実を結ぶ人生


ベック兄

(「集会広場」から転載)

今日は、実を結ぶ人生について考えてみたいとおもいます。
救われた人々は、救われるだけに救われたのではなくキリスト者の人生は、実を結ぶ人生であるべきです。三つの点に分けたいと思います、この世に対してキリスト者の在り方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違が大切な点と思います。
そして二番目は、主だけに寄りかかることも非常に大切なことでありそれから、 自己否定、自分により頼まないことが非常に大切であります。

この世に対してのキリスト者のありかた

この世に対してキリスト者のありかたについて考えるとピリピ人への手紙3章8節は、その答えになると思います。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

こういうふうに、パウロは証するようになったのです。パウロはこの言葉の内に主を知ることのいかに優れているか、いかに価値あることか、それから、主を知るためにいかに多くの値を払わなければいけないかを言っています。パウロはここでこれらのものを『あくた』のごとく思うと言っていますがパウロが塵芥と言ったものがけっしてちいさいものではなかったのです。それはパウロの立場、パウロの能力そのときもうすでに受けていた知恵や名誉や目的を意味していました。知恵や名誉や学識は問題でなくなり、イエス様を知ることイエス様をよりよく知ることが全てとなったのです。
そのために、パウロは主を知るために多くの値を払わなければいけなかったのです、パウロは多くの人にかつては、ほめそやされ敬われていたのですがいったんイエス様の証し人になるやそれらの人は離れるだけでなくパウロを迫害しさえするようになったのです。値が払われなければいけなかったのです。パウロは、主と自ら身につけたものをよく比較し検討した結果、主の方を選びとりました。パウロは、心のなかで自ら自分は他の者と違うことを確信しました、世人と異種の者であることを自覚していたのです。

ヨハネの福音書の中でイエス様は、17章16節に

ヨハネの福音書17:16
16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

と言われたのです。イエス様を受け入れた人々は全く世の人と違った異種のものであるべきです。
一昨日の前夜祈祷式、昨日の葬儀もはっきり感じました、信じるものとそうでないものとでは全く違うということなんです。
もちろん私たちは、未信者と一緒に生活しなければなりません、けれどもイエス様によって救われいない人と同じではありません。もし私たちがこの世の人を主に導く者となりたければ、自分はこの世とは全く違った者であることを自覚しなければいけません。もし少しでもこの世と妥協するところがあるならば主なる神は、その人を用いることができません。イエス様は、この世に生きておられるとき人間には見られない友情と哀れみに富んだ方なのです、しかし他の人間たちとは本質的に違ったお方でした。

私は、世の者ではないとイエス様は何回も何回も言われたのです、イエス様は自分は彼等と違ういつもこの自覚を持っていました。イエス様のご奉仕の力の源でもあったのです、この内面的な相違こそがキリスト者の生涯の力の秘訣です。もし私たちが、この世の人と自分は本質的に違うということを深く知るならば何とかしてこの人々を主の国に導きたいという深い願いを持つようになります。もし私たちが、主に喜ばれるしもべとして生きたいと思うならはっきりとした態度をとる必要があります。
私たちが、心の中に正しい態度をもつことは決して簡単なことではありません。けれども神は、今日この地上にはっきりとした態度をとる人間を探し求めておられます。はっきりとした態度をとることは、もちろん千九百年前にも同じく簡単ではありませんでした。

イエス様の弟子たちについて次のことが言えます。ペテロが殺されるとき自分は、イエス様と同じ死に方はしたくないイエス様より悪い死に方だた言って逆さ張り付けになったといわれています。ヤコブは、ヘロデ王によって首を切られ死んだと伝えられています。ヨハネは、パトモス島に島流しになり最後をとげたそうです。アンデレは、十字架にかかり最後をとげたと伝えられています。ピリポもヒエラポリスで殺され、バルトロマイは、打ち殺され、他のヤコブは、十字架につけられ、ユダの一人は、貨車で殺されました。シモンは、これまた十字架で最後を遂げたと言われています。
この主の弟子たちは、主と他のものこの世に属するものをよく比較し検討した結果、皆主を選びとったのです。もちろんパウロも同じ態度を取ったのです。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

我々の目指すところはどこにあるのでしょうか。
有名になることでしょうか、人に知られることでしょうか、誉められることでしょうかあるいは主のしもべとして用いられ、主だけが中心になってもらいたいという願いを持っているでしょうか。
内面的な相違こそが、いきいきとした証しであります。

