引用箇所:マタイの福音書5章3節
マタイの福音書6:9-10
マタイの福音書6:33
今日の題名は、「心の貧しい者の幸い」であります。 今読みました箇所でも、「心の貧しい者は幸いです。」、幸せ。「天の御国はその人のものだからです。」 このみことばは、みこころにかなう者の目的と要求が何であるかを表しているのではないかと思います。それは、要するに、御国であり神の国であり、永遠の世界であり、すなわち天国です。 言うまでもなく大切なのは心の態度であって、外側の諸問題は、心の態度によって解決されうるのです。 最後に読むんでもらいました箇所をもう一回読みます。 マタイの福音書6:33
そうしなければ、もちろんダメ。 マタイの福音書6:33
三つの質問についてちょっと一緒に考えてみたいと思います。 (1)天国とは何でしょうか。 (2)「心の貧しい」という表現はいったい何を意味しているのでしょうか。 (3)「心が貧しいから、天国は自分のものであるから幸いである」と言われている人に、私たちは属しているでしょうか。 そこでまず、天国とは何でしょうか。 天国とは一言葉で言いますと、主なる神の支配です。すなわち天国とは、絶対的な義、揺るぐことのない平安、とこしえの喜びです。 だからイエス様は言いました。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」 まさに、ここにこそ天国とは何かという問いに対する答えが示されているのではないでしょうか。 天国は、主の御名のあがめられるところ、主のみこころが行なわれるところです。天国において主の御名があがめられ、みこころが行なわれるのです。 その際大切なことは、この地上において天国が実現し、主なる神の御名があがめられ、みこころが行われるということです。これこそ、主の目的であり、そしてわれわれの目的でもあるべきです。 主の恵みを味わうようになり、罪の赦しをただで、値なしに受け取ると、そして主との交わりによって、あらゆる重荷から解放されると、もうすでに世において始まっている天国があります。 けれども最終的な天国の成就は、イエス様が目に見える形で、再びこの地上に来られるときになされます。 イエス様こそ天国の王です。イエス様がおられるところにはいつでも、そしてどこでも天国があります。すなわちこれこそが、義、平安、喜びです。 そういう意味で、信ずる者はすでに天国を体験的に知ったゆえに、信ずる者の目的は主の支配が明らかに表されることです。 誰も罪の債務を持ったそのままの状態で、イエス様の御もとに行き、イエス様の平安と主の喜びを与えられるのです。結局目的は、人間の行いを決定するものです。 残念ながら、今日多くの現代人は、はっきりとした目的を持っていません。彼らの生活は、働いて、食べて、寝ることだけです。結果として疲れて、まったく倦み疲れてしまっているのです。 他の人は目的を持っていますが、残念ながらその目的は次元の低いものです。その目的は、例えば、一生かかって財産を蓄えることであったり、また人間の名誉であったり、このように次元の低いものです。そしてこれらのものは、永遠に残ることはないのです。 イエス様に従う者の目的は、主の栄光と誉れとあるようにということです。そして、またこの地上で、天国が明らかに表されることです。 これは主なる神の無制限の支配のもとに服従することによって、可能となります。 第二番目の問いは、「心の貧しい」という表現は、いったいどういうことでしょうか。 もちろん、ここで注意しなければならないことは、「心が貧しい」ということは、決して霊的に貧しいということを意味しているのではないということです。 霊的な貧しさは、聖霊の訓練から逃げようとすることから生じているのです。その反対に、霊的に豊かな人は、イエス様のために多くの艱難を通して苦しんだ人です。多くの苦しみや悩みを通して、自らのうちにイエス様が形作られるのです。 このように霊的に富んでいる人は、この幸いを他の人にも分け与えることができます。 ではいったい、「心が貧しい」とは何でしょうか。「心貧しい」とは、主の前に自分の貧しさ、自分の惨めさを素直に認めることです。 よく知られている箇所を読みます。 イザヤ書57:15
とあります。素晴らしい約束です。 心の貧しい人とは、喩えて言うならば、主のための前における哀れなこじきのような者であり、心砕かれた人、へりくだった人です。そしてまた、主の光によって、自分の惨めさとむなしさを知るようになった人です。 また彼らは、自分には主のみこころにかなうものが一つもないことを本当に知ることができた人々です。 例えばルカの福音書18章に出てくる取税人こそ、心の貧しい人です。 彼は心から願ったのです。すなわち、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」ちょっと読みましょうか。 ルカの福音書18:9
