引用聖句:詩篇119章72節
詩篇119:97
詩篇119:105
詩篇119:140
詩篇119:162
エレミヤ書15:16
今読んでくださった箇所とは、確かに昔々のダビデの告白です。けども、現代人は悩むようになり、いろいろなことで苦しむようになれば、このような態度をとるべきなのではないでしょうか。 ダビデにとって喜びの源、力の源とは結局、主のみことばであり、主の約束でした。 前に紹介したことがあるんですけども、一人の現代人の告白です。ある姉妹の手紙から一部分だけちょっとお読み致します。 まず詩篇から。やっぱり詩篇はいいんですね。悩むとやっぱり励まされます。詩篇を書いた人々とは、みんな全く普通の人間でした。すなわち、みんな悩むる者でした。 そして、自分でいくら頑張っても考えても何もならない、だからみことばに頼るという態度とったのです。結局みことばとは、勉強すべきものよりも、祈りの材料とならなくちゃならない。あの姉妹はやっぱり詩篇から。引用した箇所は19篇の12節です。 詩篇19:12
ダビデはこういうふううに書いただけじゃでなくて、あの姉妹も同じようになったらしい。 「昨日、このみことばを読んだとき、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と、今日もまたおかしてる罪を思うと、心が重くなりました。 そして、自分の感情で接してしまう、この主が与えてくださった子どもたちは、こんな罪人の私と一緒にいて、まっすぐ主の道を歩んでいけるのかと考えたりもしました。でも、今日、テープを聴いて…」 外国にいる姉妹なんです。結局みんなさびしい、あんまり交わりがない。 「…でも今日テープを聴いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡して、主に、ゆだねたからです。わたしは主。あなたをいやすものである。 このごろは、できるだけたくさん、イエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いて、みことばを食べています。」 勉強してますじゃない。暗記しようと思ってるなのでもない。「食べています。」また、みことば引用してるんです。 申命記4:7
そして、パウロの告白も引用してくださったのです。 コリント人への手紙第II、4:11
私はイエス様が大好きです。そして、箴言31篇10節から31節に出てくる妻も、大好きで少しでも彼女に近づきたいと思います。 御心であれば、近づけると思って祈りながらこの書を毎日読みます。」 それから、もう一箇所引用して、手紙は終わったんです。 ペテロの手紙第I、1:17
と。結局、あの姉妹にとって、みことばこそが喜びとなり、励ましとなり、慰めとなったのです。 結局、人間はみことばを信ずるか信じないかは、非常に大きな問題です。 今、兄弟の言われた再臨のことについても、同じこと言えるなのではないでしょうか。聖書を信ずるものは、もちろん再臨を信ずるようになります。みことばを食べれば、再臨を待ち望むようになるなのではないでしょうか。 「今日かもしれない!」こういう期待をもって毎日生活すると、やっぱり見方は変わります。 今日からは、今までと全く違ったテーマについて学びはじめたいと思うんです。一つの本、すなわちマルコによる福音書について、少し考えたいと思います。確かに一つの学びになるかもしれない。昔は火曜日はいつも婦人会だった。 けども、そうすると兄弟たちはやっぱりちょっと、「来てもいいんですか。」という声も出たから、そしたら「婦人会」やめましょうよ。「火曜日の学び会」。けど、学ばなくちゃいけないか?!ということになると、また困っちゃうんです。 昔は軽井沢まで集まったとき、みんなBible Campという言葉を使ったんです。行きたいけど、やっぱりテントで泊まらなくちゃいけない?と、思う人もいましたし、やっぱり「Camp」はよくない。 それから、どなたが出したかわからない、「修養会」になっちゃた。修養会になるとやっぱり勉強しなくちゃ、悟らなくちゃいけないじゃないかと思う人も出てきたから、たぶん徳島の姉妹だったんです。彼女は新しい言葉を使っちゃたんです。「喜びの集い」 よかったぁぁぁぁと思ったんです。 すべての集いとは、喜びの集いとなるべきです。なるかどうかそれは、人間にかかってる。悔い改めたくない人にとって、決して喜びの集いにはならない。 けど、「主よ、語ってください。わからないから。悲しいから。落ち込んでるから。語って。」そういう気持ちで、みことばを開くとやっぱり嬉しくなります。 