主にだけ寄りかかる

次に主にだけ寄りかかることも非常に大切でありますが、先週ヨハネの福音書15章から読んだのですが、もう一回1節からお読みします。よく知られている箇所ですが、これは単なるたとえ話しよりもキリスト者の使命は、どういうものであるか、実を結ぶ秘訣はどういうものであるかをこの箇所を読んではっきり知ることができると思います。

ヨハネの福音書15章1節から8節、この箇所を見ると実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかということをはっきり知ることができます。
5節は、非常に大切なことです。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

という箇所です。

どんな宗教でも何かをしようとしています。どんな宗教でもそれぞれに教理をもっています。そしてそれぞれの信者たちは、その教理をわがものにしようと努力するでしょう。 けれどもキリスト教は、これらの宗教に比べるとキリスト教は、ただ教理だけでなく生きておられるイエス様ご自身を知ることは大切であります。
ヘブル人への手紙のなかで主イエスは、「昨日も今日もいつまでもかわらないお方」であると書いてあります。このいつまでも変わらないお方ご自身を知ることこそが大切です。

もし私たちが、ある教え教理を実行しようと努力しようとするのは、キリスト教の出発ではなくて、人々がイエス様のもとへ来ることが出発である、だからイエス様は決して本物を得るためにわたしの教えを研究せよ、理解せよとは言ったことがありません。
「いつもありのままの状態でわたしのところへ来なさい。」
イエス様のところへ行った人々は、イエス様ご自身を知るようになり、すなわちイエス様によって受け入れられ、いやされ、回復されたのです。
まずだれでもイエス様に、来なければならないから、彼から離れては真のキリスト者であることはできません。

このヨハネの福音書15章の姿を見ますと、イエス様自身が真のぶどうの木であなたがたは、すなわち信じる者はその枝であると言われています。これは、有機体を意味するのです。組織的な関係ではないのです。
イエス様は木であり信じる者はその枝である、木の幹はその枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができるのです。
ぶどうの幹に力と命が満ちている。パウロは、私たちの主と私たちの関係をコロサイ人への手紙2章9節から10節でもって表現しています。

コロサイ人への手紙2:9-10
9キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
10そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

と書いてあります。キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質がかたちをとって宿っています。そしてあなたがたは、結局キリストとむすびついているものであるから、満ち満ちているのでありす。
キリストは全ての権威と支配のかしらです。
そして、前に読みました、ヨハネの福音書15章5節に

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

これは、努力の結果ではなくてつながっている結果です。当然です。主の中に力と命が満ち満ちています。主は、私たちの内に生きておられます。私たちを通じて実を結ぼうと望んでおられます。
私たちは、その満ち足りたものを受けるためにつながりを保っていなければならないだから、この5節の

ヨハネの福音書15:5
5わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

主から離れては私たちは、本当の意味で信じることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると少しもできません。イエス様は、何事も大げさに言われなかったのです。私たちの内、もっともたりないことは何でしょうか。それは私たちが、自分で何かを試みようとしイエス様のために何か計画しようとする独立の精神だけがあってイエス様に寄りかかることをしないのではないでしょうか。
イエス様は、ペテロに次のようなことを言われたことがありますが、ヨハネの福音書の21章、よく知られているみことばですけど、ペテロはもちろんこの言葉の意味を理解することはできなかったと思います。ヨハネの福音書の21章18節

ヨハネの福音書21:18
18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

この言葉は、私たちはいつか必ず体験しなければならないことですが、全く主に寄りかかるということが、力を持つ秘訣であります。主に寄りかかることが真の自由です。

私たちは、はたして自ら貧しいことを知っているのでしょうか、私たちは、何事もできないものですが、主イエス様は、私たちの内側にあって行動者となり愛するものとなり祈祷者とならんことを切に望んでおられるのです。この無限の富みを前にして、乞食のもののようではないでしょうか、主に寄りかかることは泉につながっていることを意味しています。イエス様こそが泉そのものです。慰めの泉であると聖書は言っています、
マタイの福音書11章の中でイエス様は、「重荷を負って苦労している者は、いろいろなことで悩んでる者は、私のところへ帰なさい、わたしが休ましてあげます、わたしが真の慰めの泉である。」と、この悩める世には、無数の人がなぐさめをもとめています。けれど誰もまた何にもそれに答えるものはありません。しかしイエス様は呼びかけておられます、『わたしのもとへ来なさい、わたしが休ませてあげます、わたしが真のなぐさめを与えます。』と。

