マルコ伝6


ベック兄

(吉祥寺学び会、マルコ伝シリーズ、2001/10/09)

引用聖句:マルコの福音書1章16節-45節
16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
19また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
20すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
21それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
22人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
23すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
24「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
25イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
26すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
28こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
29イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
30ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
31イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
32夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
33こうして町中の者が戸口に集まって来た。
34イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
35さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36シモンとその仲間は、イエスをを追って来て、
37彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。
38イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
39こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
40さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
41イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
42すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。
43そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
44そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
45ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

最近飛行機を乗った人々は、おそらくみんな気がついたと思うんです。今まで入るとき、切符を見せればよかったんです。けど最近違うんです。
「お名前は?」と聞くんです。「フルネーム」と言わるるんです。
結局確実に、切符の持ち主は違う人じゃないと確かめるためじゃないかなと思いますけども、けどフルネームね、名前を言ったとしても、だからといって、あの人たちは本人を知らないでしょう?名前だけだったら、大したもんじゃないなのではないかと思います。
多くの人々は、イエス・キリストの名前をもちろん聞いたし、けど名前だけを聞くとたいしたもんじゃない。

もちろん、「イエス様とはいったいどういうお方か?」という質問を受けるのはちょっと、失礼かわからないけど、なぜならば、本当の意味で答えられないよ。
おそらく永遠にわたって、私たちはイエス様のすばらしさを、はっきりつかめないなのではないかと思います。けども、イエス様とはいったいどういうお方なのか?という問いは非常に大切な問いなのであります。
はっきり言えることとは、

「イエス・キリストは、キリスト教という宗教と関係のないお方である。」

非常に助かります。イエス・キリストは無宗教です。イエス・キリストは、人間を心から愛しておられるお方です。イエス様は十字架の上で、自分を殺した人々の救い、永遠の幸せのために祈られたお方です。
今のわれわれの見える世界とは、そういう世界じゃない。テロリストのために、祈ってる人ありますかね?考えて...

結局、日本人は昔、「陛下のためだったら何でもします。」、「私も人のためだったら喜んで死ぬ。」と決心したんです。そういうふうに洗脳されてしまったんです。
テロリストたちも同じように、洗脳されてしまった者です。けども、イエス様は彼らのためにも犠牲になったのであり、イエス様は彼らの名前だけじゃなくて、彼らの髪の数でさえも知ってるし、一人一人の動機も知ってるし、イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか?

この間、私たちはちょっと、バプテスマのヨハネに聞いたんです。
このバプテスマのヨハネとは結局、イエス様のことを比較的によく知っていたのです。なぜならば、親戚関係もあったし、イエス様よりも、バプテスマのヨハネは半年前に生まれたんです。
子どもとして、よく遊んだんだと思いますし、けどもこのヨハネとは、「私とイエス様とはもう、比較することができません。私よりもこのイエス様とは偉大であり、権威を持つお方であり、この主イエスとは聖霊によってバプテスマを授けるるお方であるから、神にほかならない。」と言ったのです。

ヨハネは水でバプテスマを授けたのに対して、イエス様は聖霊によってバプテスマを授けたわけですから、ヨハネが人間であるのに対し、イエス様は「神」にほかならないと証ししたのです。
けどもヨハネだって人間ですし、彼は100%正しいかどうか結局わからないでしょ。だからすぐ後で、このマルコの福音書1章の9節から11節まで、神。聖なる神ご自身の答えが書かれてるから、非常にありがたい。

マルコの福音書1:11
11天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

人間に対して、決して言える言葉ではない。主なる神はあいまいにごまかしたり、なぞを出されたりするようなお方でしょうか?決してそうではありません。
主ははっきりと、「主イエスがわたしの子である」と言われました。これこそ、主なる神ご自身の権威あるお答えです。主なる神は非常にはっきりと、明確に、「主イエスが神の子である」と仰せになったのであります。

それから、前にちょっと見たように、イエス様は悪魔に導かれた。ちょっともう、考えられないことです。
主なる神の許しのもとで、悪魔は主なるイエス様を導くことができたんです。試みるため。けどもイエス様の毅然たる態度によって、悪魔は退かなければならなかったのです。
イエス様とは、「悪魔に対する勝利者である」と、はっきり言うことができるのです。

昨日ある病院まで行きまして、ある姉妹は結局患者さんの前に何と言ったかといいますと、「どうして癌になったのかわかった。」、結局、病室の者が福音を聞くため、導かるるため。
この間4人、本当に素直に祈るようになったし、本当に喜んでる。一人だけ、ちょっともう急に電話して、娘に電話して、やっぱり娘も聞いてもらいたいと思って、電話したあとで戻って、もう手が痛くて痛くて、もうどうしようもない状況になっちゃったんです。
私たちは残念だったと思っちゃったんですけど、やっぱり娘いた方がいいと思って、主に任したんですけど、昨日そのチャンスがあったんです。

