引用聖書:マタイの福音書16章16節-18節
マタイの福音書18:17、20
コリント人への手紙第I、12:27
エペソ人への手紙2:20-22
ヨハネの手紙第I、4:17
最近よくこの歌が歌われます。最も大切な歌の一つなのではないかと思いますね。一つの群れ、主のみからだ。主のみからだとは、結局すべての兄弟姉妹を意味するのです。 いつも言いますけど、私の悩みの一つの種は、イエス様にとってからだなる教会、信者一人ひとりは、いかに大切なのかと。大切にしない人もいます。 イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者は、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜、攻撃します。 今読んでもらいました、コリント人への手紙第I、12章27節は、本当に大切な箇所じゃないかなと思います。 コリント人への手紙第I、12:27
なるべきじゃないよ。なっちゃった。 コリント人への手紙第I、12:27
と、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。コリント人への手紙第Iを読むと解かります。模範的な集会ではなかった。めちゃくちゃな集会でしたよ。 あの手紙を読むと、もちろんはずかしくなる。けども、それにしても、あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりは各器官である。なるべきなのではない。 結局、上からの光に照らされて、すなわち上からの啓示によって、この真理を心の目で見ることができれば、本当に幸いだと思います。それによって多くの疑問ですか、疑いが飛んでしまいます。 55年前に私は今日のメッセージを準備したんです。けど、使わなかった。今日まで。50年前に準備したけど、使わなかったのは、ちょっと不思議じゃないかなと思います。 ですから最近のものじゃない。その時、ずっと聖なる神の宮である教会について準備しました。 霊なる神の住まいである、イエス様のからだなる教会の目的は、全世界のどこでもイエス様の代表、あるいはイエス様の代理であるべきです。 教会とはイエス様であり、教会とはイエス様ご自身です。イエス様は、聖霊の宮であり、主なる神の住まいです。 けど、イエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私に住んでいるイエス様です。 教会とは、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みであるとコロサイ人への手紙1章27節に書きしるされています。 教会である霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、またイエス様と結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。 これは教会です。 教会とは百万の教派、グループ、交わりの分かれているキリストではないのです。 パウロはコリントに住んでいる兄弟姉妹の間で起こった争いのことを聞いた時、憤激して、次の質問を設けた。「キリストはいくつにも分けられたのか。」 そしてパウロは、この信者たちに、「さて、兄弟たちよ。私たちの主イエスキリストの名によって、あなたがたに薦めます。皆、語ることを一つにし、お互いの間に紛争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。」と書いたのです。 教会である聖なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、またイエス様と結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。これはからだなる教会です。 分かれていない統一とは、言い表すことのできない価値であり、勝利と信仰の秘密です。したがって、これから独立している他の考え、他の声、他の意思によって、悪魔は分離させようと努めています。 これを考えると、私たちは、からだなる教会がいかに大切であるかが解かります。 どこの場所でもイエス様は、信者たちによって共同的に表すべきです。よく知られているマタイの福音書18章20節に、次のように書かれています。 マタイの福音書18:20
これは何を意味しているのでしょうか。この二人または三人の信者は、イエス様のからだを意味しています。けどイエス様が、ご自分のからだの頭、かしらですから、ご自分と参列しなければならないのです。 それともこれを言い換えると、イエス様は、ご自分の満たしを現すために、ご自分のからだなる教会である兄弟姉妹を必要とします。 コリント人への手紙第I、12章14節のように、実際からだは一つの肢体だけではなく、多くのものから出来ていると書いてあります。 これは、全世界の信者たち全部を意味しています。けど、27節に同じパウロは、次のように述べ伝えています。 コリント人への手紙第I、12:27
