引用聖句:マルコの福音書1章29節-43節
マルコの福音書5:22-43
はじめに歌いました歌の中で次のような言葉が出てきたのですね。主の呼びかけです。「私の贈るものを早く受けなさい。」 主の贈る物とは、言うまでもなくまことの救いであり、罪の赦しであり、永遠の命です。多くの人々は、結局、提供されたものを意識して受け取ることによって救われます。 けれども、皆そうではないのです。今読んでもらった箇所を見ると、ちょっと違ったのではと思います。すなわち全く予期せずして救われる人もいっぱいいるのです。けれども最も大切なのは、イエス様を仰ぎ見ることです。 ですから、聖書の中の最も大切な命令は、「主イエスから目を離さないでいなさい。」、イエス様から目を話すと悩むようになり、落ち込むようになり、喜びも希望も必ずなくなるのです。 イエスから目を離さないことが、どうして、そんなに大切なのでしょうか? イエス様は、要求されるお方よりも与えたいお方であるからです。言うまでもなく偽物ではなく本物を与えたいのです。また、導きたい、教えたい、守りたいと望んでおられるお方です。 このイエス様とは、確かに人間のわがまま、過ちを明るみに出すお方です。けれども、それだけではない。明るみに出された罪は赦され、永久に忘れられるようになります。 ですから人間が主に近づくよりも、主が近づいて下さるお方であり、主は聴く耳を持つお方であり、祈りに応えてくださるお方です。 この主イエス様を仰ぎ見ると必ず解放され、礼拝せざるを得なくなります。 今、読んでもらったマルコの福音書1章と5章のなかで、二人だけについて、ちょっと一緒に考えたいと思います。 ひとりは年配じゃないかもしれないけれども、少なくても姑になっちゃった女性なんです。シモン・ペテロの姑。 もう一人は、まだ大人になっていない若い、聖書は12歳と言っているから、若い娘、ヤイロの娘。 シモンの姑は、マルコの福音書1章を見ると病気になりました。今日だけではなく、あらゆる時代に病人はいっぱいいました。そして、病気によって人間は自分の弱さですかね、力なさ、自分の無力さを知るようになります。 病気によって違うかもしれないけれども、だいたいの重病人は食欲もないし、元気もないし、ひとりですから孤独になります。普通のように話すこともできないし、話し合う人々もあまりいない。そうすると自ずから一人ぼっちになります。 そして一番の問題は、病気が治るかどうかわからなければ、ちょっと面白くない。二週間あとで、半年後で、よくなるよとわかれば、たいしたもんじゃないけど、それもわからなかれば、ちょっと面白くない。 このシモンの姑の病気もやっぱり重いものだったらしい。だからこそ、周りの人々はそのことをイエス様に知らせました。そしてイエス様が、彼女の苦しんでいること、弱っていることを聞いて、貴重な時間を割きました。 4つの福音書をみるとわかります。イエス様は本当にに忙しくて忙しくてたいへん。ある時、食べるひまもなかった。寝る暇もそんなになかったらしい。みんな寝てしまった時、イエス様は寝ないで一人で山へ登って、夜じゅう朝まで祈られた。 どうしてというと、イエス様は一番大切なこと、一番好きなことをしてられたからです。人間はみなそうでしょう。一番たいせつなこと、一番好きなことやるでしょう。イエス様もそうしたんです。イエス様の唯一の楽しみ、唯一の喜びとは、祈ることでした。 イエス様は忙しかったけど、時間を作ちゃったんです。しばしば、いろいろな用事がなければ、ああします、こうしますと私たちは考えがちです。悪魔は、いつもなんらかの仕事があって忙しいように人間を惑わすのではないでしょうか。 ですから、一番大切なことを第一にしない限り、時間を作ることはできないのではないでしょうか。 イエス様は、悩んでるシモン・ペテロの姑のために時間をお作りになりました。愛と理解をもって彼女の手をとって起こされました。その瞬間、彼女は元気になったのです。病気も治りました。結果として力なさ、失望、落胆、孤独も一瞬にして消えてしまいました。彼女は、必ずイエス様の手をつかんで感謝したに違いない。 けども福音書を見るとはっきり言えることは、彼女はイエス様との出会いの前に、いろいろなこと、イエス様についていろいろなことを聞いたはずです。自分の息子、ペテロからです。 けども、自分の息子から聞いても、何を言ってるのか全くわからなかったでしょう。 娘とペテロがつきあうようになった時に、いい男だ、まじめそのもので、正直で、娘と一緒になれば、幸せになれると思ったことでしょう。 けどある時、彼女はがっかりしたことよりも、ちょっとすべてがわからなくなってしまいました。あのまじめな男であるペテロが仕事をやめたのです。ちょっと、無責任じゃないの。仕事やめたのです。イエス様の弟子になりました。 このペテロは、イエス様とはどういうお方か、はっきり掴めなかったはずです。