天を見上げたイエス様


ベック兄

(学芸大学家庭集会、2008/07/14)

引用聖句:マルコの福音書7章31節-37節
31それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
36イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

ある大学の教授は次のように学生たちの教えたのです。「人生は、すべて人間関係である。」
本当ですかね。問題がなければ、助けになるかもしれないけど、本当の悩みと苦しみがあれば、人間だって話しあっても、励まそうと思っても、無理なのではないでしょうか。
今のマルコの福音書の中で、イエス様は「天を見上げた。」とあります。天を見上げたイエス様を、今日も少し一緒にみてみたいと思います。

イエス様でさえも天を見上げたのですから、ましてや私たちはこの態度をとるべきなのではないでしょうか。
ここでイエス様のことについて、そして一人の病人について書かれています。言うまでもなく、主イエス様と病人という関係は、ちょうど、民主主義と独裁制、あるいは愛と憎しみのように全く正反対の関係にあります。
どうしてであるかと言いますと、イエス様は命そのものです。

イエス様の中に喜び、平安、力があります。それとは反対に、病人は、苦しみ、悩み、弱さ、絶望、不安、動揺などがあります。そして、病人は、ここに出てくる聾唖者と同じように、人間社会から、閉め出されていてしまっているのです。
その意味で、イエス様と病人とはお互いに相容れない関係にあります。
けれども32節に、人々はこの病人を連れてきて、イエス様に願ったのです。もちろん、これはよく経験しています。

マルコの福音書7:32
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

結局、どうして人々は集会に来るようになるかと言いますと、どなかたに誘われたからです。そして多くの人々は、やっぱりそのために犠牲を払います。
結局、病気よりも大切なのは病気に対する態度です。どうして、なぜ、と考えるともっと悩むようになるのではないでしょうか。
マルコの福音書に出て来る病人にとっても、必要であったのは、イエス様を知ることです。イエス様と一緒にならなければ、もう、運命にしてあきらめなくちゃいけない。けどもイエス様は、病人のために私は来たとよく言われました。

もちろん、イエス様は宗教家ではなかったのです。イエス・キリストとキリスト教は、全く関係ないお方です。
イエス様は、何かを教えるために来られたのでもありません。悩んでる人々を励ますため、変わらない喜びと心の平安を与えるためでした。
イエス様は病人のために、悩んでいる人々のために来られたから、イエス様と病人とは、悩んでる人々とは、一緒にならなければなりません。

マタイの福音書9:12
12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

病人は医者を必要とするとイエス様は、言われたのです。

ルカの福音書19:10
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

イエス様は、失われた人を捜しに来たのですとよく言われました。ですから、人間にとってまず大切なのは、「私は、失われている者です。」と告白することです。
「私は、先のことがわらない。死んでから天国へ行くか地獄へ行くかわからない。」、そう言う人間にとって、どうしても必要なのは生ける希望を持つことです。
はっきりした確信を持つべきなのではないでしょうか。

イエス様は、病人のために悩んでる人々のために来られ、病人のために悩んでいる人々のために生きておられるお方です。
ここに登場する聾唖者の人は、耳と舌とをもちろん持っていたのですけど、この世と交わることはできなかったのです。
耳や舌を持っていても、耳が聞こえず、口のきけない人は、苦しみを持っている人です。周囲の人々と交わることができないために、やっぱり孤独です。

現代人の特徴は、孤独病にかかっていることではないでしょうか。いわゆる不登校もそのひとつの現れです。
専門家に聞くと、140万人の子供達が不登校なんですって。考えられない問題です。
親が、もちろんお手上げなんです。学校は、何もできない。政府は知らん顔する。考えられない悩みです。

昔は、学校卒業したらちゃんと働く所がありました。今は、東京大学を卒業したとしても、働き口があるかないかわかならない。そうすると、学校行ってない子供は、将来は真っ暗です。たいへんです。
けど専門家は、140万人の子供だけではなくて、6割は同じ気持ちだそうです。学校行っても嫌です。面白くない。会社行っても、嫌です、本当はやめたい。いやーちゃっとね。人生そのものが退屈、とんでもない問題です。
けれども多くの人、このように悩むのは、いいでしょう。そうでなければ、助け手であるイエス様を必要としないからです。