イエス様の聖書に対する態度とは、非常に大切だと思います。 イエス様は、もちろんうそを知らなかった。人間そのものはもちろんうそつきです。 ある人々はね、祈りながらでさえもうそをつくんです。ちょっと。本当は祈りのとき、やっぱり正直にならなくちゃいけない。 もちろんイエス様は祈ったとき、真理そのものを語ったのです。イエス様は祈りながら、「父よ。あなたのみことばは、真理です。」と、告白したのです。結局、イエス様にとって創世記からマラキ書まで、当時の聖書そのものは、イエス様にとって真理そのものでした。 イエス様は聖書全体を信ずることができたから、私たちも安心して、信ずることができるなのではないでしょうか。 聖書を学ぶ場合、学ぶというと本当はあんまり好きじゃないけど、結局、救われるために聖書読まなくてもいいんです。 ぺちゃんこな者として、自分のわがままを告白すると主は赦してくださる。救いとはそれなんです。知識そのものは必要ない。くだかれれば主は赦してくださる。けど、イエス様をよりよく知りたいと思えば、やっぱりみことばに頼らないと成長はありえません。 聖書を学ぶ場合に一番大切なことは、次のようなことでしょう。 すなわち、聖書自身が自らを明らかにするということです。ほかの人のもの書いたの別に読まなくてもいい。読んでもいいけど大切なのは、人間の書いてること、人間のしゃべってることじゃなくて、「聖書はなんと言ってるか」、聖書自身が自らを明らかにする、という原則は非常に大切です。 ですから一緒に聖書を学ぼうとするときには、聖書全体が何を言ってるかを正しく理解しなければならない、なのではないでしょうか。 聖書を通して本当は何でも証明することができます。いわゆる異端とは、結局その証拠なのではないでしょうか。 こういうふうに書いてるからだから、ああだこうだなのではない。聖書全体を見なければ、非常に危ない、ということです。 例えば、いわゆるカリスマ的な教会は非常に増えてます。いうまでもなくみんな聖書を使ってます。けど彼らは、聖書のあるところだけを大切にするんです。どういうところを大切にするかと言いますと、イスラエルの民に約束された預言を大切にする。的外れです。 主の目から見ると、イスラエルの民とは、違う。われわれは、いわゆる体なる教会に属する者ですから、全然違う! この地上に私たちは将来性を持っていません。私たちの国籍は天国です。 言いたいのは、聖書を通して、結局人間は、自分勝手に、何でも証明することができるのです。聖書全体を見るべきです。 例えば、新約聖書の中の福音書、あるいは手紙を学ぼうとするときには、絶えず、新約聖書と旧約聖書の関係の中で、そのところを読まなければなりません。それですから、聖書の中の一部分を読む場合などは、それが聖書全体の中でどのように位置付けられてるか注意し、そのところだけでなくある場合に前の方にさかのぼり、ある場合には後ろの方を見なければなりません。 したがって私たちが、これからマルコによる福音書を学んでいくにあたって、まず最初に、福音書と旧約聖書との関係、また福音書と使徒の働きとの関係、また福音書と手紙との関係、それから、福音書と黙示録の関係について、考えるべきなのではないでしょうか。 まず、福音書と旧約聖書の関係を明らかにしたいと思います。 例えば、創世記を見ると、その中ですでに、メサイヤ、約束された救い主、悪魔に対して勝利を得るお方の到来について書き記され、預言されています。初めての箇所は、おそらく3章の15節でしょう。 創世記3:15
これは、「救い主は罪の問題を解決してくださる。」と預言されています。12章、同じく創世記の12章3節を見ると、アブラハムに与えられた約束です。 もちろん長い目で見るとイエス様に対する約束でもあります。12章の3節。 創世記12:3
結局、全世界は将来イスラエルによって、また約束された救い主なる、王の王、主の主であるイエス様によって祝福される。もう一箇所49章の10節です。49章の10節です。 創世記49:10
聖書の中で何箇所を見ても、やっぱり救い主はユダから来ると約束されています。 次の出エジプト記の中には、モーセの律法、すなわち、主なる神の御心が記されています。新約聖書を通して、私たちが理解することは、その律法が主イエス様によって成就されたということです。 次にレビ記を見ると、そこには幕屋について多くのことが記されています。そしてその幕屋は、主イエス様の象徴であり、それは主イエス様を通して成就されたのです。 そのほかにも詩篇や預言書などを見ると、イエス様を指し示す多くの事柄が書き記されてることに気がつきます。たとえば、詩篇22篇、23篇、24篇、110篇を、読むと本当にわかります。全部イエス様を指す預言の言葉であります。 ルカの福音書の24章を読むとイエス様は次のように言っておられます。エマオへ行く途中の二人の弟子たちに、イースターの朝に出会ったときの話です。 ルカの福音書24:44
