引用聖句:詩篇121篇1節-8節
人間を喜ばせようと思っても、だれも出来ません。イエス様でさえも出来なかったでしょう。愛のかたまりであるイエス様は、出来ませんでした。 ある人々はイエス様のこと大好きになって、ほかの人々はいかに殺すことが出来るのかと思ったのです。イエス様でさえも出来なかったから、私たちも絶対に出来ません。ですから人間を見たりするのは不幸になる道です。 この詩篇の作者は、本当に主をほめたたえたし、証ししました。 もちろん現代人の中でも主を証しする人々がいっぱいいるから本当にありがたいです。昨日、一昨日、ある姉妹からちょっと手紙をもらったのです。ちょっと紹介いたします。 「家庭集会でベックさんとお会いして、はや16年が過ぎました。イエス様を紹介していただいた時のことは、今もよく覚えています。イエス様という初めて聞く呼び名にびっくりしました。信じられるようになるのだろうかと半信半疑でしたが、もう後戻りは出来ない。この方について行こうと決心しました。 あれから16年。歩みの遅い私をイエス様は忍耐強く待っていてくださり、いつの間にか私の心の中に住むようになっていてくださいました。今は困難の状況の中にあっても、イエス様が私の心の中に光となってくださいます。 自分の思いの強い私は、それは罪だということも知らないような者でしたが、今は自分の罪をはっきりと意識させていただきましたので、イエス様の十字架もはっきりと目の前に見えるようになりました。 こんな者のためにイエス様が十字架に架かって血を流してくださって、罪の贖いをしてくださったことは、到底理解出来ませんけれども、そのことを思う時、深い感謝に満たされます。 今はただただイエス様を悲しませたくないと強く願っております。 私の残りの人生が、イエス様とともにある一日、一日でありますようにと祈っております。」 現代人の証しです。 結局昔の人々と現代人とは、イエス様に出会いますと、やっぱり同じです。「自分はダメ。」、けれどイエス様はダメな者を決して捨てません。 このイエス様を仰ぎ見ると、元気になります。これこそが、この詩篇121篇を書いた者の証しでもあります。 九回、「あなた」となっています。すなわち複数形ではなく、単数形です。すなわち大切なのは個人、個人と主との関係です。 人間ひとりひとりは主の関心の的であり、永遠の愛の対象であり、本当に考えられないほど心配され、愛されている者です。 テーマは、「まことの守り手である主イエス」と付けることができるのではないでしょうか。 まことの守りはただ、主イエス様の流された血潮によってのみ、もたらされるのです。 だれでも、「守ってもらいたい。」、と望んでいるのではないでしょうか。けれどもこの今の世の中でどこが安全なのか、だれも知りません。安全なところは無い、と言ってもいいのではないでしょうか。 けれども詩篇の作者は、「私は目を上げる。」、鏡を見るのではありません。ほかの人を見よう。そういう気持ちがありませんでした。 「私は目を上げる。」、この世には目を伏せ、打ちのめされ、心を堅く閉ざした孤独な人々が何と大勢いるのでしょうか。そしてこれらの人たちは色々な問題と患難だけしか見ることが出来ません。 けれど詩篇の作者は、そのようなものからいかにして助けられるかの秘訣を知っていたのです。 自分自身や他人を見るのではなく、上を見上げることこそ、その秘訣です。 詩篇121:1
という態度こそが、喜びを得る、勝利を得る秘訣です。 私たちは日本のアルプスやスイスの山々を見上げると、その雄大さ、すばらしさに圧倒されてしまいます。けれどもこのような自然の山からではなく、天と地をお造りになった主から、私たちの助けは来るのです。 したがって私たちは自分自身や他人や自然界からではなく、確かな約束を与えられ、それを必ず成就なさる主からのみ、本当の救いが来るのです。美しい山や周囲のものからではなく、天と地を創造された主からのみ、救いがやって来ます。 すべての創造は、全知全能の主なる神の力と英知のわざです。けれど創造のみならず、救いこそはるかに大いなる、主の英知と力によるものです。 主なる神は、エデンの園において現在私たちが知りうるよりもはるかにすばらしい、偉大なる栄光を現わしてくださいました。 けれど悪魔の誘惑と策略によって最初の人アダムとエバは惑わされ、罪を犯し、悪魔と罪と自我の奴隷になり、そのことによって全人類に罪が入り込んでしまったのです。 それにも関わらず主は、堕落した人間を愛し、その愛の証拠として、ひとり子なる主イエス様を与えてくださいました。 しかもイエス様は救い主としてこの世に遣わされたのです。それですから、主を見上げよ、という呼びかけになるわけです。 イエス様は父のみこころについて多くのことを話されたのですけれども、その中のひとつのすばらしい個所とは、ヨハネの福音書6章40節でしょう。 ヨハネの福音書6:40
