引用聖句:ペテロの手紙第I、1章8節
初めに、南ドイツの古い、何百年も前に建てられた家の外側の壁に書かれた言葉です。 あなた方は私を主と呼んでいる。 しかし私に頼ろうとしない。 あなた方は私を光と呼んでいる。 しかし私を仰ぎ見ようとしない。 あなた方は私を道と呼んでいる。 しかし私に従おうとしない。 あなた方は私を命と呼んでいる。 しかし私に近づこうとしない。 あなた方は私の知恵を認めている。 しかし聞く耳を持とうとしない。 あなた方は私の美しさを認めている。 しかし私を愛さない。 あなた方は私の富を認めている。 しかし私に頼もうとしない。 あなた方は私の永遠の存在を認めている。 しかし私を探そうとしない。 あなた方は私の恵みを認めている。 しかし私に信頼しようとしない。 あなた方は私の全能を認めている。 しかし私を褒めたたえようとしない。 あなた方は私の誠実さを認めている。 しかし私を恐れない。 もし私があなた方をのろわれ、 永遠の日に渡せば、驚いてはいけない。 続いて言えるかもしれない。 あなた方は喜びの集いに参加するけれど、 聞く耳がないし、悔い改めようとしないし、 だから私はあなた方を祝福することができない。 私の力を現せない。 あなた方を用いられない。 ということになれば悲劇そのものではないでしょうか。 ペテロは当時、自分の信仰のゆえに迫害された兄弟姉妹にいうことができたのです。 今読んでもらいました箇所、ペテロの手紙第I、1章8節「あなた方はイエス・キリストを愛してる。」これこそ最高なのではないでしょうか。 旧約聖書の主な人物の一人は間違いなくソロモン王様でした。考えられない男でした。当時の世界を一つにしたのです。戦争なしに、血を流すことなしに一つにしたのです。 聖書は彼についてすごい言葉言ってるんです。列王記第I、3章3節、一文章だけです。「ソロンモンは主を愛した」。終わり。 一番頭のいい男でした。大金持ちでした。けれどそれは別にどうでもよかった。 聖書の判断、主の判断とは、ソロモンは主を愛した。そしてペテロも、迫害された兄弟姉妹について同じことを言えたのです。あなた方はイエス・キリストを愛してる。なぜイエス様の存在を認めるようになったか、それはイエス様を信じるだけではなく愛してるから。 聖書はあまり知らない人々でさえも聖書の一言葉を記憶している。「神は愛なり」という言葉です。主なる神は愛そのものです。私たちはこの事実について今も考えましたし、結局、感謝、礼拝せざるをえなくなります。 この愛の証拠なるものは、この罪にまみれた世界にお入りになった、死に渡されたイエス様です。 この愛を経験した人々とは、確かに大いに喜ぶことができます。 しかし今日一緒に考えてもらいたいのは、主のわれわれに対する愛についてよりも、我々の主に対する態度について、すなわち今回来られたお一人おひとりについても、彼は、彼女は主を愛していると言えるかどうかは問題です。 一番大切なのは一体何なのでしょうか。言うまでもなく一番大切なことを知ること、一番大切なことをすることなのではないでしょうか。イエス様の時代で、あるよく聖書を勉強した学者はイエス様に尋ねたんです。「先生、一番大切な戒めは何でしょうか。」 マタイの福音書22:32
イエス様はなんと言ったかといいますと、アブラハムもイサクもヤコブも生きてる。確かに死んだけど生きてる。群衆はこれを聞いて主の教えに驚いた。ちょっと残念です。悔い改めたのではない。驚いただけ。 しかしパリサイ人はイエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、一緒に集まった。そして彼らのうちの一人の律法の専門家がイエスを試そうと尋ねた。「私が救われるためにどうしたらいいの、教えて。」、そういう気持ちがなかったんです。「先生」―これも偽善的な態度でした。 先生と言う時、結局教えてください。どうしたらいいの。知らせて。けれどそういう気持ちがなかったんです。「律法の中で大切な戒めはどれですか。」 そこでイエスは彼に言われた。これもすごい。イエス様は彼を無視したのではない。我々だったら聞くんですけど聞く耳がない。いやです、偽善者。そういう態度を取るでしょう。イエス様はこの態度を取らなかった。彼を無視しようとしなかった。 イエス様は旧約聖書の一か所を引用しただけです。なんと言ったかといいますと、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしあなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めもそれと同じように大切です。律法全体と預言書とがこの二つの戒めにかかっているのです。」 大切なのは何でしょうか。イエス様の答えとは、旧約聖書の箇所です。あなたの神を愛せよ。 当時の群衆はイエス様の話を聞いて、そして驚いたと書いてあります。けれどイエス様は何かを教えようとしなかったのです。イエス様の教えによって誰も救われないからです。イエス様は結局道しるべではない。道そのものです。 イエス様から自分自身を明らかにしようと、イエス様は望んでおられます。結局イエス様の教えたことは、決して一つの教えではなかったのです。一つの呼びかけでした。