けども、この方に従いますと絶対に後悔しない。この確信があったに違いない。全部捨ててイエス様のお弟子になった。 シモンの姑はわからない。ペテロは、ナザレのイエスについていつも話している。救い主だそうですって。メシアであると言っている。いったいどういう意味か全くわかりませんでした。 そのようにして、イエス様のことがわからなかったから、このイエス様に来てもらいたい、自分を癒してもらいたいと思う気持ちもなかった。彼女は人に頼むことをしなかった。周りの人達が勝手に知らせたのです。 ですから彼女は積極的に求めたよりも、予期せずして癒され、救われたのです。 彼女は力なく失望、落胆し、孤独であった替りに、変えられました。喜ぶことができた。イエス様との交わりの中に本当の喜びを見いだすようになったのです。 かつて、生きる喜びも勇気もなかった彼女は急に変わった。立派になったのではない。ただ健康になりましたと同時に、目的、人生観も変わったのです。 マルコの話しを見ると、彼女はイエスの弟子に仕えるようになったと書かれています。絶望が消えて、彼女は彼らを、イエス様の弟子達をもてなしたとあります。 マタイの福音書を見ると同じ事実について書かれていますけど、ここで、主イエスに仕えるようになったと書かれています。 イエス様との出会いによって、彼女の病気は癒されただけではなくて、やっぱりイエス様のために生きたい、仕えたい、そして、イエス様に属する者のために役に立ちたいと思うようになりました。 このような飛躍的な変化は、予期せず、人間の努力によらずして起りました。もちろん私たちも同じように言わざるを得ないのではないでしょうか。 私たちがイエス様を選んだよりも、イエス様は私たちを選んでくださった。私たちはイエス様のことを求めなかったけど、イエス様は私たちの心の目を開いてくださったし、イエス様は悔い改められる恵みを与えてくださったのです。 イエス様によって捕らえれていない限り、本物ではないのではないでしょうか。 このシモンの姑はいろいろなことを勉強してわかったから、イエス様を信じるようになったのではありません。頼まないのに、イエス様は来てくださったし、彼女を癒してくださいました。 そのことを彼女は生きている間に、忘れられなかったに違いない。 マルコの福音書5章をみると、ヤイロの娘についていろいろなことを書いてあるのです。 言えることは、彼女も、シモン・ペテロの姑と同じことを経験しました。すなわちこのヤイロの娘もイエス様に癒されようと思って癒されたのではないのです。全く予期しない形で癒されたということです。 この娘の病気はどういうものであったかわからないけど、回復することなく、次第に悪化して死にました。 この娘の父親がイエス様を信じたのです。主イエスを信じなさいそうすれば、あなたもあなたの家族も救われることを信じただけではなくて経験しました。 彼はイエス様に頼ったから、本当の意味でイエス様を信じたから、娘の屍は、死に対するイエス様の力を現すものになりました。この病気が、すばらし薬によって癒されたのではなく、イエス様によって癒されました。 それを聞くと誰でもが、イエス様の偉大さに驚嘆せずにはおれないのではないでしょうか。イエス様は、私たちが気づくよりも遙かに多くのことをしてくださいます。 娘は重病人になり、だから父親はイエス様を捜すためにでかけました。イエス様の所に行って、祈って願いました。 もしも、私たちのために多くの祈りが捧げられなければ、私たちも間違いなく、イエス様を信じる者とはならなかったのではないでしょうか。 主は、いつも祈りの応えとして働いてくださるお方です。イエス様は、ご自身のために私たちが予期しない形で、御業をなしてくださるのです。 イザヤ書43:24-25
旧約聖書の福音そのものではないでしょうか。 もちろんある人々は、「私は、昔、自分の罪でイエス様に苦労させた。」云々と言います。その時、いつもちょっと聞きたいのです。「今は、どう?」 同じなのではないでしょうか。けど、どういうことであっても、「わたしはわたし自身のために、そむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」 イエス様は今日も、私たちの祈りと態度とに応えて予期しない形であしらって下さるお方です。 ヤイロの娘が癒されたのも、ヤイロの祈りと真剣な態度に主が応えてくださった現れであることがわかります。 このヤイロとは、本当に私たちの模範となるべきなのではないでしょうか。彼は、いわゆる会堂司、会堂の管理者の一人でした。その当時、非常に尊敬された人物でした。 けれども彼の名声と評判といえども、娘の病気を癒すためには、なんの役にも立ちませんでした。 このヤイロという立派な人格者の娘は病気になり、父親は非常に悩むようになりました。けども彼は、イエス様を信じた。もし、100%信頼しなかったなら、彼は、死にかかっている娘から離れることはしなかったでしょう。 けど彼は、そのような時にも決して絶望することなく、主のみもとに来て足下にひれ伏して、自分を投げ出してありのままをイエス様に願いました。 ある意味で、勇気が必要だったかもしれない。でも彼は、ほかの人がなんと言おうとかまいませんでした。 多くの人々は周囲の人々のうわさを気にするものです。そのため、イエス様の力を体験するのに妨げとなってしまうのです。 ヤイロは、100%イエス様に頼ったのです。私たちも徹頭徹尾、イエス様に信頼するか、あるいは人間を恐れるかのどちらかです。 マルコの福音書5:22-23