5番目の奥さんは、彼女の娘もご主人、それから息子もみんな昨日そろったんです。
もちろん、いっしょに呼ばれたか、ちょっとわからないけども、医者の兄弟はひじょうに心配して、帰り道で彼は、「おそらく、2、3日しか、もたないでしょう。」
あの姉妹のこと、ぜひ祈って覚えていてください。

あの兄弟は本当に、あの病院の中で人気者なんです。もう患者達は首を長くして待っとるんです。
「先生がきた〜、先生がきたぁ!」結局みんな感ずるんです。あの先生は、もちろん病気を治そうと一生懸命やるんですけど、やっぱり彼は、病人も大切にする先生です。どっちの方が大切かな。病気か、病人か。
健康人はみんな幸せじゃないでしょ?病気だって治ったとしても幸せになると言えません。
結局あの兄弟は、やっぱり「病気よりも病人の方が大切だ」、そして患者さんたちはそれを知るようになってから、本当に聞く耳を持ってます。もちろん彼は、イエス様しかないと、証ししてるからやっぱり非常にありがたい。イエス様は、

マルコの福音書1:15
15神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

福音とは、悔い改めてから、赦されたことを信ずることができるということです。ピンとこないでしょう。理解できるもんじゃない。
けども、もし人間は自分の罪、あやまち、わがままを言い現わすと、主は赦してくださると、聖書全体の言っとることです。だから、安心して信ずることができるのです。

イエス様は福音を宣べ伝えた。そして、イエス様の口から福音を聞いた人々とは、やっぱりこのイエスとは、最高の権威者と認めざるを得なかったのです。
そして、今読んでもらいました16節から20節まで。4人の弟子たちが出てきます。彼らに聞くと、「どう?イエス様とはどういうお方なのでしょうか?」
話すこととは、そんなに慣れていなかった4人だったと思うんです。けどもおそらくみんな口をそろえて、「イエス様とは私たちの主です。」と言ったに違いない。

マルコの福音書1:17-20
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
19また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
20すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

とあります。ここで二つの光景を見ることができます。
最初の光景は、イエス様が、シモンとアンデレとに語りかけておらるる光景です。第2の光景はイエス様が、ヤコブとヨハネに語りかけておらるる光景です。
イエス様ご自身が、大工さんとして30歳まで働かれたように、彼ら4人の男たちも猟師として、真っ黒に焼けして、たくましい体をしていたに違いない。
彼らはしっかりと大地に足を下ろして、生活をしていた人々でした。

そこで、私たちは「イエス様とはいったいどなたなのでしょうか?」と彼らに聞いてみることにすると、もちろん彼らは確かに多くの言葉を用い得ないでしょう。
実際の行ないによって、彼らは答えた。すなわち、「イエス様とはどなたなのか。」という問いに対して、彼らは行ないでもって答えたのです。すなわち彼らは「すぐ」、次の日ではない。2週間後ではない。「すぐに」網を捨ててイエスに従いました。

マルコの福音書1:20
20彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

とあります。イエス様がお招きになると、4人ともすぐ従ったのです。2人は父親を後にして、イエス様に従うようになったのです。
このこと思う時に、イエス様の影響がどれほど大きなものであったかを、知ることができるなのではないかと思います。イエス様が彼らの名前を呼ばれたときに彼らは、すぐにイエス様に従いました。

今日でも、いままで働いていた職業を辞めて、別の職業に移る人もいます。そのような人は多くの場合、何か失敗したか、何か人間関係がうまくいかなかったか、あるいはもっと給料のよいところへ移りたくなって辞めたとか、いろいろ考えられますけど、イエス様の弟子たちの場合は、そのようなこの世的なものによって仕事辞めたのではなく、イエス様の人格に惹かれて、そうせざるを得なかったのです。
そのときに、イエス様は、「わたしについてくれば、月給を必ず2倍にする」と約束しなかったでしょ。「家族手当を出す。」、「生活保障与える。」と絶対に言わなかったんです。

逆のことを言ったんです。「鳥には巣があり、狐にはほら穴があるが、わたしには休む所がない。」、「こじきのこじきです。」とイエス様は言われました。
そのような人間について行くことは、非常に危険なのではないでしょうか。冒険なのではないでしょうか。このマルコの福音書1章の30節に、

