イスラエルとは北の国々から攻撃されるようになる。へゼキエル書37章38章に書かれてます。北の国々とは、もちろんソ連です。ソ連は攻撃しますけど、あの飛行機はどうしてかなぜだかわからないけど、みな落ちてしまう。イスラエルの軍隊は何もしなくても落ちてしまう。そういう風に始まるんです。 あの中心になるのは、普通の家族なんですね。ステイールという家族です。ご主人はレイフォート。奥さんはテレーナ。初めて生まれた子どもはクローエ。そしてあとで男の子はレイ。 その家族についての映画なんですけども、非常に普通の家族で、日曜日ごとに教会行くし、もちろん神さまの存在を否定していないし、聖書のことを一同信じてる家族だったんです。 けども、ある時からちょっと問題になっちゃったんです。奥さんは教会やめたんです。「つまらない。命のない教会へ行っても励まされないし、平安もないし。」、やめちゃったんです。 けども、主は道を開いたでしょう。イエス様を信ずる、心から信じる人々、イエス様のために生きたいと思う人々、それからイエス様の再臨を待ち望む人々と知り合うようになったんです。それで彼女の考え方も価値観も変ったんです。 イエス様イエス様、イエス様来ますよ、必ず来ますよと言っても、主人は知らん顔したんです。「おかしい!夢中になってるんじゃあないか。」、もう、そんなものはないけども、再臨が起こったんです!! 彼は、パイロットとして近くからロンドンまで行く途中だった。40何年か前にある飛行機会社は決めたんです。アメリカの会社です。そのクリスチャンのパイロットがいると、かっんならず無神論者にしましょう。 飛行機が落ちたら大変なことですからね。飛行機は自転車のような物じゃないから、安全は安全です。ですから、彼は空中再臨はあったんですけど、その時彼はもちろん気がつかなかったよ。 けどもひとりのおばあちゃんはスチューワーデスを呼んだんです。「今まで隣に主人は座っていた。もういないんです。」、けど着ていた物あるんです。ネクタイまでも。メガネもあるんです。けど、本人はいない。 「いやあ、裸でトイレいったのはちょっと考えられないけど、念のためにブランケット持っていきなさい。」と、おばあちゃんは頼んだんですけど、いないんです、主人は。 それから、ひとりのおばあちゃんは泣きながら、スチューワーデスを呼んで、今までここで遊んでいた二人の子どもはいない、けど着ていた物はある。 遊び道具はあるけど、子どもいない。それでパイロットが来るようになって、彼は500人の飛行機ですから、かくれんぼでもしてるんでしょう。いなくなったなんてありえない。けども確かめると100人以上いないんです。 12歳以下の子どもみんないない!?私はそれを、本で読んだときちょっとやっぱり大変だと思ったんです。 空中再臨の後で、子どものいない生活になります。みなさん考えてくださいよ。考えられないよね。 昔々イスラエルの民は、エジプトで奴隷として働いたんです。430年間。けどもやっぱり、心は違う。御心はエジプトを出て約束されたカナンという地に行くべきである。 けども、イスラエルの民がいくら頼んでも、エジプトの王であるパロは知らん顔したんです。「絶対に赦さん!」、やっぱりエジプトは富んだ豊かな国になっちゃったんです。イスラエルの民の苦労のゆえです。ですから彼は、みんな出ればちょっと大変です。そうなればわれわれは、かわりに働かなくちゃ行けない。苦労しなくちゃいけないから。ですから絶対に赦さん。 けども最後に彼は許したんです。許しただけじゃなくて、彼は金銀、宝石、宝物集めてみんなあなた方出ていきなさい。結局、みな金持ちになっちゃった。後で必要になったんです。たとえば、幕屋を作るためとんでもない金が必要だった。 金銀全部ぶ必要になった。けども全部もらったんです。どうして出て行きなさいといわれたかといいますと、エジプトの長男が全部、一晩で亡くなっちゃったんです。それがあんまりのショックだったから、もちろんこれはイスラエルの神のせいだとわかったからです。だから、「あなたがたはもう良いよ、出ていってもらいたい。」 けども空中再臨の後で、長男たちだけじゃなくて、子どもみんないなくなる。もう大変なのではないでしょうか。 