引用聖句:使徒の働き12章12節
使徒の働き12:25
使徒の働き13:1-5
使徒の働き13:13
使徒の働き15:37-39
ときどき人について考えると、親についても考えるようになるんです。「あの人の親は、いったいどういう人なのでしょうか。」、と。 この間ちょっと有名になった、オサマビン・ラァディンの親について、ちょっと考えちゃったんです。どうしてであるかといいますと、彼は、おじいちゃんのように見えるんですけど、若いんです。44歳です。うちの娘も44歳なんです。 この子どもとは、親の誇りとなっているか、悩みの種になっちゃたのか、ちょっとわからない。けども彼は2、3週間前に、はっきり言ったのです。すなわち、「私たちの目的とは、まずアメリカに対する聖なる戦争です。」 今、兄弟言われたように、目的はアメリカじゃない。イスラエルです。おそらくそのために(うしも?)「戦争」という言葉を使ったのです。テロリストの行為じゃないよ、宗教戦争です。 私たちはいつも、「宗教考えないで」と頼むんです。不幸になろうと思えば、束縛されたいと思えば、宗教に入りなさい。 キリスト教でもいい。キリスト教の歴史を見るとわかるでしょう?何百年前にキリスト教は、とんでもない戦争始まったんです。カソリック教会の始めた戦争です。何人殺されたのか、もう数えられないです。何十年間続く戦争だったからです。戦争の目的とは、「エルサレムを、イスラム教徒から解放しなくちゃいけない!」 これは、キリスト教の目的でした。御心ではなかったよ。とんでもない話です。 今の人たちとは、結局同じようなことやってるなのではないでしょうか。宗教とはいかにひどいものであるかの、証拠なるもの、なのではないでしょうか。 主なる神はいのちを与え、悪魔は宗教を与えます。宗教は人殺しである悪魔の働きの結果であると、はっきり言えます。イスラム教のコーランに書いてあります。すなわち「神は子どもをもっていません。イエス・キリストは神の子では、ない。」 神のみことばである聖書は、違うこと言ってるんです。よく知られてるヨハネの福音書3章16節に、次のように書かれています。聖書全体の言わんとしてること全部、ここで含まれてるのです。「ミニ福音」と呼ばれてる箇所です。 ヨハネの福音書3:16
ひとり子なるイエス様を信じようとしない者は、愛されてることを、けっして知ることができません。気の毒すぎなのでは、ないでしょうか。神の愛の現われとは、遣わされた御子である、主イエス様です。 イエス様は、どうして遣わされたかといいますと、 ヨハネの福音書3:16
ヨハネの福音書3:36
イスラム教は、「マホメットの教えを武器で持って宣べ伝えなければならない。反対する者だれであっても殺してもいい。これは神を喜ばせることである。」、そういう教えなんです。けども、この「アラー」という神は、「けっして近づき得ない方であり、けっして知ることができない神である。」 結果は、イスラム教徒の会堂であるモスクの中でけっして歌われません。歌がないんです。喜びがないから。神との平和がないから。ほんとの心の平安もないからです。 彼らは、結局、毎日必ず7回ぐらいひれ伏して拝まなくちゃいけない。結局、「神は恐ろしい。神を納得させるために、拝まなくちゃいけない。」それだけですけど、その拝んだ後で「赦された、解放された!」そういう気持ち、もちろんいっさいがっさい存在しません。 罪の赦しがなければ、まことの喜びもないし、平安もないし、希望も存在していません。 去年、ローマカトッリクのボスである法王は、エルサレムを尋ねたんです。 彼はそのとき、世界平和のために何と言ったかといいますと、「イスラム教徒の神と、キリスト教徒の神と、ユダヤ教の神とは同じである。」、神を冒涜することです。 私たちは、今学んでるマルコの福音書の中の、はじめての文章は、結局イスラム教徒と違うこと言っとるんです。 マルコの福音書1:1
神の子なしの福音は、存在していません。パウロは、ある人々についてなんと言ったかといいますと、「彼らは違うイエスを宣べ伝えてます。違う霊で支配されています。違う福音を宣べ伝えてる。」 多くの人々は、「神は同じじゃないか」と考えています。とんでもない間違いです。イエス・キリストから離れた福音は、間違ってます。 マルコの福音書1:1
