引用聖句:ペテロの手紙第I、2章4節-5節
エゼキエル書44:15-18
最近いつも同じテーマについて話すようになったんですけど、最近準備したメッセージじゃない。本当は、昔々準備したものなんです。けれども、準備して使わなかったんです。それにしてもやっぱり、非常に大切なのではないかと思います。 今の歌いました歌を見るとやっぱり、結局、主の御心そのものが現れてくるんじゃないかな。 一つの群れ、主のみからだ。いろいろなことについて考えると、やっぱり悩みの種とはそれなんです。 多くの人々は、確かにイエス様を信じています。けど、からだなる教会は、イエス様にとって何を意味しているか全く解からない人間を見ると、悪魔はうれしくなる。 もちろん、我々の確信と希望なのは、イエス様は「わたしは建てる、わたしは、わたしの教会を建てる」、悪魔はどうすることもできない。 けど、我々は主の働きに対してお邪魔虫であるか、同労者であるかのどちらかなのではないでしょうか。 私にとって最も大切な箇所は、コリント人への手紙第I、12章27節です。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 あなたがたとは、コリントにいる兄弟姉妹でした。コリント人への手紙第Iを読むと解かる。コリントの教会は、めちゃくちゃでしたよ。決して模範的なものではなかったから、パウロはこういうふうに書かなくちゃならなかった。 あなたがたコリントにいる人々は、キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官です。上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見るようになれば、本当にありがたい。 イエス様はもちろん、失礼のように見えるんですけど、かしらにすぎないよ。かしらだって、からだなしでは何もできないよ。何もやりたくない。教会を通して、働こうと思っておられます。 ですから50何年前に、今日のメッセージも準備するんです。使わなかっただけなんです。 今日のテーマは、「聖なる主の宮であるからだなる教会」です。 ヘブル人への手紙3:6
そうでなければ神の家じゃない。宗教的なクラブ、仲良しクラブにすぎないということです。 この教会、すなわちイエス様のからだ、主なる神の霊的な宮はいろいろな方面を持っています。一番大切な面というのは、昇天された、高く引き上げられたイエス様です。 それから父なる神に、教会により、またイエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。そして主なる神は、聖なる神の宮である私たちによって、栄光をお受けになるようにということです。 今日は、世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕について、少しだけ一緒に考えてたいと思います。5つの点に分けて考えましょうか。 第1番目、主なる神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的です 第2番目、父なる神の御子の偉大さ 第3番目、衝突の成り行き 第4番目、教会の使命 第5番目、教会と御座の力 もう一回前に読んでもらいました箇所を読みます。 ペテロの手紙第I、2:4
死んだものではない、 ペテロの手紙第I、2:5
またエゼキエル書の箇所も、もちろん同じ内容のものであります。 主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的です。霊なる神の住まいであるまことの教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。 選ばれた者というのは、天地の創られる前から、主イエス様にあって選ばれたのであり、父なる神の選ばれたからだなる教会です。 そして、この霊なる神の住まいであるからだなる教会の目的は、この選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。これは、主を信じる者の大きな使命です。 初代教会は、建て始まった時、地獄全体がこの選ばれた者を滅ぼそうと努めました。主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的です。 悪魔の働き、方法は、一方は詭弁的な内面的な働きであり、他方では暴行によって、行動によってなんです。 初代教会に対する悪魔の初めの攻撃とは、アナニヤとサッピラによってでした。悪魔は秘密な詭弁的な内面的な働きによって、主なるからだなる教会を妨害しようと努力していました。 けど当時のペテロはすぐ、これは悪魔の攻撃だと解かりました。 彼は何と言ったかといいますと、「アナニヤよ。どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われたのか」とペテロは言いました。 