聖書の中でイエス様は花婿と呼ばれています。今の読まれました箇所の中でもそうなんです。そして本当の意味で、主によって知られ、救われた人々とは花嫁と呼ばれています。 イエス様は2,000年前来たとき、花婿としてきたのではない。救い主として、いのちを与えるために、仕えるためにイエス様は来られたのです。キリスト教造るためではない。人々にある道徳を教えるために来たのでもない。 私は自分のいのちを与えるために来た。罪滅ぼしのためのほかの道がなかったからです。けど、このイエス様はまた来られる。イエス様は何回も何回も、はっきりそう言われたのです。 そして、今度イエス様が来られると、花婿として来られます。いつになるか、ちょっと残念なんですけどわかりません。それさえわかればね〜。ちょっと計画できるし..。けどもわからない。 聖書は計算してはいかんと言いってるんです。過去においては、多くの人々とはちゃんと計算したんです。もちろん全部間違っていたのです。いわゆる異端の大部分は計算したんです。ちゃんと日にちまで言ったんです。 どうして言ったかといいますと、イエス様は3週間後で来ると、今の銀行にある金は下ろして献金したほうがいいんじゃないか。そうすれば家は必要ない。全部売ってビジネスホテルに住めば良いでしょう。3週間後で来るから。結局そういう風になっちゃったんです。そしてみんなだまされちゃった。 計算してはいかん!けど待たないと罪なんですね。ですから、私たちはどういう生き方をすべきかといいますと、イエス様が5年先に来るのかもしれない、そうすればある意味で計画しなくちゃいけないよ。けど、もしかすると、今晩8時51分に来る、来てもらいたい。結局、そういう生き方をすべきです。 ですから、宗教改革者であるマルティンルタはなんと言ったかといいますと、「もし、イエス様が明日来るとしても、私は今日りんごの木を植えます。」 人間的に考えれば馬鹿馬鹿しい。りんごの木を植えても明日までには実にならないでしょう?けどもやっぱり、そういう生き方は大切です。イエス様は5年あとで来るかも知れないけど、今晩来てもらいたい!今晩来るかもしれない。 期待をもって生活することとは大切です。イザヤ書の中で待ち望む大切さ、待ち望む結果について次のように書かれています。 知るべきことについて書いてありますから、イザヤは「あなたは知らないのか、聞いていないなのか」、と始めています。 イザヤ書40:28-31
主と人間をもちろん比べられない。ここでちょっと比べられてるんです。人間は疲れるものなんですって。主は疲れない。 けども主を待ち望むものは新しく力を得る。もちろん、再臨を待ち望むものとは100%元気になる!!! 聖書の中で、イエス様が初めて来られたのは、2,000年前だったんです。イエス様はどうして来られたかといいますと、人間の決して解決できない問題、すなわち罪の問題、死の問題を解決するためです。死ぬ前に、イエス様は「救いのみわざは成し遂げられた。」、「おわったぁ。バンザイ!」、と叫ばれたのです。 今度イエス様は再び来られます。前に話したように救い主としてではなく、花婿として来られます。 その時イエス様は、この地上までは来られないんですって。空中までです。雲までだけです。その後で、イエス様はちょうど7年あとで、ダニエル書とヨハネの黙示録の中で日にちまでも書いています。公に来られます。 その時イエス様は、エルサレムの近くのオリーブ山に降りるようになります。この空中再臨は、前に話した映画の中でどういうふうに現われたかと言いますと、イエス様に属するものは、新しい命を持っている者は、みんないなくなっちゃった? ロンドンに行く途中だったけど止めたんです。近くまで戻りまして、それからもう大変な混乱した状態だったんです。 あの映画の中で、大変なもの見れたんですけど、この間のよりもっとひどかったよ。新しい映画を造る時、この場面いれるじゃないかと思うんです。ニューヨークの場面を見た人、映画だと思ったんです。映画だったら、みんな平気で見るんですけど、本当だったらいや、ちょっと。 あの映画の中で、結局飛行機のことよりも自動車のこと出てるんです。高速道路使えません。