正しい者だ、 ルカの福音書18:9-10
当時のパリサイ人とは、民を指導する宗教的な、よく聖書を読んだ人々だったのです。 取税人はみんなから嫌われた人々でした。何故なら、敵国のために税金を集めたからです。敵国のためだけではなくて、自分のポケットにも入れたでしょう。 二人は結局、遊ぶためではなくて、時間を潰すためではなくて、祈るために行ったのですけれど、本当の意味で祈ったのは一人だけでした。 ルカの福音書18:11
もちろん、みんなの前です。 ルカの福音書18:11
神様ではないよ。神よ。失礼だよ。 ルカの福音書18:11
結局、私、私、私、 ルカの福音書18:11
また、私、 ルカの福音書18:12-13
神よ、ではないよ。 ルカの福音書18:13
イエス様の言われた言葉ですね。 ルカの福音書18:14
の方が、前の人より、 ルカの福音書18:14
結局、へりくだればOK。 パウロという男は、心の貧しい人でした。彼は、自分自身について次のように書き記しています。 コリント人への手紙第I、15:9
エペソ人への手紙3:8
るためです。 もう一箇所、 テモテへの手紙第I、1:15
一番ひどいのは私。 心が貧しいという、このことは非常に大きな変化が起こったことを証明しています。イザヤ書の57章15節。読みます。 イザヤ書57:15
とあります。同じく、 イザヤ書61:1
とあります。 イザヤ書66:2
また、ダビデも告白しました。 詩篇51:17
生まれながらの人は、誇って自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いのない人は、こじきよりも貧しい者です。 それをわかるようになれば、救いは近いのではないでしょうか。 したがって心の貧しい者となることこそ、考えられないほど大切です。すなわち主の霊によって自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることが大切です。 心の貧しい者は、自分が強く、偉大な、富んだ者ではなく、本当にみじめで、哀れな存在にすぎないことを認める人です。 このことを本当に知る人だけが、思うところすべてを超えて豊かにほどこすことのできるお方、すなわち、イエス様のみもとに行くことができるのです。 驕り高ぶるもの、本当に心砕かれていない者は、約束も望みもなく、呪いのもとに置かれるのです。 心が貧しいとは、なんでしょうか。 最もよい答えは、コリント人への手紙第II、8章9節に記されているのではないかと思います。 主イエス様についての箇所です。 コリント人への手紙第II、8:9
イエス様はわれわれのために貧しくなられたとあります。 このイエス様によってこの大宇宙は創造されました。このイエス様とは、もちろん始めのない終わりのない永遠なるお方です。 全人類を救うためにイエス様は33年間この地上におられ、ご自身の自由意志でわれわれのために貧しくなられました。 イエス様の貧しさは、なんでしょうか。 すなわち、父なる神に対してご自身がお選びになった依存です。 ちょっとヨハネの福音書から二、三箇所読むとわかります。イエス様はいかに父なる神に対して依存していたかです。 ヨハネの福音書13:15
この、どういう模範であるのか、ずっとヨハネの福音書を読むとわかります。 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書6:38
ヨハネの福音書7:16
ヨハネの福音書8:28
ヨハネの福音書12:49
ヨハネの福音書14:10
ヨハネの福音書14:24
また、14章の1節から読みましょうか。 ヨハネの福音書14:1-12
必要な勧めだったようです。 ヨハネの福音書14:1-12
イエス様は父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行なったことだけをイエス様は行ないました。 イエス様は決して、決して、ご自分で勝手になさることはしなかったのです。父なる神にまったく拠り頼んで、いつも父のみこころに服従なさったのであります。 すなわち、イエス様の絶えざる願いですか、祈りですか、次のようなものでした。「私の思いではなく、あなたの思いだけがなるように。」、この祈りは、まさに絶えざるイエス様の態度そのものでした。 恵みと憐れみに富んでおられたイエス様は、たとえ困っている人がいても決して自分勝手な行いはせず、常に父なる神のみこころだけを行ったのです。これこそが、心が貧しいことに他ならない。 私たちは、今まで人間と主との正しい関係に入ることを考えました。その際、誰が天国に属し、誰が天国に属さないか、ということにすべてがかかっていることがわかりました。 それでは、天国に入るための条件とは、いったい何でしょうか。ヨハネの福音書3章3節。イエス様はある聖書学者に言いました。 ヨハネの福音書3:3