ですから、悩むこととはなかなか良いものなのです。イエス様は、医者を必要とするのは病人であり、私を必要としているのは悩んでいる人ですと言われました。
確かに99%の人間は、一時的な問題の解決だけを考えています。けど主なる神は、一時的な問題を解決する気持ちがない。全然。そう言う問題を与えてくださる。次々と。
結局、人間は本当に壁にぶつかります。それは心を開くためです。

マルコの福音書7章の病人もやっぱり悩んでいました。おそらく、「どうして?」「なぜ、こう言うふうになっちゃたの?」と考えたのでしょうが、答えはない。
さらにこの男は、ただ単に外側の苦しみだけじゃなくて、心の奥底に悩みと苦しみを持っていたに違いありません。耳と舌を持っていたけど、使えなかったのです。結局、耳と舌があっても、全く役に立たないのです。
このようにして必然的に周囲の世界から切り離され、孤独になってしまったため、そのため外側の苦しみだけではなくて、心の悩みと悲しみも大きかったに違いありません。

確かにこの人に対して、多くの医者もどうすることもできなかったのです。長い間、非常な苦しみと悲しみの中に閉ざされていた。この苦しみは非常に深かったために、人間的な同情、人間的な慰めではどうすることもできなかったのです。
この病はもちろん本当だったのです。夢だったら有り難いけど、夢ではなかった。空想ではなかった。恐るべき現実でした。
けども彼は、イエス様との出会いによって、生ける希望を持つようになったのです。元気になったのです。

どういうふうにイエス様は彼を癒したなのでしょう。今読みました箇所を読むと、イエス様は彼をひとり、彼だけを外に連れて行かれました。イエス様は、彼と二人っきりになりたかったのです。
そして、この病人にとって、イエス様との出会いは、彼の一生を根本から変えてしまう展開を意味していたのです。
私たちも、苦しみ悩む時には、イエス様と二人だけになる時間を作り出さなければなりません。

ただ一人になるということは、恐ろしいことで、無力な状態に置かれることを意味するでしょう。
現代人は、また一人になることを恐れるために、TVを見たりして気を紛らわさざるを得ない。人間は、孤独になることが面白くない。その状態から逃げることを考えています。
ひとりぼっちでいることは、確かに恐ろしいことです。けれども、イエス様と二人だけで居ることは最も素晴らしいことです。この病人は、それを体験的に知ることになりました。

いろいろな問題、苦しみ、悩み、不安に取り囲まれてひとりで居ることは、確かにむつかしいことです。けど、そこにイエス様が入って来られると、喜び、平安、力に満ちた新しい変化が起ります。
普通、イエス様が癒しをなさる時は、みことばを持って奇跡を行われたのです。瞬間的に行われたのです。
けどこの場合じゃ、この病人は聞こえなかったから、言葉じゃなくて、行いによって、この病人に接近されました。イエス様は、病人の両耳に指を差し入れ、それから舌にさわりました。

マルコの福音書7:33
33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。

それによって病人ももちろんわかった。すなわち、イエス様が耳と舌に触れることによって、何かをなさろうとしておられるということを感じたでしょう。
イエス様は話し合いによって病人に近づかれたのではなく、行いによって病人にわからせたのです。
それから前に言いましたように。イエス様は、天を仰ぎ見られました。

マルコの福音書7:34
34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。

病人も必ずイエス様のなさるのを見て天を見上げたに違いない。そのことによって病人は、本当の救いは上から来るものであるとわかるようになったのではないかと思います。
それから、イエス様は、その病人に開けと言われました。この主イエス様のみことばは単なる音ではなかったのです。普通の人間が同じように言っても、それは単なる一時的な音に終わりすぐに消えてしまうけど、イエス様のみことばはそうではなかったのです。
イエス様のみことばは、決して単なる慰めや願望の言葉ではありません。イエス様のみことばは、力に満ちたわざそのものです。この男は聞くことができ、話すことができるようになったのです。