運転する人がイエス様のものだったら、着るものだけ残って本人はいない。けど、車は動くんです。考えられない混乱になりました。この間4台だけです。再臨の時、何百台がいっぺんに落ちます!考えられない世界になります。 あのパイロットは、家に帰ってもしかすると家内は正しかったかもしれない。そういう心配があったんですね。家に入って、エレーナ〜、もう奥さんの名前を叫んで、長男の名前を叫んでも答えがないんです。 どこの部屋に入っても居ない、誰も居ない、寝室行って、奥さんのパジャマがあったし、結婚指輪もあったし、けど居ない。考えられないショックでした。奥さんの聖書見た時、鏡に向かって投げ全部壊しちゃうし。けど後でやっぱりちょっと開いちゃいましょう。 そしたら彼はどういう箇所を読んだかと言いますと、テサロニケ人への手紙第Iの4章なんです。もちろん彼は読んでもピンと来なかったらしい。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
眠った人々とは、悔い改めてイエス様を信じ受け入れた、けども死んだ人々のことですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
どういう立場に置かれているとしても、前向きに生活することができるよ、ということです。私たちはいつまでも主とともにいることになる!結局、待ち望むと元気になります。 昔のドイツのヒットラーは国に約束したんです。私の造る国は1,000年間もつ、平和の国になる。彼の国とは13年間しかもたなかったんです。それで自殺してしまったんです。 戦争に負けるドイツ人は、ひとり残らず死ぬべきです、と最後に言ったんです。けども彼は、たまに良いことも言ったんです。彼は何と言ったかといいますと、「喜ぶことによって力を得る。」、ドイツ語で「グラフト ドリフロイデ」 結局、喜ぶことができれば元気になる、力が与えられる、聖書は主を待ち望む者は、首を長くして再臨なさるイエス様を待ち望む者は、もうどういうことがあっても耐える力を持つようになります。 今読みました個所を見ると、3つのことが簡単に書かれています。 第1番目、イエス様ご自身が天から来られます。 ほかの者ではない!教会歴史を見るとわかります、今まで三百何十人の人々は、俺は再臨されたキリストだと宣言したんです。最近一番成功したのはある韓国じゃないかな。彼ははっきりそう言ってるのです。 「キリストは気の毒な男だった、死にたくなかったけど殺された?キリストは失敗したから俺は来られた。俺は1060年に悪魔に打ち勝った、私は再臨されたキリストです。」 女性問題のことで2回も刑務所に入ったし、そして韓国で居場所がなくなってアメリカまで逃げちゃったんです。アメリカでも金のことで刑務所に入ることになったんです。 私も、こういう再臨されたキリストに出会った事があるんです。インド人でした。白い衣着て、日光だったんです。ちゃんと12人の弟子がついてたんです。その中のひとりはスイス人だったんです。ちゃんと名刺もありました。 ちょっと頼むの忘れちゃったんですが、あなたの手を見せて、ちょっと靴脱いで足を見せて、釘跡がなければやっぱりうそつき、と言いたかったんです。 再臨なさるキリストは、必ず釘跡をもつお方です。イエス様ご自身が来られます。 第二番目、イエス様にあって死んだ人々の体が、よみがえります。 それから生き残ってるイエス様に属する人々とは、結局よみがえられた人たちとともに、雲の中で主イエス様に会うようになるということです。 イエス様はおいでになります。私たちも準備をしなければならない。もし準備がなければ、後で後悔します。再臨の時、私たちはイエス様を見えるようになり、イエス様の姿に変えられるようになると、聖書は言っています。考えられないことです。 三人の弟子たちは、ある時すばらしいことを経験しました。イエス様はしゃべってはいかん、と命令してくださったから、ずっと何年か後でペテロはその最後に書いた手紙の中で、ちょっと書いたんです。 どういう出来事であったかといいますと、マタイの福音書の17章に書かれてます。 マタイの福音書17:1-2