すぐ後で悪魔は、暴行、行動によって、主のからだなる教会を滅ぼそうと努めました。悪魔と主のからだなる教会は、いっしょに進むことはできません。主なる神の教会は、結局、悪魔の敵対の的であります。 今日の国々の出来事はただ政治的、また時間的なものではなく、この出来事は霊的な本質を持っていることをよく解かるはずです。 これは悪魔の働きです。悪魔の最後の目的は、非キリストによる世界の支配なのです。 これを考えると私たちは、今の時代の厳しさを感じるでしょう。いろいろな聖書の教えを信じ、受け入れたとしても、悪魔の攻撃を感じないかもしれない。 またたとえ集会に出席しても、悪魔の敵対に気がつかないかもしれない。けれども、いったんよみがえりのいのち、すなわちイエス様にある永遠のいのちを経験すると、悪魔の絶望的な攻撃と敵対を認めるのです。イエス様にある永遠のいのちは、悪魔の攻撃の的です。 主のからだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、父なる神に、からだなる教会により、また主イエス様によって、栄光を世々限りなくあるように、これこそからだなる教会の使命です。 2番目、父なる神の御子の偉大さについて、ちょっと一緒に考えましょうか。 主の目的とはいったい何でしょう。御子イエス様は、宇宙の座に引き上げられることと、からだなる教会は、この目的を達する道具として、器として用いられることです。これは、悪魔の力を滅ぼすことを意味しています。 なぜなら、高く引き上げられたイエス様は、悪魔の敗北を意味しているから。 イエス様の高く引き上げられたことは、霊的な力によって実行された事実です。ですから私たちは、生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。私たち信じる者は、イエス様のいのちを持っています。 このからだなる教会にあるイエス様のいのちとの完全なる啓示によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。 選ばれた者は、あらゆる死の力に対する勝利を得なければならないのです。そうしたら初めて、イエス様は、全宇宙の支配者となるのです。 教会の勝利によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。 悪魔の力を滅ぼすことが、問題であり、父なる神の御子の偉大さを現すことが問題です。聖書を読むとこれがよく解かります。 たとえば、出エジプト記3章を読むと次のように書かれています。 出エジプト記3:9-10
けれども当時のパロは、心をかたくなにしまして、イスラエルの人々を去らせなかったんです。10回同じ言葉が書いてあります。 すなわち主はモーセに言われた。「あなたはパロの所に行って、言いなさい。主はこう仰せられます。わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」と主は仰いました。 けれども、この神の命令に対する答えは、「パロは心をかたくなにし、イスラエルの人々を去らせなかった。」とあります。 一つの疑問が起こります。すなわち、主なる神はなぜ最初に一撃のもとに悪魔を滅ぼしてしまわなかったのでしょうか。 主なる神はパロに言われた。 出エジプト記9:16
パロが心の内に持っている悪い思い「私は、イスラエルの民を去らしたくない」という悪い思いが実現しなければ、神はパロに対し判決を下すことができなかったからです。悪い思いが実現され、その次に神の判決が下されます。 パロは10回、主の命令に反抗し、自分の心をかたくなにしたとあります。パロの主に対する敵対は、完全に現した時、主の判決が下されました。 悪魔の力を滅ぼすことが、問題であり、父なる神の御子の偉大さを現すことが問題なのです。 一つのことが明らかです。パロたち、または他の独裁者たちの問題のみならず、問題なのは悪魔の力です。私たちの戦いは結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。 あなたは改心した時、両親または友達が、敵対心のある立場をとって、あなたを妨げようと努力していました。これは、両親また友達のみならず、この後ろに、悪魔の力が働いていました。 からだなる教会の戦いは、決して人間に対する戦いなのではない。悪魔に対する戦いです。そして、からだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。それによって、父なる神に、結局、教会により、またイエス様によって栄光が世々限りなくあるように。 イエス様を受け入れた人々の内にある永遠のいのちは、悪魔の攻撃の的です。私たち信じる者の戦いは、悪魔の致命的、死にものぐるいの努力に対する戦いです。 