これはマルコの福音書のはじめての文章です。 この間も話したように、私たちの学びの目的とは、いわゆる頭の知識を得るためなのではない。イエス・キリストを知るため。聖書の中心なのは、一つの教えではなく、神の愛の現われとして来られたキリストです。 「イエス・キリスト、見たぁい。イエス・キリスト知りたい!」、そういう気持ちで聖書読むと、大いに祝福されます。 福音書に、イエス様の生涯がどのくらい記されてるのでしょうか。それは、イエス様の誕生から昇天までの間です。 イエス様は、主なる神から来て、主なる神のもとに帰られたのでありますが、この世の生涯は、決して長いものではなかったのです。3年間だけ。 けども、聖書の強調してるのは、イエス様のこの世に来られたこととは、イエス様のはじまりではなかったんです。 イエス様は、はじめのない、終わりのない、永遠なる神です。ヨハネの福音書1章の1節に、 ヨハネの福音書1:1
それだけ読むと、「言葉か...。どういう言葉か?」、もちろん人間の言葉じゃない。神の言葉でもない。言葉とは結局イエス・キリストをさすものであります。14節を、みるとわかります。 ヨハネの福音書1:14
人間となって、 ヨハネの福音書1:14
イエス様とは、聖書によると はじめのない、終わりのない、永遠なる神そのものです。イエス様の自分の証しとは、ヨハネの福音書16章の28節に書かれてます。 ヨハネの福音書16:28
そして、パウロはこのイエス様の偉大さについて、コロサイ人への手紙の1章で次のように書いたのです。 コロサイ人への手紙1:16
ピンときません。 すべてはイエス・キリストによってつくられ、イエス・キリストのためにつくられたのです。またイエス様はあるとき、次のように言われたことがあります。 ヨハネの福音書8:58
そのときアブラハムは2,000年前に生きていた者だったんです。私たちは、私たちの中の一人が「私はナポレオンよりも前に生まれた。」と言っても、ちょっとおかしい話じゃないですか。 けど、イエス様はそういうこと言っちゃった。「アブラハムより前にいたよ。」結局イエス様とは、はじめのない終わりのない、永遠なるお方である。 そして昇天された後のことについて、聖書は次のように言ってます。 ピリピ人への手紙2:9-11
とあります。神の御子である主イエス様は永遠から永遠にわたって、生きておられるお方です。 ですから、この地上における33年のご生涯などは、本当にとるに足りないほど短いものであったに違いません。その短いイエス様のご生涯の中で、一番大切なことはいったい何だったのでしょうか。前に話したように、 イエス様の苦難です。 イエス様の死です。 イエス様は、生きるためではなく、死ぬことができるために生まれたのです。死こそがイエス様のこの世に来られた唯一の目的でした。イエス様は、何回も何回も自分の死について話されたのです。 「わたしは、代わりに死ななければ、あなたがたにとって救いの道は存在しない。 わたしは、代わりに罰せられなければ、あなたがたの将来は真っ暗闇です。けど、喜べ。わたしは、犠牲になれば、あなたがたは、安心して将来に向かうことができる。 死は、決してけして、終わりではない。」 と、イエス様は何回も何回も言われたのです。 われわれの学びたいと思う「マルコの福音書」という本は、もちろんマルコによって書かれたものです。このマルコは、「マルコ」「ヨハネ」という、二つの名前をもっていたのです。 「マルコ」という名前が何を意味してるのか、ちょっとわかりません。けども、彼の2番目の名前「ヨハネ」という名前の意味は、「主、恵み深い。」 主なる神は恵み深いお方である。本当にすばらしい名前なのではないでしょうか。 聖書は、特に彼の母親についていろいろなこと言っとるんです。聖書は、母親たちのこと非常に大切にするんです。 たとえば、イスラエルの王様について、いろいろなこと書いてるんですけども、いつも「彼の母はこういう人である」と書いてます。父親について、何も書いてない。 やっぱり、母親の役目は考えられないほど大切なのではないでしょうか。父親の影響よりも母親の影響の方がずっと強い。聖書は、このマルコの母親について、いろいろなこと言ってるのです。彼女の名前は、「マリヤ」だったのです。 そして、父親について何も書いてないけど、おそらく亡くなったんじゃないでしょうかね。マルコが小さい時に亡くなったに違いない。 ですから、母親についてしか書いてないんですけども、彼女は財産家だったかもしれない、少なくとも大きな家を持っていたのです。 そして彼女は、イエス様を信ずるようになっただけではなく、イエス様に従うようになった弟子でした。イエス様のいわゆる最後の、過ぎ越しの祭りのときは必ず、このマルコの実家で行なわれたのです。 彼は結局クリスチャンホームに育ちました。イエス様は、この若いマルコの家にしばしば出入りされたのです。ですから彼は、幼いときにイエス様をその目で見、イエス様の声をその耳で聞くことができた、幸せな青年でした。使徒の働き12章の12節、前に読みました箇所ですね。 使徒の働き12:12