またイエス様は、力の源であります。力の泉です。前に読みましたコロサイ人への手紙2章9節からもう一度読みます。

コロサイ人への手紙2:9-10
9キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
10そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

と書き記されているのです。
わたしたちは、能力と権力を必要とします、主はそれらの物の所有者であり、イエス様こそが力の泉そのものであります。もちろんイエス様は、罪の赦しの泉であり源であります。イエス様だけが神の権威をもって『あなたの罪は赦されています』と言える方であります。罪の赦しをほしいと思う人はまず自ら罪人であることを知らなければなりません。
もちろん自分は罪人だ過ちを犯したものだと認めることだけでは十分ではありません、イエス様は、あなたにどんな罪を犯したかとお尋ねになります。自分はかつてきよい主なる神とあなたとの間にいかに大きな隔たりがあることを感じられたことがあるでしょうか、自分のあやまちを告白したことがあるのでしょうか、
『隠すものは成功しない言い表すと恵みを受ける』と聖書全体は約束しております。もしわたしたちが、自分の罪を言い表すと神は赦してくださり、受け入れてくださると書き記されてあります。ですから言い表した後で神は赦してくださったと素直に信じることができる、どうしてかと言いますと聖書は、そう言っているからです。神はうそを知らない方だからです。イエス様は平和の泉そのものであります。世界の国々は皆、平和平和と宣言します。平和会議を召集します、けれども人々は、イエス様のみが平和の源、そのものであることを忘れているのであります。パウロは、キリストこそわたしたちの平和であると経験者として確信を持って言うことができたのです。イエス様に寄りかかるということがなぐさめ、力、罪の赦しと平和の源に連結していることを覚えましょう。

イエスさまにより頼む秘訣とは何なのでしょうか、ヘブル人への手紙12章2節にに書いてありますが、ヘブル人への手紙12章2節です。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様から目を離さないことです。これこそが最も大切であり、主により頼む秘訣です。主に寄りかかると言うのは、すなわちイエス様だけをあおぎ見るということです。イエス様が私たちのために十字架にかけられただけでなく、復活なさったのです。イエス様は、死を克服なさった方です、そして神の御座に座しておられる方です。その御座とは、栄光の場所です。イエス様はいつも主なる神の御心にかなうお方でありました。十字架さえしのばれたので天にお帰りになったとき、父なる神は、イエス様をその一番高い栄光の場所を与えられたのであります。ピリピ人への手紙によると神は、彼を抱き上げ、ある名を主イエス様に賜わったと書いてあります。
又イエス様は、罪のきよめの業を成し終えてから、いと高きところにいます大能者の右の座に着かれたとあります。この御座とは、栄光の場であり力の場であります。イエス様は、この世におられたとき次のことが言えることができたのです。
「私は天においても地においてもいっさいの権威を授けられた。」と。我々の主が栄光の場、力の場に座しておられるお方です。その主に寄りかかる人が、あえて不思議とするところではない次のことを宣言することができます。
ピリピ人への手紙4章には、「わたしを強くしてくださる方によって、何事もすることができる。わたしは全てのものを受けて有り余るほどである。」と、パウロは言うことができたのです。『わたしは神に感謝します、神は、私を導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださる。』と、そのように宣言する秘訣は、主に寄りかかることです。その寄りかかるのは信じるものの幸せです。イエス様から離れては何一つできないのである、でもイエス様とともなれば何事もできると言うことです。

ヘブル人への手紙2章9節に次のようなことが書かれてあります。イエス様を見上げる必要性についての箇所です。

ヘブル人への手紙2:9
9ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と書いてあります。「イエスのことは見ています。」大切なのは、それなのです。また詩篇34篇の5節に

詩篇34:5
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

私たちは、長い間自分自身を見てきましたが、そのことの結果はどうだったのでありましょうか。わたしたちは、傲慢になったり又は、劣等感におちいります。だれでも自分自身を見ると哀れな状態です。どうして私たちは、イエス様だけを見ないのでしょうか、私たちはみことばを信じていないからです。『わたしから離れてはあなたがたは、何一つできないからである。』と言われたのです、もしみことばを信ずるならば、私たちは、何事も自身をあてにしないでしょう。そして私たちは、失望なされない。イエス様だけを見ましょう、私たちは自分自身を見る価値のない者です。又私たちは、他人を見ることはいりません。これも私たちの長い間なしたことではないでしょうか。その結果は人の顔色を見ることにおちいり、人の機嫌を取ることに心を奪われてしまいます。それは、不幸の道です。おそらくイエス様を信じる者はみなペテロの経験をするでしょう、ペテロは、イエス様を見ながら「あなたこそ生ける真の神、キリストです。」と言いましたけど、まもなくイエス様はおなじペテロに言われたのです。「サタンよ引き下がれ、私のじゃまをする者だ、あなたは神のことを思わないで人のことを思ってる。」と。
人を見ることは、人に寄りかかることです。そうするなら、主に頼ることができません。人を見る目から離れて、イエス様だけを見上げなさい。又、私たちは、境遇を見る必要はありません。もし私たちが、境遇の面倒な事を見るとそれに支配されてしまいます。