マルコの福音書7:35
35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。

群衆は聾唖者が癒されたのを見て、驚きました。

マルコの福音書7:37
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

この男の人生は、やっぱり変わったのです。イエス様との出会いによって根本から新しく造り変えられたのです。疑いと絶望とはその瞬間に消えてしまいました。
そこでは喜びと感謝と賛美が上がりました。それこそ、喜びと祝福で満ちた新しい命が生まれたのです。
このように、喜びと祝福に満たされた新しい命が、誰にでも提供されている救いであり、素晴らしいイエス様の贈り物です。

聖書によると、生まれつきの人間の状態はどういうものであるかと言いますと、すなわち聾唖者である。
ちょうど、聾唖者の男が、周囲の人々から切り離されていたと同じように、主なる神によって新しく生まれ変わっていない人も、主なる神との交わりを持たず断絶した状態に置かれています。
耳を持ち舌を持っていても、耳が聞こえず口のきけない人がなんと大勢いるのでしょう。

聖書は言っています。「耳のある者は聞きなさい。」、この意味は、耳があっても聞こえない可能性があるということです。
このような状態について、書かれている聖書の言葉をみてみましょう。

イザヤ書6:9-10
9すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

結局、当時のイスラエルの民は聞く耳を持っていなかったのです。
耳があったのですけど、聞こうとしなかったのです。信じようとしなかったのです。

エゼキエル書12:2
2「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。

ゼカリヤ書7:11-12
11それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」
12彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。

イスラエルの民とは、長い間「主よ語ってください、僕は聞いています。」と言う心構えが全然なかったのです。
大切なのは、私たちは主なる神に対して耳が聞こえないのではないでしょうか。本当に、動かない土台を持っていない。孤独ではないでしょうか。
今の読みました三箇所から明らかなように、主なる神によって新しく生まれ変わった者だけが、主のみことばを聞くことができる。

罪を悔い改めたくない人々は、みことばを心の耳で聴くことができません。それは、決して、救われていない人達だけではなくて、もうすでに救いに預かった人であっても、気がつかない罪を犯してる場合も、みことばを聴くことができません。
みことばこそが、人間に与えられている最高の宝物です。聖書全体がはっきりと言わんとしていることは、罪という壁が取り除かれない限り、主なる神との交わりを持つことはできません。
この壁はいつ取り除かれるのでしょうか。ソロモンという王様は、3,000年前に書いたのです。

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

聖書全体の言わんとしていることも、これなのです。確かにイエス様のことを知らなければ、イエス様の身代わりの死について、何も知らなければピンと来ない。どうして、赦されるのかわからない。
けれどもわかっても関係ない。隠す者は成功しません。告白して、それを捨てる者は必ず救われ、憐れみを受けます。
言うまでもなく、このみことばを、神を知らない人々ために書かれているのではなく、主の素晴らしい救いを体験的に知るようになったイスラエルの民のために書かれたのです。

そして、このみことばを身を持って体験した男の一人がダビデという王様でした。
彼の告白ですかね。詩篇の32篇に書かれています。

詩篇32:3-5
3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
4それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

結局、隠した時、彼は本当にぺちゃんこでした。喜びもなかったし、平安もなかったし、希望もなかった。
聖書の中の最も素晴らしい言葉は、ヨハネの手紙第Iだと思います。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

初代教会の人々とは、この真理を経験しました。だからいくら誤解されても迫害されても、やっぱり本当の意味で喜ぶことができたのです。
自分の罪、苦しみ、悩み、わざわいをイエス様に告白しなさい。そうすれば、新しい命と喜びとを与えられるのです。

箴言20:12
12聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。

イザヤ書50:4
4神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

結局、耳を持つことこそが、考えられない程大切です。
もちろん覚えるべきことは、主は聴く耳を持っていていくださる。話し中じゃない。これも、ダビデの経験したことに思います。詩篇40篇

詩篇40:1-6
1私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
2私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
4幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

「あなたは、私の耳を開いてくださいました。」と書いてありますが、これはいったい何を意味しているのでしょう。
これは、新しい命に起きる恵みとして与えられています。ダビデは、そのことを今読んだ詩篇40篇の1節から4節の間に言っています。
ここに書かれている通り、ダビデと同じようにいうことができる人は、心から賛美することができます。「あなたは、私の耳を開いてくださいました。」、そのようにして、主と出会った者は、黙っていることができません。