聖なる神の宮である、からだなる教会の使命は、主の道具として、器として、御子主イエス様の偉大さを現すことです。 ですから、私たちからだなる教会によって、悪魔の完全な力は、疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように、これは私たちの使命です。 御子イエス様は、父なる神と同じように、ご自分の内に生命を持っています。この生命によって、イエス様は死に打ち勝ちました。 私たち主のからだなる教会の内にある永遠のいのちは、死より強いということを啓示しなければならないのであり、明らかにならなければならないのです。 神の霊的な宮の存在は、悪魔の敵対の的です。この、霊なる神の住まいにある永遠のいのち、すなわちイエス様のいのちは、悪魔の攻撃の的です。 そして教会の使命は、主の道具として、悪魔の力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように、これは主のからだなる教会の使命そのものであります。けれども、それは、恐るべき戦いです。 主のからだなる教会でさえも、悪魔の大きな力を経験しなければなりません。悪魔の激怒を感じるでしょう。 けど、悪魔の大きな力また恐るべき激怒は、終わりを意味していません。終わりは、御子イエス様の偉大さを現すことです。 次3番目ですか、衝突の成り行きについて、ちょっと考えたいと思います。 世界の歴史を見ると、悪魔はいつも、悪魔のような模倣者を持っていました。ちょっとだけ考えると、カインを思い出すでしょう。 このカインについて、ヨハネの手紙第I、3章12節に次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、3:12
また聖書の中で別の男が出てきます。ハマンという男です。彼がユダヤ人全部を殺そうと努めました。 悪魔は、どんな時代にも悪魔のような模倣者を持っていて、主なる神をからだなる教会を滅ぼそうと努力しました。主のからだなる教会の証しによって、悪魔は自分の力はダメだと自分の敗北を認めなければなりません。 アベルは、悪魔の力に対する勝利を得ました。なぜなら、殺されても証したからです。ヘブル人への手紙11章4節、彼の名前も出てきます。 ヘブル人への手紙11:4
これらの神の心を全うした人皆が、悪魔と死の力に対する勝利を得た者でした。彼らは、見えるものによらないで、信仰によって歩いていた者でした。こういう風に彼らの信仰によって、父なる神は栄光をお受けになったのです。 今日の世界の国々の出来事を見ると、悪魔は何と大きな力を持っていると認めざるをえません。悪魔は実に言いあらわすことのできないほどの大きな力と自由を持っています。 けれども、主なる神は悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っている。悪魔の力は、主なる神の支配のもとにあるのです。 悪魔が、心の内に持っている悪い思い、「わたしは霊なる神の住まいにいます、キリストのいのちを滅ぼそう」という悪い思いが実現しなければ、主なる神は悪魔に対し判決を下すことができないのです。 まず悪い思いが実現されて、その次に主の判決が下されます。 創世記15章16節に次のように書かれています。 創世記15:16
どうして悪魔は、言い表すことのできないほどの大きな力と自由を持っているのでしょうか。悪魔の悪がまだ満ちないからです。 悪魔の悪が満ちると、主なる神の恐ろしい判決が下されます。 主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っています。けど悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを覚えるべきなのではないでしょうか。 聖書はよく、子供と成人した息子の区別についていろいろなことを言っています。 聖書読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは子供であって、しもべと共に生活し、また父の跡継ぎとしての資格を持っていません。成人して初めて、息子として父の跡継ぎになる力が与えられるのです。 この子は、初めは子供だったんですけど、成長し、成人となり、初めて息子となったのです。これと同じように、まことの新生を経験した人は、神の子供です。 この新生した子供は、聖化、変化、成長によって息子となることができるのです。 成長したキリスト者だけが、すなわちイエス様を主として、支配するお方として受け入れた者だけが、イエス様と共に遺産を受け継ぎ、冠をいただく、主イエス様の座につくことができ、豊かな報いを受けるようになります。 成熟したキリスト者だけが、霊なる神の住まいとして、ご自分の最後の権威と栄光を現すことができるのです。 成熟した息子が、主なる神の目的だけではなく、悪魔はそこまで行かないように、夜、昼、攻撃します。 マタイの福音書の中で、イエス様は厳しいことばを言われました。聖書学者に向かってのことばです。 マタイの福音書23:15
