マルコ伝2


ベック兄

(吉祥寺学び会、マルコ伝シリーズ、2001/09/11)

引用聖句:マタイの福音書1章1節
1アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

マルコの福音書1:1
1神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ヨハネの福音書20:30-31
30この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

昨日グァム島から戻りまして、日本から120何人行きまして、非常に喜びの集いだったんです。なぜならば、主は祝福してくださったからです。
グァム島で日本から行った人々の中で、11人の人々は一度、主の御名を呼び求めましたし、そして地元の中で2人だったんです。イエス様を信じ、イエス様に従いたいと思うようになりました。
それから5人の兄弟姉妹も、洗礼の証しを通して、「イエス様は自分を受け入れてくださった。今からイエス様をよりよく知りたい。」と、思うようになったのです。

たとえば、ある姉妹は、もうずうっとご主人の救いのために祈り続けました。結果として彼は、イエス様に頼ろうと決心しただけじゃなくて、洗礼までも受けるようになったんです。73歳なんです。
あの姉妹にとって本当に考えられない驚き、また喜びだったのです。

それから、ある兄弟姉妹は、夏中2回も御代田まで来まして、そのグァムにいる兄弟を通して導かれたんです。そして御代田で、今回どうしてもグァムで洗礼受けたいけど奥さんはそういう気持ちがなかったようです。
個人的に話したとき、「そうか。」と思ったんです。彼女は1歳のとき、母親は肺がんだったかな、亡くなったんです。そして彼女は3歳になったとき、お父さんは再婚して、そしてその2番目の母親は新興宗教に入ってたんです。
ですから彼女は、3歳から、50年間その宗教のことしか知らなかったし、ですから集会行くのは楽しいし、聞きたい気持ちもあるし、けどそういう宗教の者ですから、悪いじゃないか。集会行くのは駄目でしょう?そういう気持ちだったんです。
けども、絶対にそうじゃないと聞いたとき、非常にうれしくなって、「そうしたらイエス様を信じます。イエス様に従いたい。」、ご主人も奥さんと一緒に洗礼受けることは夢にも思ったことがないんですけど、なっちゃったんです。
今週、各務ヶ原もまた集会あるんですけど、今朝兄弟から電話があって、あの夫婦も必ず来ますよと、非常に主のなさったみわざでした。

現地のある女性も、洗礼まで導かれたんです。ご主人はフィリピン人なんですけども、二人はちょっといろいろなことで悩むようになり、罪ほろぼしのためにどうしたらいいかと、わかるようになったんです。
けど、彼女もやっぱりイエス様だけが、自分のとんでもない過ちを赦すことができると、信じ悔い改めて、そして洗礼までも導かれたのです。

結局向こうの兄弟姉妹はあんまり交わりがないし、行ったとしてもできるだけ土、日曜日さけて、みんな忙しくて大変ですから、結局みんなお客さまのために働かなくちゃいけない。
行ったとしても、水曜日から金曜日までのほうがいいんですって。ですから来年、喜びの集いも起きるようになれば、おそらくそういうなるじゃないかと思います。

けども、そういう兄弟姉妹から離るるのはある意味でやっぱりちょっと寂しいし、パウロの言葉を思い出したんです。彼は、エペソの兄弟姉妹のことを心から愛したし、けどいつまでも一緒にいることができなかったんです。
いわゆる送別会がなかったかもしれないけど、結果としてそうだったんです。彼はそのとき次のように言ったのです。使徒の働きの20章の32節です。結局、自分だって離れても、みことばがあるから、と彼は安心して離れられたのです。

使徒の働き20:32
32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

みことば、恵みのみことばができると、パウロは確信したから、安心して出掛けたのです。グァムにいる兄弟姉妹は、やっぱりみことばを持ってるから、別に心配する必要はない。
たとえば、一度悔い改めてから、イエス様をよりよく知りたいという気持ちになっても、今からみことばに頼らなければ、成長がない。みことばとは、祈りの材料であり、みことばを通してのみ人間は本当の意味で励まされ、力づけられるからです。

