マルコ伝5


ベック兄

(吉祥寺学び会、マルコ伝シリーズ、2001/10/02)

引用聖句:マルコの福音書1章4節-15節
4バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
5そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
12そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
14ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

今日は、マルコの福音書の続きなんですけども、今日のテーマは「主イエスとはどなたか。」
福音を信じなさいとは、もちろん一つの教えを勉強して信じ込め、ということを意味してるのではない。福音とは、一つの教えよりも、主イエス様ご自身です。
この主イエス様を信ずることによって、知ることまた、知るようになってからイエス様を愛することこそが最も大切なのではないでしょうか。

私たちの場合にも、まだ知らない人のことを聞いたり、実際に会ったりしたときの第一印象は、決定的なものになることが少なくないでしょう。
ここで私たちは、今まで見たことも聞いたこともなく、ぜんぜん知らない人、「イエス様」がマルコの福音書1章によって受けた印象で、どのような人であるか。イエス様とは、どなたなのでしょうかと考えることとは、大切なのではないかと思います。

このマルコの福音書1章を読んで、すぐに感じることは、イエス様というお方が偉大な人格者であった、ということです。
イエス様は絶大な権威と力とをもっておられました。イエス様とは、どなたか?という問いはたくさんある中でも特に大切な問いです。
多くの人がこの問いに対して、多くのもの書いてます。けど、この問いに正しく答えられる唯一の権威ある書物とは、言うまでもなく神のみことばである聖書です。
そこで、聖書に拠りながら、イエス様の言わば10枚のスナップ写真を見ていくことにしましょう。

私たちはスナップ写真をアルバムに収めるとき、それを見てわかるように、1枚1枚の写真に簡単な説明書と見出しを書きこむことが便利です。それと同じように、主イエス様の人格を知るために、それぞれの異なったスナップ写真にイエス様の見出しをつけてみることにしたいと思います。

まず第一に、バプテスマのヨハネに聞きましょう。すなわち、「ヨハネ、イエス様はいったいどなたなのでしょうか?」
このバプテスマのヨハネとは、幼いときからイエス様をよく知っていた者で、そのうえ親戚関係にあるため、いろいろ細かいことを知っていたはずです。
今読みました1章の4節から読むと、わかりますね。

マルコの福音書1:4
4バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

当時のバプテスマと、今のバプテスマとはちょっと違う。
当時は悔い改めのバプテスマだった。今のわれわれの考えてるバプテスマとは、1つの証です。悔い改めた結果として、赦された事実に対する証です。

マルコの福音書1:5
5そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

イスラエルの中で一番の有名人は、このバプテスマのヨハネだったなのではないでしょうか。
なぜならば、ここでユダヤ全国、エルサレムの全住民と書かれてます。結局、例外なくみんな悔い改めてヨハネによって洗礼受けるようになったのです。
この

マルコの福音書1:6-8
6ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

水のバプテスマと、聖霊のバプテスマとはもちろん比較することができないものです。結局このヨハネは、イエス様が「私よりも偉大で、権威があり、聖霊によってバプテスマを授けるゆえ、神にほかならない。」と言ってます。
そうすると、主イエス様についての第一の見出しは、何とつけたらよいなのでしょうか。イエス様は、「強いお方」、あるいは「力のあるお方」であるとバプテスマのヨハネは答えております。
ただし、イエス様がヨハネよりも力がある、という意味はただ単に程度の差にすぎないということではなく、天と地の違いがある、ということです。
すなわちヨハネは、水でバプテスマを授けたのに対して、イエス様は聖霊によってバプテスマを授けたわけです。だから、ヨハネが人間であるのに対して、主イエス様は神にほかならないと、証したのです。

ヨハネは人間であるため、時々は思い違いをするようなこともありえます。そのようなことは今日私たちの身近でもしばしば起こってることです。
例えばある若い男の人が、一人の女性を好きになった場合を考えてみましょう。彼は世界中で彼女がいっちばん素晴らしい女性だと思い込むことでしょう。そして、ことさらに彼女を美しく見過ぎるような傾向もなしとはしません。
そのように恋愛中の男性は、甘い夢を描いて、彼女を偶像崇拝する傾向も出てくるのです。けど、結婚すると次第に女の欠点が目についてきます。そこで彼は、彼女に対して全く失望してしまうような結果に終わってしまうことも少なくない。