結局、わたしを見て ヨハネの福音書6:40
永遠のいのちを持つことこそが、主のみこころです。 もし罪がこの世に入らなかったならば、初めての人間アダムとエバは今日もまだ生きているはずです。間違いなく。 医者の中の研究者たちは、みな一致しているのです。どうして人間は100歳、120歳で死ぬのですか。考えられない。本当は死ななくてもいいのです。人間の内臓はあまりにも良く出来ているから。 けれども主はノアの洪水の後で、もう120歳で終わり、と決めたからです。 初めの人間はみな九百何十歳になったでしょ。罪が入り込まなかったならばもちろんアダムとエバはまだ生きているのです。けれど彼らは残念です。創造されたいのちしか持っていなかったでしょ。 主の目的とは違うものでした。エデンの中のいのちの木から食べてもらいたかったのです。そうすると、永遠のいのちを持つようになったのです。 永遠のいのちとはもちろん物ではなく、イエス様なのです。天国へ行ってから色々なことが分かるようになれば、もうびっくりすると思います。 いわゆる学者と呼ばれている人々とは、人間の歴史はもう長い、長いと言っているのです。全部嘘です。6,000年ぐらいです。 いわゆる学者はそれを認めたくないけれども、主に頼って、徹底的に色々なことを研究した学者たちは、ありうることです。主の造られた世界と今の世界とは全く違います。 ノアの洪水によって全部、滅茶苦茶になったのです。 ノアの洪水の前にもちろんそのような高い山が無かったし。けれども世界中の学者たちの多くは、ノアの洪水はありえない。嘘です。 けれどもイエス様もノアの洪水のことを信じましたし、だから私たちも信じられるのではないでしょうか。 この短い6,000年の人間の歴史だって大したものではありません。主にとっては5分です。 先に召された人々とは本当に羨ましい。もう全部分かるようになっているし、もう疑問もひとつもありません。やっぱり主こそがほむべきお方である、とみな心が一致しているのです。 主のみこころとは、人間は創造されているいのちを持つことだけではなくて、永遠のいのちを持つことこそが主のみこころです。 どういうふうに永遠のいのちを得るかと言いますと、子を見て、イエス様を心のまなこで見ることによって人間は永遠のいのちを持つことです。もうすでに旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で似ていることばがあります。 イザヤ書45:22
心の目で見ることによって人間は救われ、永遠のいのちを持つようになります。そして主はその答えとして私たちから信仰を望んでおられます。 イエス様はわれわれの過ち、罪、わがままを贖うため、十字架でご自身のいのちを犠牲にしてくださいました。父なる神はイエス様のよみがえりによって、その犠牲を受け取ってくださったのです。 父なる神はイエス様の死を認めました。すなわち罪滅ぼしのために十分である、と認めてくださったのです。 すなわち、父は次のように言われました。 「わがひとり子、イエスのよみがえりにより、全人類の罪の贖いがなされ、この犠牲はわたしにとって十分である。わたしの義は全うされた。」と。 主はその答えとして、われわれの主に対するまったき信頼を待っておられます。イエス様の流された血潮によって、私たちは、罪を赦されているのです。そしてこの救いの事実を十分に認識して受け取る者にこそ、本当の守り、平安が約束されます。 ローマ人への手紙4:25、5:1
こういうふうに言える人々とは本当に守られています。安心して将来に向かうことが出来るのです。 だれもが求めている守り、平安とは、ただイエス様の犠牲によって、イエス様の流された血によってのみ与えられるものです。私たちが主を見上げ、心から主に信頼する時に、主は私たちを救っていてくださるだけではなく、守っていてくださるのです。 詩篇の121篇に戻りまして、5節から読みます。 詩篇121:5-8
主に信頼し、みことばに信頼すると、主はあなたの足の動かされるのを許されないのです。 3節です。 詩篇121:3
主に信頼すると、主の御手は私たちを守り、導き、悪魔の誘惑に陥ることを守ってくださいます。主は一瞬たりともその子から目を離すことはないのです。注意を怠ることがありません。 4節です。 詩篇121:4
