松代家庭集会


ベック兄

(松代家庭集会、2002/12/23)

引用聖句:ルカの福音書1章46節-48節
46マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

クリスマスに起こる出来事は大切ですけど、この出来事の例えは、百何十年前にあるイタリア人と彼のらい病人より良い例えはないなのではないかと思います。
あるとき、このイタリア人、名前はフランシスコ・アシシという方が、馬に乗って行きましたとき、突然らい病人の群れに取り巻かれたのです。らい病とは、昔一番恐れた病気でした。このフランシスコ・アシシは、このらい病人たちのあわれな様子に心を動かされたのです。それからは、いっぱい入った財布を投げ与えました。らい病人たちは、彼の高価な着物に接吻して、心から感謝したのです。
こんなに多くの恵みは、今までに貧しいからだに与えられなかったからです。しばらくして、彼はまた同じ道をやって来たのです。けどもそのとき、彼は高価な服を宿屋に置いてきました。そしてそのとき、彼は先へ行こうとはしなかったのです。自分の馬から降りて、らい病人たちの世話をした。彼らの傷を洗いました。彼らのボロきれをきれいにしました。そして彼は彼らといっしょに住み、彼らの兄弟となったのです。

これがクリスマスです。ある方が降りてきた。すなわち主イエス様は、人間の救い主となるように、高い、聖なる天からくだったのです。人間を救うために、解放するために、喜びに満たすために、イエス様は来られたのです。すなわち神の子が人間になった。何のためでしょうか?人間は「神の子」となるためではないでしょうか。
初代教会の人々とは、次のように喜んで言えたのです。「私たちが神の子どもと呼ばるるために、事実、今私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」

クリスマスのとき、私たちはおもに、主イエス様のことを大切にします。それ、別に悪くないけど、父の愛の表われそのものなんです。ですから父にとってイエス様を遣わすこととは、大変な悩み、また苦しみだったに違いない。
この世界とは罪に満たされてる世界であり、神の敵である悪魔に支配されてるものです。そしてイエス様は、このような、どうしようもない世界に送られたのです。ですから、今の読みました箇所の中で、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
この与えられた愛とは、結局主イエス様ご自身です。当時の人々とは結局、私たちははっきりわかってる。すなわち私たちは神の子どもです。

これこそ、もうまことの幸せの土台なのではないでしょうか。けども、神の子が人間になったから、人間は神の子どもとなることができるのです。この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとさるる特権をお与えになったとあります。
最高の特権は、神の子どもとなることなのではないでしょうか。人間そのものは、もちろんみな神によっていのちを与えられてる者ですから、神の被造物ですけど、この神の被造物、この神から離れている者は、神の子どもとならなくちゃならない。
けども人間だって、何もできません。人間は神に近づこうと思っても無理なんです。だからこそ、神が近づいてくださったのです。

恵みの神が、私を迎えに来てくださると、詩篇の3章は言ったのです。神が人間になったということは確かに想像できません。考えられません。けども、イエス様の罪のない人生こそがその証拠なのではないでしょうか。
人間は、ほかの人間を知れば知るほどわかる。すなわち、やっぱりみんな不完全です。イエス様の弟子たちは、三年半イエス様といっしょに生活したのです。ヨブもいっしょでした。
それからはみな、「私たちは神の栄光を見た。」、と告白したのです。イエス様を裏切ったユダという弟子でさえも、自殺する前に何を叫んだかといいますと、「私は、とんでもないことやった。罪を知らない方を裏切ったのだ。」と。
イエス様の罪のない人生こそが、イエス様が神の御子である証拠なのであります。

イエス様は救うお方です。今読んでくださった、ルカの福音書1章の中で、イエス様を生んだマリヤという女性は、もちろん救い主を知るようになることによって、救いにあずかるようになりました。

ルカの福音書1:46-48
46マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

私は、単なる卑しいはしためにすぎない。けども主は救い主です。主です。
マリヤは、ほかの言葉で言いますと何と言ったかといいますと、「私は幸せです。」と。主なる神は遠く離れてる方じゃなくて、私の救い主です。この事実をマリヤは、身をもって体験することができたのです。
すなわち、主なる神は近くにおらるる方です。私のことを知ってるだけではなく、私のことを心配してくださり、私でさえも愛してくださる。一人子なるイエス様を、私の救いのためにこの世にお遣わしになったから。だから私は大いに喜び、主を讃えますと、マリヤは言ったのです。
主なる神はわが救い主ということができるのは、最高の幸せなのではないでしょうか。

イエス様はどうしてこの世に来てくださったかと言いますと、罪滅ぼしのためにほかの道がなかったからです。人間は、聖なる神に近づこうと思っても、無理であったからです。
イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことができません。」
イエス様はまことの救い、完全なる救いをもたらすために、この地上においでになった。イエス様にとって、それは何を意味してるのかちょっとわからない。私たちは天国行って、イエス様の栄光を見るようになれば、初めてわかるでしょう。
イエス様は全部捨てたんです。どうしようもない人間といっしょになるためです。イエス様は来られたから、私たちは近づくことができるのです。