このように、思い違いをした人間は結果として失望に終わってしまうのです。そのように、人間は時として思い違いをすることがあり、ヨハネといえども同じ人間ですから、その可能性が全くないとは言えないのです。
けども、ヨハネは確信したのです。主イエス様とは強いお方であり、力のお方であり、神ご自身の現われそのものであると証しました。
それから、14節。

マルコの福音書1:14-15
14ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

福音とは全く新しいものであり、救いのための唯一の手段であり、イエス様を信ずる者にとっての解放を意味するものです。福音とは良い知らせ、喜びの知らせです。
われわれは残念ですけど、最近あんまりいい知らせを聞くことができないなのではないでしょうか。新聞を見ても、テレビを見ても、いい知らせがないんです。テレビを見て、「あぁ、感謝〜!」そういう気持ち、ちょっとなるもんじゃない。もちろんある意味で喜ぶことができる。大変だから、イエス様は近い!それ考えると嬉しくなっちゃう。
けどもこの世の提供してるのは、いい知らせじゃない。福音ではない。福音とは、もちろん一つの教えではない。イエス様ご自身です。イエス様だけが希望を与えられるお方で、あります。

けども、今度は人間よりも主なる神ご自身に聞いてみましょう。
すなわち、最高の権威を持っておられる、主なる神ご自身に聞いてみることは、大切なのではないでしょうか。9節からですね。

マルコの福音書1:9-11
9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

主なる神は、どのような答えをお与えになるのでしょう。
主なる神は、あいまいにごまかしたり、謎を出されたりするようなお方でしょうか。決してそうではありません。主なる神は、はっきり「主イエスがわたしの子である」と言っておられます。これこそ、主なる神ご自身の権威あるお答えです。

ある宗教団体は、「イエス・キリストは神ではない。神の子どもにすぎない。」、けども神の子どもとは、もちろん神であることとは決まっとるんです。
魚の子は魚でしょう?犬の子は犬でしょう?人間の子は人間でしょう?神の子は神だよ。ここで、

マルコの福音書1:11
11「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

とはっきり書き記されています。どの子どもでもこの答えを理解することができるなのではないでしょうか。主なる神は、非常にはっきりと明確に「主イエスがわたしの子である」と、仰せになりました。
ですから私たちは、主イエス様がだれであるかと、もうわかってます。主なる神ご自身が仰せになったからです。
ですから、2枚目の写真に『主イエスは神の子である。』という見出しをつけることができます。
結局われわれの信仰の土台なるものは、それなんです。神の子である主イエス様だけが、まことの平和をつくることができる。

けども、今の世界の動きを見てもわかります。みな神の子である、平和の君であるイエス様なしに、平和をつくろうと考えています。
日本で少し始まったんですけども、ドイツ、他の国々で前からあるんです。いわゆるエキュメニカル礼拝。カソリック教会行く信者、プロテスタントに行く信者はたまに「一緒になって礼拝しましょう。」
一緒に聖餐式やるのはまだそこまで行ってないんですけども、計画されて、おそらく来年からできるようになってるんですって。聖餐式に対する考え方はもう全然違う。けども結局そういう動きがあります。

結局、「仲良くしましょう」、普通の人だったら「どうして悪いの?」、けども信仰の土台が全く違ったならば、「礼拝しましょ」、礼拝の対象が間違ってれば、とんでもない話になります。
去年ローマの法王は、考えられないことやっちゃったんです。おそらく何年前から計画したことです。彼はイスラム教徒のモスクへ行ったんです。イスラム教徒のモスクの中で話したんです。
なかなか考えられないことですけども、彼が宣言したのは「キリスト教の神と、イスラム教徒の神と、ユダヤ教の神は同じである。だから、一つになりましょう!」
ちょっと深く考えなければ、「どうして悪いの?」と聞く人も、いるかもしれません。けども考えられないことです。