疲れてるから、つらいから、さびしいからおいで。待ってるよ。 イエス様のところに行くと愛されてることを知り、解放され、大いに喜ぶようになります。当時の聖書学者たちは聖書をよく勉強しました。けれども聖書の内容をまったくわからなかったのです。 聖書の中心とは今話したように一つの教えではない。救い主なる、約束された救い主であるイエス様です。 このイエス様に対して当時の学者たちはめくら者でした。一人の律法の専門家がイエス様のところに行って、教えてもらいたい、真理を明らかにしてもらいたいという気持ちじゃなくて、イエス様を試そう、イエス様をダメにしようという目的を持って近づいたのです。 主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられます。これはすごいではないでしょうか。これこそ人間の使命です。 人間は主なる神と愛の関係を持つことを赦されています。人間以外の被造物、例えば天使たちのような被造物からは、主は別に愛を要求なさいません。要求されるものはもちろん従順です。絶対的服従を要求されています。 けれど人間からはそれ以上を求めておられます。すなわち我々は主を愛すること、あなたの神である主を愛せよと要求されています。 これは最大の、そして一番大切な戒めであるとイエス様は強調してくださいました。 主なる神は、結局我々の二心のない愛を求めておられます。主は真心からの愛を望んでおられるのです。主の戒めによって人間は束縛されるようになるのではなく、解放されます。心も満たされるようになります。 主は、私たちが愛しても愛さなくてもかまわないという具合には、我々を自由勝手になさることはなさいません。愛することを命令しておられます。どうしてでしょう。 なぜなら人間はただその時だけ人生の満たし、完全な喜び、まことの自由を見出すことができるからです。 主は、すべてのものを存在するようになさった大いなる創造主です。この主は、私たちがそのことを信じようが信じまいが、そのことを認めたいと思うが思うまいが、一人一人の神でもあられます。 けれどこの大いなる創造主は、同時に救い主でもあられます。 主は人間一人一人に対して無関心ではいらっしゃいません。一人一人はこの救い主によって愛されています。このことは聖書のまったく大いなる福音です。 聖書は主なる神が愛であると明言しています。別な言葉を用いるならば、真の愛は神からのものです。 神なき本当の愛は存在しない。真の愛と主なる神は不可分のものです。 主なる神は愛そのものです。聖書は神が愛を製造するとか、神が愛を送るとか言ってません。神はこの愛をお示しになりました。 ヨハネの手紙第I、3:16
主は私たちのためにご自分の命をお捨てになりました。大部分の新約聖書の手紙を書いたパウロ、元のサウロは長い間イエス様を憎んだだけではなく、イエス様を信ずるものを迫害しました。 いかなる人間も、彼を間違った道から引き戻すように納得させることはできなかったのです。 けれど彼は世界一の、イエス様を紹介する者に変えられました。どうしてでしょうか。彼は一文章で言ってます。有名なガラテヤ人への手紙2章20節、 ガラテヤ人への手紙2:20
彼はいっぺんに変えられました。瞬間的に何がわかったかと言いますと、十字架に付けられたキリストは犯罪人ではなく、詐欺師でもなく嘘つきでもなかった。なぜなら復活なさり、今もなお生きておられるからです。 生ける神は確かに人間になられました。生けるまことの神は私たちが受けなければならない罰を、ご自身の身に受けてくださった。主なる神は、ご自身で我々の救いのために身代金を支払う備えをしたと。 この愛はパウロを確かに圧倒してしまった。この愛はパウロの人生を根底から変えられました。この愛はパウロに迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を述べ伝えることを要求しました。 十字架は何を語ってるのでしょうか。「私はあなたの創造主であり、またあなたの救い主でもある。私は自分自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪の塊とされ、救いの代価を支払った。」、と生ける真の神が愛であり、ご自身を捧げてくださったゆえに、主は愛されることを要求する権利を持っています。 生ける真の神は限界に至るまで愛してくださったゆえに、次のように命令なさるのです。すなわち、私は愛であるから、あなたも私を愛すべきであると。 ここに次の質問があらわれてきます。すなわち一体誰が主を愛することができるのか。その答えは当然ですけど次のようなものでしょう。主を自分で経験した人だけです。 我々の中にはまだイエス様の愛を経験していない方々、そしてまだイエス様に出会ってない方々がおられるかもしれない。だから願い求めるべきなのは、「どうか真の愛を明らかにしてください。主が与えたいと思っておられるもの、すなわち罪の赦し、本当の心の平安、また変わらない喜び、生き生きとした希望を与えてください。」 つまり大切なのは、宗教を持つことでもないし、どこかの教会員になることでもないし、洗礼でもないし、みんなよりより良い人間になるための努力でもありません。