このことばは、私たちの生活から分かりやすく表現されているのではないでしょうか。 すなわち、不完全なわれわれ人間は、眠らなければ生きていけませんが、全知全能なる完全なる主は、まどろむこともなく、われわれを守ってくださるゆえ、私たちはまったき平安を持つことができるのです。 主はご自分を信頼し、イエス様の流された血によって救われている者を必ず守ってくださいます。主はそのように約束してくださいましたが、その約束が人間のいわゆる誓いよりもはるかに確実です。 このみことばを自分のものとして受け入れ、みことばにより頼み、みことばの上にしっかりと立つ者は本当に幸いです。 5節。 詩篇121:5
主はあなたのすぐ近くにおられ、あなたとともにおられます。主は昼も夜もあなたを守り、あらゆる危険から救い出してくださるのです。 ここに、 詩篇121:6
昼は、太陽、夜は、月が、あなたを打つことはないと書かれていますが、意味は、昼の危険、夜の誘惑から、主が守っていてくださることを意味しています。 夜の危険は、目に見えない、隠されていますが、それをも主は守られると約束していてくださるのです。 この詩篇の中には主がご自分を信頼し、より頼む者を常に導き、守られるということを表わす意味のことばが六回も出てきます。そして、いかなる状況でも、いかなる状態に置かれても、主は守ってくださいます。最後の8節も。 詩篇121:8
と約束されていますが、今からとは、おそらく主イエス様を信じ、救い主として受け入れた時からとこしえに至るまで、という意味なのではないかと思います。 それですから私たちが本当に主を受け入れたかどうかということが問題になります。 もしもすでに受け入れているならば、とこしえに至るまでもう安心して生活することができるのです。主こそ、われわれの守り手であられます。 この守りの基礎なるものとは、いったい何なのでしょうか。疑いもなく、罪の赦しです。罪の赦しこそ、とこしえに至るまで守られる保障です。 エペソ人への手紙の1章7節。よく知られている大切なすばらしい約束です。 エペソ人への手紙1:7
人間の努力の結果ではありません。聖書を学んだ報いでもありません。主の恵みによるものです。福音の本質はこの一節に集約されているのではないでしょうか。 イエス様の人格の中に罪の赦しと贖いがあります。イエス様こそ福音の中心をなすお方です。 福音とは何かある力とか教えとか物事ではなく、生きておられる神のひとり子イエス様ご自身にほかなりません。主の中に全てがあり、主とともに居まさずば無です。 色々な宗教はイエス様を引用したり、適当に使ったりしています。けれどもイエス様は聖書の中でのみ、正しく伝えられており、聖書によるイエス様だけが本当の完全な救いをもたらしてくださることをはっきりさせておかなければなりません。 聖書によるイエス様のみが、生きる神の子であり、唯一の救い主であり、贖い主です。 よく引用されるコリント人への手紙第Iの15章。いわゆる、よみがえりの書と呼ばれているものなのですけれども、これを読むと、最も大切なのはいったい何なのでしょうかとあります。コリントにいる兄弟姉妹に書かれたパウロの大切なことばです。 コリント人への手紙第I、15:3-4
この大聖書学者であるパウロは、自分の思いを発表しようとしませんでした。意識して二回も、聖書の示すとおり、聖書に従ってということばを使ったのです。 自分の考えていること、思っていることは別にどうでもいい。聖書は何と言っているか。 聖書は始めから終わりまで、体系的な統一を持って十字架につけられた救い主とよみがえられたイエス様を宣べ伝えています。そしてよみがえられた主は今も生きておられ、将来もとこしえに御臨在なさるのです。 「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」とイエス様は言うことができたのです。 本当の福音はただひとつ。すなわち、十字架による贖いの福音にほかなりません。 人間が罪を犯したあと、直ちに、主は十字架による福音を宣べ伝えたのです。 創世記3:15
とあります。主なる神は人間を罪から解放するために、救い主をこの世に送り、悪魔のかしらを砕く。すなわち悪魔に対して完全な勝利を治めると預言しておられます。 しかしながらここでは勝利者のみならず、苦しみの人、悲しみの人であるイエス様としても預言されています。すなわち蛇は救い主のかかとを砕くであろうと言われています。主は救いを与えるために苦しみ、いのちを捨ててくださるのです。 旧約聖書において、1,500年の間、特に預言者たちによって来たるべき救い主が時とともに次第に明らかにされてきました。イザヤ書の53章という章は、本当にすばらしい宝物です。 イザヤ書53:2-6
