引用聖句: 詩篇37篇23節-24節
これらの二つの聖句について、これから少しばかりご一緒に考えてみたいと思います。主が私達に対して無関心でおられないという事実。全能なる神は、私達を導き、守り、目標につくことを約束しておられます。これらの事実は、段階的に証しされています。私達が、考えてみたい事は、次の7つのことです。 1:神の記述。 2:神の目標。 3:神の方法。 4:神の喜び 5:神の預言 6:神の保証 7:神の力。 この 7つのポイントについて、少しだけ学んでみたいと思います。 第一番目は、「神の記述」です。 主は、導き、守り、目的地まで連れて行きたいと思っておられる人々について、記述しています。しかし、主なる神の約束は、誰にあてはまるのでありましょうか。私が、考えられているのでしょうか。主は、誰の事を書いておられるのでしょうか。これは、まず最初に取り上げられるべき非常に大切な問いです。 日本語の聖書では、ひとつの大切な言葉が抜けています。すなわち日本語の聖書では、「人の歩みは 主によって確かにされる。」とありますが、原語を見ると、「良い人の歩みは・・・・」となっています。 ここで現われてくる問題は、いったい誰が「良い人」なのか? です。 私達は、みな、私達自身が良い人間でない事を知っています。 伝道者の書7:20
こう書かれています。いかなる人間も、人そのものが立派であると言う人はいません。 イザヤ書64:6
別の言葉で表現するなら、どんなに立派な人であっても、神の目には無価値であると言うことです。主は、人間から出てくる者を、なにひとつ受け入れることができません。私達のもっとも良いものも、主には忌まわしいものです。パウロは、つぎのように言っています。 ローマ人への手紙7:18-19
人間の滅ぶべき性質についての知らせを、今日、多くの人が時代遅れであると言います。人道主義者(ヒューマニスト)たちは、そのような事を聞くと、怒ります。そして、実際は、悪魔の努力が効を奏し多くの人は、「自分は、それほど、ひどくはない。」「隣りの人よりは、ひどくない。」と思いこんでいます。 しかし、主は、私達人間が、悪い者であり、正しくない者であり、決して愛されるのに値しない者であると断言しています。これが、神のご判断なのです。そうすると、良い人に対する約束は、私達に当てはまるのでしょうか。「良い人」とは、主が、正しい人と言うことのできる人です。そして主は、誰のことを「正しい人」とおっしゃるのでしょうか? それは、自分が劣悪な者であると認識して、主の所に避け所を求める人です。また、それは、憐れみをこい願い、自分の債務を告白する人です。そのような人に「赦し」が与えられます。 ですから、もはや、自分の力や良い行いに基づかず、イエス様に信頼を置く人こそ、ここで、「良い人」と呼ばれています。 ローマ人への手紙13:14
「主イエスキリストを着なさい。」そのことは、主を個人的な贖い主として受け入れ、次のように確信する事を意味します。 主は、わたしたちにとって義となられました。主なる神の前に、役に立つ義とは、主イエス様ご自身です。 ですから、主イエス様を着る人は、義とされるのです。それは、その人は、良い事を行ったからでなく、イエス様のゆえに義とされるのです。自分の罪と債務を持って、イエス様のところに行き、罪を告白する人が、いつでも受け入れられると言うことは、事実です。 主イエス様だけ、ただひとり正しい罪のないお方であり、神によって受け入れられるただ一人の方です。主イエス様の義は、私達が、主に信頼を置いたゆえにのみ与えられるのです。 イザヤ書61:10