すなわち、コリントにいる神の教会である兄弟姉妹は、 コリント人への手紙第I、12:27
と言っています。しかしここでパウロは、コリントにある兄弟姉妹に述べ伝えています。すなわち、からだなる教会に、述べ伝えているのです。 イエス様は、からだなる教会なしにご自分を現すことができません。もし、私たちが本当に新しく生まれた者であるならば、イエス様は、聖霊によって、私たちの内に住んでおられます。 また私たちは、聖霊の支配のもとに、主を現すことができるのです。 イエス様が個人個人の信者によって、ご自分の栄光を現されます。けど、ご自分の満たしを現すことができないのです。信じる者全部が、共同的にイエス様の満たしを現すことができるということを本当に絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 イエス様は、二人または三人が、わたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのであると約束しておられます。 イエス様は、ひとりがわたしの名によって集まっている所には、わたしもそこにいるなどと、別に言わなかったのです。 もちろん、イエス様が聖霊によって、個人個人の信者の内に住んでいることは事実ですけど、ここでイエス様は、意識してご自分の最後の御心を現すために、「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と言われました。 イエス様が教会について、すなわちからだなる教会について話された時、イエス様の共同的な現しは、非常に大切であると。 イエス様は、ご自分の満たしと栄光を教会全体によって、現されなければいけません。 主の御心に対する2、3の致命的な妨げについて、ちょっと考えたいと思います。 一つは、個人主義について、一言述べなければならない。何と多くのクリスチャンたちは、共同的ではなく、個別的に個性的な生活をするでしょう。これは致命的な妨げです。 と言いますと、個性は、霊的な満たしや、霊的な成長や、霊的な光と力と、霊的な生活が、個人主義によって、妨げられるからです。 多くの人は、個人のために一生懸命働いて、からだなる教会全体を見ないのです。ところが主のご目的は、個人個人の回心、成長と成熟だけばかりでなく、ご自分のからだなる教会が御心なんです。 イエス様は、十字架に架かった時、個人個人の救いのためばかりでなく、ご自分のからだなる教会のためでした。五旬節の日からイエス様の再臨まで、何人かの救われた男や女は、問題ばかりではなく、主の御心なのは、ご自分のからだである教会です。 もし、私たちがこれを認めなければ、自分の霊的な生活と経験を自ら制限することを意味します。 多くの信者は、個人個人の救いのために力を尽くして働いています。そしてこの人、またはあの人が救われたら、彼らはすぐに他の人を探し、彼らを救おう、すなわちイエス様の方へ導こうと努めています。 もちろん、これは悪いことではない、大切ですけど、もしこれが全部であったら、致命的な妨げを意味しています。 したがって、多くのクリスチャンは、自分の救いの確信を得、主なる神との平和を得てから前進しなくなっています。 彼らは、初めの簡単な救いの事実だけを自分のものとし、他の霊的な事実を認めることができません。彼らは、無力になったからです。 パウロは、このことをコリントの信者たちに、言わなければなりませんでした。 コリント人への手紙第I、3:1-3
ヘブル人への手紙5:12-14
パウロの時代でさえも、この致命的な妨げがあったんです。 パウロは啓示によって、上からの力に照らされて、からだなる教会の秘密を知るようになりました。けど、この時代の多くの信者は、主なる神の最高の御心を知らなかったのです。 残念ながら、今日の時代の信者たちは無力になりましたから、教会の秘密を認めることができません。 個人主義は、主の御心に対する致命的な妨げです。私たちは今から、からだなる教会全体を見るべきです。なぜなら、教会全体だけが、主の最高の権威と栄光を現すことができるからです。 主の御心に対する他の致命的な妨げとは、有力な系統、おもに教会の組織なのです。教会とは、今話したように、百万の教派、交わりの分かれているキリストではありません。 イエス様はいくつにも分けられたのかとパウロは書いたのです。いえ、絶対にそうではない。したがって、今日の有力な教会の系統は、主なる神の御心に対する、致命的な妨げを意味しているのです。 