どうしても必要な条件は、新しく生まれ変わることです。 そして新しく生まれ変わることは、もちろん神の御霊、聖霊の働きによるものです。 ですから、同じくヨハネの福音書3章6節を見るとわかります。 ヨハネの福音書3:6
ヨハネの福音書3:5
人は、御霊の働きによって自分の罪や、主に対する背きなどがわかるようになります。 人は、御霊の働きによって、主の流された血潮の価値を知ることができます。流された血潮を感謝する者は、血潮の力を体験することができます。 人は、御霊の働きによって、自分の罪が赦されていることを、永遠のいのちを与えられていることを知ることができるのです。 こういうふうに人間は、新しく造られるのです。今まで主に対して拒んでいた者が、主を喜んで受け入れるものとなります。 このようにして、生き生きとした信仰を持つ者は、喜んで主のみこころを行ない、主の御名が崇められることが、唯一の願いであるようになります。そして、天国はこのような人たちにおいて、成就されたのです。 このようにして悔い改めた者は、主のご性質を帯びるようになり、義と平安と喜びを持つようになります。 天国の王であるイエス様は、「我が国はこの世のものではない。」とはっきり言われました。 天国に入るための前提条件は、新しく生まれ変わることです。もう一回読みます。3章の3節ですね。 ヨハネの福音書3:3
結局、救われていない。 イエス様はマタイの福音書18章3節に マタイの福音書18:3
意味は、正直、素直になりたくなければ見込みがない。 天国の約束は誰に当てはまるのでしょうか。心砕かれ、本当に悔い改めた人こそ、その人です。 神のみことばである聖書は、次のように言っています。 歴代誌第II、7:14
とあります。 ちょっと短く八人の兄弟の証しを聞きましょう。 まず、マナセ王様。 歴代誌第II、33:12
マナセ、 歴代誌第II、33:12
ヨブという男は、証ししました。 ヨブ記42:6
ヨブ、 ヨブ記42:6
三番目、ダビデ王は、 詩篇34:18
詩篇51:17
詩篇138:6
ダビデの子供であるソロモン王もまったくおなじことを言ったのです。 箴言16:19
箴言29:23
箴言22:4
とソロモンは言ったのです。 ミカという預言者は、また言いました。すなわち、 ミカ書6:8
イザヤという預言者は イザヤ書29:19
とあります。 イエス様は、まったく同じことを言いました。 ルカの福音書14:11
イエス様の弟子であるヤコブも同じことを言ったのです。 ヤコブの手紙4:6
とあります。 最後にちょっと三つの例を考えて見ましょうか。 第一番目、ある律法学者が、イエス様のもとにやってまいりました。彼は教養のある者で、聖書にはよく精通しておりました。 彼は正直にイエス様に質問したので、イエス様は彼にこたえて言われました。「あなたは神の国から遠くない。」 遠くない。けれども、まだです。 イエス様はこのことばによって、一方において質問した聖書学者を勇気づけ、他方において、質問した聖書学者がまだ神の国に入っていないことを指摘なさったのです。今日も多くの人は、このように「あなたは神の国から遠くない。」と言われる状態にあるでしょう。 どうか、イエス様を受け入れてください。イエス様によるあがないのみわざを感謝し、神の国に入ることができるように。 イエス様を自分の救い主として信じ受け入れる者は、今日神の国に入ることができ、救われることができるのです。 そして、多くの人々と共に証しすることができるようになり、喜ぶことができるようになります。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」と。 二番目、ある日別の人が、イエス様に従っていく覚悟をしてイエス様のみもとにやってきました。けれど、彼は神の国を第一のものとは考えていませんでした。 するとイエスは彼になんと言われたかと言いますと、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」 「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」とイエス様は約束していました。 三番目の例とは、復活して高く引き上げられたイエス様は、スミルナに住んでいる兄弟姉妹に向かって次のように言いました。 ヨハネの黙示録2:9
ヨハネの黙示録2:10
「あなたは富んでいる。」、私たちもこのような者に属しているのでしょうか。私たちは神の国に属し、永遠のいのちを持っていると、本当に確信しているのでしょうか。 私たちは、心の貧しい者なのでしょうか。 自分の力で何かをしようとせず、常に自分の思いではなく、主のみこころだけがなるようにと祈っているのでしょうか。 ヨハネの黙示録2:9
マタイの福音書5:3
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