神の前に良い人とは、あらゆる「しばい」をやめて、飾らずに自分の債務を意識して、恵みを願い、主イエス様の功績に信頼を置く人です。主イエス様を信ずる事によって、義とされた人こそ良い人です。 私達は、神の目に良い人に属するのでしょうか。良い人とは、自分の悪い性質を認識して、告白した人であり、主イエス様にある神の義を受け入れた人のことです。債務を持った罪人として、主イエス様のみもとに来る人は受け入れられます。イエス様の義が与えられます。 主イエス様に信頼する人は、生けるまことの神が良い人と呼んでくださる人々に属します。主は、そう言う人達とともにいてくださり、そう言う人達を導き、守ってくださると言っておられます。 第二番目は、「神の目標」です。 23節に、「人の歩みは主によって確かにされる。」と書いてあります。すなわち主ご自身が、私達の歩みを確かなものになされたいと言っておられます。主、ご自身が、私達の人生を主の御手のうちにおさめたいと願っておられます。主は、私達の生活が主と結びついている事、そして、主の御心が、私達を通して実現される事を望んでおられます。主は、あなたの人生のために、ひとつの計画を持っておられます。 その計画を実現することがおできになります。私達の経験する事のできる最も良い事は、この計画が実現されると言うことです。私達だけでなく、私達の周囲の人々も豊かに祝福され、主が栄光を現されるのです。 私達の生活は、秩序ずけられなければなりません。確かに、私達の内面の成長を、妨げるたくさんのものがあります。暗闇は、ただ、光によってのみ追い払われます。罪を隠すものは、決して、成功しません。主なる神の目標は、私達の人生を作り変えることです。主イエス様の内住(ないじゅう)とご支配によって、すべてのものは、新しくなるはずです。主は、私達の歩みを確かなものに、なされたいと願っておられます。私達の生活は,混乱のようなものではなく、美しくなるべきです。 私達が、意識してすべてを明渡す時に、主は、すべてを作り変えてくださり、新しいものを作ってくださるのです。 しかし、主は、それを如何になされるのでしょうか。如何に私達を導き確かなものにしてくださるのでしょうか。 主が私達を、みもとに引き上げてくださり、私達が主を信じるようになった時、その時、主は、私達に、次のような説明書を持った設計図を渡されたのでは、ありません。 あなたの人生は、今からこのようになるでしょう。 あなたは、この地上にこれだけの年月いるようになるでしょう。 それから、何年何月何日に召されるでしょう。 主は、決して、このような私達の人生の設計図をお与えになったのではありません。神の方法は別です。主は、つねに、1歩、1歩、導いてくださるのです。パウロは、ダマスコに行く途中、主イエス様のものとなった時、次のような言葉の青写真をもらいませんでした。 きょうから、あなたの一生は、こう言うものとなるでしょう。 主は、そのようにおっしゃられず、最も近い歩みだけを示しました。主は、パウロが、開かれた耳を持っていたので、つぎの歩みだけを示しました。 「主よ。何をしたら良いのでしょう?」と言う正直な歩みに、次のようなはっきりした答えをもらいました。 使徒の働き9:6
主は私達にも、ただ、次の1歩の歩みだけを、お示しになります。 そして、それに、従順に、従うとき、主は私達に、次の第1歩を、導いてくださるのです。これこそが、神の方法であり、信じる者を導いてくださる方法なのです。主は、私達が絶えず主と結びついていることを望んでおられます。主は、私達が、意識的に主により頼むことを望んでおられます。 ただ、その時にだけ、主は私達を、主のご計画に従って、導くことがおできになるからです。 私達は、つぎの第1歩だけを見ることができます。私達は、秘密の命令に従って旅をするのです。アブラハムは、今から、いかなる地に行くのか教えられずに、自分の地を離れなければなりませんでした。主は、アブラハムにいつも次の1歩だけをお示しになりました。私達も、またそのように導かれるのです。 毎日が、たたかいの連続です。私達が、翌日のために心配してはいけないと命令しておられます。主、ご自身が、導いてくださるのです。この事実は、私達の重荷を軽くして、喜ばしてくれるはずです。それは、主が、私達の最善だけを考えてくださるからです。主は、どうして、この方法をお選びになったのでしょうか。 それは、私達がエノクのように神と共に歩むことを学ぶためです。 創世記にエノクは「神とともに歩んだ」と書いてあります。神とと共に歩む歩みは、1歩。1歩。歩む、歩みです。 