先週私たちは、マルコの福音書について学び始めました。4つの点だったんですね。
・4つの福音書と旧約聖書との関係はどういうものか、
・4つの福音書と使徒の働きとはどういうものなのか。
・福音書と手紙との関係とはいったいどういうものなのか。
・福音書と黙示録とはどういう関係であるのか、
について、考えたんです。

大切なのは「聖書自身が自らを明らかにする。」ということです。「人間は聖書についてなんと言ってるか。」とは、あんまり大切ではない。
「聖書そのものは何と言っとるか。」、ある人々は聖書についてだけ、いろいろなものを調べたり、勉強したりします。あんまり意味のないことです。
たとえば、集会の出してる本だってそんなに、別に悪くないかもしれないね。『光よあれ』そういうの読んでもいいんですけど、聖書の代わりの本だったら、とんでもない話になる。いろいろなこと書いてる。
疑問符つけたほうがいい。そういうふううに書いてるけど、果たしてそうかなぁ?自分で聖書読みましょう、調べましょう、という態度を取るべきなのではないでしょうか。結局、土台なるものは、聖書だけでないとけしてよくないということです。
多くの人々は、結局みことばを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、みことばに対して耳を傾けることをしないとは、本当に大変です。ですから、サムエルのとった態度、「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、こういう態度で聖書読むと、本当に力と喜びと平安の源になります。

もちろん聖書とは、研究するために書かれてるものではない。イエス様をよりよく知るためです。
聖書とは主イエスの啓示そのものです。だから、みことばを理解したいというよりも、注意深く聞くべきなのではないでしょうか。ですから、パウロは当時の人々に、

そのように信仰は聞くことからはじまり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。

結局、みことばとは、救う力をもつものであると、はっきり書かれてます。
今兄弟のお読みになりました4箇所は、一つ一つの福音書の大切なことばです。マタイの福音書は短く、

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

アブラハムとダビデとは、言うまでもなく、普通の人間に過ぎなかったのです。そして、マルコの福音書は

神の子。イエス・キリストの福音のはじめ。

とあります。結局、イエス様とは人間でありながら神の子と呼ばれたのです。それからルカは、よくクリスマスのとき読む箇所ですけども、イエス・キリストは、ルカの福音書によると、救い主である。
人間として現れたお方だけではなく、神の子だけではなく、唯一の救い主である。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

約束された救い主です。それから、ヨハネは20章30節に、どうしてこの福音書が書かれたのかの目的について書いたのです。
頭の知識を得るためじゃなくて、永遠のいのちをもつためです。

ヨハネの福音書20:30-31
30この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

とあります。信ずる結果とは永遠のいのちを持つことであると、ここで書かれてます。

福音書を学ぶと、その場合に私たちがいかなる目的を持ってるかということに、すべてがかかってるなのではないでしょうか。
私たちの目標はどういうものであるべきなのでしょうか。よく知ってるように聖書とは、世界のベストセラーと呼ばれています。けど、私たちはこの聖書読むことによって、教養を身につけ、たりないところを補っていこうとするなのでしょうか。それとも別にはっきりとした目標をもたないで、あっちを読んだりこっちを読んだりすればよいなのでしょうか。決してそうではない。

聖書を読む場合、本当の目標はイエス様を知ること、体験的に知ること。イエス様のついての知識を得ることではない。
イエス様を知ること、イエス様に出逢い、そしてイエス様を受け入れること、イエス様をよりよく知ることであるべきです。
読む目的、学びの目的とは、イエス様ご自身にほかなりません。それですから、望ましいことは私たちが切にイエス様を見たい、という飢え渇きをもつことです。

簡単に要約されてるものが、福音書の内容とはいったいなんなのでしょうか。イエス様の生涯とイエス様の働き、成しとげられた救いのみわざです。福音書は、イエス様をいろいろな角度からとらえ、しかも一度だけでなく、何度も繰り返しとりあつかっています。
このイエス様の名前は、この地上における神の子に与えられてる名前、「イエス」です。イエスの名前は「救い主」を意味します。
結局救いの問題を解決するお方である。罪ほろぼしのために犠牲になるお方である、ということです。