イエス様の顔は太陽のように輝いた、イエス様の衣は光のように白くなった。 けども、再臨するイエス様の姿をいくら考えても、考えられない?その瞬間、人間は変えられるようになる!イエス様に似た者になると書かれてます。 この空中再臨について、携挙について考えると、誰でもが私は100%引き上げられるなのでしょうか〜?前に話した二人の子どもは、もしかするとダメかも知れない!?と思うようになったのです。 マタイの福音書の7章の中で、次のような厳しい言葉が書き記されています。マタイの福音書7章の21節から、 マタイの福音書7:21
ある人々それを読むと、イヤー大変だ!父の御心を行わなくちゃ。父の御心とは一体なんでしょうか? イエス様は、わたしを見て信じる者は救われる、これがわたしの父の御心です。結局、私はわがままで過ちを犯す者で、立派になろうと思っても無理。あわれんでください、イエス様が代わりに十字架の上で犠牲になったから感謝です。そういう心構えを持つこととは御心です。 そういう人々とは、結局引き上げられるようになります。 マタイの福音書7:22-23
はじめに読みました箇所の中で、5人の愚かな娘たち、5人の思慮深い娘たちについて書かれていました。どうして愚かであったかといいますと、彼女たちはランプ:形式を持っていたのです。けど中身:油がなかったんです。 油とは、いつも聖書の中で聖霊を意味する言葉です。結局人間は聖霊の宿、聖霊の宮にならなければダメ!と、聖書ははっきりと言っとるんです。 キリストの霊をもっていなければ、キリストのものではない!すなわち、救われていないということです。この愚かな娘たちも、ちゃんとみことばば聞いたし、ある意味で信じたし、疑おうとしなかった。 彼女らも花婿を迎かえるために出かけたと書いてあるんです。自分たちは花婿のことを知ってると思い込んでしまったんです。今の人々も、間違いなくそうだったんです。彼らはイエス様の名前を使って預言をしたのです。 すなわち、みことばについて話したんです。それだけじゃなくて、イエス様の名前を使って悪霊を追い出したし、そして奇跡を沢山行なったんです。 人間的に考えれば、みことばについてしゃべることとは、そんなに悪くないでしょう。悪霊を追い出すこととはいいことじゃないの、奇跡を行なうこともすばらしいじゃないの、けどここで、これは不法をなすことだよ。 わたしから離れて行け!!!、前に話したように、おいで、わたしのところに来なさいと言われたイエス様は、わたしから離れていけと言えば、おしまいです!!! わたしはあなたがたを全然知らない、けどもほかの個所を見ると、イエス様は自分の羊をよく知ってると書いてるんです。イエス様が全然知らなければ、彼らは救えわれていないことになります。 イエス様を信ずることとは、とりもなおさず光に来ることです。イエス様のみもとに来ることです。そしてイエス様のみもとに来る者は、間違いなく受け入れられ、またその債務はゆるされると聖書ははっきりと言っているのです。 みことばは言ってます。「もし、神さまが光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエス様の血はすべての罪から私たちを聖めます。」 まことの満足の秘訣は、暗闇から脱して光であるイエス様のみもとに行くことです。 イエス様はすべてを新しくしてくださるのです。結局イエス様の呼びかけとは、闇の中を歩かなくてもいいよ、何も隠さなくても結構だよ。不幸へ行く早道は、隠すことです。何か隠すと、もう希望がない、主が見向きもしないからです。 結局、隠さなくても結構だよ、わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は決してやみの中を歩むことがない。いのちの光を持つ。いのちの光とは、もちろん永遠のいのちであり、イエス様ご自身です。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き記しました。 エペソ人への手紙5:8
意味は、結局、再臨なさるイエス様を首を長くして待ちなさいということです。イエス様は来られます。 けどその時、イエス様は報いを携えてくると書かれてます。ちょっとヨハネの黙示録見て見ましょうか。 ヨハネの黙示録22:7-12