今の読んだ個所を見ると、来たるべき救い主は悩みの人にして、罪をになう人であると記されています。そして2,000年前に救い主はイエス様の名前で実際この世に来られたのです。 主イエス様はご自分で言われました。「わたしこそ約束された救い主。約束されたメサイアである。」と。ルカの福音書19章の10節。イエス様はザアカイの家に入って、結局それによって全てが新しくなったのですけれど、結論として次のように書かれています。 ルカの福音書19:10
失われていないと思う人は決して救われません。 マルコの福音書の中の一番大切な個所は、10章の45節です。 マルコの福音書10:45
イエス様は死ぬために来られました。 マタイの福音書26:28
イエス様の代わりの死こそが聖書の中心です。事実イエス様が十字架で血を流され、息を引き取られる時、「すべてが終わった。」と叫ばれたのです。すなわち、全人類の救いがもたらされたのです。 「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げました。」とイエス様は言うことができたのです。救いのみわざは救い主の死によって完成されました。 父なる神は、イエス様がよみがえられ、昇天なさり、高く引き上げられることによってまことに救い主、罪をになった者、勝利者であることを明らかに宣言されたのです。 エペソ人への手紙1:20-22
考えられない宝物。すごいプレゼントではないでしょうか。イエス様が与えられている。 父なる神はイエス様による罪の贖いが十分であり、完全であると宣言されたのです。そしてその瞬間からイエス様の十字架とよみがえりの福音が世界中に宣べ伝えられるようになりました。 この十字架の福音こそ、人類の罪を贖うためのただ一つの道です。 この主イエス様の血による罪の贖いという福音は、全国、全世界、いかなる時代にも多くの人々をみことばによって救いに導いたのです。 ダビデは罪の苦しみの中に主を呼び求め、赦しの確信を得たあと、主が新しい喜びと生きる望みを与えてくださったと告白しています。 詩篇の40篇の1節からお読みいたします。本当にすばらしい、3,000年前のダビデの証しです。 詩篇40:1-5
その新しい賛美の歌は、救われた人すべての心の中にとこしえに宿り続けます。 将来についてのひとつのことばは、ヨハネの黙示録に書かれています。 ヨハネの黙示録5:12
なぜこのようにして、救われた喜びの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか。なぜならば主が私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解放してくださったからです。 同じくヨハネの黙示録1章の5節。 ヨハネの黙示録1:5
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ったとあります。 すべてイエス様を信じ、受け入れた者はこのようなほふられた小羊に賛美をささげるのです。 私たちは今もなお、罪のもとに苦しみ、悩み、嘆き、うめいている人たちに対して、イエス様の血による罪の赦しの贖いがすでに成就されていることを宣べ伝える義務を持っています。 だれもイエス様の血による贖いによって本当の救いが与えられているという、この事実を知らなければなりません。 知りたいと思うならば、必ず知ることができるのです。福音は決して隠された教えではありません。 また福音は決して頭の良い少数の人々だけが分かる難しい教えでもありません。福音はすべての人のための主のことばそのものです。 過ぎ去った土曜日でしたか、喜びの集いだったのですけれども、そのとき、あちこち色々な人々が見えたのですけれども、ひとりの姉妹も見えました。 前から彼女は色々なことで悩んでいたし、娘のこと、それからご主人のことも、もう考えられないほど悩みました。おそらくもう脳梗塞で倒れて悩みの種でした。 けれども挨拶のとき、ちょっとびっくりしました。大きな声で「私を救ってください!」と言うのです。 結局、悩みを通してこういうふうに砕かれる人々こそが幸せなのではないでしょうか。歌ったとき、もう泣き続けました。 奥さんの洗礼のときも泣き続けました。「今度私も受けたい。」、とまで言うようになったのです。あの家族、ぜひ覚えていてください。 結局主は生きておられます。信頼するとありえないことが可能になります。 |