福音書に、イエス様の生涯がどのぐらい記されてるなのでしょうか。それはイエス様の誕生から昇天までの間だけです。
イエス様は、主なる神から来て、主なる神のもとに帰られたのでありますが、この世の生涯は決して長いものではなかったんです。33年間だけでした。

イエス様が生まるる前について、それからイエス様が昇天された後のことについて聖書はいったいなんと言ってるなのでしょうか。
生まれる前は、イエス様は父なる神のもとにいたとはっきり書かれてます。たとえばヨハネの福音書からちょっと見てみましょう。ヨハネの福音書の1章1節です。

ヨハネの福音書1:1
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

14節を見ると、この言葉とは、人間の話す言葉でもないし、神の話すことばでもない。イエス様ご自身であるとわかりますね。14節。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

永遠なる神の言葉と言われた主イエス様は、人間になられたのです。同じくヨハネの福音書16章の28節見ると、イエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書16:28
28わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

パウロは、このイエス様のこの世に来られる前のことについて次のように、書き記したのです。

コロサイ人への手紙の1章。ま、よく引用されるよく知られてる箇所ですけども357ページです。357ページ1章の15節と16節です。

コロサイ人への手紙1:15
15御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

もちろん人間として生まれたものです。人間になると決心したのです。

コロサイ人への手紙1:16
16なぜなら、万物は

結局すべては、

コロサイ人への手紙1:16
16御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

この箇所を読んでも結局つかめないし、想像できません。聖書を読んでも結局イエス様の偉大さをつかむことができないのです。
「すべてはイエス様によって、またイエス様のためにつくられたと、」あります。ヨハネの福音書の8章58節。イエス様はまた次のように自分の昔のことについて言われました。

ヨハネの福音書8:58
58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

イエス様はこういうふうに言われた、2,000年前にアブラハムは書いたのです。2,000年あとでイエス様は「わたしはアブラハムよりも先だよ。」と言われたのです。
昇天された後は、イエス様は高く引き上げられ、父なる神の右に座しておられるようになったのです。
パウロはこの事実についてピリピ人への手紙とエペソ人への手紙の中で次のように書き記したのです。ピリピ人への手紙2章の9節と10節です。

ピリピ人への手紙2:9-11
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエス様は高く引き上げられたお方であり、すべての背後に支配しておらるるのです。エペソ人への手紙1章の20節です。

エペソ人への手紙1:20
20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

云々とあります。
それから、へブル人への手紙の著者は同じ事実について、次のように書き記したのです。へブル人への手紙の9章の24節です。

へブル人への手紙9:24
24キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

偉大なる大祭司として、人間一人一人のこと考えて心配してくださり、とりなしていてくださるのです。

神の御子である主イエス様は、永遠から永遠にわたって生きておられるお方です。
したがって、この地上における33年間のご生涯の跡は、本当にとるにたりないほど、短いものであったに違いない。早くて早くてしょうがなかったと思うけど、最後の3時間は、長くて長くて耐えられないほどでした。

マタイの福音書27:46
46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

と。祈っても応えがなかったのです。

イエス様の短いご生涯の中で一番大切なことは、なんなのでしょうか。聖書読んですぐ分かることは、一番大切な出来事が詳しく記されているということです。
すなわち私たちはイエス様の苦難と、イエス様の死とがおもな事柄であることをもちろんすぐわかります。
このようにイエス様のご生涯を見ると、ま偉大な有名人たちの生涯などとはまったく違ったものであることがすぐわかります。

有名な人々の場合には、彼らが生きてる間にどのような偉大なことをしたか、ということが中心テーマであり、彼らの死については最後に簡単に触れられてるに過ぎない。なぜならば、「死」という出来事は望まない出来事であるからです。
けどもイエス様の場合には、まさに「死」こそが大切です。
「イエス様の教え」によってだれも救われません。「イエス様の死」こそがイエス様にとってこの世に来られた目的そのものでした。イエス様はこの世に生まれ、死ぬためにご生涯を歩まれたのです。

