マルコ伝4


ベック兄

(吉祥寺学び会、マルコ伝シリーズ、2001/09/25)

引用聖句:ローマ人への手紙13章11節-14節
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

パウロはよく手紙の中で、「あなたがたは知らないなのですか」と質問したのです。意味は、『そんなに早く忘れたなのでしょうか。』、ここで、ローマにいる人々にパウロは「あなたがたは知ってる」ということができたのです。
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが、眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。」、もう寝てはいかんということです。

パウロはここで、「あなたがた」という表現を使ったし、そして後で「私たち」という言葉を使ったんです。明らかになっとるのは、信ずる者のために書かれてるのです。
イエス様は、あるたとえ話の中で、やっぱり再臨の前にみんな眠くなる。疲れ果ててしまうということです。『みんなうとうとして眠り始めた。』
福音書の中で書かれてます。使徒たちの書いた手紙の目的とは、おもにやっぱり「用意しなさい。主は来るよ。」という呼びかけです。

今の時代とは、決して楽しい時代ではありません。たとえば、グァム島で、この間初めての喜びの集いだったんですけどおそらく、最後ではないでしょうか。
グァム島行こうと思っても、もう何ヶ月前に切符頼まないともう手に入らないよ、もういっぱいでいっぱいで。この間大きなジャンボで、500何十人入るジャンボは、20人乗ってたんです。そうすると、グァム島にいる日本人3,000人ぐらいはみんな戻りますよ。仕事がない。ホテルは全部つぶれます。そういう時代なんです。
先に天に行く人は本当に幸せじゃないでしょうか。

昨日新潟で、ある兄弟の葬儀だったんです。人間的に考えれば、手術しなかったほうがよかった。
けどもそういうこと考えてもなにもならないし、人間は、「手術のためだったか、癌のためだったから死んじゃった。」と言いますが、主が召してくださったからです。
彼の残されてる家族のこと、ぜひ覚えていてください。自分の子ども持っていなかったんですけど、二人の男を育てたし、もちろん二人ともは結婚しているし、孫5人いますけど、みなイエス様をまだ知らない方々ですからぜひ、覚えていてください。

そして先週の火曜日、ちょっと交わった奥さんがいまして、彼女のこともぜひ覚えていてもらいたい。
夫婦関係あまりよくなかったようです。大学の教授で、けどアルコール中毒になって、今朝電話もらいまして、第三者からけど、昨日召されたそうです。ですから、あの奥さんのために、また結婚してる娘のためにも、ぜひ覚えていてください。イエス様にだけ頼る恵みにあずかるように。

そして同じく先週の火曜日、ある姉妹のご両親に会いました。
非常に楽しい交わりだったんですけども、あのお母様、姉妹は、倒れて危篤状態だそうです。あの姉妹のこと、またご主人の兄弟のことも、ぜひ覚えていてください。二人ともは、主のものですから、主は支配することができ、自分のご栄光を現わすことができるように。

もう一人の姉妹のご主人なんですが、やっぱりアルコール中毒で入院されていて、はじめ肝臓だけだめになっちゃたんです。腎臓も完全にだめになってます。おそらく長くないなのではないかと思います。
後でちょっと見舞いに行くつもりですけども、彼もはっきりイエス様に頼ることができるように。
夫婦の間が全然だめだったから、ずっと別居して生活したのです。けども奥さま、また娘もほんとに主に頼ってます。

そして言われたように、司会の兄弟の奥さまも入院されていて、ぜひ彼女のことも覚えていてください。主は確かに今、兄弟祈られたように、主は支配しておられます。偶然はない。結局主は近い。
2週間前の火曜日まで、世界は、平安な世界らしかったんです。けど本当は違うよ。先週現われただけなんです。
結局、もう今読みましたの中で、ちょっと面白い表現なんですね。

ローマ人への手紙13:13
13ねたみの生活ではなく、

と書いてあるんですねぇ。ねたみの生活することができるらしい。大変じゃないですか。
信ずる者も、ねたみの生活をすることができる。今世界のこと考えれば、もうみんな憎みあってます。復讐しよう、けど結局人間は何をやっても的外れ。
けども主は全部赦すんです。長い目で見ておられるからです。私たちは結局何にもわからないから、いったいどういうことか、どうして主は、これとこれとこれを赦すのか。
けども、いっくら考えてもわかりません。けども、悪魔の勝利になりません。これはもう決まり。イエス様は、今から戦わなくちゃいけない、勝利得なくちゃいけない、じゃないよ。
もう終わっちゃたよ。戦いは終わった。完了したとイエス様は言われたのです。結局主は恵み深いお方です。