イエス様がお生まれになったとき、天の使いが現われて宣言したのです。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。」
今、私のために救い主がお生まれになったと言える人は、幸せなのではないでしょうか。イエス様は、わたしが失われた人々を捜して救うために来たのだよと。
パウロは、キリスト・イエスは罪人救うためにこの世に来られたという言葉はまことであり、そのまま受け入れるものに価するものです。そして私は、その罪人のかしらです。もっとひどいのは私だよと。救い主だけが、罪の問題を解決することがおできになるのです。イエス様こそ、ただひとりの救い主です。
当時、救い主を待ち望んでいた人々は、救い主に会うことができたのです。
ルカの福音書2章の中で羊飼いたちは、この世に現われた救い主に会いました。拝むようになった。
マタイの福音書2章は、博士たち、遠い国から来られた博士たちは、イエス様を捜し求めたから会うようになり、そして礼拝するようになったのです。
われわれは今日、どういうふうにこの救い主なる主に会うことができるなのでしょうか。

まず、祈ることによってです。人間にとって一番大切なのは祈ること。幼子のように告白すること。
「私はあやまちを犯したくないけど犯す。不完全で、わがままでごめんなさい。」、この態度があれば、主は喜んで赦してくださいます。受け入れてくださいます。
ですから、「あわれんでください。ごめんなさい。赦してください。」と祈った後で、あなたは、近づく者を決して捨てないと約束してくださったから、私をも受け入れたことを感謝しますという態度を取ることができるのです。
私の債務は全部赦され、支払われてる。今や良心の呵責に責めらるることもないと言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。この確信が、われわれの生活の土台となっていない場合には、われわれにとって全ての全て、一番大切なものが欠けてると聖書をとおして言えるのです。

イエス様を体験した人は喜ぶことができる。孤独な人ではなく、イエス様が私のために生きておられ、いつもともにおられ、私のために全部を被ってすべてをなしてくださるという確信をもつことができるのです。
イエス様は救い主です。もう三千年前に、もちろん求めた人々はこの救いの神に出会いました。例えば、当時のイスラエルの王さまであるダビデの告白とは、次のようなものであります。

サムエル記第II、22:2-3
2「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
3わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

三千年前にダビデはもうすでに、「私を救う、私の救い主。」と言えたのです。これは決して、言えるんではなく、これを体験した者だけが発する歓喜の声であります。
この言葉を発したダビデと同じように、私たちも、日々私たちを助け、救うことのおできになる救い主を体験し、歓喜の声を上げることができれば幸せです。

サムエル記第II、22:4
4ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

結局助けを求めると、主は恵んでくださいます。助けてくださるのです。主は、聞く耳をもつお方です。
私たちは、どうすることもできない性質をもってるということを本当にわかっていれば、自分の力で何かをしようとせずに、ただ主を呼び求めることしかできないでしょう。すなわち、祈る者は本当の意味での耐える者となります。耐えると主は、応えてくださる。
イザヤ書の43章を見ても、主は二千六百年前に、イザヤに出会いました。そして彼は、主はおそろしい、恐いお方ではなく、私の救い主と知るようになったのです。

イザヤ書43:3
3わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

わたしはあなたの救い主だよ。

イザヤ書43:11
11わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。

今日主は、私たちにも目を留められ、このようなすばらしいみことばをもって呼んでいてくださるのです。

イザヤ書43:1
1「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

すなわち、十字架の上で犠牲になり、勝利を得られたイエス様は、さばかれたり、罰したりするお方ではない。救うお方です。近くにおらるるお方です。
この救い主なる主イエス様に、無条件に、絶対的に、残すところなく、明け渡そうではないでしょうか。意味は、あなたの御心だけがなるように。私はあなたの導きにすべてをゆだねる決心ができた。
このような心構えができてる者は、本当に幸せです。「主よ。私はただ、あなただけにより頼みます。」、このように日々新たに言うことができる人は大いに祝福されます。

イエス様は、「わたしは決してあなたから離れず、あなたを捨てない。」と言われました。いつも近くにおらるるお方として救うことができる。ヘブル人への手紙の著書は、

ヘブル人への手紙7:25
25完全に救うことがおできになります。

と書いたのです。
旧約聖書の一番最後になりますけども、非常にすばらしい言葉が書かれてます。ゼパニヤ書の3章17節。
どういう宗教の、どういう本を見ても、やっぱりそういう言葉は絶対に出てきません。なぜならば、いつも人間の信ずるべきこと、人間のやるべきことが強調されてます。ここで全然違うんです。

ゼパニヤ書3:17
17あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

どうしてか。なぜか。だれも答えられないでしょう。なぜならば、どうしようもない人間が、主なる神の愛を受ける資格ある人間ではないからです。
「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
主は救うお方です。主にとって不可能なことはないと考えると、やっぱり感謝することができるなのではないでしょうか。主は完全なる勝利者であります。