「わたしから離れてはあなたがたは、何一つできないからである。」とイエス様は、言われたのです。このみことばを信じるべきではないでしょうか。ここでイエス様は、「何もできない。多くのことができない。」とは、言われなかったのですね、何もできない。説教することができても、証しをすることができても、いろいろな奉仕をすることができても、その実は永久に残りません。イエス様の判断によると少しも残らない。

私たちは、自分自身を見ることはいりません。他人を見ることはいりません。境遇を見る必要はありません。

罪とはいったい何なのでありましょうか、罪というギリシャ語の一つの意味は、矢が的をはずれるという意味です。同じようにイエス様を見ないことは、的をはずれることです。すなわち罪です。一つの実例を申しあげましょうか。ずっと昔、前の前の話しですが、1942年、ソ連のスターリンカーツ(?)であったことですがドイツの軍隊33万人は、スターリンカーツの町の中に敵の軍隊によって包囲されていました。数週間後、兵隊たちはすでに弾薬も食料もなくなったのです。馬も全部食べ尽くされました。最初はまだ病人と負傷者は、飛行機で連れ出すことができたのです。もちろんその情勢は見込みがなかったのです。多くの兵士たちは、故郷の家族を思い絶望しました。そのなかにイエス様を信じる者ももちろんいましたし、これらの信者たちは、敵や絶望的な状態を見ることなくただイエス様だけを見たのです。わたしの友達の友人もそこにいまして、この方は、このような状態の中では何にもできないということを知ってこれは、イエス様なしでは何もできないという言葉をよく知っていましたので、また彼はこの言葉の現実性を知っていたから、すなわち「わたしを強くしてくださる方によって何事もできる。」と確信したのです。だから彼は、このような絶望的な状況の中ですら次のような詩を作ることができたのです。

『主イエスと共にあれば毎日、毎日が麗しくなる。
それをわたしは、体験し経験する。将来何が起ころうとも主イエスに忠誠を尽くしたいと。』

このような詩を作ったのです。彼は、もちろんすぐ後で殺されてしまったのです。
けれども主に頼ることこそが力の源です。

最後にちょっとだけ、自己否定の大切さについてすなわち、自分に寄り頼まないことについて考えて終わりたいと思います。自己否定は、自分の権利を捧げることです。自分に寄り頼まないことです。私の心ではなく、あなたの御心をなしてください。これこそがイエス様の全生涯の変わらなかった態度だったのです。
だから、イエス様から恵みの流れ、命の泉が人々に分け与えられていたのです。私たちの考え、私たちの感情、私たちの意志、全て主の御支配の元に置かれるとき、私たちの内から命の泉が湧き出てくるはずです。我々の生まれながらの考え、感情、意志は決して霊的ではありません。これを御霊の支配にゆだねるとき、それは御心にかなうものとなります。それらを主に捧げることにより霊的なものになります。自分自らの考え、感情、意志を自分から決心して主に捧げるのでなければ私たちの内から主の命は流れでません。まあ、大勢の人が一緒にする決心ではなく、一人一人が決心しなければならないでしょう。

これは、祈りによっては解決できないことでしょう。実際に行わなければならないことです、「主よ、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません、どうか私を通して、御自身の御心をなさしめてください。」言いたい者です。創世記のなかでアブラハムについて多くのことが書いていますけれど、イサクを捧げる前にイシュマエルという子供を捧げなければならなかったのですけども、多くの信じる者は反対にことをしているのではないかと思うのです。イシュマエルを捧げようとせずにイサクだけを捧げようと思っているのです。すなわち、自らの自分の力で肉の力で主に仕えようとします。いわゆる聖めは、罪からの解放よりもっと深く大きいものです。それは、自分の意思を主に捧げ自分の支配を主にゆだねることです。アブラハムは、勇気を奮い起こして自らでたイシュマエルを荒野に捨てました。その後でアブラハムにもたらされた祝福はどんなに大きかったでしょうか。彼の勝利の生活を私たちもおくるためには、何をやったらよいのでありましょうか。アブラハムと同じように自分の最も愛するものを主に捧げることによって勝利の生活をおくることができます。