今日の有力な教会の系統というのは、集まりまたは集会所、教派や宗派を意味しています。そして信者たちは、関係のある教会で説教を聴き、話が終わった時、すぐに家や仕事の方へ急いで帰ります。 けれどもこれは、イエス様との共同的な現しではないのです。私たちは、イエス様の代表あるいは、イエス様の代理であるべきです。 教派や宗派と主イエス様のからだという区別は、言い表すことのできないほど大きいのです。私たちは、イエス様のからだであり、そして、からだの使命とは、頭の偉大さ、かしらなるイエス様の満たしを現すことなのです。 そうしなければ、私たちは、霊的に前進しません。ただ教会に行き集会に出席することで充分じゃないんです。 イエス様は、私たち全体を通して、ご自分を現すことができるかが問題です。今日の教会の状態は、ひどい霊的な未成年です。 これは、主の御心に対する致命的な妨げとなっているのではないでしょうか。 伝道会の必要性は誰でも解かっている。けど伝道会だけがあれば、信者たちは少しも前進しないのです。ですから私たちは、初めから、聖書の学び、又礼拝を始めたのです。新しく生まれ変わった人は、霊的に成長しなければなりません。 そうしなければ、イエス様のからだとして、主の満たしを現すことができないのです。 伝道会は大切ですけれども、問題なのは、信者たちの共同的な働きと愛情によって、からだの頭なるイエス様の満たしを現すことが問題です。 私たちの礼拝や聖書の学び会とは、私たちの興味があるばかりでなく、主の御心です。 なぜならエペソ人への手紙3章10節〜11節まで次のように書かれています。教会の使命についてでしょうね。 エペソ人への手紙3:10-11
教会を通して、かしらなるイエス様は、兄弟姉妹を通して働こうと望んでおられます。 私たちは、花束と鉢植えの花の区別が解かります。と言いますと、花束の各々の花は、同じいのちを持っています。花束は、集まった花だけですが、鉢植えの花は、植物と根を持っていますから成長します。なぜなら、鉢植えの花は、有機体であるからです。 同じように、集まったクリスチャンたちは、同じいのち、すなわち永遠のいのちを持っていますけど、もし彼らが一つの教派として、組織的に集まると、また個人的な祝福を得ようと努めている信者は、主なる神の御心を満たすことができません。 私たちの場合はどうでしょうか。花束に似ているのではないでしょうか。私たちは、信仰によって義とされた人達であり、主なる神との平和を持っていますけど、霊的な生活は、あまりにも前進しないのではないでしょうか。 主の御心は、花束ではなく、鉢植えの花と植物と根、全部が御心なんです。すなわち、個人的に生活しているキリスト者、またばらばらになってしまった信者は、悪魔の仕事です。 もし私たちが共同的に、イエス様に奉仕したいならば、またイエス様のからだなる教会のために祈り、忍び、戦うならば、確かに悪魔の攻撃と恨みに気がつくでしょう。 イエス様のからだなる教会の目的と働きとは、いったいどういうものなのでしょうか。霊なる神の住まい、主イエス様のからだなる教会の目的と働きは、何でしょうか。 旧約聖書の時代の宮は、新約聖書の時代で霊的な事実となりました。また、からだなる教会全体の霊的な事実は、各集会にもあてはまるべきです。 新約聖書を読むと、教会全体と各集会は、関係していることが解かります。したがって、パウロは、コリントにある地域集会の信者たちに、「あなたがたは、神の宮である」と書いたのです。 からだなる教会とイエス様の区別があってはいけません。主なる神の教会は、イエス様ご自身です。もし、主の御心にかなった教会に行くと、あそこでイエス様に会い、ここに神がいると言わざるをえないのです。 もし、私たちが人間的に、良い説教を聴き、親切な人だけに会えば、これは神のからだなる教会ではない。主なる神のからだなる教会は、イエス様であり、そしてイエス様は、諸々の集会のかしらです。支配者です。 そうしたら初めて、イエス様は支配することができる時、初めて私たちは、主の声を聴き、未信者は、顔を伏せ、主を拝み、まことに主ご自身が、あなたがたの内にいますと認めざるを得なくなるのですと、みことばに書かれています。 ご存知の通りに、イエス様のご臨在によってだけ、人間は、主なる神に会うことができるのです。 私たちは、イエス様から離れて、決して他の人を主イエス様の御許に導くことができませんけど、私たちの内にいますイエス様こそが、人たちに会うことができ、主との交わりを与えることができます。 もしイエス様ではなく、私たち自分の力で人を導こうと努力すると、私たちは永遠にかかっても決して人は主に会いません。もし、私たちが聖霊の支配のもとに、共同的にイエス様を現すと、人々は私たちによって、主ご自身に会うことができるのです。 ちょっとエゼキエルの宮を見て観察したいと思います。 