引用聖句:コリント人への手紙第I、12章27節
今、歌いましたように、「一つの群れ、主のみからだ」という言葉が出てきます。 私の個人的な悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会はいかに大切なのかと解かっていない人が多いということです。 イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜、攻撃しめくらにしようと思っています。 そして、ある程度まで成功したように見えます。けれども、この勝利はもちろん偽ものです。イエス様は、自分のからだなる教会の頭です。 お正月の時だったと思いますけど、愛する兄弟は言いました。今年こそ、希望の年です。再臨を待ちましょう。 それからもう一つのことを言われたんですけど、今年こそ、悪魔との戦いの年です。 主のからだなる教会は、イエス様にとって、すべてです。 我々にとって最も大切な箇所の一つは、今読んでもらいました箇所でしょうね。コリント人への手紙第I、12章27節「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 上からの光に照らされて、すなわち上からの啓示によって、この真理を心の目で見ることができれば幸いです。それによって、すべての疑問また疑いは飛んで行ってしまいます。 ですから今日の話の題名は、「イエス様は、ご自分のからだなる教会の救い主である」についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 個々別々の教会ですかね、集会また教派、団体についてではなくて、主のからだなる教会について考えたいと思います。 イエス様のからだなる教会は、イエス様ご自身のように、世界中に渡って広く、限界がありません。 イエス様が救い主として認められ、受け入れられている、いたる所にイエス様のからだなる教会はあります。主のからだなる教会、このイエス様のからだなる教会の生活方法と生活領域について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。 私たちは、イエス様のからだなる教会であるのなら、イエス様の生活は我々の生活であり、イエス様の生活方法は我々の生活方法でもあるはずです。 我々にとっては、イエス様に対する関係が問題です。 私たちは、主が、自分たちの生活方法に光であればあるほど、生き生きとした信仰生活を送ることができるのです。 イエス様とからだなる教会、この二つは最も密接に結びついています。イエス様が主体であり初めです。ですから私たちは、イエス様のからだについて話そうと思うと、イエス様ご自身から出発しなければなりません。 イエス様とからだなる教会について、ヨハネの黙示録1章11節から16節において、すばらしく良く示されています。 そこでは、高められたイエス様が、ご自分のからだなる教会の真ん中に立っていることが見られます。イエス様はご自分のからだなる教会を通して、自分自身を現しています。光輝く、聖なる者として、ご自身を現しています。 イエス様は、自分が自分のからだなる教会にとって、何であるかを示しています。イエス様は、ご自分を最初にして最後のもの、アルファであり、オメガである、また初めであり終わりであると言われました。 イエス様は、とにかく生きておられるお方です。ですからイエス様は、からだなる教会の始まりであり、発展であり、完成です。イエス様にとってこそ、からだなる教会はすべてです。 私たちは、御子であるイエス様が7つの金の燭台の真ん中に立っているのを見ます。完全な白い祭司の衣を身にまとった祭司であるイエス様を見ることができます。 祭司は、1年に一度、旧約聖書では、旧約時代には最も大切であった、いわゆる贖いの日に聖所へ入ります。すなわち罪を負うべく、罪のいけにえの血を自分のために、また民のために主なる神の前に捧げるのです。 この聖所に入る時に、この白い衣を着たのです。高められたイエス様は、祭司の白い着物を贖いの日に着ます。イエス様は、常にご自分の血をからだなる教会、救われた信者ひとり一人のために父の前に捧げて、すべての罪を赦すのです。 今は大いなる贖いの日です。今は救いの恵みの日ですとあります。イエス様の啓示をただ眺めているだけでなく、今日まったく、生き生きと経験できれば幸いなのではないでしょうか。 主の恵みによって救われた一人一人は、イエス様を救い主として受け入れたのですから、私たちは、イエス様のからだの一部です。