(…マイクの調子がちょっとおかしかたみたい。)

イエス様がこの世に来られたご目的とは、もちろんいろいろなことを教えるためではなく、代わりに死ぬことだけでした。マルコの福音書の8章31節をみると、イエス様は次のように言われました。

マルコの福音書8:31
31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

結局イエス様のこの世に来られた唯一の目的とは、代わりに死ぬことです。
ルカも、もちろんまったく同じことを書き記したのです。ルカの福音書9章22節です。

ルカの福音書9:22
22そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

結局イエス様は、将来のこと全部ご存知でした。12章の50節。

ルカの福音書12:50
50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。

とあります。もう1箇所24章の7節です。

ルカの福音書24:7
7人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

同じく24章の26節です。

ルカの福音書24:26
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

24章の46節。

ルカの福音書24:46
46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

云々とあります。
それでちょっと4つの福音書を、お互いに比較してみたいと思います。

普通は「4福音書」と呼ばれていますが、実際は1つの福音書であって、それがいろいろな角度から描かれているにすぎません。
けどもなぜ4人の人が、それぞれ4つの異なったものを書いたのでしょうか。御霊は、聖霊は、1つの人格を、異なった側面からクローズアップするために4人の人々を用いたのです。

4つの福音書のうち始めの3つは、共通した見方をしてるゆえ、共感福音書と呼ばれています。そして各々の福音書は、それぞれ異なった使命をもっており、それぞれの立場から、主イエス様を描かれています。
それぞれの福音書は4人の人によって、独立に書かれたものですけど、いずれも主なる神の啓示によって書かれたという点でもちろん共通しています。つまり、福音書の作者は、上からの啓示によって書いたのです。神ご自身が、福音書の作者であると言えるわけです。
そして福音書は、他のものとはくらべものにならない、ただ一つのご生涯、すなわち、主イエス様が肉のかたちをとって、自らを現わされた現実そのものを書き記されています。

このように福音書は御霊によって書かれたものですから、御霊の光がなければ聖書を正しく理解することはできません。それは福音書についても同じことが言えます。
福音書を一つ一つちょっと簡単に見てみたいと思います。

マタイによる福音書のテーマは、いったい何なのでしょうか。
前に読みましたマタイの福音書1章1節を見ると、イエス様はアブラハムの子であり、ダビデの子であると記されています。つまり、イエス様は主なる神によってアブラハムに約束された預言の成就である、ということがわかります。
創世記の12章の3節。次のように書かれています。

創世記12:3
3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

この約束は、イエス様を通して実現されたのです。けどもイエス様は、ただ単に主なる神によって祝福されたアブラハムの族だけではなく、ダビデの族からなる、ユダヤの聖徒の王であることがわかります。
したがって、このことから私たちは、イエス様を「ユダヤ人の王」ということはできるのです。マタイによる福音書の目的は、ユダヤ人に対して、主イエス様がイスラエルの王であることを、はっきりとわからせることでした。それですから、「成就されるために」という旧約聖書の引用が多くなされてることを気がつきます。
マタイの福音書の半分ぐらいが旧約聖書の引用であります。マタイの福音書は、ユダヤ人のために書かれたものですから、絶えず、旧約聖書に帰る必要があったわけです。その意味でマタイの福音書には旧約聖書との密接な関係が数多く出てくることがわかります。

そしてマタイの福音書の特徴は、イエス様の説教が多いことです。すなわちイエス様は、ご自分がイスラエルの聖徒の王であることを、ユダや人に明らかにしようとされ、「わたしはこの地上に神の国を建てよう」と言われたのです。
マタイの福音書5章から7章までの、いわゆる山上の垂訓では、王、ならびにご自分の国についてのご計画を説教のかたちで、公にされたのです。

マタイの福音書10章には、王のメッセージが書かれています。
マタイの福音書13章には、王の国の本質が記されています。
マタイの福音書23章には、王の国の敵について書き記されています。
そしてマタイの福音書24章、25章には、王の国の完成が示されています。