この最後のゲヘナの子、地獄の子というのはギリシャ語では、地獄の息子となっています。と言いますのは、地獄の成熟した息子を意味しています。何という恐ろしいことでしょう。 主なる神の恐るべき判決の前に、悪魔に属している奴隷は、地獄の成熟した息子にならなければならないのです。 悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを覚えるべきなのではないでしょうか。主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っているということを絶えず覚えるべきです。 悪魔の悪が満ちる時、主は、この悪魔の言い表すことのできないほどの大きな力に対して、からだなる教会を立ち向かわせます。 悪魔は、主のからだなる教会によって、自分の力は、疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように、これは我々の使命です。そうしたら、初めて父なる神にからだなる教会によって、またイエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。 4番目、からだなる教会の使命について、ちょっとだけ考えたいと思います。 ここまで述べたことと、教会の使命ということの関係は何でしょうか。霊なる神の住まいである、からだなる教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。 すなわち、とりなしの奉仕です。ペテロの手紙第I、2章9節に次のように書かれています。 ペテロの手紙第I、2:9
今日の悪魔の働き、方法は、一方は詭弁的と内面的な働きであり、他方は暴行によってなんです。 私たちは、この悪魔の攻撃に対して、はっきりとした立場をとらなければならない。すなわち私たちは、とりなし人とならなければなりません。 ヘブル人への手紙4:16
恵みの御座に近づこう。 エペソ人への手紙3:12
私たちと、私たちのすなわち、からだなる教会の使命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕ですから、大胆に主に近づきましょう。 悪魔は我々を、とりなしの奉仕から引きどけようと努力しています。この目的を達するのに、訴えることによって、悪魔はからだなる教会の力を滅ぼそうと努めています。 多くの信じる者は、悪魔の訴えによって、そして「自分はダメだ。あんまり役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ。」という感じることを覚えて、主とのまじわりは必ず、もう失われたと思い込んでしまいます。 けれども、これは悪魔の働きです。悪魔が、我々をとりなしの奉仕から引きのけようと努力しています。 私たちが、主の血潮の最も尊い価値をもっともっとよく悟らなければならない。 そうしたら初めて選ばれた者の解放と生活に対する奉仕をすることができるのです。 けれども、これこそ悪魔の大嫌いなことです。したがって、悪魔は、私たちに「あなたたちは、もうダメだ。あんまり役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ。主との交わりは必ず失われた」という訴えを持って、とりなしの奉仕から引きのけようと努めています。 けれども、大胆に主に近づかないことは、弱さだけではなく、主の尊い血潮を否定することも含まれています。 私たちの祈りの生活に対する悪魔の攻撃は、選ばれた者に対する力を持つことを意味しています。 こういうふうに悪魔は、からだなる教会の任命を滅ぼし、教会の力は失われてしまいます。 けど、霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。これこそからだなる教会の任命です。 悪魔の訴えに対する我々の答えが、結局イエス様の小羊なるイエス様の血であるならば幸いです。 ヨハネの黙示録12:11
小羊の血によって、悪魔、兄弟らを訴える者は投げ落とされたとあります。 からだなる教会の権威、確信、信頼、力の源は、尊い血潮です。私たちが新しい権威、確信、信頼、力を求める時、尊い血潮の価値を知るようになり、血潮を感謝するようになります。 イエス様にあって、私たちは、神に対する信仰によって、血潮に対する信仰によって、確信を持って大胆に主に近づくことができるのです。 もし私たちが、本当に生きておられる主なる神の子供であるならば、主にある聖なる宮の中で、生き生きとした石であり、イエス様のからだなる教会で、このからだの肢体なのです。 したがって私たちの使命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕であります。 パウロは祈ったんです。 エペソ人への手紙3:18