もし、できればと、そう言うものではなかったのです。このみことばの中に、ヤイロがイエス様を全く信頼し、救いの確信を持っていることが表されています。 結局、ヤイロは何を確信したかと言いますと、イエス様にとって不可能なことはない。私の幼い娘が死にかかっているけど、イエス様、お願い、どうかこの子が治って助かるように手を置いてやってください。 ここで、手を置くということは、その人とひとつになることを意味しています。イエス様が苦しみ悩んでいる人に手を置くと、その人から苦しみから去っていく。信仰は、イエス様の力により頼み、期待することです。 でもこの後、彼の思うようにはいかなかたのです。結局、彼の信仰は試されました。 つまりヤイロの思いをいろいろと妨げるものが出てきたのです。この父親は、イエス様と共にできるだけ早く1秒も早く、死にそうになってる娘の所へ行こうとしたのです。でも、なかなか思うようにいかなかったのです。妨げるものがあった。 はじめは群衆でした。群衆がイエス様に押し迫りながら着いていったとあります。早く走ろうと思ってもできなかった。けども、それだけじゃないのです。二番目の妨げは、ある病気の女でした。イエス様は彼女のために多くの時間を割いたのです。 ヤイロの心は、あせって、そわそわしていたでしょう。けどヤイロにとって、そのような経験はどうしても必要でした。なぜなら、絶望的な病気の女が、イエス様に癒されるのをつぶさに見ることができたからです。 ヤイロは、イエス様がその女に言ったことを聞いたのです。すなわち、すっかり治って達者でいなさい。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。ああ、信じれば、奇跡が起るとヤイロは悟ったのです。 多くの試練に遭遇している父親の前で、イエス様はご自分の力を明らかにしてくださったのです。 けれどもそれだけではありません。第三番目の妨げは最も困難なものです。ヤイロにとって想像できなかったのです。すなわちヤイロは、娘が死んだという情報を聞きました。 「死んだか。もう、イエス様を煩わすに及びますまい。あきらめるほかない。」と、彼は思っても不思議ではありません。 ヤイロの信仰は今や風前の灯火でした。娘が死んだ以上、信仰を持ち続けても役に立たないのではないでしょうか。目に見える支えは、すべてダメになりました。 命がある限り望みがある。命がなければ望みもない。これが普通の人間の考え方です。ヤイロも、そのように考える危険性の中にありました。 けれどもその時、イエス様は彼にとって最も大切な言葉を言われたのです。「恐るることはない。ただ、信じなさい。」 このようなことを言うのは、頭のおかしい空想家であるか、あるいはなんでもできるこの世に来られた救い主の言葉であるか、どちらかです。 私たちは、このみことばは、ヤイロを慰めるだけの絶望的な言葉ではないことをもちろん知っています。そのことは、ヤイロも知っていました。というのは少し前に、イエス様が絶望的な病気の女を癒されたことを目の前に見ていたからです。 「恐れることはない、ただ信じなさい。」、イエス様は一番必要な時に、一番必要なみことばをお与えになりました。 イエス様のみことばがなければ、ヤイロはがっくりしてしまったでしょう。 イエス様は、なんという愛と理解を示されたことでしょうか。このみことばによって、父親の揺れ動く信仰が平静に戻りました。 彼らが家に着くと、人々が大声で泣いたり叫んだりして騒いでいました。けど、ヤイロはそのことによって動揺したり浮ついたりすることはありませんでした。彼は、ただ、イエス様だけを見たからです。 イエス様は、ただ信じなさいと言われ、ヤイロは信頼したのです。すなわち彼は、意識して目に見える現実から目をそらしたのです。イエス様の、みことばの上にしっかりと立ちました。現実がどうであっても、関係ない。イエス様が「恐れることはない、ただ信じなさい」と言ったから、この態度をとりました。 その時、ヤイロは、イエス様の素晴らしさ、偉大さを体験するようになりました。すなわちイエス様が、死に対立していました。 普通の人は誰でも、瀕死な病人が死ぬまでは、必死になって希望をもって一生懸命になるでしょう。