この間、マルコの名前の意味について、だれもはっきりしたことわからないけど、彼はもう一つの名前を持っていたのです。ヨハネ。そしてヨハネの名前の意味は、「主は恵み深いお方である。」
この間ちょっと話したように、このマルコという男は、非常に恵まれた状況の中で生まれました。クリスチャンホームで育てられたのです。親は、間違いなく主イエス様を知るようになり、愛するようになったに違いない。もしかすると彼の父親は早めに召されたなのではないか、と考えられます。けども、彼の母親は非常に立派な女性で、自分の持ってるものは自分のものではない。

あなたがたは買い取られたのです。あなたがたは自分のものではない。あなたがたの持ってるものも自分のものでもないと、彼女ははっきりわかったのです。ですから彼女は、自分の家を開いたんです。
あの家とは、マルコの実家とは、結局もう主の恵みに満たされたものになったのです。最後の晩餐も、あの家で行なわれたに違いない。イエス様はもちろん何回も何回も、彼の実家で現われたし、結果として幼いときからイエス様はもちろんこの目で見ることができたし、この耳でイエス様の声を聞くことができたし。非常に恵まれた男でした。
その後、彼の実家とは初代教会の避難場所にもなり、祈りの場にもなったのです。

このマルコとは、もちろんイエス様のことを心から信じ、尊敬し、愛するようになったのです。
結果としてやっぱり「イエス様のために生きたい!」、イエス様は殺されたとき、彼も近くまでいたようです。ゲッセマネの園で、裸で逃げちゃったんです。捕まえられようとされたとき。

けども後でやっぱり「私は、伯父であるバルナバと一緒にまたパウロと一緒に、イエス様のこと紹介したい。イエス様のために生きたい。」と望んだんです。
結果として、各地で主のみわざを目の当たりに見ることができたし、けどもいわゆる伝道旅行とは、決して楽なものではなかったし、飛行機もなかったし、新幹線もなかったし、自動車もなかったし、結局もうだいたい歩くことだけだったのです。
飢えもありました。身の危険もあったのです。そしてこの若きマルコは、あるとき「もう十分です。いやです。」、苦しさに耐えかねてパウロとバルナバから離れ、エルサレムに逃げ帰ってきてしまったのです。
イエス様は、言われたことがあります。

ルカの福音書9:62
62だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

ですから聖書の中で、「いつも前向き生活しなさい。あきらむる必要はない。主は生きておられます。」、この主の一つの名前とは、「望みの神」です。後ろを見てはいかん。けども、マルコは後ろを見ただけじゃないんです。彼は逃げた。
言えることとは、彼は出掛けたとき、「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか。」、と考えないで、主に尋ねないで、自分勝手に出掛けたんです。
そうすると、うまく行くはずがない。だから彼は途中でだめになって、家へ戻ってしまったのです。

けどもその後で、彼はエルサレムでペテロと会うようになったのです。前にもちろん、何回も少なくとも彼の顔を見たことはありますし、イエス様が彼の実家に現われた時、やっぱりペテロは、だいたいいつも一緒でした。
個人的に話したかどうかわからないけども、逃げてしまってから、彼はこのペテロと親しく知るようになったのです。それからペテロによって導かれたのです。どうしてペテロだったでしょうか?このペテロとは、主を裏切った経験者だったからです。
ペテロは若いマルコに「ひどいじゃないか。あんた。」と言えなかったんです。自分はもっと、ひどかったからです。ペテロに与えられた使命とは

あなたの兄弟姉妹を、強めなさい。励ましなさい。

彼はそれをできたんです。自分で励まされ、捨てられなかったからです。
主は、だめになってしまったマルコを捨てないで、別のかたちで導いてくださったのです。この導きの結果とは、マルコの喜びの証しでした。すなわち、「主は恵み深い。主はだめな者を捨てようとしない。」 マルコは、結局イエス様のことを聞いたし、イエス様に何回も出会ったし、けどもほんとの意味で自分の罪深さをまだ知らなかったのです。