私達にとって、過去ばかりをふり返ったり、不確かな将来を見極めたいと望む事ではなく、単純に、幼子のように、次の歩みのために主を見上げることが大切です。単純に、幼子のように、次の歩みのために主を見上げることだけが大切です。主は、私達を導いてくださると約束してくださいました。そして、主は、みことばを必ず守られます。主が、私達を導く前提条件は、主との交わり、主と結びついていること。そして、主に対する 幼子のような信頼です。導いてくださるお方。私達のために道を平らにしてくださるお方。私達がすべてをゆだねることのできるお方。 あらゆる圧迫と重荷と心配から、解放してくださるお方として、主を知ることが、ゆるされるとは、なんと すばらしいことでありましょう。 イザヤ書28:16
信じる者は、あわてることがない。と書いてあります。全能者は決して、急ぎません。それですから、私達は、すべてを安んじて主の御手にゆだねることができます。内面的に解放され、重荷を解放され私達は主を喜ぶことができます。主、ご自身が、私達を守り導いてくださると約束してくださったからです。そして、主は、主のみことばを約束を守ってくださいます。 そして、驚くに値することは、すなわち次の四番目の事になりますが、次の事実。「神のよろこび」です。 「人の歩みは主によって確かにされる。」「主は、その人の道を喜ばれる。」 書いてあります。ある時、人間を見て、少しも喜ぶことができない時代がありました。現在も、引き続き、罪の結果として、混沌というものに特徴ずけられています。多くの人は、主に逆らい自分勝手な道を歩んでいます。 人は、主の道を行きたいとは思いません。それで、主は、その事を深く悲しんでいらっしゃるのです。 創世記6:5-6
しかし、詩篇37篇23節は、全く違ったことを述べておられます。主は、主に属する者を見て、喜ぶことができる。明言されています。私達が、主に明渡し、それによって、主が、私達の生活に秩序をもたらす事がおできになる時、それは、主を喜ばせます。 そして、残念なことにしばしば起こることは、私達が人生のたずなを主の御手から取ろうと思い、いつも救いがたい混乱が生じるのです。私達は、馬やらばに、多かれ少なかれ似ています。 詩篇32:8-9
馬は行き先の不確かな所に走り、疾走していきます。らばは、しばしば動かなくなって往生します。なんと、私達は、それに似ていることでしょう。 しかし、主、ご自身が、私達を導きたいと願っておられます。それによって、その生活に秩序をもたらしたいと願っておられます。主は、たずなを握りたいと願っておられます、これこそ、本当に、主に喜びをもたらします。もちろん主は、私達のうちに何があるかを、ようくご存知です。主は、私達の、みじめさを、よーく御存知です。私達を、すみずみまで徹底的に知っておられます。主は、将来を見て、私達の失敗をなおしてくださると約束しておられます。主は、私達を、目的地まで導くことを私達に保証してくださいます。それによって、私達は、5番目の点にたどりつきます。 私達は、なんとしばしば倒れたことでしょう。私達は、なんとしばしば罪を犯し、自分勝手な道に行ってしまうことでしょう。 主イエス様を心に受け入れた人は、良い人です。それは、その人が、イエス様のみもとに来て、イエス様の義を与えられたからです。でも、実際は、しばしば罪を犯します。でも、主は、次のように約束してくださいます。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。 主がその手をささえておられるからだ。」 私達が、試され妥協してしまう時、私達の肉に活動の余地を与えてしまう時、そしてその事によって束縛される時、サタンが私達を襲い私達が悪魔の手の中で、全く無力となり、その債務のことで絶望してしまう時、私達は、次の神の約束により頼む事ができるのです。 「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。」 主は赦し、回復なさる愛を持っておられます。 箴言28:13