病人は、以前はおしであったために周囲の人々と話すことはできなかったが、癒された後は大声で賛美し、主がなさった大いなる御業を感謝したのです。
イエス様と出会って、救いの体験をして、意識的に罪の生活から離れている者はただ、イエス様を賛美し、証しする幸いに預かっているのです。

エレミヤ書20:9
9私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

エレミヤだけではなく、パウロも同じようなことを経験したようです。
彼は、コリント人への手紙第Iの9章16節で次のように言ったのです。

コリント人への手紙第I、9:16
16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

主の声を聴くことと、証しすることとは、並行して行われるものです。「たとえば、あたなの罪は、赦された私はあなたを贖った。私はあなたのものだ。」と言う主の声を聴き、救いの体験を持った者は、必ずそのことを証しせずにはおれないものなのです。
けど、多くの人は本当の救いの体験を持っていないために、主の証し人となることが少ないのです。
このマルコの福音書7章に出てくる人間は癒されたのですが、どうしてでしょうか。この耳が聞こえず口のきけない人は、何人かの人々によって、イエス様のみもとに連れて来られたからです。

マルコの福音書7:32
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

従ってこの病人にとっては、それらの人々の手助けが必要でした。このように、つまり惨めな憐れみべき病人を助けた人々が、そこに居たのです。
彼らは望みなき者をイエス様のみもとに連れて来ました。それだけではなく、彼らは、この病人のために祈ったのです。イエス様を手を置いてくださいと心からお願いしたのです。
彼らは、イエス様が、その病人にさわること、それと同時にその病いが癒されたことを知りました。

イエス様はよく言われました。「私は、命です。命そのものです。」その命そのものであるイエス様が病人にさわると、病気はもちろん逃げてしまったのです。すなわち病気が癒され、病人が健康になることができたのです。
私たちは病人をイエス様のもとに連れてきた人々と同じであると言えるのでしょうか。私たちもイエス様が病人に触ってくださるようにと、病人のために手助けをしているのでしょうか。
私たちは、自分自身のことに忙しくて、悩んでる人々をイエス様のみもとに連れて行く時間すらない、ということがしばしばあるのではないでしょうか。

すなわち、私たちは悩んでる者に対して、心の目を開いているのでしょうか。あるいは閉ざしているのでしょうか。もしも、心の目を開いているなら、悩んでいる人々を一人でも多くイエス様のみもとに連れて行かなければならない。
イエス様とは、どういうお方なのでしょうか。「イエス様にとって不可能なことはない。主よどうか、私の両親、主人、子供、友人に、手を置いてやって下さい。」と心から主にお願いし祈らなければならないのです。
私たちは救われていない人々に対して、無関心であったり、無責任であったりすることは許されません。その病める人に対して主が、私たちを通して、主の大いなる御業を現すための器となり、通り良き管となることこそ、一番大切なことです。

イエス様は、この病人を癒したのです。その秘訣とはなんだったでしょうかね。前に話したように、イエス様は「天を仰ぎ見た」と書いてあります。
このことは、イエス様が自分自身の力により頼まないで、父なる神にすべてをゆだねられたことを意味します。
このように私たちもイエス様により頼むならば、いかに苦しい状態であっても、イエス様に対する目が開かれ、新しい道が開かれるのです。

けど、イエス様により頼まないならば、ほかの人々の苦しみや、悩みに対して目が開かれることがありません。
そして、私たちが悩んでる人々を、イエス様のみもとに連れて行き、その人達がイエス様と出会い交わりを持つことができた時に、本当の救いが体験され祝福されるのです。それは、主の一言によって行われるのです。
私たちは、他の病人、おしに向かって癒しの言葉を語ることができるのでしょうか。あるいは、それとも黙っているのでしょうか。イエス様は、常に変わることのないお方です。すべての力が、イエス様にゆだねられているのです。

私たちはイエス様の妨げとなることなく、主の器として用いられるように祈りたいものではないでしょうか。




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