ドイツにあるキリスト者がいますけれども、この方は自分の生れながらの性質を非常に苦にしていました。いつも悪魔に試みられ、「おまえは、繰り返し繰り返し同じ失敗をしている、おまえはもう駄目な人間だ。」と言ってきます。けれどもある日その人は、自分の古き人が十字架につけられた夢を見ました。それからまた、悪魔が攻めてきましたが、このとき十字架につけられた自らを差し示したところ悪魔は逃げて行ってしまった、ということです。十字架を見るとそこにはイエス様だけでなく、我々の古き人もそこについていると。
ローマ人への手紙6章6節です。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた

と書いてありますが。どんなに悪魔が攻めてきてもこのみことばをもって立ち向かうことができます。イエス様の勝利は、完全なる勝利です。イエス様は、私たちの古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださったのです。
パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節に、「生きているのは、私ではなくキリストが私の内に住んでおられる。」と言うことができたのです。
悪魔は、我々に対して何の権威もない、「悪魔よ退け」と言うことができます。あなたの持てる問題が何であろうとイエス様の御臨在を深く心におぼえるまで主の御前に静まり主の臨在を確信したならみことばを開いて主の声を聞きましょう。そうしていくと日々新たなる力を上から頂く、勝利の生活を送ることができるようになります。

最後に、一つのパンフレットに書いたことをお読みします。題名は『満たされた生活』なんです。
我々、キリスト者の使命はもちろん満たされた生活をおくることではないでしょうか。我々は皆、満たされた生活に満たされていると聖書ははっきりと言っているのです。
パンフレットの内容は、次の内容です。中国のクッチェン地方(?)の丘には所有者の名前が刻みこまれた特殊な価値ある、美しい竹の幹が見られます。必要な水を村へ引くにはこのように長い竹筒の樋を用いなければならないことがしばしばあります。
竹の直径は、だいたい10-20センチぐらいです。一本のたぐい稀な美しい竹が、他の竹の混じってある丘の傍に立っていました。その幹は、黒くつやつや光っており優しい羽のような枝は涼しい夕暮れに揺れ動いていました。
私が、その竹の前に立ちその素晴しい美しさに仰天していますと、この木は、私に何かささやき始めました。あなたは、私に強い幹と力強い枝に驚いておられる。しかし、あなたの見ておられるのは、みな私自身の力でできたものは一つもないのです。私の持っているものは全部、私のご主人の愛情深い世話でできたものです。
彼は、私をこの豊かな丘に植え、私の根が隠された泉にとどくことができるようにしてこの泉から私は、絶えず命の水を飲み、栄養を取り美しさや、力を得ているのです。よその木を見てごらんなさい、なんと痩せ細っていることでしょう。
あの木々の根は、生きた泉のとどいていないのです。私はそれにひきかえ、隠れた水を見つけてから欠乏することを知りません。私の幹に彫ってある文字を読んでごらんになりますか、近くへ来て見てごらんなさい。この文字は、彫りこまれているのです。この仕事は、苦痛に満ちたものでした。仕事の終わるまで耐え忍びました。
小刀を振るったのは、私の主人の手だったのです。この仕事が終わった後、私は言い知れない喜びをおぼえました。この時以来、彼は私を愛しており、わたしが彼の所有物であるということを私に知らせようと思っておるという確信を持ちました。
実に、このような主人を持つということは私の名誉です。竹が、私のこれらのことをみな語っている間に、私は辺りを見回しました。そこにその主人が立っていました。