私たちが主なる神の愛を経験すること、すなわち私たちが罪と債務をになう罪人としてイエス様のみもとに行き、罪を赦していただくことです。 人間が必要としているのは、一つの教えを勉強すること悟ることではなく、主の愛を体験的に知り、味わい知ることです。 だからイエス様ははっきり言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。これが大切な第一の戒めです。」 けれど正直な人はみな分かるでしょう。すなわち自分の力では主の律法を、主の戒めを守ろうと思ってもうまくいかない。 イエス様のみもとに近づき言うべきではないでしょうか。「私は守りたい、本当に。そうだけど、無理。できません。敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、まったく不可能です。私のうちには何一つ良いものが宿っていません。自分の力によってはまったく自分中心的な生活を送ることしかできない。」 自分が降参するこを公にすることは、確かに生まれつきの人間にとってもっとも嫌なことなのではないでしょうか。「がんばりなさい。」、と言われれば、「うん、そうします。」、けれど降参しなさいと言われれば、やっぱりちょっとおもしろくない。 すべてのいわゆる宗教は、はるかに受け入れやすいものです。というのは、すべての宗教は人間を中心に置き、人間が努力することを要求するからです。 けれど生ける真の神は、人間が自分のダメな状態を認め、降参することを公にし、砕かれることを望んでおられます。 イエス様を愛する者はイエス様を中心に据えたいと願います。イエス様を愛さない人は自分が中心になりたいと思っています。 バプテスマのヨハネはイエス様を愛した男でした。彼は、イエス様は盛んになり私は衰えると、心から告白したのであります。 イエス様に対する愛なしに何かをすることは肉的行動をすることを意味します。そして肉からは何も良いものが出てこない。 一つのことが明らかです。すなわち、人間はどうしようもないものです。まったく堕落してしまっている。自分のことだけしか考えられない。自分の力でもって主を愛することはできません。 しかし、自分の債務を告白し、自分の無力さをもはや隠さないで、ありのままの状態で主イエス様のみもとに来る者は、次のことを経験します。 すなわちイエス様は、ご自分のみもとに来るすべての人を間違えなく受け入れてくださるということ。またイエス様は、主に告白されるすべての債務を赦してくださるということ。そしてイエス様が、内側から新しくしてくださるということです。ローマ人への手紙5章5節、非常にすばらしい箇所です。 ローマ人への手紙5:5
神ご自身の愛、 ローマ人への手紙5:5
主ご自身の愛は信ずる者に与えられています。だから愛することができます。 人生のむなしさ、罪の泥沼から解放されたダビデという男は、主を愛しました。彼は次のように告白したのです。詩篇18編1節から2節です。すばらしい告白であります。 詩篇18:1
心から愛してる。 詩篇18:2
ダビデは本当に、そう告白しただけじゃなくて心からそう思った。私はあなたを慕います。一体どうしてダビデは主を愛したのでしょうか。答えは明らかです。なぜならば彼の多くの罪を赦していただいたからです。 彼は姦淫の罪を犯しました。そしてこの罪を覆い隠すために、彼は彼が親しい関係を持った夫人の夫を殺させました。この債務を解決しようとするあらゆる人間的な道は、新しい債務に導くだけだったのです。みじめさから脱出する道はただ一つしかない。 ダビデの息子、ソロモン王は書いたのです。 箴言28:13
誰でも知るべき事実です。隠す者は成功しない。いつか明らかになる。そのとき、赦される時じゃないかもしれない。 ヨハネはヨハネの手紙第Iの中で同じことを強調したのであります。 ヨハネの手紙第I、1:9
ヨハネの手紙第I、1:7
ダビデという王様は、この道を行く覚悟をしました。 詩篇32:3
うまく隠そうと思ったときには… 詩篇32:3-5
その結果としてダビデは解放され、次のように歓喜の声を上げることができた。 詩篇32:1-2
もちろん、旧約聖書の中でも同じ福音が書き記されています。 イザヤ書57:15
パウロも、同じ事実を経験する特権にあずかるようになりました。彼もイエス様を心から愛するようになったのです。「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」と言えるようになったからです。 パウロもこのイエス様の愛に圧倒されました。「キリストの愛が私を取り囲んでいる」と彼は言えたのです。すなわち、私は主の愛を経験しました。私は喜びに満たされてる。主に対するいかなることも喜び感謝せざるを得ない。 ピリピ人への手紙の中で、彼も次のように言いました。ローマの刑務所の中で書いた手紙です。 ピリピ人への手紙3:7-8
パウロはなぜイエス様を真心から愛したのでしょうか。なぜなら彼は多くのことを赦していただいたからです。 今話したように、ダビデまたパウロは、心から主を愛した二人でした。だから彼らの生涯は、祝福の生涯だったのです。 我々の場合はどうでしょうか。心から主を愛さないことは、我々のあらゆる悩みの原因なのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録2章4節には非常にきびしい言葉が書かれています。 エペソにいる兄弟姉妹は、一番りっぱで、主のために生きたいと望んだ人々でした。けれど主は何と言ったかといいますと、 ヨハネの黙示録2:4-5