非常に大切な表現です、 エペソ人への手紙3:18-19
すべてと書いてあります。すべてはすべてです。 我々の使命は、全世界の信じる者の解放と生活に対する奉仕、すなわちとりなしの奉仕です。 私たちは、個人個人の信者ではなく、私たちは、からだなる教会であり、主であり聖なる宮の部分です。 これは、私たちは、とりなし人とならなければならないことを含まれているだけではなく、これは悪魔に対する恐るべき戦いを意味しています。 これは本当に覚えるべきなのではないでしょうか。あなたは、イエス様を信じるようになった時、あなたは聖徒たちの家族の一員となりました。 だからあなたは今、個性的な信者ではなく、あなたは主である聖なる宮の部分であります。ですから最近よく引用する箇所をもう一回読みます。 コリント人への手紙第I、12:12、27
信じる者は、イエス様のからだの一つの肢体です。私たちは皆が主イエス様のからだであり、一人ひとりはその肢体であると、聖書ははっきり言っています。 からだの肢体の一つだけでも病気であったら、からだ全部が病気なんです。すなわち一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感じるでしょう。 一人の信者が失敗して、からだなる教会全部が前進しません。 ご存知のように、幾人かの兄弟姉妹が、イエス様のからだである教会から離れました。彼らは喜びを持っていないはずです。平安もない。 私たちは、兄弟姉妹に対して、無関心なのでしょうか。あるいは彼らのために本当に悩み、真剣に祈るのでしょうか。 我々の無関心によって、悪魔は勝利を得ます。 孤独な個性的なキリスト者は、ありえないことです。ばかげたことです。私たち全部は、キリストのからだであり、一人ひとりはその肢体です。 からだの肢体の一つだけでも病気であったら、からだ全部が病気なんです。決して前進しないのです。 絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのためにも目を覚まして、うむことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさいとあります。 祈りなさいだけじゃなくて、祈り続けなさい。 いかにして、すべての聖徒のために祈ることができるのでしょうか。この質問に答えるために、パウロの祈りを読みます。 ピリピ人への手紙1:3-6
このパウロの確信はすばらしい確信です。この確信こそが、すべての聖徒のための祈りの秘訣です。 ピリピに住んでいる兄弟姉妹たちは皆、すばらしい信者ではなかったんです。争い、妬みなどがあったんです。 けれども、パウロは「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と言えたのです。 私たちは、幾人かの兄弟姉妹を思い出すと、確かに悲しくなるかもしれないけど、この兄弟姉妹のうちに良い業を始められた方が、イエス様の日にまで、それを完成してくださるに違いないと確信しているのでしょうか。イエス様は必ず完成されます。 私たちは皆が、イエス様と似た者になります。この偉大なる日を大きな喜びを持って、待ちましょう。 その時、今離れている兄弟姉妹も、イエス様の義の衣を着るのです。その時、彼らは小羊の血を崇め、感謝するのです。その時、今離れている兄弟姉妹は、自分たちの救い主を崇拝するのです。 妨げているものは、その時全部見えなくなるのです。そして、今離れている兄弟姉妹は、主イエス様をもっともっとよく知ることは、彼らのただの願いになります。この瞬間を想像して、大喜びで待ちましょう。 その時、私たちも皆、イエス様を見ることができます。何という瞬間でしょう。 その時、私たちは、他の人を見て判断すること、あるいは妬みと傲慢は、全く知らなくなります。 私たち皆がイエス様だけを見て、父なる神を礼拝するのです。私たちは永遠にわたり、小羊によって、主イエス様によって行われた救いを褒め称えるのです。 全国の兄弟姉妹のうちに、良いわざを初められた方が、主イエス様の日までにそれを完成させてくださるに違いないと確信しましょう。 これこそが、高価なとりなしへの道です。 あなたは、救霊者になりたいのでしょうか。そうしたら毎日、あなたの家族の人々、あるいは友達のために祈って、感謝してください。 「イエス様よ。あなたは私の家族の一人ひとりを救われましたことを感謝いたします。友達を救われましたことを感謝いたします。」と感謝してください。 イエス様は、あなたを決して決して失望させません。これは、あつかましいことではない。感謝することは、決して破廉恥ではない。信仰なんです。 このような信仰だけが、奇跡を経験することができます。 主なる神の全能を信じる信仰だけが、主に喜ばれる信仰です。 エペソ人への手紙6章18節、非常に大切な箇所であります。 エペソ人への手紙6:18