この間、どなたかから新聞記事もらったんです。マザー・テレイサについてですね。カソリック教会の中で英雄なんです。
『マザー・テレイサ、悪魔払いの儀式。
臨終医は明らかに、「死の床ではマザー・テレイサも眠られずに苦しみ、悪魔払いを受けた。」インドのカルカッタの大司教が4年前に実施した。
マザー・テレイサの命日の五日、彼女の臨終医はAP通信に語った。死を間近にした当時87歳のマザー・テレイサは医学的に説明ができない悪魔に苦しめられた状態に陥り、眠れなくなった。このため本人の同意を得て、神父が悪魔払いの儀式を行ない安らかに眠るるようになったという。
大司教は、「聖人にも人間的面があって儀式が必要になった。なんら問題はない」と述べ、手続きが進むマザーテレサの列聖には影響しないことを強調した。カソリック教会において悪魔払いは医学的に説明不可能な症例に限って、例外的に許されてる。』

そういう記事なんです。この集会のある姉妹は、インドのカルカッタまで行って、彼女の住んでいて、活動したところへ行ったんです。
考えられない暗いところで、中にいる人々の表情見ても哀しさばかり。なんの平安もない。なんの喜びもなかった。
このマザー・テレイサは、何を言ったかと言いますと、「私はべつに、インド人に聖書のこと言う必要ない。彼らは自分のヒンズー教の信仰持っているなら、それで十分です。」
この彼女は、結局平和のノーベル賞もらったんです。アラファトもノーベル賞もらったんです。ちょっと泣くべきか、笑うべきか、わからないなのではないでしょうか。

そして先々週でしたか、結局あの、3つの一番大きな宗教の代表者たちは、「一緒にやろう」、「スピーチをしたりして、一緒に祈ろう。」
キリスト教の代表者であるビリーグラハムは、まず出た。それから、イスラム教徒の偉い人は出た。最後にユダヤ教の人も出たんです。結局みんな一致して、「世界平和のために一つとなりましょう!」

結局イスラム教徒とは、何を言っとるかといいますと、『神は子どもをもっていません。イエス・キリストは神の子どもではない。』とはっきり言ってます。『この信仰宣べ伝えるために、何百万人殺してもいい。』そういう教えです。
ユダヤ教も、イエス・キリストは神の子として認めていません。『イエス・キリストは立派な預言者だったけども、約束されたメサイアではなかった。』
約束されたメサイアであったならば、もう大変な問題になります。そうすれば、イスラエルの国民は一番ひどい罪を犯してしまったことになります。
ユダヤ人は、今日までそれを認めようとしない。もちろん例外がありますよ。私の神学の親しい友達も、ユダヤ人だったし、今必死になって、ユダヤ人のために伝道してるんですけども、非常に少ない。

そうすると、「一緒にやりましょう。同じ神だ」という考え方とは違う。この神とは、宗教と関係しとる神であり、われわれの神とは無宗教です。
ヨハネの手紙第IIの中で、ちょっと厳しいこと書いてるんです。けども「愛」という言葉何回も出てきます。「真理」という言葉も出てきます。
結局、「真理」と「愛」は、一緒にいなければもちろんとんでもないことになります。はっきりとした態度とらなければ、われわれの信仰生活も的外れの生活になるかもしれない。

ヨハネの手紙第II、1:8-9
8よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
9だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。

その教えのうちにとどまっていない者は、御父をも御子をも持っていません。たんなる偶像しか持っていない。
今のカソリックの法王は、「私は父なる神に祈ったことがない。私はイエス・キリストに祈る必要はない。マリヤは十分である。」と言っとるのです。考えられない。
結局、もちろん御父をも御子をも持っていない。そして、10節から。

ヨハネの手紙第II、1:10-11
10あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
11そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。

結局イエス・キリストは、生けるまことの神であり遣わされた御子であると、信じない人々と一緒に集会をもったり、一緒に祈ったりすることとは、神を冒涜することです。ある意味で悲しいことですけども、「イエス様は近い!」という証拠であるから、大いに喜ぶことができるのではないでしょうか。
イエス様はそれから、マルコの福音書に戻りまして、悪魔に試みられたのです。イエス様でさえも試みられました。

マルコの福音書1:9-12
9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
12そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエス様は自分勝手に行かなかったし、人間に勧められたのでもないし、御霊。

マルコの福音書1:12-13
12御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

とあります。主イエス様がサタンの誘惑にあわれるという、非常に困難な状態におかれたことがわかります。悪魔は、主イエス様を駄目にしようと思ってあらゆる誘惑を試みました。
最もよい人間についても、聖書は、「その人は誘惑に陥るのはそれぞれ欲にひかれ誘われるからである」と言ってます。たとえば、ヤコブの手紙の1章14節を見ると次のように書かれてます。