いわゆるクリスチャンホームで育てられた子どもの場合も、やっぱり危ない。安全じゃない。イエス様を信じます、喜んで集会行く、同級生のために伝道する人々はいっぱいいますよ。
けども急に姿を消す。結局社会人になること、それから結婚の問題で、多くの人々は躓くんです。結局、素直な信仰とはある年齢までいいんです。けどその後で十分じゃない。この素直な信仰に、ほんとの悔い改めがついてこなければ、結局だめなんです。

マルコは、主イエス様を本当の意味で恵み深いお方として、罪を赦すお方として、駄目な者を絶対に捨てないお方として、知るようになったのです。そして用いられる器になりました。
パウロは、「彼はもう使うものにならない。」、彼はどうしてそう思ったかといいますと、砕かれなければ用いられ得ないからです。悔い改めるようになれば、必ず変えられ、用いられるようになる。おそらくパウロは、一番彼のために祈ったんじゃないかなと思います。

確かに彼のマルコに対する態度は、本当に大変でした。親戚であるバルナバと一緒に働くことができなくなっちゃたんです。大喧嘩になったんです。聖書全体を見ると、だれが正しかったかな。
バルナバか、パウロか。結局パウロでしょう。
バルナバは同情者です。親戚関係があったし、何とかなるんじゃないかと思ったんですけど、パウロは結局奇跡が起こらない限りなんにもならないと確信しました。ある聖書の箇所で結局彼は、偽善的な態度取っちゃたと書かれています。けどもマルコは用いられる器になりました。

このマルコの福音書1章を始めていく前に、次のような3つのことについて、ちょっとだけ考えたいと思います。

第1番目。マルコの福音書のテーマ、主題とはいったいなんなのでしょうか。マルコの福音書のテーマ。
第2番目。マルコの福音書の鍵。すなわち、マルコの福音書の中のいちっばん大切なこととは、いったいなんなのでしょうか。
聖書の中の66巻なんですけども、やっぱりどこの本を見ても一番大切な言葉、特徴づけられる言葉があるんです。この一番大切な言葉とは、いったいなんなのでしょうか。
そして第3番目。マルコの福音書の分類についてちょっとだけ考えたいと思います。

まず、マルコの福音書のテーマとはいったいなんなのでしょか。
福音書はすべて旧約聖書に根を下ろしてます。そのマルコの福音書の根は、特にイザヤ書にあると言えます。
預言者イザヤは、単にユダヤ人たちが待ち望んでいたメサイアの支配、またメサイアの栄光とを告げ知らせただけではなく、12回も「来られるべき方は、しもべのかたちをとって来る」と預言したのです。
イザヤの預言に対して、ユダヤ人たちは言い訳することができません。なぜならば、イザヤ書、たとえば40章、42章、52章、53章の中で、そのことがはっきりと何回も何回も述べているからです。マルコの福音書は、この預言の成就そのものです。

ちょっと3箇所見てみましょうか。イザヤ書の42章の1節から、

イザヤ書42:1-3
1見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
2彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
3彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

こういうふうに、来たるべき救い主についてイザヤは預言したのであります。
結局「来たるべき救い主」とは、王よりも支配者よりも、しもべとして来られる。彼は傷んだ葦を折ることもないお方である。

イザヤ書52:13-14
13見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
14多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――

ここも、「来たるべき救い主」とは、しもべとして仕える者として、自分を無にするお方として来られるとあります。

それからよく知られてる、53章の2節と3節。

イザヤ書53:2
2彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

とあります。それから7節から。

イザヤ書53:7-8
7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

イザヤ書53:11-12
11彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

こういうふうに、預言された救い主とは、しもべそのものである。ここで「正しいしもべ」と呼ばれてるお方です。
マルコの福音書のテーマとは、結局、「主はしもべとして来られる、仕える者として来られるお方である。」とあります。

第2番目の、マルコの福音書の鍵、すなわち一番大切な言葉とはいったいどういう言葉なのでしょうか。
マルコの福音書に戻りまして、10章44節と45節。

マルコの福音書10:44-45
11あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
11人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