主イエス様が、イスラエルの王であることは、次のような聖句からもわかります。創世記の49章の10節です。

創世記49:10
10王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

とあります。この預言の成就について、ヨハネの黙示録の5章5節に次のように書き記されています。

ヨハネの黙示録5:5
5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

ここで書かれてるししとは、王を象徴するものに他ならない。

次に、マルコによる福音書のテーマはいったい何なのでしょうか。
マルコは4福音書の中で一番短い福音書です。つまり、すべてのことが非常に簡潔に要約されています。どういうような言葉が、マルコの中で繰り返し使われてるかといいますと、「まもなく」とか、「すぐに」というような言葉が、41回出てくることに気がつきます。
マルコの作者であるマルコという人がそのような性格の持ち主であったために、すべてが簡単にされてるようです。また「驚いた」という言葉もしばしば出てきます。マルコには、今までに経験したこともないようなたいしたものが書かれてます。

マタイの福音書には、説教が多く記されてるのに対して、マルコの福音書には、奇跡のことが多く書かれています。
全部18回も出てきます。すなわちマルコの福音書には主イエス様の大いなるみわざが、クローズアップされています。マルコはイエス様が「神の子として神の権威を与えられてる」ということを、明らかにしようとしました。当時のローマ人は、大いなる力を尊んだので、このような表現をしたものと思われます。

マタイの福音書の中では、イエス様がダビデの子として、すなわち約束されたメシヤとして旧約聖書を成就するためにイスラエルのために来たこと。そして、その民によって捨てられたことが明らかにされています。
ところが、マルコの福音書においては、主イエス様は王としてではなく、しもべとしてクローズアップされ、明らかにされています。
つまり、なぜイエス様がイスラエルの民から、捨てられなければならなかったか、ということをマルコが説明してるわけです。なぜならば当時の人々は権威あるメサイアを、偉大なる王と考え、待ち望んだために、卑しいしもべのかたちをとって来られたイエス様に失望し、正しく理解することができなかったのです。

マタイの福音書は、イエス様が旧約聖書の預言を成就するために、この地上に来たと言ってます。
これに対してマルコの福音書は、イエス様はご自分のいのちを捨てて、いのちを与えて、しもべとして仕えるために来たと言ったのです。よく知られた10章の45節ですね。マルコの福音書全体の言わんとしてることが、まとめられています。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

マタイの福音書においては、王の象徴として、「しし」を考えたのに対して、マルコの福音書においては、しもべと力の象徴として、「牛」を考えることができるでしょう。

次にルカによる福音書のテーマは、イエス様をどのように特徴づけてるなのでしょうか。
マタイやマルコに書かれていないことを書く記しています。たとえば、2章。いわゆるマリヤの受胎告知を考えることができます。
7章を見ると、罪の女のことが書かれています。さらに15章を見ると、失われた子羊、失われた銀貨、失われた息子のことが、書かれています。このような記事は、ルカは医者であることと、無関係ではないように思われます。
マタイの福音書の「ユダヤ人の王」、マルコの福音書の「主のしもべ」に対して、ルカの福音書では、「人の子」すなわち「罪人の友」としてイエス様は、特徴づけられています。

したがって、ルカの福音書の象徴は「しし」でも、「牛」でもなく、「人間」であるということができます。
ここでは、説教や奇跡よりは、むしろたとえばなしを考えることが正しいでしょう。ここには、28のたとえばなしが書かれています。
言葉を変えて言うならば、マタイの福音書では、「見よ。あなたの王。」マルコの福音書では、「見よ。わたしのしもべ」という言葉が象徴的であるのに対して、ルカの福音書では、「見よ。なんという人」という言葉を考えることができます。

マタイの福音書では、律法を成就すること、マルコの福音書では、しもべとして仕えることが、主イエス様の使命と見られたのに対して、ルカの福音書では、失われた者をさがし追い求むることが中心テーマになっています。
別の表現をすれば、マタイの福音書においては王の尊厳。マルコの福音書においては、しもべの力が強調されたことに対して、ルカの福音書では、人の子として来られた主イエス様の恵みが中心になってます。