マルコの福音書1:30
30ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。

とあります。この箇所見ると、ペテロはすでに結婚しており、自分の家族を養わなければならない義務と責任を持っていたんです。そのような男が、仕事を辞めるということは、決して簡単ではなかったはずです。
このような男たちに向かって「主イエス様はいったいどなた、なのでしょうか?」と、聞いてみると彼らは必ず大喜びで「主イエスは、わたしたちの主です!私たちのすべてを支配したもう主にほかならない。」と答えるに違いないのです。

このようにしてイエス様に従った人々で、後になってから後悔した人はだれもいませんでした。宗教に入る人々はかんならずみんな、遅かれ早かれわかります。すなわち、「だまされた…」。
弟子たちは、そういう気持ちを知らなかったのです。結局イエス様との生き生きとした交わりを持つことは、最大の喜びであり、幸せでした。

この4人は、彼らから主イエス様が取り去られた後も、死ぬまで大喜びでイエス様を証し続け、最期まで主として忠実に従ったのです。
このように、イエス様を主として仰ぎ、イエス様のために大喜びで死んでいったのです。彼らと同じように私たちも、イエス様が招かれる声を聞き、それに従ったなのでしょうか。私たちにとっても、イエス様がすべての主なのでしょうか。

マルコの福音書1:21-22
21それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
22人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

とあります。この2節を見ると、イエス様が安息日に会堂に入って教えられたことが、書き記されています。そこには、イエス様の話を聞くために、大勢の人々が集まってました。
その人たちに「主イエスは、だれか?」と聞いてみましょうか。彼らは、イエス様が今まで聞いたこともない神の言葉を、権威ある者のように語られたため、その教えに非常に驚きました。
その教えは、律法学者たちの説教とは全く違って、権威に満ちたものでした。彼らは口をそろえて、「主イエスは比類なき教師である。」と答えたでしょう。

マルコの福音書1:23-24
23すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
24「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

神の聖なるお方です。

マルコの福音書1:25-28
25イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
26すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
28こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

とあります。この23節から28節の間に描かれてる、当時の状況は、非常に危険な雰囲気をはらんでいます。そのとき、ちょうどその会堂には汚れた霊につかれた者がいて、その人を通して悪霊が叫んだのです。

ただ単に聖書のみならず、現代の科学も、またこの世には目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も存在していることを認めています。
私たちが、目に見える世界で体験してることは、すべて目に見えない世界の現われであると言うことはできます。ここでもその真理が明らかに示されています。
すなわち汚れた霊とは、目に見えない世界の一部を形成してるものであり、それが一人の人間を通して目に見える世界に現われたのです。私たちはこの汚れた霊に尋ねる必要がありません。反対に、汚れた霊の方から大声で叫んで答えているからです。「イエスは神の聖者です。」

悪魔も、汚れた霊も、主イエス様がどなたであるかということをよく知ってます。
悪魔は、多くの人々が「神がいない」というほど愚かでありません。主なる神の敵対者である悪魔は、現実に主なる神が生きているということを、疑いもなく100%信じています。
悪霊は、イエス様がただ偉大なる教師であるばかりではなく、神の聖者であることを告白せざるを得なかったのです。すなわち、このイエスとは罪を知らないお方です。罪を犯す可能性を持っていないお方です。

悪霊は、イエス様の神聖な犯しがたい権威に打たれ、またそれを恐れたためにこういうふうに叫ばざるを得なかったのです。
イエス様は、悪魔を完全に支配する力をもっておられました。そこで人々は、「イエス様が汚れた霊に命じられると彼らは従うのだ」と驚くのあまり叫ばざるを得なかったのです。イエスは悪魔を支配できる、「神の聖者」です。
それから29節から、ちょっとも1回読みましょうか。

マルコの福音書1:29-34
29イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
30ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
31イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
32夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
33こうして町中の者が戸口に集まって来た。
34イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

とあります。この箇所見ると、イエス様が一人の婦人と出会われたことが記されています。
その当時、イエス様は、今日の現代人と同じように、あるいはそれ以上に忙しく毎日働いておられました。

(テープ A面 → B面)

確かに忙しいかもしれませんけど、本当にやろうと思えば、いくらでも自分の時間をつくり出すことができるなのではないでしょうか。
その意味で、たとえ多くの時間を持っていたとしても、本当にやる気がなければ、自分の時間をつくり出すことができないでしょう。
時間をつくり出す人は、本当に時間を持ってる人です。

イエス様も、忙しい中から時間をつくり出して、シモンのしゅうとめの所へやって来られたのです。イエス様は彼女に近寄り、話しかけると、彼女の手を握りました。その時何かが起こったに違いない。
というのは、彼女が起きあがって、彼らをもてなしたからであるからです。