彼は、愛情こめて自分の木を眺めていました。手には、一振りの鋭い斧を持っていました。「私は、おまえが必要なのだ。おまえは、私の役に立ってくれるかい。」と彼は言いました。
「ご主人様、私の持っているものは、みなあなたのものです。私は、あなたのために何の役に立つのでしょうか。」とこの竹は答えました。
「私は私の生きるための水を乾いて水のない土地へ持っていくためにおまえが必要なんだよと。」主人は答えました。
「しかしご主人様、どうして私はそれに役立つことができるのでしょう。生きた泉のあるここでは、私は必要に応じて水を得ることができ、私の枝は空に張りだし降ってくるにわか雨で元気ずけられるのです。私は、強く美しくなることができ美しさが天から与えられるのがうれしいのです。私は通り行く人すべてに、あなたは私にとって実に良い主人だと言うことができます。どうしたら、私は他の人々に命の水をさらに与えることができるのでしょうか」
主人のこれに答える声は、非常に弱くなって「もしおまえがおとなしくしていれば、おまえを使うことができるのだ。しかしそのためには、私はおまえを切り倒しておまえの枝を全部取り、おまえを裸にしなければならないのだ。
それから私は、ここから遠くの山の青草と雑草の刺のある雑木しか生えていない寂しい場所に持って行き、そこでさえ私は痛い小刀を使わなければならないのだよ。なぜなら、私の命の水が通り貫けることができるようにおまえの幹の中のじゃま物を取り除かなければならないからだ。
おまえは今、自分が死ぬだろうということを考えているね。そう、おまえは死ぬでしょう。しかし、それから私の命の水は、おまえの中を通って妨げられずに流れることができるのだ。
おまえは、自分の美しさを捨てなければならない。おまえを賛美し、おまえのみずみずしさや力ずよさを誉めたたえる者は、だれもいなくなるだろう。しかし、多くの人が屈んでおまえを通って流れる命の流れを飲むのだよ。
たしかに彼等は、おまえを見ないだろう、しかしおまえを通して生ける水を与えたおまえの主人を誉めたたえるであろう。おまえは、この奉仕を快く受け入れて死ぬことができるか。」
私は、この竹の答えを聞こうとして息をころして「ご主人様、私および私の持っている物は全部あなたのおかげです。あなたが、もし本当に私を用い私の献身によって他の人々に生きるための水を運ぶことができるのでしたら、私は喜んで身を捧げます。ご主人よ、私をあなたの思うままに切り取りお使いください。」
主人のまなざしは、より優しくなりました。それから彼は、鋭い斧を手に取り一撃をもとに切り倒しました。竹は、少しも反抗せず、主人は手を緩めなかった。
竹は、ささやいた「ご主人様、あなたの思うようにしてください。」
斧は、休みなく働く、そしてこの木の素晴しさ、王冠はその幹から切り離され永遠に失われたのです。彼は、本当に裸になりました。主人は、尽きることなく優しさを持ってこの幹を肩に担ぎ山を越えて遠くの方へ運んで行きました。
彼は、ある寂しい場所に立ち止まり。もう一度、恐ろしそうに見える鋭く尖れた刃物を手にしました。彼は、その刃物を幹の中心に直接突き刺しえぐり出しました。彼は、幹の中に通路を作りこの管によって水のない地に水を流そうとしたのです。幹は逆らわず、ただ「ご主人様、あなたの思うことが実現しますように」とささやくのでした。
彼は、節に全部穴を空け、幹の端から端まで穴が空くまで同情をこめてこの仕事をやりました。それから彼は、幹を起こし用心深く水晶のように澄んでいる命の水がほとばしり出ている所に運びました。すぐに幹を横にし、端を水がほとばしる所に置きました。

水は幹を通って流れました。非常な苦痛のもとにできた、軌道に沿って流れました。流れのように水は流れました。音もなく絶え間なく無尽蔵に。
そして主人は、喜びまた満足もしました。主人は、他の木を探すためにまた出かけました。選んだ2,3本の木は、驚いて尻込みしました。その奉仕を恐れたのです。
しかし他の木は、「ご主人様、私たちはあなたを信頼しています。あなたの思うようにしてください。」と言いながら、彼に身をゆだねました。 このような苦難の道を経たのち、彼は木を順々に例の場所に運び端と端を結び下に置きました。幹、幹が全部位置に着くと泉から直接新鮮な澄んだ命の水を注ぎこみました。
幹によって橋渡しされた距離は、長い間思いこがれていた喉の乾いた人々は、男も女も子供も皆、この水を飲むことができました。それから、彼等は「水が来たぞ、長い間の苦しみは終わった。来て飲みなさい。」と言いながら、他の人は来て水を飲み元気ずけられました。
主人はこの様を見、彼の心は幸福になった。彼は、自分の木の所に引き返し、「おまえは相変わらず寂しいか、世界に命の水を与えるための報いは高すぎたか。」それに続いて木は答えました。「いいえご主人様、たとえ私が千の命を持っているとしても、私はあなたを喜ばせ喉乾いた人を癒すに役立つという幸福のためにあなたに身をゆだねたことでしょう。

最後に、もう一回最初に読みました箇所をお読みして終わりにしたいと思います。ピリピ人への手紙3章8節ですね。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

私たちは同じ態度をとることができるならば、本当に幸いと思います。




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