最後に4番目ですけど、ヨハネの福音書のテーマとは、いったいなんなのでしょうか。前に読んでもらいました箇所ですね。20章の30節から。

ヨハネの福音書20:30-31
30この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

とあります。意味は、イエス様は神の子であり、キリストであるということです。主イエス様は、ヨハネを通してご自身を明らかにしようとしておられたのです。
たとえば、「わたしである」という言葉は何回も出てきます。「わたしはいのちそのものである。よみがえりそのものであり。真理そのものである」云々と書かれてます。
これは、全部イエス様ご自身の啓示そのものです。

マタイの福音書において、過去に目を向けて旧約聖書の成就を大切なものと考え、マルコの福音書においては現在のことが中心になり、ルカの福音書においては、21章27節に見られるように未来のことが強調されています。21章27節。

ルカの福音書21:27
27そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

とあります。ヨハネの福音書においては、永遠から永遠にわたる全般的なことが中心になっています。

マタイの福音書は、ユダヤ人に書かれ、マルコの福音書は、ローマ人のために書かれ、ルカの福音書は、すべての民に対して書かれたが、ヨハネの福音書は、特に信ずる者のために書かれてます。
したがってヨハネは4つの福音書の中でも一番内容の深いものであるといわれてます。本当の信者だけが、御霊を通して、主イエス様を理解することができるということを、いっつも覚えていないとヨハネの福音書を正しく理解することができません。

先程述べたように、マタイの福音書の象徴は「しし」。マルコの福音書の象徴は「牛」。ルカの福音書の象徴は「人間」であるのに対してヨハネの福音書の象徴は「鷲」であるといえます。鷲は主なる神の性質の象徴です。
マタイの福音書の「ユダヤ人の王」、マルコの福音書の「主のしもべ」、ルカの福音書の「人の子」に対して、ヨハネは「見よ。あなたの神」ということができます。

それぞれの福音書の目的を考えてみると、マタイの福音書は律法を成就するため。マルコの福音書はご自身のいのちを与えて、仕えるため。ルカの福音書は、失われた者をさがし、救うため。そしてヨハネの福音書は父なる神を明らかにするために書かれています。
主イエス様がなさったこと考えると、マタイの福音書では説教。マルコの福音書では奇跡。ルカの福音書ではたとえばなしであるのに対して、ヨハネの福音書では対話が多くなされています。
ヨハネの福音書の中にはいろいろな人とイエス様がなされた会話の数が12にもなっています。

次に多くの使われてる言葉を考えると、マタイの福音書では「成就される」という言葉は18回。マルコの福音書では「すぐに」「まもなく」という言葉は41回。
ルカの福音書では「あわれみ」という言葉も沢山でてきます。そしてヨハネの福音書では「いのち」という言葉が35回。それから「信じる」という言葉が91回も使われています。
別の観点から見ると、マタイの福音書では主イエス様の王の尊厳。マルコの福音書ではイエス様の力。ルカの福音書はイエス様の恵み。そして最後にヨハネの福音書はイエス様の栄光をえがきだしています。
主イエス様が大切にされたものを見ると、マタイの福音書は、イスラエルの指導者たちであるパリサイ人の偽善。マルコの福音書は、弟子たちの教育。ルカの福音書は、群衆の要求。そしてヨハネの福音書は、人の心であるといえます。

これらのことからわかることは、4人の作者たちは、イエス様についての喜びの訪れを告げ知らせる、という点では一つでありますけど、それぞれ違った側面から主イエス様のご栄光を見てるということです。したがって私たちは、主なる神が主イエス様を通して、ご自身を啓示なさろうとしてることを正しく理解するために4つの福音書を学ぶべきです。

またイエス様について、包括的な一つの像、姿を得るために、福音書を用いる必要があります。
そして私たちがイエス様をよりよく知りたい、と思うときにはそのことが特に大切なのではないでしょうか。




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