そこで、今度は彼女に、「イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか?」と聞いてみましょう。彼女は長々しい説明をすることなく、次のように言うでしょう。「私は、死の病におりましたが、今は元気になった。」
イエス様とはどのようなお方なのでしょうか。イエス様の人格を特徴付けるため、いくつかの見出しを付けてきました。そこでシモンのしゅうとめを通してわかったことは、「主イエスは医者であられる。」ということです。

マルコの福音書1:32-34
32夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
33こうして町中の者が戸口に集まって来た。
34イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

とあります。今の節をみると、もっとはっきりとわかることでしょう。
主イエス様は、様々の病を患っている多くの人々を癒し、また多くの悪霊を追い出されたのです。そのことが、医者である主イエス様をはっきりと描きだしています。

マルコの福音書1:35
35さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

とあります。イエス様が一人で祈られたこともわかります。疑いもなく、イエス様は、毎日朝早くから夜おそくまで、非常に忙しい活動を続けておられました。ここでイエス様は、朝早く、夜の明けるよほど前に、まだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出掛けて行かれました。
このようにイエス様は、一人で祈ることを愛しておられましたが、現代人の多くは、反対に孤独な状態から逃れようと、必死になってるなのではないでしょうか。
そのような孤独から逃れて、それをまぎらわすために、多くの人々は映画を見に行ったり、あるいは何時間もテレビを見たりしてるのです。

ある人がどのような人であるかを知るために、一つの方法は「その人が一人でいる時に何をするか」ということなのではないでしょうか。人間は一日中ただ一人でいる時に、いったい何をするなのでしょうか。
疑いもなく一番大切なこと、あるいは一番好きーなことをすることになるでしょう。イエス様も一番大切なこと、また一番愛しておらるることをなさったのです。すなわちイエス様は、祈ることこそがイエス様にとってすべてだったのです。
私たちは、イエス様と同じように、私たちの日常生活の中で、一番大切なものが「祈り」であることを本当に知ってるなのでしょうか。

悪魔はこの事実、すなわち「祈りの大切さ」をあいまいにさせようと一生懸命なってます。もちろん、悪魔はどうして反対するかと言いますと、人間は本当に主に頼ると信ずれば、神の栄光が現われることを恐れているからです。
祈ることをしないと、喜びも平安もなくなってしまいます。真剣に祈ることによって、はじめて祈る喜びが与えらるるのです。
それですから、私たちにとって最も大切なことは、もっと愛すべきものは、「祈り」に他ならないのです。

ここで、イエス様とはいったいどのようなお方なのでしょうかと考えてみると、すぐわかるように、イエス様こそ「祈りの人」、「最もよく祈られたお方である」と言えます。

マルコの福音書1:40-45
40さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
41イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
42すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。
43そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
44そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
45ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

一人のらい病人が、主イエス様のところにやって来ました。当時、らい病ほど恐ろしい病気はありませんでした。つまり、らい病人ほど悲惨な人間はいなかったのです。
何十年前に2回、群馬県にある草津に行きまして、らい病患者の村を訪れたんです。そこにはそのとき、100〜1000人のらい病患者が住んでおりました。その人たちに会ってみると、ある人は耳がなく、ある人は鼻がありませんでした。そしてらい病がひどくなると、必ずみんなめくら、見えなくなってしまうのです。
そこで私が体験した一番大きなことは、ひとめ見れば、そのらい病患者がイエス様を信じてる人であるかないか、すぐわかるということだったんです。
同じめくらのらい病患者であっても、イエス様を信ずる者の顔は光輝いているのに対して、主を知らない人々、結局希望をもっていない人々の顔は暗く、絶望的な表情を隠すことができなかったんです。
主イエス様と出会ったらい病人は、イエス様を見た時に非常に大きな印象を受けたようです。彼は、イエス様はなんでもできるということ。たとえ、自分のらい病であっても、それを癒すことができることを確信したのです。イエス様にとって不可能なことはない。という事実を知ることは、なんというすばらしい事実なのでしょうか。

そのらい病人は、イエス様がらい病を癒してくださる意思を持ってるかどうか、心配したから、恐る恐るイエス様に尋ねたのです。
「みこころでしたら、きよめていただけるのですが…、いかがでしょうか。。。」、そのときイエス様は、彼を深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわられたのでした。
モーセの律法によると、いかなる人もらい病人にさわることは許されていなかったんです。
聖なる神の子である、主イエス様は、それにも関わらず、汚れたらい病人にさわられたのです。そして、イエス様は「そうしてあげよう。わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。