と、あります。イエス様は花婿として報いるために来る。私たちはイエス様を信ずる者として引き上げられても、報われるなのでしょうか? パウロは殉教の死を遂げる前に、報いられると確信することができたんです。長い間は確信できなかったんです。けども彼は、ローマの刑務所の中でもうわかった。もうすぐです。彼は、ローマの皇帝ネロによって殺されたんです。 それはすぐなるとわかったんです。彼はその時、何を書いたかといいますと、テモテへの手紙第IIの4章ですね。 テモテへの手紙第II、4:7-8
主を待ち望むこと、主の現れを慕うこととは、いかに大切であるかということが、ここで明かになってるなのではないでしょうか。 この中に出てくる言葉とは「今から」という言葉です。いい言葉じゃないか。何と多くの人々は、もうダメとあきらめちゃう。けども聖書の言ってることは、「過ぎ去ったことはもう過ぎ去った。過去について考えても意味のないことです。やるべきなのは、頭を下げること、悔い改めること、恵みを乞うことだけです。」 大切なのは今から、はっきりとした救いに確信を持っていない人は、今から選べます。救いの確信とは、いわゆる知識じゃなく、イエス様の約束の言葉です。 へりくだれば、イエス様は受け入れてくださる。そして受け入れられた者は、何時間、何年間だけじゃなくて、永久的に受け入れられてます。 ヨハネの福音書6:37
パウロは、「今から報いられると確信したのです!」、けど彼だけではなく、主の現れを慕っている者には誰にでも授けてくださいますとある。ですから、慕ってることとは非常に問題なのではないかと思います。 パウロは確かに報いられないかもしれない、とわかったんです。彼は、コリント人への手紙第Iの中で、この厳しいことについてはっきり書いたのです。 「私はもしかすると、だめになるかもしれない。」と、彼はわかったから、当時のコリントにいる人々に励ましたのです。すなわち、「私は走ります。」 もちろん救われるためではない、救われるために走らなくても良いよ。救われるためにイエス様の再臨を待ち望まなくても結構。 けども報いられるために、主に用いられるために、やっぱり走るべきである、聖書ははっきり言っているのであります。パウロは「私はもしかすると失格者になるかもしれない。」、と正直に言ってるのです。 ですから私は自分のからだを打ちたたいて、意味は自分自身を否定しなければ、何にもならないとパウロははっきり言ったのです。 多くの人々とは、イエス様を信ずることとは、聖書の教えを信じ込むことだと考えてますけど、違う。イエス様を信ずることとは、自分を信じないことです。自分の考えてることとは全然大切ではない、大切なのは主の約束です。 パウロは、私は自分のことを大切にするつもりではないと、はっきり言ったのであります。私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエス様から受けた神さまの恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私にいのちは少しも惜しいとは思いませんと、パウロは使徒の働きの20章24節に書いたのです。 結局、キリストは私のいのちです。イエス様から離れたらもうおしまい、私でさえもイエス様から離れたら悔い改められなくなっちゃうし、信じられなくなっちゃうし、祈りこともできないし、実を結ぶこともできない。 イエス様とつながってれば上手くいく、そうでなければおしまいと、パウロははっきりと確信したのであります。 パウロの奉仕によって、いろいろなところで教会が建てられるようになったのです。ある教会は、彼の心配の、悩みの種になったんです。ある教会は彼の喜びそのものだった。 そういう教会の一つはテサロニケだったんです。彼はこのテサロニケにいる人々に次のように書くことができたのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