だから、小屋ではなかった。大勢集まったからです。結局このマルコの実家とは、初代教会の集会所のようなものであり、避難場所でもあったのです。そのような家庭で育ったマルコは、子どものときから、親しくイエス様を見る機会を持ち、また青年としても、イエス様と親しく接する機会を持っていたわけです。 イエス様は、彼の住む家にしばしば出入りされたに違いない。ですから、イエス様と交わることができ、イエス様の言葉を、その耳で何回も何回も聞くことができたのです。彼は、こういうふうに、青年としてイエス様見たり、イエス様が話すのを聞くことができたわけで、彼はイエス様から非常に大きな影響を受けたに違いない。 使徒の働きの中に書かれてます。 使徒の働き13:4
云々、と書かれてます。 パウロとバルナバについて、はっきり言えることとは、彼らは聖霊に遣わされた者でした。マルコについて言えないことです。彼は、聖霊に遣わされた者ではなかったのです。 主に召し出され、彼は伝道したのではなかったから、途中で駄目になったのは決まってるじゃないでしょうか。自分勝手に「私は行く。私は主のために働く。」と思っても、結局うまくいきません。 しかしまさにこのことを通して、マルコは国境で、主に仕える別の者に出会ったのです。すなわちペテロです。 彼はもちろんペテロを知ることによって福音を聞いたのです。どういう福音をきいたかはっきりわからないけど、必ず「主は、恵み深い」ということを聞いたに違いない。結局、マルコという男は、ペテロによって導かれるようになりました。 ペテロの書いた手紙を見ると、証明されてるなのではないかと思います。ペテロの手紙第Iの5章13節です。 ペテロの手紙第I、5:13
ペテロはここで、「私の子マルコ」と言ったのです。パウロは、よくテモテについて同じ表現を使ったのです。「私の子であるテモテ」 テモテは、パウロによって導かれたからです。マルコも間違いなく、ペテロによって導かれました。つまり、主は駄目になったマルコを捨てないで、別のかたちでマルコを導いたのです。このことによって、先ほど述べた「エホバ、主なる神は、恵み深いお方である」ということを、体験的に知るようになりました。 マルコは、ただ単に主のことについて書き記しただけではなく、自分の体験として、主イエス様を知るようになり、そのことをマルコの福音書を通して証したのです。 主イエス様が、私たちと出逢うことを望まれるときには、主のいのちがわれわれのいのちとなり、主イエス様の体験が、私たちの体験となります。 したがって、イエス様のことについて、いろいろと語ったり話したりすることが大切なのではなく、人々が、われわれを通して、イエス様ご自身を知るようになることこそが大切です。 確かにマルコは、主イエス様と親しく交わり体験的に知るようになったんですけど、その後で試されることが必要でした。 そのように、われわれの信仰は、いつも試されてるのです。すなわち、その信仰が本物かあるいはにせ物か、主は試されます。そのために、どうしても諸困難が必要とされます。 マルコはこの困難に直面したとき駄目になりました。しかしながら、私たちが駄目になり、いかに不真実であっても主は常に真実です。ですから、マルコも回復されました。 バルナバは、彼の甥であるマルコを愛し、彼に一番よいことをしてあげたいと思ったに違いない。 マルコは、叔父であるバルナバのために夢中になりましたが、イエス様のためにはそうではなかったようです。聖書をみるとマルコは、バルナバやパ… (テープ A面 → B面) …ました。ここで注意したいことは、最初にバルナバと働き、次にパウロと一緒になったということです。 私の想像では、血縁的な、家族的な関係の強かったマルコが、叔父であるバルナバと、最初に一緒になったということではないでしょうか。 彼の土台は、イエス様だけではなくバルナバでもあったわけです。そのような人は、遅かれ早かれ失敗するようになります。本当の問題は、イエス様が中心となることです。 けども、マルコにとっては、イエス様ではなくバルナバが中心的な存在になってしまいました。 私たちの生活の中では、主の完全な支配がどうしても必要であることを忘れてはなりません。 マルコが駄目になった事実を通して、私たちが理解できることは、主イエス様が主として完全に支配なさる前に、人間的な思いで行動することがいかに危険であるか、冒険であるかということです。 人間的に考えると、若い信者にいろいろな機会を与え、その実力を明らかにすることもいいだろうということになります。けども主なる神の考えは、決してそうではありません。 むしろ、ただ主によって訓練された者だけが、責任を持つべきです。マルコの場合はおそらく人間的な考えで、親戚を頼り、試練を軽く考え、おじさんと一緒にやればなんとかなるであろうと考えていたようです。 バルナバもまた、試験的にマルコを連れてきてみようと軽く考えたかもしれない。ガラテヤ人への手紙2章13節みると、バルナバはそのとき、ある程度まで人間的に考えていたことがわかります。 ガラテヤ人への手紙2:13