ヤコブの手紙1:14
14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

とあります。けども、イエス様の場合にはそうではなかったんです。
イエス様は、悪の誘惑に陥る方ではなかったからです。イエス様は、全く罪を知らなかった。罪の可能性を、持っていなかったお方です。なぜなら、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みますというように、罪人は内側からの罪を持っているのに対して、イエス様は外側からの試みにあわれたに過ぎなかったからです。

3つの試みに対して、イエス様はご自身が自由意思で、自発的に父なる神に従っていることを証明されたのです。
このように、イエス様が父なる神に全く忠実に従ったために、アダムやエバが悪魔に陥った場合とは違って、悪魔に対する完全な勝利を身をもって示されたのです。
もちろんこの時に、サタンがイエス様に勝っていたならば、全人類は永久にサタンのとりこになっていたのです。

アダムがサタンの誘惑に負けたため、結局全人類は悩む者となったのです。全人類に罪が入り込んじゃったと、ロ−マ人への手紙5章に書かれてます。
よくま引用される箇所なんですけども、人間はどうして悩むのか、どうして苦しむのか、今の世界はどうしてめちゃくちゃなものになったかに対する答えなんですね。

ローマ人への手紙5:12-17
12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
15ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
16また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
17もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

イエス様は、100%完全に父なる神により頼んだため、悪魔に対する勝利者となられたのです。
イエス様は40日の間、悪魔の試みにあわせられたのです。出エジプト記を見ると、モーセは40日間山にいたことも聖書に記されています。モーセにとってこれが主とのすばらしい交わりを意味したことを言うまでもありません。ちょっと見てみましょうか。

出エジプト記24:18
18モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

出エジプト記34:28
28モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

云々とあります。
(テープ A面 →B面)

彼の顔とは あとで輝くようになった。イスラエル人は、彼の顔も見られなかったとあります。イエス様は40日間荒野で過ごし、モーセは40日間山の中で過ごしたのです。一番優れた預言者であるエリヤも、40日荒野にいたと、聖書は言ってます。
その間、主が親しくご臨在してくださり、助けてくださっただけではなく、「天使が食べ物を備えた。」と聖書は言ってます。ちょっと列王記第Iを見てみますと、わかります。

列王記第I、19:4
4自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。…

彼は「死にたい、死にたい、死にたい」としか考えられなかったんです。理由は、「私は先祖たちにまさっていませんから。」
結局「私はだめなんです。」

列王記第I、19:5-8
5彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
6彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
7それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
8そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

とあります。

主なるイエス様は、40日の間荒野にいたとき、獣もそこにいたが食べ物は全然ありませんでした。モーセは、主なる神と交わり、エリヤは御使いとともにおり、イエス様は猛獣とともにいたことが福音書を通して知ることができます。
このイエス様は、万物の創造主にほかなりません。創造主が、生き物を造られたとき、すべての動物はアダムのところへ来て、アダムに名前をつけられたのです。もちろんそのとき、アダムはそれらの動物に対して、なんらの不安や心配も持っていなかったのです。けど、アダムとエバの罪によってこれらの動物は「猛獣になった。」と聖書ははっきり言っとるのです。
神は猛獣を造る気持ちがなかったのです。人間の堕落によってなっただけです。将来いわゆる、千年王国の時代には、パラダイスのときと同じように、猛獣はその性質を失い、おとなしい動物となり、まむしも乳飲み子とともにたわむれるようになるとあります。
イザヤ書の11章の中で、この主によって将来語られる、本当の意味での平和について次のように書かれてます。

イザヤ書11:6-9
6狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
7雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
8乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
9わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

今、憎しみに満ちた世界を見ると、ちょっと考えられないことですけども、この預言も必ず将来成就されます。
イエス様の周りにいたけものは、明らかに猛獣であって、残忍な性質を持っていましたが、イエス様の中に創造主の人格を認めたため、危害を加えることができなかったのです。
イエス様の周りにはけものだけでなく、最後に御使いたちもいて、主イエス様に仕えていたとあります。悪魔は主イエス様に対してどうすることもできませんでした。