意味は、用いられない。私のためにまったく役に立たない。 初めの愛とはいったい何でしょうか。初めの愛とは、イエス様との交わりです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成しえないということです。 もし毎日毎日、聖書が我々の力の泉、また慰めの元となり、喜びの源となっているならば、そして我々の考えている行いの中心はイエス様がおいでになるならば、それこそが、我々の初めの愛から保たれていることの証拠です。これが、燭台がその場に置かれていることの大切な条件です。 しかし、エペソにいる兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。その結果、イエス様は、「もはや私はあなたと共にいることができない。私はあなたに対して対立する。あなたを用いられない。あなたを祝福できない」と言わざるを得なかったのです。 外面的に見るならば、エペソの群れはすべてがうまくいっていました。しかし主は満足されなかったのです。熱心さがあり、また困難に対する忍耐がありました。しかし、これらのものも、初めの愛、イエス様に対する献身の代わりになるものではありません。 イエス様はまず何よりも、我々の愛、我々の心をご自分のものにしたいと望んでおられます。イエス様にすべてを依り頼まない人は、初めの愛から離れたということです。 かつては、エペソの兄弟姉妹にとって、イエス様に憐れみを与えられ、受け入れられ、解放を与えられ、そしてイエス様に仕えるものとされたということは、考えられないほどのすばらしいことでした。 しかし、これらの恵みに対する驚きは、次第に消えてしまったのです。ですから、初めの愛を失うということは、決して愛を捨て去るということではなく、愛を忘れ去るということです。 私たちは、エペソの信ずる者の群れのように初めの愛を忘れないようにするために、今朝のように毎日曜日、主の聖餐を守ることをしています。このことを通して、常に新たに、主の苦しみ、また主の死、主の恵み、そして愛を思い起こそうとしているのです。常に新たに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝をささげようとすべきです。 私たちは、毎日イエス様に聞くべきでしょう。すなわち、あなたは私に対して何か対立すべきものを持っておられるのでしょうか。しかし、主のみ前に静かなときを毎日持つことをしない人に対しては、主がその人に対して何かを対立すべきものを持っておられるかどうかを明らかになさることができません。 初めの愛の特徴とは何でしょうか。主の足元に静まることです。すべてを主に明け渡すことです。徹頭徹尾、主にだけ依り頼むことです。また、主の御心に従うこと。そして主と主の導きに信頼することです。 飢え渇きを持ってみ言葉を読まない人は、主を本当の意味で愛していません。「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度がなければ、主は語ることができないし、御心を明らかにすることもできないし、ご自分の大いなる愛を示すことができません。 初めの愛は、イエス様を私たちの中心に置かせます。そして、このことは、我々の過去における一時的な事柄であってはならず、我々の全生涯を貫くことがなければなりません。 大切なのは一体何なのでしょうか。すべての事柄が、イエス様との交わりから生じているということです。初めの愛の実例はルカの福音書10章に出てくるマリヤという姉妹です。 彼女はすべてに勝ってイエス様を愛しました。イエス様の足元に座り、イエス様のみ言葉に耳を傾けました。彼女は値高い香油を主に与えました。自分を批評する人々のことは考えないで、イエス様のみ心にかなうことだけを求めたのです。 コロサイ人への手紙3:23
コリント人への手紙第II、5:9
初めの愛というのは、二心のない主への愛であり、本当の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、そして兄弟姉妹に対して真心からの愛を持つことです。 私たちは、初めの愛を失ってしまったのでしょうか。 イエス様を愛する者はイエス様だけに依り頼みたいと願い、イエス様を愛する者は主にだけ全幅の信頼を置きたい、イエス様を愛する者は主のそば近くにいることを願います。 イエス様を愛する者はいかなる代価を払ってもイエス様と交わりたいと望むのです。イエス様を愛する者はイエス様だけを喜んでもらいたいと思います。イエス様を愛する者はイエス様のためにだけ生きたいと願う者です。 そして言えることとは、イエス様を愛する者は憐れみを受け、恵まれます。イエス様を愛する者は守られ、喜びに満たされます。イエス様を愛する者は心の目が開かれ、導かれるようになります。 したがって、我々にとってもっとも大切な戒めとは、何なのでしょうか。『イエス様から目を離さないでいなさい』なのではないでしょうか。 |