このイエス様の言葉を聞いたときに、らい病人は、今まで心の中にあった不安と雲がすっかり取り払われて、光が射し込んでくることを経験したでしょう。「自分は救われた」という確信と喜びがいっぱいになったはずです。そのらい病人は、この決定的な瞬間を、生涯忘るることができなかったでしょう。
もちろん彼は肉体的に癒されただけでなく、霊的にも新しく造り変えられたのです。それまでは、人間の社会から締め出されて、寂しく、望みなく、生きていかなければならなかった彼は、生けるしかばねも同然だったのです。彼は、この世において生きる目的も、喜びも、希望も何もなかったのです。

主イエス様との出逢いによって、彼は今まで経験したこともない新しい喜び、生きる望みと、目的を持つことができるようになったのです。
このらい病人に、「イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか。」と聞くと、彼はもちろん答えるでしょう。「イエス様は救い主です!」と。
「イエス様は、私のようならい病人にも少しも嫌がらずにさわってくださいました。」

旧約聖書の中で、モーセの姉であるミリヤムは、モーセを批判したのです。モーセを批判した結果、彼女はらい病にかかってしまったのです。けどもモーセは、すべてを主に任せただけではなく、あのお姉さんのために祈りました。
モーセは主に叫んで言った。「神よ、どうか彼女を癒してください。」と。
今まで、イエス様の人格を特徴付けるため、10の見出しを考えてきました。すなわち、

「イエス様は力のある方」
「イエス様は神の子」
「イエス様は悪魔に対する勝利者」
「イエス様は最高の権威者」
「イエス様は主の主」
「イエス様は偉大なる教師」
「イエス様は神の聖者」
「イエス様は比類なき医者」
「イエス様は祈りの人」
また
「イエス様は救い主」

であられることを見てきました。
今まで学んできたところから、イエス様が普通の人間とは全く違った、比類なきお方であることがわかります。
イエス様は、バプテスマのヨハネ、神ご自身、4人の猟師たち、会堂で集まった群衆、汚れた霊、シモンのしゅうとめ、らい病人などによって、このように紹介されました。
これらの人たちによって紹介されたことは、単なる確証ではなく、心からのあかしだったのです。証し人は、自分が実際体験した事実について話すのです。これは自我自賛とは全く違います。

たとえば、ドイツで結婚したい人が、新聞などの広告欄を使って、自己紹介をすることがよくあります。その場合には、いろいろと相手を惹きつけるようなことばっかり、もちろん書き並べるものです。
そしてそれを読んだ人が、希望に胸をふくらませて、その人に会ったみたところ、広告に書いてあることとは大分違うため、がっかりしてしまうことが少なくありません。
けどイエス様の場合にはそれとは正反対に、イエス様以外の人々が、実際の経験からイエス様を紹介しとるのです。

旧約聖書の列王記第I、ちょっと最後に見て終わりたいと思います。よく知られてる箇所ですが、1節からちょっとお読みします。

列王記第I、10:1-9
1ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。
2彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。
3ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。
4シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、
5その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。
6彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。
7実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
8なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。
9あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」

アフリカから来られたシェバの女王が、ソロモンの名声をいろいろと聞いたんですけど、それを信じられなかっただけでなく、信じたくなかったんです。
けども彼女が、実際にソロモンのところへやって来たとき、次のように言わざるを得なかったんですね。今までの7節ですね。すばらしい証しなのではないでしょうか。
そしてイエス様は、マタイの福音書の12章42節に次のように言われました。

マタイの福音書12:42
42南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

私たちも、シェバの女王と同じように、主イエス様を体験的に知ると、それまではその半分も知らなかったことが、明らかになることでしょう。イエス様は、私たちが考えるよりはるかに大いなるすばらしいお方です。

私たちにとって、イエス様とはいったいどのようなお方なのでしょうか。どのような役割を演じるお方なのでしょうか。
イエス様は、私たちにとって、全く関係のない見知らぬ人なのでしょうか。あるいは、非常に驚くべき歴史上の人物なのでしょうか。
それとも、死をもかえりみないほどの狂信者なのでしょうか。

いずれにしても、イエス様と出会わない限り、そのような判断を下すことができません。
私たちが、本当にイエス様を体験的に知るためには、永遠の時間を費やしても足りないほど、すばらしいお方であることがわかるでしょう。

イエス様の生涯は、自分を無にして、他の人々のために献身された生涯に他ならなかったのです。
イエス様の偉大さを知らなかったために、イエス様を拒んだ人は、なんという愚かなことをしたことでしょうか。
イエス様を受け入れ、信じた者には、主の啓示が明らかになり、その偉大さ、すばらしさを体験的に知ることができるのです。




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