マリヤは本当に、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえる。」と言うことができたのです。
イエス様は救い主であり、この救い主に出会った人は、まことの救いにあずかっている者です。そしてまことの救いとはいったい何なのでしょうか。
まず、赦された、忘れられた、という確信こそが与えられた救いの結果です。ですから、まことの救いとは罪の問題の解決です。それから、孤独からの解決です。
イエス様を知るようになった者は確信できます、すなわち、決して一人ぼっちではない。主は近くにおらるる。
もうひとつ、安心して将来に向かうことができる。死を恐るる恐怖からも解放されます。

二、三日前に初めて来て会った奥さんは話されたんです。自分の母親も、そして自分のお婆ちゃんも、死ぬ前に同じこと言ったんです。「死にたくない。死にたくない。」、ちょっとかわいそうじゃないか。
ちょうど先週の日曜日、天に召された高知集会の姉妹は、もう死にたくて死にたくてしょうがなかった。いつでもいい。わたしが待ってるイエス様のところに行きたいと言っただけではなく、死ぬ前の日、家族の人をみんな呼んだんです。個人的にみんなに頼んだんです。
「天国でみんなに会いたいから、悔い改めてもらいたい。隠す者は成功しない。けど悔い改めると、主は赦してくださり、受け入れてくださる。」と、必死に、必死になってイエス様を紹介したのです。
そして次の日、ゴールインする恵みにあずかるようになったのです。イエス様が生きておらるる証拠なのではないでしょうか。

クリスマスのとき覚えるべきことは次の五つです。
第一番目。主イエス様は、無制限な愛をもって、人間一人一人を愛してくださるということです。愛されてるとわかれば、やっぱり見方変わる。
「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とエレミヤ書に書かれてます。すなわち、主の愛は変わらない。主ご自身が変わらないお方であるから、主の愛も決して変わりません。
結局、条件付きじゃない。いい子になれば愛するじゃない。聖書を読めば愛するじゃない。そういうことじゃないよ。わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した。結局、私たちはもちろん生まれる前に愛される者だった。私たちはいつどこで生まれるのか、いつどこで召されるか、もちろん全部知ってるんです。主は無制限の愛をもって愛してくださる。

第二番目。イエス様の和解は私たちの罪のすべてを被うものであるということです。過去の罪であれ、現在の罪であれ、あるいは未来の罪であれども、主は救いを成し遂げられた。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのさえものとしての御子を遣わされました。ここに愛がある。」と、初代教会の人々は言ったのです。
「わたしはもはや、決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」、主は赦すと忘れます。決して心に留めない。すごい和解なのではないでしょうか。

第三番目。主は、はっきりとした計画をもって導いてくださる。すべてのことが、この計画にそって万事益となるために働いたとあります。結局、偶然はない。ですから、私たちは何があっても主のせいにすれば間違いない。
主は赦しちゃった。どうしてか、なぜか、わからないけどいいよ。今わからなくても。

第四番目。主は真実です。パウロはこの主について、次のように書いたことがあります。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。結局変わらないお方です。

第五番目。主は何でもできる。主にはできないことはない。主は約束を与えてくださり、自分の約束をもちろん成就するための力をもっておらるるのです。
神にとって不可能なことはひっとつもないと、ルカの福音書1章37節に書かれてます。これこそが、マリヤの親戚であるエリサベツの告白でした。彼女は何と言ったかと言いますと、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
主は、この世に来らるることによって、そして十字架の上で犠牲になることによって、自分の愛を明らかにしてくださったのです。今度は、私たちは、この主の愛に対してどのような態度を取るなのでしょうか。

何年か前に天に召され兄弟は、長い間、真理を求めていました。時間かかったんです。けども彼はイエス様に出会った日、すぐひとつの歌を作ったんです。ある人、子どもっぽいと言うかもしれないけど、すごい内容です。読みましょうか。

真っ赤なお日様昇るお山の上からあたたかく照らす
兄弟姉妹喜びに満ちてイエス様大好きイエス様大好きよ
まことの光が照らす心の中をあたたかく照らす
兄弟姉妹喜びに満ちてイエス様大好きイエス様大好きよ
大きな喜び満ちる心の中にあたたかく満ちる
兄弟姉妹喜びに満ちてイエス様大好きイエス様大好きよ

こういう心構えをもつ者こそが、本当の意味でイエス様を礼拝することなのではないでしょうか。主を礼拝する者は解放されます。人間の恐れる恐れから解放されます。
死を恐れる恐怖からも(音声中断...)

三回同じ質問したんです。ペテロはそのとき、「主よ。あなたはすべてをご存知です。私があなたを愛してることもご存知です。」
本当にそうだったんです。もしイエス様は、あなたはわたしに本当に従うつもりですか。裏切るつもりですか。そういうこと質問したならば、彼は答えられなかった。もう心配もなくしちゃった。何も約束できません。もう私のこともがっかりで。けど、あなたは赦してくださったからうれしい。あなたを愛してると言うことができたのです。

結局、まことの救い主とは、罪を赦せるお方です。赦した罪はもう存在しない。忘れられてるのです。
イエス様はどうしてこの世に来たのでしょうか。もちろん、死ぬためです。罪滅ぼしのために代わりに罰せられるためです。
神の御子であるイエス様は、人間になられた目的とは、どうしようもない人間である私たちが神の子どもとなるためです。




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