マルコの福音書の中の一番大切な箇所とは、今読みました1節です。イエス様は、仕えられるために来たよりも、みんなに仕えるために来られたのです。
イエス様はどういうふうに仕えたかといいますと、結局贖いの代価として、自分自身を与えてくださったのです。
「わたしは無視されても捨てられても結構である。人間は永久的に幸せになれば、わたしは喜んで犠牲を払う。…よりも犠牲になる。」と、イエス様は決心してくださったのです。いつか将来メシヤはかしら、すなわち王の王、主の主となります。
そのとき多くの国々は、この主に仕えるようになると、聖書ははっきり言ってます。たとえばダニエル書を見ると次のように書かれてます。

ダニエル書7:14
14この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

とあります。当時のユダヤ人たちは、喜んで引用したのです。われわれの救い主とは、結局われわれを、ローマの支配権から解放されます。
私たちは自由になります。けどもイエス様、王になる前に、しもべとして自分のいのちをささげたのである、ということを当時のユダヤ人は聞こうとしなかったのです。今日まで聞こうとしません。これこそ悲劇的です。
もう一箇所。ゼパニヤ書の3章1415ページになりますが、

ゼパニヤ書3:9
9そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。

とあります。けどその前に、メシヤは自分の自由意思で仕え、自分のいのちをささげなければなりませんでした。またメサイアは、自分の信ずる者たちに救い主としてご自身を現わされなければならないのです。
私たちは、マルコの福音書の中に、次のような、ピリピ人への手紙の2章5節から8節までを見ることができます。

ピリピ人への手紙2:5-8
5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

つねに、主なる神との交わり一致からでている主イエス様のご奉仕は、なにものによっても妨げられることがありません。イエス様は、人間のかたちをとらるる前に、すでにご自身をすべて、父なる神にささげることをよしとしておられたのです。
へブル人への手紙の10章の5節からを見るとわかりますが、

へブル人への手紙10:5-7
5ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
6あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」

この聖書の箇所は詩篇なんです。詩篇の40篇であります。預言されたのは、やっぱりイエス様を通して実現されたのです。40篇の7節から9節までを見るとわかります。

詩篇40:7-9
7そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。

とあります。このみことばこそが、イエス様を通して実現されたのです。
イエス様はこの世において、完全なるしもべ、人のしもべ、主のしもべとして生涯仕えられたが、これらのことをすべてご自分の自由意思でなさったのです。
ヨハネの福音書を見ると、イエス様は次のように告白してくださったのです。ヨハネの福音書の8章の28節と29節です。

ヨハネの福音書8:28-29
28イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
29わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

そして10章の18節を見ると、イエス様は次のように言うことができたのであります。

ヨハネの福音書10:18
18だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

また、もう一回イザヤ書に戻りまして、イザヤ書の50章、このみことばももちろんイエス様を通して実現されたのであります。

イザヤ書50:5-7
5神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
7しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。

最後にもう一つ。マルコの福音書の分類についてちょっと考えたいと思います。マルコの福音書は、大きく分けて2つの分類することができます。
前半は、「完全なるしもべの完全なる奉仕」が中心テーマでしょう。すなわち、1章から8章の30節までです。完全なるしもべの完全なる奉仕。
そして後半は、「完全なるしもべの完全なる犠牲」が中心テーマです。すなわち、8章の31節から、16章の終わりまでです。
しかしながら、これら2つの中心テーマはさらに細かく分けてみることができます。前半は、次のように3つに分けることができます。
すなわち、1章の1節から3節まで。「手引きのようなもの」です。
それから、1章の4節から15節までは、「しもべの準備」がなされています。
それから、1章の16節から8章の30節まで、実際に「仕えてるしもべ」が描かれています。

この最後の、第3番目の内容は、さらに4つに分類することができるでしょう。
まず第1番目。「ご自身の権威」、1章の16節から3章の終わりまで。
2番目。「仕えたしもべのことばが持っていた力」についてです。4章1節から、5章の終わりまで。
そして第3番目。「そのしもべが捨てられたこと」についてです。6章の1節から31節まで。
そして最後に4番目なんですけど、「そのしもべの愛が示されたこと」についてです。6章の32節から8章の30節までです。