宮の建物は、主なる神の御心に従って、完全にできた時、水が宮の敷居の下から流れたとあります。そしてこの川の流れる所では、すべてのものが生きていると書いてあります。同じように、主なる神のからだなる教会は、生きている水が流れます。 イエス様のからだなる教会は、天の器であり、この器から主のいのちが流れてきます。そして、この川の流れる所では、すべてのものが、生きていると。ですから、いつの時代でも、悪魔は、この教会の共同的な働きを壊そうと努めていました。 主なる教会の不一致は、悪魔の大きな喜びです。今日の百万の教派や宗派は、悪魔の仕事です。 血がちょっとだけ止まるとからだ全部がそれをすぐ感じるでしょう。一人の信者の信仰生活が、制限されたら、教会全部がそれを感じるでしょう。 二人の信者だけでも、統一を持っていなかったら、教会全部が前進しません。 旧約聖書の中で、アカンという男について書いてあります。この一人の男であるアカンの罪によって、イスラエルの民全部が、前進しなくなってしまいました。 新約聖書の中で、アナニヤとサッピラについて同じことだったのです。この二人の罪によって、初代教会は妨げられました。 からだの肢体の一つだけでも病気だったら、からだ全部が病気なんです。からだなる教会、すなわち信者たち皆が一つになったら、初めてイエス様のいのちが、絶え間なく無尽蔵に流れます。そうしたら、初めて教会は、イエス様の満たしを現すことができるのです。 主の御心の具体化と表現について、ちょっと考えたいと思います。旧約聖書の時代の宮は、主の御心の具体化と表現でした。なぜなら、神は、材料や材木の長さ、太さなどをはっきりと命じられました。 ですから、各々の石、各々の柱は、主の御心の具体化と表現だったのです。 同じように、からだなる教会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。 ペテロの手紙第I、2:9
霊なる神の住まいである教会は、主の御業を語り伝えなければならないのです。主の力ある業を伝えることは、からだなる教会の目的であり、また使命です。旧約時代の宮は、主の御業を伝えました。 私たちも、からだなる教会として、主の御心の具体化と表現であるべきです。私たちの場合はどうでしょうか。私たちは、主の御心の具体化と表現なのでしょうか。 あらゆる集会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。あらゆる集会は、主の御業を伝えなければならないのです。けれども、言葉によってだけではなく、共同的な生活によって、述べ伝えなければならないのであります。 メッセージばかりでなく、開かれた天国、聖霊の支配のもとにある、現された教会の秘密が問題なのです。けれども、そのために生き生きとした教会が必要です。 もし信者が霊的に疲れていて、興味もなく、半死半生の者として集会に行くと、主は制限されます。主は、備えられた祝福を与えることができません。 私たちは、御霊によって、集会に出席しましょう。そしたら、初めて私たちは、主の御心の具体化と表現があるのです。 私たちは、この時代に対する主の御心を解かったのでしょうか。そうしなければ、私たちの祈りは、結果のない祈りです。 私たちの使命と目的は、主の御心の具体化と表現であるべきです。結局、主の支配こそが大切です。 旧約時代の宮は、主の支配の場所でした。もし、イスラエルの民に何か起こった場合、そのための裁判する場所は、宮でした。同じように新約時代の裁判する場所は、教会です。 ペテロの手紙第I、4章17節に「さばきが神の家から始まる時が来た」とあります。よく知られている箇所、もう一回読みます。 マタイの福音書18:15-17
教会に申し出なさいとあります。なぜなら教会は裁判する場所であるから。教会は、主の支配と権威の場所ですから、共同的に主を現している教会は、主の目の前に、とても価値あるものだということを知るべきです。 だから私たちは、この世で主の代表となるように、いのちのため、光のため、力のために、これは絶対に必要であるからです。 私たちは、主の御心にかなった教会に属しなければいけない。私たちは、主が教会の真ん中におられなければいけません。私たちの後ろでこのような教会はどうしても必要です。 この教会は、人間が組織的に作ったものではなく、御霊から創られた霊なる神の住まいです。この両方は、言い表すことのできないほど、大きな違いなのです。 もし、私たちが主の具体化と表現の使命を満たしたいと思うと、私たちは、主の心にかなった教会であるべきです。このことについて、真剣に考えるべきなのではないでしょうか。 祈りによって、ただ祈りによってだけ、私たちは、主の代表、主の代理となることができます。主の永遠からの定められた目的が実際になることができ、現実になることができるのです。 |