このようなイエス様に対して、私たちは「勝利者」という見出しをつけることができます。
イエス様は、悪魔に、荒野にみちびかれ、試みられました。けどイエス様の毅然たる態度によって、悪魔は退かなければならなかったのです。ですから、イエス様は悪魔に対する勝利者であると言えます。
悪魔の試みが終わった後、イエス様が公に、伝道活動を始められました。福音を宣べ伝えるようになったのです。
マルコの福音書に戻りまして、1章の14節、15節。もう一回お読みいたします。

マルコの福音書1:14-15
14ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めてから赦されたことを信じてもいいよ。」という意味です。この2節を見ると、イエス様がいよいよ、ご自分の使命と奉仕を始められたことがわかります。イエス様はこのとき、神の国の王として現われたのです。
その頃バプテスマのヨハネは、捕らえられて獄中にいたこともわかります。そのような情勢の中で、福音を宣べ伝えられることは、イエス様にとっても非常に危険でした。それにも関わらず、イエス様は、ヘロデの支配を恐るることなく主なる神の権威と栄光が支配すべきことを大胆に宣べ伝えたのです。

イエス様は次のように言われました。「時が満ちた。神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ。」
ここで言われてる「神の国」とは、主イエス様を受け入れて、主として信じた者たちの生活すべてを、主に支配なさる、ことを意味するのです。
「福音」とは、全く新しいものであり、救いのための唯一の手段であり、イエス様を信じる者にとっての解放を意味しとるのです。そして、この喜ばしい訪れ、あるいは主なる救い主の啓示を明らかにするために、父なる神は、ひとり子なるイエス様をこの世に遣わされたのです。
その頃は全くの暗黒時代であったにも関わらず、イエス様がやみの支配を恐れることなく、力と権威をもって福音を宣べ伝えたのです。

それを考えると、イエス様を特徴づける見出しとして「最高の権威者」という表現を用いることができるのです。
イエス様は、だれをも恐れることなく大胆に、率直に、権威を持って福音を宣べ伝えたのであります。この権威は人間のものではなく、主なる神の権威にほかならなかったのです。
ですから、そのことから「主イエス様が、最高の権威者である」と、いう事実をわかります。

ドイツに、親子とも牧師をしてる家庭がありまして、むすこは牧師としての最初の説教をするために、一生懸命準備をして、自分の説教に大いなる自信を持つことができるようになりました。別にこれといった失敗もなく、最初の説教が終わった後で、意気揚々と父親のところへやってきて、次のように言いました。
「お父さん。どうでした?僕の第1回目の説教は?生まれてはじめてやった説教ですけど、どう?」、父親は答えて言いました。「まぁまぁ。」

これを聞いた牧師の息子は、不満そうな顔をして黙ってしまいました。それを見た父親は、次のように言いました。「おまえの説教には、主イエス様が全然出てこなかったじゃないの?」
すると、息子はすかさず言い返しました。「だってお父さん。今日、僕が説教した聖書の箇所には、イエス・キリストの名前が全然出てこなかったですから、イエス・キリストのこと話さなくてもいいだろう。」
と、ま、それを聞いた父親は、まぁ静かに答えて言いました。
「それは、違う。たとえ、イエス・キリストの名前が直接に出てこなくても、聖書の箇所はどこをとってもすべて、直接あるいは間接に、イエス様について書き記されているのだよ。」と、「つまり聖書全体は、いつもイエス様を中心にして、イエス様ご自身のことを解き明かしてる。ということを、忘れないように。」と言ったそうです。

結局イエス様は、中心にならなければ、すべては虚しい。役にたたない。意味のないことです。絶対に実になりません。
聖書の中心テーマとは結局、主イエス様、ご自身である。ですから、いつもイエス・キリストというお方はどのようなお方なのでしょうか?という問いを繰り返し持ちつづける必要がある、なのではないでしょうか。

今、マルコの福音書の1章を通して、イエス様が第1に「強いお方」、あるいは「力のある方」であると、バプテスマのヨハネは答えております。
ただし主イエス様が、ヨハネよりも力があるという意味は、ただ単に程度の差に過ぎないということではなく、前に話したように、天と地の違いがあるということです。
すなわちヨハネは、水でバプテスマをさずけたのに対して、イエス様は聖霊で御霊によって、バプテスマをさずけてくださったからです。
ヨハネが人間であるのに対して、イエス様が神にほかならないわけです。

イエス様とは、どういうお方なのでしょうか。
「力のあるお方」です。
「神の御子」です。
「悪魔に対する勝利者」です。それから、
「最高の権威者」で、あります。




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