1章1節から3節までには、「手引きのようなもの」であると言ってもいいでしょう。主なる神の霊が、マルコに望んだため、マルコは次のように言うことができたのです。

マルコの福音書1:1
1神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

イエス様を神の子として信じない者は、悪魔、また悪霊にめくらにされてる者であると、はっきり言えます。信じない者とは、結局反キリストの霊によって縛られていると、聖書は言ってます。
ここでイエス様こそが、神の子であるということをはっきり示されています。マルコは、イエス様が神の子であるがゆえに、なおさらイエス様の奉仕とへりくだりとを大切にせざるを得なかったのです。
ここで注意したいことは、マルコだけでなく他の福音書の作者たちも共点して「救い主こそ神の子である」ということを繰り返し、強調してることであります。

すなわちマタイは、イエス様の系図を通して、主イエス様が神の子であることを証明しています。
ルカは、マリヤが聖霊によってイエスをみごもった記事を通してそれを証明しています。
ヨハネは、主イエス様が永遠の昔から父なる神とともにおられたことを述べることによって、それを証明しています。
いずれにしても4人とも一致して、主イエス様が神の子であることを証明しています。これは福音書の作者に限らず、その他の新約聖書の作者も、旧約聖書の作者たちと同様にそのことを証明してます。
ちょっとルカの福音書の24章を見るとわかりますが、

ルカの福音書24:44
44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

結局、旧約聖書全体とはモーセの律法であり、預言者の書であり、また詩篇であります。イエス様が神の子であるという、動かすことのできない証明のあとで、マルコは2節と3節において旧約聖書を引用しています。
どういう箇所かといいますと、マラキ書の3章の1節です。

マラキ書3:1
1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。

とあります。もう1箇所、引用された箇所とは、イザヤ書からの箇所であります。

イザヤ書40:3
3荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

とあります。この2節3節ならびに、これに関連した聖句は、すべてメサイアが2度来られることを預言してることはわかります。
すなわち1回目の時は、へりくだったしもべのかたちをとって尊い代価を払う。私たちを贖うために来られ、それから2回目の時は、権威を持って裁きの主として、裁くために来られる、と記されています。
主イエス様を救い主として受け入れない者は、いつか裁き主としての、主イエス様の前に出なければなりません。

使徒の働17:31
31神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

とあります。それから、マルコの福音書1章の4節から15節までは、「しもべの準備」が、記されています。
9節から11節に、イエス様がヨハネによって、バプテスマをお受けになったことが書かれています。そのことによって、イエス様はご自分がお使いになられる人々と同じようになられたのです。
またそのことによって、いかなる代価を支払っても、たとえご自身のいのちを捨ててさえ、仕えまつることをイエス様は決心されたのです。マルコはそのときに、

マルコの福音書1:10
10御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

と言ってます。これは、天の父なる神が御心にかなった者として、イエス様を心から愛しておらるることを明らかにしています。完全なるしもべこそ、主の愛する子に他なりません。
イザヤもまた、来たるべきメサイアについて、これと同じことを預言しています。イザヤ書の42章1節です。

イザヤ書42:1
1見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

とあります。要するに「しもべの備え」とは第1に、「仕えまつる決心」、第2に「父なる神に認められること」、第3に「聖霊に満たされること」です。
この3つのことから、主イエス様の祝福された活動がはじまったのです。
まことの完全なるしもべのしるしは、全き父なる神に、依り頼むことです。ヨハネの福音書の5章19節を見るとはっきりわかります。

ヨハネの福音書5:19
19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

結局イエス様は、「わたしは自分の力でなにもできません。わたしは父から離れたらおしまいだよ。」と言われたのです。そしてこのイエス様は、結局「あなたがたも同じ態度とらないとなんにもならない。」
この間の土曜日でしたか、ある若い二人が自分たちの結婚式のために選んだことばは、結局その意味なんですね。ヨハネの福音書15章の5節でした。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

イエス様は、結局同じこと言われたんです。「わたしは父から離れてはわたしはなぁにもすることができません。」 イエス様から離れては、私たちは本当の意味で信ずることもできないし、悔い改められないし、祈ることもできないし、もちろん愛することもできないのです。
「少しもできない。」と、イエス様は言われたのです。

結局人間にとって一番困ったことは、もっとも足りないこととはいったいなんなのでしょうか。結局、自分で何かを試みようという気持ちです。いつも自信に満ちていたペテロにイエス様は言われたことがあります。

ヨハネの福音書21:18
18あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

この言葉は、だれでも体験すべきなのではないでしょうか。
すなわち、まったくイエス様にだけ依りかかるとイエス様は導いてくださり、喜びと平安と希望に満たしていてくださるのです。




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