そしてイエス様のことばは、私たちの内で、きっと生き生きとした経験となるはずです。 イエス様は、ご自分のからだなる教会は、唯一のものでありすべてです。 もし私たちが、この事実を真剣に取りあげ、完全に自分のものとするならば、私たちは生き生きとした、イエス様のからだなる教会として用いられるのです。 私たちは、高められたイエス様を、このヨハネの黙示録1章に表されているように、静かな時に受け入れ、見つめてみたいと思います。 イエス様が、私たちの心の奥底にまで入り込み、私たちがイエス様を認め受け入れるまで、イエス様が我々の内に、また私たちからだなる教会の真ん中で、御業を成すことができるまで、イエス様を見つめたいと思います。 イエス様の働く所には、祝福が流れます。どんな人も他の人を目覚めさせることはできませんが、私たちは、イエス様の御業が成されるために、場所を空けることはできます。 イエス様のからだなる教会に対する働きは、からだなる教会に対する救いの業に見られるのです。 ちょっと、エペソ人への手紙5章から、 エペソ人への手紙5:23-32
イエス様は、ご自分のからだなる教会の救い主です。イエス様も救い主としての御業は、ここで次の2つのことばにまとめられることができます。 第一番目、彼は愛した。二番目、彼は与えた。 この2つの事実は、聖書ではしばしば一緒にして使われています。 よく知られているヨハネの福音書3章16節です。 ヨハネの福音書3:16
もう一箇所、ガラテヤ人への手紙2章20節。皆暗記している。信じる者にとって最も大切な箇所の一つじゃないかなと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
このようにイエス様は、愛しました。イエス様は、砂の中から金を集めるように、ご自分のからだなる教会をお集めになります。イエス様は、ご自身のからだなる教会を自分で探し、贖い、開放し、清め、目覚めさせ、また新たにし、形づくり、純粋にされるのです。 何十年前に、ドイツでベテルという町にある孤児院に、色々なものを贈ることができたんです。そして、この孤児院に集められたすべての物の表を作られたのです。それらの物はみな、考えられないけど、みな使うことができました。 けどこの表の中にただ一つ使えない物がありました。すなわち、瀬戸物のかけらです。瀬戸物のかけらは、孤児院でさえ使うことができませんでした。けれども私たちは、主なる神が、瀬戸物のかけらさえ、用いることができることを知っています。 聖書の中で、陶器師のたとえ話が書かれています。主なる神は、瀬戸物のかけらを用いることができるお方です。 またイエス様は、実に、これを愛してくださるのです。 主のからだなる教会は、ただ、かけらの寄せ集めから出来ているにすぎない。 イエス様は、私たちをこんなにも愛してくださって、私たちのために、ゴルゴタに死なれました。これは、主なる神の愛の、最も大きな奇跡です。自分自身が、死に値する者であると知った人は、この愛を知っています。 私たちは、死に値する者であることを認めるでしょうか。どうしたら、私たちはそれを認めることができるのでしょうか。 ドイツには、こういう歌の一節があるんです。すなわち、「私は、最も悪い人間の一人である。」という意味の一節です。すなわち私は、最も悪い人間である。 理論的にはこれは賛成するでしょうけど、もし、私たちの内の誰かが、それを私たちに向かって直接言うとどうでしょうかね。 この最も悪い存在である私という、尊厳が傷つけられる時、何と早く私たちは侮辱されたと思い、腹を立てることでしょう。 私たちは、私たちが悪い人間であるということを、結局解かっていないかもしれない。ですから私たちは、実際にはこのことをほとんど認めない。 自分の罪を確信するには、聖霊の心の奥底にまで届く働きが必要です。自分を正しい者とすることは、最も醜い一番誰でもある罪ではないでしょうか。 私たちは、罪の認識を私たちの内に、無理に起こすことはできませんけども、主のみことばによって、主の私たちに対する判断を信じることができます。主なる神のみことばは、私たちを信じるよりももっとよく信じることができるでしょう。 イエス様の十字架は、我々の主なる神の判断について語っています。イエス様の血は、「お前の罪は、死に値するものだ」と言っています。イエス様の十字架を仰ぎ見るたびごとに、私たちは、心の底から揺り動かされます。 これは十字架、ゴルゴタの奇跡です。なぜなら、イエス様はご自身をもって、私たちの罪のために責任をとったことを示し、イエス様が、我々の死の判決を自分自身に担い、実際に私たちのために死なれたからです。 