旧約聖書とは、結局モーセの律法であり、預言書であり、また詩篇であります。マタイの福音書を見ても、同じことが書かれてます。11章の4節と5節です。 結局、来るべき救い主とはどういうお方であるかについて、旧約聖書の中で書かれてます。そしてここで、すべてはイエス様を通して成就されたことについて書かれてます。11章の4節。 バプテスマのヨハネに伝えなさいという話です。 マタイの福音書11:4-5
と。イエス様は病人がかわいそうと思って、同情していやしたなのではない。健康はすべてじゃないからです。 イエス様はどうして当時の病人をみないやしたかと言いますと旧約聖書の中で預言したからです。約束されたメサイヤが来ると病人たちはいやされる。だから、イエス様はいやしてくださっただけなんです。 ルカの福音書4:17-21
意味は、『わたしは預言され、約束された、救い主です。』、結果はどうであったかわかりません。みんな怒ってイエス様をその場で殺そうと思ったんです。 ヨハネの福音書5:46
モーセはイエス様のこと書いたと、ここで書かれてます。 ヨハネの福音書5:47
このような箇所を見ると、私たちは福音書と旧約聖書の関係について、次のようにまとめて言うことができます。 旧約聖書は、主イエス様の生涯、主イエス様の苦難、主イエス様の死などについての約束そのものです。そして4つの福音書は、それが成就されたことを、あらわすために書かれてるものです。 その意味で、旧約聖書は新約聖書からの光によって、すべてが明らかになるわけです。そして、主イエス様ご自身が、言わば旧約聖書のカギとなるわけです。 ということなので、主の救いのご計画を正しく理解するためには、どうしても旧約聖書全体が明らかにされなければなりません。 すなわち旧約聖書を学ぶことは、福音書を明らかにするために必要である、ということも言えましょう。別の言葉で言うならば、その反対に新約聖書を学ぶことこそ、本当の意味で旧約聖書を明らかにする、ということにもなるわけです。 今は福音書と旧約聖書との関係についてちょっと考えたんですけども、次に福音書と使徒の働きとの関係について、考えたいと思います。 福音書と使徒の働きを、ちょっと比較しましょう。新約聖書の中には、4福音書のほかに、使徒の働き、手紙、そして黙示録があります。けどこれらのものが、福音書なしに存在することはできません。中心なるのはもちろん福音書です。 例えば、福音書と使徒の働きとの関係は非常に密接なものです。福音書の内容は、主イエス様によって救いのみわざが成就したことであり、これに対して、使徒の働きは、その福音を広く宣べ伝えた歴史です。 2、3箇所読むとわかります。2章からちょっと読みましょうか。使徒の働きの2章22節。五旬節のときのペテロの証の中の言葉です。 使徒の働き2:22-24
使徒の働き2:32-33
使徒の働き2:36-38
使徒の働き3:13-15
使徒の働き4:10-12
使徒の働き5:30-32
今の読んだ箇所を通してはっきりわかることは、福音書と使徒の働きの密接な関係を知ることができます。 しかしながら、ただ単に使徒の働きとの関係だけでなく、第3番目になりますけども、福音書と手紙との関係も、もちろん密接な関係を持ってることを忘れてはなりません。 主イエス様の弟子たちが、日々耳で聞き、つぶさに体験したことが手紙に書かれています。主のみわざが成就されたことは、福音書に書かれているが、そのことをさらに詳しく明らかにしたものが、手紙であると言えます。 ちょっと3箇所見てみましょうか。ローマ人への手紙3章の24節から。 ローマ人への手紙3:24-26
また、6章の6節。結局イエス様の救いとはどういうものであるか。手紙を通して明らかになります。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:11
あるいは8章。同じくローマ人への手紙の8章2節。 ローマ人への手紙8:1-2
ローマ人への手紙8:14
ローマ人への手紙8:37
ローマ人への手紙10:13
また、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。コリント人への手紙第Iの1章9節。 コリント人への手紙第I、1:9
コリント人への手紙第I、1:18-25