自分でしなくても良いよ、他の人々がやる。結局、彼らはやっぱりちょっと変わり者になったんです。変人だったんです。 人間を喜ばせよう、そんなこと一切合財なかったんです。結局、彼らは偶像からどうして離れたかといいますと、まことの神さまを知るようになったからです。 偶像を大切にする者は、仕方がないじゃないの。本物得るまで偽者で遊んだら良いでしょう。けども、本物を知るようになれば、もちろん偶像から離れちゃう、主を信ずるようになるだけではなく主に仕えるようになる。 結局、私たちは救われるために生まれたんじゃないよ、用いられるためです。 自分は救われた、再臨の時引き上げられる、それだけ考えたらちょっと自分勝手なのではないでしょうか。 吉祥寺集会のある姉妹は、この間言ったんです。今まで必死になって家族に、親戚に、同級生に十字架の上で死なれたイエス様、復活なさったイエス様を紹介したけど、イエス様、再臨なさるイエス様を紹介しなかった。今から、これはどうしてもしなくちゃならない。 結局、まことの信ずるものは一辺に姿を消すんです。世界は混乱状態になります。残念ですけど、悔い改める人もいるけど少ない。はじめに話したパイロットは、もうどうしたらいいかわからなくなっちゃったから、やっぱり前にいた、いのちのない教会に行ったんです。何と教会には牧師いましたよ!!! 結局彼も残されていたからです。本物を持っていなかったからです。彼はそれを気がついた時、まず怒ったんです。十字架の中の十字架を壊しちゃったんです。けどやっぱり十字架についたイエス様のせいじゃない、自分のせいです。 自分は正しいと思い込んでしまったから、それでもう徹底的に悔い改めたんです。教会の中でひざまずいた瞬間!あのパイロットも後ろから入ってきちゃった。そして二人一緒に悔い改めるようになり、後で非常に親しい友達になって、やっぱりイエス様は再臨された、われわれは愚かだった、けど今からこそ主のために生きましょう、と思うようになったのです。 あの牧師は黒人だったのです。その前の牧師はいつも再臨が来るよ、備えあれば憂いなしと宣べ伝えただけじゃなくて、その一つのビデオテープ残したんです。 結局、私は天に召されてから、やっぱり後に残る人々に再臨のことについて知ってもらいたい。実はこうだった、そうだった、こうだった、それによっていろいろな人は導かれるようになります。 主は私たちを用いようと望んでおられます。私たちは十字架につけられたイエス様を宣べ伝えるべきです。聖書の知識じゃない。パウロは、私は決心した!、十字架につけられたキリスト以外に何も宣べ伝えない。結局、イエス様だけが中心にならなければ、人々は導かれません。 けども、主に仕えるために必要なのは、近い内に来られるイエス様を紹介することなのではないでしょうか。 テサロニケにいる人々とは、イエス様のことを、再び天から来られるイエス様を待ち望むようになった。再臨を信ずることは、当然だよ。否定しようと思ってもできないから、けども待ち望まなければ悲劇的です。 ですから、もういろいろなこと忘れてもかまわないけど、「イエス様は来たくて来たくてしょうがない!花婿として。」、めちゃくちゃな者を、私たちのような者を迎えるために。 ちょっとぴんとこない、考えられないけど、われわれが再臨を待ち望むよりも、イエス様が待ち望んでいるんです。どうして今日まで来なかったかな〜、信ずる者の不信仰のゆえなんじゃないかな〜? 結局、空中再臨の前に何と何と何が起こるのかといいますと、決められた人数がいっぱいになると、イエス様は来られます。最後のエジプト人、最後の日本人が悔い改めてイエス様を受け入れると、その瞬間イエス様は来られます。 それは今日かもしれない。待ち望むことこそが大切です。今日かもしれない、そういう気持ちで起きた人いますかね〜 今日かもしれない、そうやっぱりつらいことあるよ。面白くないこといっぱいあるよ、けど今日かもしれない。そういう待ち望みの心を持つ人々は、元気になります。 結局、人間は奇跡を経験する必要はない。自分で奇跡にならなくちゃ、悩みながら喜ぶことができる人は奇跡です!、どうして喜ぶことができるかといいますと、イエス様に心配され、愛されているからです。 もうちょっとでイエス様は迎えに来る。それを考えると、本当にありがたいとしか言えないなのでしょうか。 |