ここに至って、イエス様が自分の救い主となるのです。ただ愛のみが、聖い愛のみがこれをすることができたのです。 自分がしたことのない罪の濡れ衣を着せられることほど、腹の立つものはありません。人はそれに対して、何と弁護することでしょう。 けど、何という重荷がイエス様の肩にかかったのでしょう。犯罪の人殺しの最も恐ろしい、最も残酷な身の毛のよだつ罪、不道徳と不潔の泥沼の中にいる人の罪、すべての神を汚す恥知らずの行為、あるいは、すべての不親切な腹を立てた言葉、主はこのような、この世のすべての罪を自分自身が犯したかのように、すべてを一身に担いました。 イエス様は、愛してくださいました。私たちの一生は、このすばらしい福音を感謝し尽くすには、短すぎます。永遠に感謝してもし足りません。 イエス様は、愛しただけじゃなくて、イエス様は、与えた。自分自身を与えて下さったのです。 単なる愛ならば、私たちを救うことはできなかったでしょう。主なる神の大いなる力強い愛は、私たちに苦労をしろと言うことはできません。もしできるなら、それは本当の愛ではなく、盲目的なものです。 主の愛の力は、罪人の罪を贖うということはできません。罪人は罪だからです。主なる神の愛は、ただ一つのことができます。罪の代価を払うことができます。それをイエス様ご自身がしてくださいました。その一人子を与えたのです。すなわち、命まで与えた。 十字架は、私たちが自分の認めた死の判決を、我々にではなく、イエス様に成された刑罰の執行です。それは、イエス様の血によって、あらわされた献身です。流された血の犠牲です。いのちを捧げる献身であり、尊いものです。 イエス様の血は、何と貴重なものでしょうか。ですからイエス様の血は、すべての罪を清めます。 私たちは、イエス様に対する献身を大げさに言います。けど、私たちに対するイエス様の献身は、はるかに大きいのです。 イエス様は、このようにしてご自分のからだなる教会を勝ち取りました。自分自身を捧げた愛によって、勝ち得られたのです。 物語や伝説の中で、自分の命の危険を冒して愛する妻を得たことが、しばしば書かれています。ここでは、しかし物語また伝説でもない。一つの事実です。主なる神の御業です。 そして、私たちの救い主は、生命の危険にあったばかりでなく、愛のために身を捧げました。イエス様は、最後まで愛しました。ですからイエス様は、最後まで救うことができます。 イエス様は、自分自身で、ご自分のからだなる教会を贖いました。この愛の秘密については、雅歌の8章6節に書かれています。 雅歌8:6
パウロは、エペソ人への手紙5章32節でこう言っています。 エペソ人への手紙5:32
それは、主イエスとそのからだなる教会の間の愛の奥義です。そして、この関係を主のみことばは、結婚のたとえで示しています。 結婚は、何という聖なるものでしょう。結婚は、すべてにおいてキリストとそのからだなる教会をはっきり反映しなければなりません。 信者の夫婦にとって、イエス様とそのからだなる教会との関係は、結婚生活の模範です。 その時もはや、「私がこうしたい、私の権利だ」という基準ではなく、新しい基準に従わなければならない。 すなわちイエス様は愛され、ご自分を捧げました。それゆえにイエス様は赦すことができます。こうしてイエス様は、ご自身のからだなる教会の救い主になりました。 イエス様の血は、すべての罪を償って余りがあります。その罪は、どんなに大きなものであろうとも、イエス様に背中を向けた者の罪をさえ償って余りがあります。 イエス様は、罪人と罪を犯した信者のすべての罪を贖うことができます。ですから大切なのは、医者であるイエス様を呼んで、傷を見せなさい。主の前に、病気の箇所を教えてください。心の底まで開きなさい。罪を数え上げなさい。 ただ罪の告白と罪の赦しによってのみ、祝福の道そのものが開かれるのです。 イエス様は、私たちを愛しました。私たちのために、ご自身を捧げました。 私たちは今まで、このイエス様の尊い愛の宝に対して何をしたのでしょうか。 愛を拒むほど、重い罪はないでしょう。母親の愛を拒むことは、何と言う深い罪でしょう。夫婦間の愛を退けることは、何という悲しむべきことでしょう。 けれどもイエス様の愛は、母親の愛よりも夫婦間の愛よりも大きなものです。 それでは救い主の愛を拒むことは、何という罪でしょうか。私たちは、自分の救い主の愛に対して何をしたのでしょうか。 イエス様の言われた「わたしは救いたいと思った。しかし、あなたがたは、救われようとしませんでした。」と、今我々の耳を開き、私たちの心に迫る福音は、答えを求めています。 