けど死んでしまうと、それで一巻の終わりと考えますけど、イエス様の場合はそうではない。 終わりと思われている場合でも、イエス様にとって不可能なことはありません。人々が終わりだとあきらめてしまうその時こそ、イエス様の偉大な力とみわざが明らかにされるのです。 イエス様は次のように言われました。それは墓場の中だったのです。「わたしは、命です、よみがえりです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」、結局、死は終わりではない。 イエス様のおられる所は、必ずどこでも命が啓示されるのです。命そのものであるイエス様と、死人であるヤイロの娘、なんという対称を示していることでしょうか。 両者は、本来相容れないものであるにもかかわらず、一つにならなければならない。そうしないと希望が生まれて来ない。イエス様が死人の手をとって起こされると、死の病は去りました。少女は単に生き返っただけではなくて、非常に元気になったのです。イエス様は生きておられ、イエス様は命を、永遠の命を与えるために犠牲になられたのです。 聖書を読むと、確かに肉体的な死についていろいろなことを言っていますが、それだけではなく、いわゆる霊的な死についても聖書は多くのことを言っています。 いうまでもなく霊的な死が肉体的な死よりも遙かに恐ろしいことです。霊的な死とは、主なる神に対して死んでいることを意味します。 主なる神との結びつき、交わりを持っていない状態を意味します。いうまでもなく人間の生まれつきの状態は、罪と罪過とによって死んでいる状態です。 エペソ人への手紙2:1-2
ルカの福音書の15章には、放蕩息子についていろいろなことを書いています。 彼は自分勝手に親から離れて、自由になれば幸せになると思い込んでしまったのです。でもご存知のように逆でした。彼は、ひとりぼっちになり、死ぬか帰るかのどちらかになっちゃったのです。 彼は思い切って帰ったのです。息子として受け入れられる可能性はもうないと、彼は思い込んでしまったのです。けど、それでもいいよ。召使いとしてでもいいよ。 もちろん、彼は息子として受け入れられるようになりました。その時、父親は喜んで言ったのです。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。」 父親の目から見ると、彼は死んだも同然だったのです。けども、帰ることによって生き返った。 ヨハネの黙示録の中に厳しい言葉があります。 ヨハネの黙示録3:1
「生きているとされているが、実は死んでいる。」、この教会に住んでいる一度イエス様を信じるようになった人々は、自分はOKと思い込んでしまったのです。自分は生きてると思っちゃったのです。けど、主は違う。死んでるよとおっしゃいました。 イエス様の御手が触れた時に、死んでいた者が生き返る。イエス様によって、新しく生まれ変わった者は、死から命に移っているとあります。 ヨハネは、おそらく100歳になった時に手紙を書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:14
と書くことができたのです。これは単なる思いこみではなかったのです。 結局、死を克服してくださったイエス様を受け入れることによって、私たちは、もう永遠の命に移されていると確信したのです。 本当に命そのものであるイエス様の力は偉大なるものなのでしょうか。そのことをシモンの姑が経験し、同じ力によってヤイロの娘も死から命へと呼び戻されたのです。 私たちは命の君であるイエス様の偉大な力をもうすでに体験したのでしょうか。 イエス様は、私たちの中に、私たちの家族の中に、そして職場の中にご自身の力を現したいと思っておられます。私たちは、目に見える支えがなくても、イエス様の導きがわからなくても、イエス様をすべてに明け渡し、信頼しているのでしょうか。 「恐れることはない。ただ信じなさい。」、ここでは、私たちだけではなく、家族も友人も救いも問題となっています。 ヨハネの福音書5:24
イエス様の変わらない呼びかけは、いつも同じです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。休ませてあげます。」「渇いている者は、みな水を求めて出てきなさい。」、「金のない者も、さあ、穀物を買って食べよ。金を払わないで穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」 イエス様の招きの言葉とは、いつもそういうものでした。 誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。 ヨハネの黙示録22:17
いのちの水とはもちろん永遠の命であり、罪の赦しであり、神との平和そのものであります。 |