ヨハネの手紙第I、1:9
神のみことばは、私達が信者として、もはや罪を犯すことは、できないとは、どこにも教えていません。死に至るまで、誰でももっとも恐ろしい罪を犯すことができます。しかし、神の霊に活動の余地を与え、主にすべてを明渡し、主に導いてもらいたいと思う人は、主が勝利を与えてくださる事を経験するようになります。パウロは次のように、喜びの声を上げる事ができたのです。 ローマ人への手紙8:37
しかし、私達が倒れるとしても、主は私達を愛し続けてくださいます。わたしの所に来る者を、わたしは決して捨てないと、主イエス様は約束してくださいました。主は、決して捨てないと約束してくださいましたが、私達、人間は、放棄してしまい、退いてしまい、驚いて逃げてしまいます。しかし、主は、そう言う事をなさいません。主は、回復してくださいます。 「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。」 これこそ、神の約束であり、そして主は、主のみことばを守ってくださいます。主は、主に属する者を栄光へと導いてくださいます。そこで、いまや、私達は、次の主題にうつります。 確かに私達の中には、この知らせを必要とする人々がいます。 第六番目の点になります。それは、神の保証です。 倒れても、倒されはしない。まっさかさまに倒されはしない。このみことばによって、主ご自身は、倒れても、どんなにひどい倒れ方にしても、それが、決して終わりではない事を、保証しておられます。 アブラハムは倒れました。しかし、彼は回復されました。ヤコブは、倒れました。しかし、彼もまた神の恵みによって作りかえられました。ダビデは倒れました。しかし、主は、彼を赦し、みこころにかなった人を作り出しました。サムソンは、倒れました。しかし、主は、新たに出会ってくださり、神の敵を全滅させるために、彼をお用いになりました。これらの人達が、倒れた時、それは、主にとって大きな苦痛でした。主イエス様を心に受けれた人は主のものです。そして、いつまでも、主のものです。 私達は、みな、倒れることがあります。しかし、それにもかかわらず、私達は主のものです。主は私達を愛し続け、忍耐を持ちつづけてくださいます。そして、主は、私達を、決してお見捨てになりません。私達は、みな、主の羊に属します。私達は、羊としてさ迷ったり、道に迷ったり、愚かさに愚かさを重ねるようなことをする事があります。しかし、主は、次のように、約束しておられます。 ヨハネの福音書10:27-29
このように、約束しておられます。主に属する者は誰でもこの神の保証を大いに喜ぶべきです。将来、何があっても、主は、私達をお見捨てにならず導き目的地まで、連れていってくださいます。 ユダの手紙1:24-25
主は、目的地まで連れて行ってくださることが、おできになります。主は、それを、なさる事をご自身で保証してくださいます。 さて、そこで、最後の七番目の点は、主が、これをいかになさるか。私達に、示してくださいます。第七番目の点は、神の力です。 主は、その手をささえておられる。と書いてあります。「主は、倒れた人を、抱き支えてくださる。」と言う意味です。信者は、倒れる事があります。そして、堕落してしまうように思われます。 しかし、実際は、主ご自身がその人の下に御手を入れて、その人を支えてくださるのです。ですから、この人は、完全にダメになる事ができません。ペテロは、この事を経験しました。 マタイの福音書14:30-31
主は、支えて下さる。これは,神の御約束です。信者は誰でも私は神のうちにあると言う事を知る事が許されています。主は御手を決して引っ込めません。主は決して私を離しません。私は主から逃げようとする事があるかも知れません。しかし、主は、しばらくの間は自分勝手な道を行かせる事があるとしても、最後は、決してお見捨てになりません。主は、あきらめず、必ず回復してくださいます。私達は新たに主に余す事がなくゆだねる事ができれば幸いです。なにかが、できると思う者は愚か者です。 最後に、もう一度、詩篇37篇を読んで終わりましょう。 |