ヘブル人への手紙の中でも、旧約聖書の中でも書かれていることばは、「今日、御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはいけない。」イエス様は、すべてをなさいました。イエス様は、愛しました。主イエス様自身が最高の贈り物です。 私たちは、それを欲しくないからと言って退けるべきなのでしょうか。そうするときっと、ひどく後悔するでしょう。今、答えるならば、多くのものを犠牲にしなければならないからといって、答えを延ばすのでしょうか。 明日では遅すぎるということになるかもしれない。私たちは、イエス様に対する決定をすることができるのは、もちろん生きている間です。この世において、イエス様を受け入れない者は、失われます。 ですから私たちの人生の一日たりとも無駄にしないで、今日真剣に生きましょう。 イエス様の愛と献身に対して、イエス様が喜ぶただ一つのことを答えましょう。すなわち、あなたが私をも、あなたの尊い血によって、お救いくださいましたことを感謝します。そうすれば、イエス様は自分の救いそのものとなります。 そして私たちも、イエス様は私をも救ってくださったと喜ぶことができます。 こういう話があります。ある朝、レイ子ちゃんという7歳になる女の子が、上野駅で父親と一緒に汽車を待っていました。 レイ子ちゃんは、物珍しそうにあたりを見回していました。お父さんは、友人と話しし夢中になっていました。その時、警官の一団がやって来ました。 その警官たちの真ん中に、手錠をはめられた怖い顔つきをした犯罪人が、引かれて来るのをレイ子ちゃんは見ました。 その男は恐ろしい犯罪を犯しました。そして今、刑務所へ送られる途中でした。レイ子ちゃんは、この犯罪人のことをよく知っていました。 その朝、お父さんは、次のように言ったから。「この犯罪人の仲間が助けに来るかもしれない。だから、この男を厳重に監視しなければならない。すぐだ。」と。 レイ子ちゃんのすぐ近くで、この一団が止まりました。お父さんは、友人と話に夢中になっていたので、何も気がつきませんでした。そうでなかったら、お父さんは、子供をこの恐ろしい一団に近づけなかったでしょう。 レイ子ちゃんはすぐに立って、少し不安げに、しかし心から同情して眺めていました。 これを最後にして、このかわいそうな男は、一生の間監獄に閉じ込められて、日の目を見ないだろうと、レイ子ちゃんは大変悲しく思いました。 突然男はレイ子ちゃんを見て、それから目をそらしました。それからすぐ男は、レイ子ちゃんの同情あふれたまなざしを王冠のように、もう一度見ました。 男は、レイ子ちゃんを少しのあいだじっと見ていましたが、まもなく耐え切れないように目をそらしました。レイ子ちゃんは、男が自分のことをうるさく思ったのだと思いました。レイ子ちゃんは、それを大変悲しく思いました。 それでこの恐ろしい男のすぐそばまで行って、真剣な声で言いました。「おじさん、私はおじさんを悲しませるつもりはなかったのです。ただ、おじさんのことを心配だったのです。イエス様もまた、おじさんのことを心配していますわ。」 するとその時、警官の一人が、レイ子ちゃんの腕をすばやくつかみ、気がついて出てきた父親に引き渡しました。このレイ子ちゃんの言葉を聞いた者は、その犯罪人より他にいませんでした。幸いなことに、この男はこの言葉を聞いたのです。 あとでなく、同情に満ち溢れた、心から話された言葉は、この犯罪人の怖い心に入り込みました。そして悲しい監獄の中で、この男は、この言葉を忘れることが出来ませんでした。 看守は、この危険な悪者はもう何の騒ぎも犯せず、暴れもせず、逃げようとしないで、毎日おとなしく親切になっていくのを見て、非常に驚きました。 数ヶ月の後、監獄の牧師が、彼がどうしてこのように変わったのか聞いた時に、謎がもちろん解けました。 「それは簡単だよ。」と犯罪人は答えました。 「一人の女の子が、私のことを心配してくれました。そして、イエス様も私のことを心配しています。」と言いました。「この女の子とイエス様が同情してくださいましたので、私の心は砕けました。」 イエス様はすべてをなさいました。イエス様は愛を示してくださいました。イエス様ご自身が最高の贈り物です。 イエス様の献身に対して、イエス様が喜ぶただ一つの答えを答えましょう。すなわち、あなたが私をも、あなたの尊い血によって、お救いくださいましたことを感謝します。 そうすると、イエス様は自分の救い主となり、そしてイエス様は、私をも救ってくださったと喜びの声をあげることができるのです。 |