主の目的を達するために、これは絶対に必要です。 霊なる神の住まいとは、主のからだなる教会とは、生命のない死んだ家ではなく、生き生きとした能動的、霊的な宮なのです。 したがって、私たちもどんな時でも、すべての聖徒のために祈らなくてはいけません。 私たちは、これが好きかどうかが問題ではなく、霊なる神の住まい、主イエス様のからだなる教会の際立っている特徴は、とりなしであります。信じる者の性質は、とりなしによって現れます。 からだなる教会の際立っている特徴は、霊的な祈りです。生命は自動的です。そして、とりなしは生命の部分です。 したがって、聖霊は私たちの生命の支配へ持てば、私たちはとりなし人であるはずです。そしたら、祈りも自発的なのです。 イエス様にあって、私たちは彼に対する信仰によって、確信を持って、大胆に主に近づくことができるのであると聖書は言っていますから、とりなし人になりましょう。 悪魔の訴えと告訴に耳を貸さなくてもいい。 「耳のある者は、御霊が諸教会の言うことを聞くがよい」私たちは、御霊の声を聞きましょう。 「すなわち、こういうわけで、私たちは主イエスの血によって、はばかることなく、聖所に入ることができるのです。」とヘブル人への手紙10章19節にあります。イエス様の御名によって、近づきましょう。 イエス様の血によって、大胆に主に近づきましょう。 イエス様の流された血は、救いのために必要なものだけではなく、最後の勝利のために、とっても大切なものです。 聖書は言っています。ヨハネの黙示録に書いていますけど、「兄弟たちは、小羊の血によって、悪魔に打ち勝った。」、小羊の血によって、悪魔、兄弟姉妹を訴える者は、投げ落とされたとあります。 霊なる神の住まい、主のからだなる教会の目的は、結局、救われた人々の解放と生活に対する奉仕なのです。 すなわち、とりなしの奉仕です。 もし私たちが、この目的を達しないと、悪魔は大いに喜ぶ。私たちは、すべての聖徒たちのために責任を持っています。 私たちは、この任命を認めなければ本当に災いです。 今日、天上にある諸々の支配や権威が、からだなる教会を通して、とりなし人を通して、主の達したような知恵を知るに至るためであって、私たちの主イエス様にあって、実現された神の永遠の目的に添うものです。 最後にちょっと、からだなる教会と御座の力について、考えて終わります。 イエス様にあって、私たちは、彼に対する信仰によって、確信を持って大胆に主に近づくことができるのです。 神の御座は、我々すなわち罪の赦しを受けた罪人、また言葉を言いかえると、恵みを受けた聖徒たちにとっては、恵みの座です。 けれども、この恵みの座は、我々の敵にとっては裁きの座なのです。これを覚えるべきじゃないでしょうか。我々信者にとっての、恵みの座は、悪魔にとって破壊の座であります。 私たちは、憐れみを受け、また恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、はばかることなく、恵みの御座に近づこうではないかとヘブル人への手紙4章16節に書いてあります。 憐れみを受け、また恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、私たちは恵みの御座に近づかなければならない。 そして、すべての聖徒のために、私たちは、イエス様に対する信仰によって、確信を持って、大胆に神に近づかなければならない。 また、悪魔の軍勢を滅ぼすために、私たちは大胆に、主に近づかなければならないのです。 主なる神の御座は、恵みの御座であり、裁きの座です。この主の御座は、血潮によって、我々の恵みの座です。悪魔にとっては裁きの座です。 短い本ですけど、エステル記を読むとこれがよく解かります。ここで、王様の座はユダヤ人にとっては恵みの座であって、ユダヤ人を皆、滅ぼそう、殺そうと思ったハマンにとっては、裁きの座でした。 主なる神の大いなる恵みの御業は、からだなる教会の中にあるはずです。私たちは、両方の点を認めなければならない。 私たちの中で、この御座があらなければなりません。そうしたら、初めて我々の生活は、救われた人々の解放と生活に対する奉仕なのです。選ばれた者の解放と生活に対する奉仕は、我々のからだなる教会の使命です。何という責任でしょう。 私たちは、主と共に働く者であるべきです。イエス様は、すぐ来たりたもう。「その日に、イエス様は、語って来られ、聖徒たちの中で崇められ、すべて信じる者のあいだで、驚嘆される」とテサロニケ人への手紙第II、1章10節にあります。 イエス様の崇められることは、すべて信じる者たちのあいだに成ります。ですから私たちの今日の任命は、すべての聖徒たちの解放と生活に対する奉仕です。祈りととりなしによってだけ、これが可能です。 世界中のすべての聖徒の解放と生活に対する奉仕は、我々の責任です。 もし私たちの際立っている特徴が、とりなしと祈りの霊であるならば、本当に幸いと思います。 |