バルナバも偽善者になっちゃたと、ここではっきりと書かれています。 しかしながら、マルコが失敗したにもかかわらず、主の恵み、主のあわれみが、マルコをもう一度主のもとに立ち返る信仰を与えられたのです。 マルコの回復についての奥義は、マルコが、自分の決定権を主の支配にゆだねたことにあります。マルコの福音書は、この事実の証に他ならない。イエス様こそ、マルコの福音書の中心です。 マルコは、はじめ夢中だったバルナバについては一言も触れていません。ただ、イエス様のことだけが何回も繰り返し書き記されています。そのようにしてマルコは、バルナバ、ペテロ、パウロに用いられる者となったのです。前に読みましたペテロの手紙第Iの中で、 ペテロの手紙第I、5:13
ペテロはこういうふうに言うことができたんです。ペテロだけではなく、パウロも同じようなことを書いたのです。コロサイ人への手紙4章の10節を見ると、次のように書かれてます。 コロサイ人への手紙4:10
結局パウロは、このマルコのことを大切にするようになったのです。パウロの、殺される前に書かれた、テモテへの手紙第IIの中で、彼もやっぱりマルコのことを述べています。 テモテへの手紙第II、4:11
こういうふうにパウロは言うことができたのです。マルコは私のつとめのために役にたつ者である。こういうふうに変えられたのです。 もう1箇所、ピレモンへの手紙を見るとわかります。このマルコとは、やっぱりパウロと一緒に働く者となりました。ピレモンへの手紙24節。 ピレモンへの手紙1:24
結局、マルコとはパウロの同労者、ともに働く者に変えられたのです。 この、マルコの書いたマルコの福音書という福音書は、4福音書の中で、歴史的に一番早く書かれたものです。なぜこのマルコの福音書が新約聖書の一番はじめに置かれないなのでしょうか。 実際問題として、一番はじめに置かれてるマタイの福音書は、王であるイエス様の絶対的な権威と栄光とを強調しています。これに対してマルコの福音書では、すべての人間的な決定権を、イエス様の支配にゆだねたときに、はじめて本当の奉仕ができるといってます。 本当の奉仕の特徴は、謙遜以外の何ものでもありません。それですから、マルコは自分自身のことを表面に出さずに、ただイエス様ご自身だけを中心にしたのです。 マルコは、本当に聖霊に用いられる器となりました。マルコは、人に見られるのではなく、イエス様のご栄光だけがあがめらるるようにと、まごころから思うようになり、また望むようになったのです。マルコを、役に立たない者としていたパウロは書いたのです。 テモテへの手紙第II、4:11
本当に恵みそのものなのではないでしょうか。主は4福音書の一つ、マルコの福音書を書くためにこのマルコをお用いになりました。 このマルコの福音書により、どんなに多くの人々が救われ、主のみもとに立ちかえり、またどんなに多くの信ずる者が、マルコの福音書によって祝福されてきたかしれません。 もしかすると、今日はじめて来られた方々もいるかもしれませんし、まだイエス様を受け入れてない方々もおらるるかもしれないけど、知るべきことは、教会の会員になる必要はないし、そしていかなる状況においても、自分の罪あやまちは赦されている。イエス様は私をも受け入れてくださったという、ことを知る必要があります。 なぜならば、この確信がなければ、本当の喜びもないし、真の平安もないし、また生ける希望もないからです。 自分のわがままをもったそのままの状態でイエス様のみもとに行き、その債務を告白する人は、自分のあやまち・わがままは赦されているという、確信をもつことができるのです。 赦されているという確信を、なぜ持つことができるなのでしょうか。なぜならば、イエス様はうそを知らないからです。必ず自分の約束を守るお方であるからです。 赦された、永久的に受け入れられているという確信の結果は何かと言いますと、愛と感謝のあらわれとして、「私の人生は、今から、ただイエス様お一人のものと、なるべきである。」、ということになるに違いない。すなわち、意識的な献身があらわるるに違いないのです。 「主よ、私はあなたに、私の持ってるものすべてをおささげします。私自身をさえもおささげします。なぜなら、私はあなたの御手のうちにある器になりたい。」 マルコの決心とまた切なる願い、心からの祈りとはそういうものだったのです。こういう祈りは、もちろん必ず応えられます。 |