また6章。同じくコリント人への手紙第Iの6章。19節、20節はよく知られてる箇所です。 コリント人への手紙第I、6:19
わすれたの? コリント人への手紙第I、6:20
最も大切な書とは15章でしょう。15章の3節。4節。 コリント人への手紙第I、15:3-4
パウロは自分の学んだことを伝えよう。そういう気持ち、全然なかったんです。もしかすると当時、聖書学者として、NO.1かNO.2だったか、のどちらかです。けども彼は、「私は受けただけだよ。」と、ここで言っているのです。受けたことだけ伝えるのです。 コリント人への手紙第I、15:20-23
今、兄弟が言われた牧師とは、結局キリストのものではなかったんです。聖書のこともちろん信じたし、忠実に宣べ伝えたし、けど、本当の意味で救われていなかったんです。キリストの霊をもっていなかったからです。聖霊の宮になっていなかったからです。 知識を得ることによって誰も救われません。キリストに属する者はみな引き上げられるようになります。属していない者は残されます。24節。 コリント人への手紙第I、24-28
また、 コリント人への手紙第I、57
最後に、福音書と黙示録の関係について、ちょっとだけ考えて終わります。黙示録は言わば、完成の書物です。イエス様の救いが成就した、ということは黙示録で、最後の完成を見ることができます。21章から、ちょっと2,3節読みます。21章の1節から。 ヨハネの黙示録21:1-5
このように見てくると、新約聖書は、福音書、使徒の働き、手紙、黙示録の密接な関係によって完全に一致した統一を持っていることがわかります。 主イエス様による救いのみわざは、新約聖書の中心であるという意味で、福音書こそまさに新約聖書の基礎であると、言うことが出来るわけです。 そこで私たちが、これから、聖書、とくに新約聖書の中でもこのマルコの福音書を一緒に学んでいきたいと思うときには、心から、真剣に真理を求めていく、という飢え渇きを持つことが、非常に大切なのではないでしょうか。 聖書のみことばは神のみことばですから、私たちはみことばを、主なる神の言葉として学び、主の言葉として素直に受け入れることが大切です。 マルコの福音書を学ぶときのわれわれの態度は、父なる神が「これはわたしの愛する子である。これに聞け。」とマルコの福音書9章7節で言われたように、みことばに対して、耳を傾けなければなりません。「これに聞け。」という命令は主の言葉ですから、私たちはその通りにしなければなりません。 前に、ある人から一つの絵をもらったことがあります。この絵には聖書読んでる人の絵が、本当は4枚ありました。 1枚目の絵を見ると、大きな人が、小さな聖書を、読んでいます。けども、 2枚目の絵を見ると、大きな人は前よりも、少し小さくなり、そのかわり聖書が前よりも少し大きくなったんです。次に 3枚目の絵を見ると、その人は、前よりもさらに小さくなり、聖書はその人と同じくらいの大きさになりました。最後に 第4枚目の絵を見ると、その人は非常に小さくなり、それとは反対に聖書は比較にならないほど大きなものなったのです。 これからわかることは、はじめは自分の考えによって聖書を解釈していた人が聖書を読むうちに聖書が絶対的な権威を持つに至った、ということです。つまり、この人は、聖書を主なる神のみことばとして真剣に読み、みことばに耳を傾け、注意してきましたから、みことばがそのひとの血となり、肉となって、自分の思いが消えていてしまったのです。 その結果みことばが、本当にすべてとなり、イエス様ご自身がますます大きくなったということを、わかりやすく説明したわけです。今日、多くの人はみことばを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、みことばに対してみことばに耳を傾けることを全然しないとは、悲しい事実なのではないでしょうか。 けど、正しくみことばを学ぶときに、聖書のみことばこそ絶対的な権威を持たなければなりません。 聖書というものは、決して研究するために書かれたものではない。これを通し、主ご自身が私たちに語りかけてくださるみことばを、注意深く聞かなければならないのです。 私たちが主のみことばを聞き、それに従うときにはローマ人への手紙10章の17節のみことばを、体験することができるのです。 ローマ人への手紙10:17
聖書に書かれてることがらが、絶対的な権威を持った主のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は決して生き生きとした信仰を持ち得ないのです。 |