引用聖句:ペテロの手紙第I、2章4節-5節
イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」、これを本当の意味で信じれば、たとえば兄弟姉妹に対する批判ですか、悪口は言えなくなる。兄弟姉妹に対する批判とは、イエス様に対する批判です。全く同じです。 そうするとやっぱり、大変な問題じゃないですか。我々の戦いは、血肉、人間に対する戦いじゃない。悪魔に対する戦いです。 そして、前に何回も言いましたように、私の一つの悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会は何を意味しているか、全く解かっていない人もいる。集会に来ても。 イエス様は、「わたしは建てる」、人間はどうせダメなんですから。「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。 だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜攻撃し、盲目にしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えるんです。 けれどもそれは偽物です。 前によくこの集会に来たある兄弟は、我々について何と言っているかと言いますと、カルトでしょうと言っています。泣くべきか、笑うべきか、ちょっと解からないけど。 もちろん全部悪魔の業です。私たちは、そういう人々のために、本当に心から祈るべきです。 「あなたがたを呪う者を祝福しなさい」とあるとおり。結局、悪魔です。 「あなたがたは、キリストのからだであって、一人ひとりは、各器官なのである」とパウロは、めちゃくちゃな教会、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 上からの光に照らされて、すなわち上からの啓示によって、この真理を知るようになれば、やっぱり見方が変わります。 今日のテーマは、前に続いて、いつも同じテーマなんですけど、「聖なる神の宮である教会」について考えたい。 けれども、これは最近準備したメッセージじゃないんです。いつ準備したかと言いますと、55年前です。準備したけれども、その時は、使わなかったんです。今日と全く同じです。聖なる神の宮である教会こそが、イエス様にとってすべてのすべてです。 この教会はイエス様のからだ、神の霊的な宮は、いろいろな面を持っています。 そして私たちは今まで、4つの違った面をちょっと観察してまいりました。 一番大切な面とは、昇天された、高く引き上げられたイエス様。 2番目の面は、父なる神に、教会により、またイエス様によって、栄光が世々かぎりなくあるようにということ。 3番目の面とは、世界の選ばれた者の解放、結局、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕なのです。私たちは、とりなし人になりましょう。 4番目の面とは、教会は、どこにおいても、主の代理であるべきです。 そして私たちは今日、この4つの違った面を持って、1つの質問を設けたいと思います。すなわち、主なる神の霊的な家の支配している掟は、いったい何かという点について、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。 主なる神の家が支配している掟は、いのちと霊性なのです。 今、読んでもらいました箇所をもう一回読みましょうか。 ペテロの手紙第I、2:4-5
霊性とはいったい何でしょうか。霊性とは、聖霊の支配を意味しています。聖霊の支配は、私たちが聖霊の標準や聖霊の方法と一致すること、一つになることを意味しています。 私たちは聖霊の支配のもとにいると、生まれつきの裁きと決定、生まれつきの教養などは使わないで、聖霊と一つになることは、聖霊の判断、聖霊の効用、聖霊の標準を持っているわけです。 もし、私たちが本当の意味で救われているならば、私たちは神の家なのです。この神の家の掟は、いのちと霊性です。これを考えながら、もう一度、前に学んだ4つの面と特徴を観察してみましょう。 第1番目、昇天された、高く引き上げられたイエス様です。 父なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜ったと聖書は言っています。父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かれせのです。イエス様は、実に最高の権威と栄光を持っていらっしゃいます。 そして、イエス様のからだなる教会は、偉大なる使命を持っています。すなわち、このイエス様の最高の権威と栄光を現すことです。 もし私たちは、神の家であるならば、私たちはこの使命を持っています。けど、イエス様の高く引き上げられたことは、ただの真理、単なる教理ではありません。 父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かせたというのは、単なる使徒信条ではないのです。天において現実となった、イエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。 イエス様が十字架に架かった時、聖霊がそこにおり、イエス様がよみがえられた時、そこに聖霊がおり、また父なる神の右の座に着かれた時も聖霊がいました。 だから聖霊の働きによってだけ、天において現実となったイエス様の支配は、我々の実際の生活においても現実となることができるのです。 五旬節の日に聖霊が下り、聖霊の証しによって天において現実となったイエス様の支配は、弟子たちの生活において現実となりました。 弟子たちの生活と奉仕によって現れた、高く引き上げられたイエス様のいのちと力は、この霊的は現実の証明でした。 同じように私たちの内に、何か起こらなければならない。私たちは、イエス様との高く引き上げられたことや、イエス様の支配や権威と等しくならなければならない。私たちの内に現実とならなければなりません。 初代教会のあらゆることの始まりは、高められたイエス様でした。したがって初代教会は、イエス様の栄光を現して、周りの人々に、悪人にさえも非常に深い印象を与えたのです。 けれども、単なる教えや教理ではなく、この霊的な事実が、人々に強い影響を及ぼしたのです。神の家の支配している掟は、単なる教えや教理だけではなく、いのちと霊性なのです。 エペソ人への手紙6:12
すなわち目に見えるもの、人間、 エペソ人への手紙6:12
この悪魔の憎しみを感じられない信者は、おそらく救われていないのではないでしょうか。少なくても、イエス様だけを大切にしない証拠なのではないでしょうか。 我々の戦いは悪の霊に対する戦いですと、パウロはエペソにいる兄弟姉妹を励ますために書いたのではないかと思います。 我々の戦いは、人間に対するものではない。もろもろの支配と権威と闇の世の主権者に対する戦いです。悪の霊、また悪魔の力を滅ぼすことが、滅ぼされることが問題です。 パロたち、また他の独裁者たち、また両親や親戚、あるいは友達の問題のみならず、問題なのは、悪魔の霊の力、悪魔の力なんです。私たちの戦いは、結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。 今日の世界の国々の出来事を見ても解かる。すなわち、悪魔は何と大きな力を持っていると認めざるをえません。 人間の後ろに、環境の後ろに悪魔の力が働いています。イエス様の高く引き上げられることは、初めにこの悪の霊に影響を及ぼさなければなりません。これこそが霊性なのです。 からだなる教会の戦いは、悪魔に対する戦いです。そして教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。 もし、私たちがこの悪の霊に対する戦いのために肉のものを使ったら、災いです。 パウロはコリント人への手紙第II、10章4節に、当時の兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、10:4
と言っています。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。我々の戦いの武器は、どうしても霊的なものでなければなりません。パウロは、コリントに住んでいる兄弟姉妹に、この警告をしたのです。 この兄弟姉妹は、この世の知恵、この世の力を求めたのです。コリントの信者は、この世に影響を及ぼすために、この世の知恵や力を欲しかったんです。 この人々は、肉に属している者でした。なぜなら、彼らは、この世に対する印象を与えるために、戦いの武器として、肉のものを使おうとしたからです。 だからパウロは力を入れて、このコリントの兄弟姉妹に、この世の知恵と力の愚かさについて書いたのです。この世に打ち勝つために、この世の知恵と力に勝る知恵、勝る力が絶対に必要であると書いたのです。 肉に属している者に打ち勝つために、戦いの武器として、肉のものに勝る武器が必要だからです。 「我々の戦いの武器は、肉の物ではなく、神のために、要塞をも破壊するほどの力あるものです。」とパウロは書いたのです。 他のことばを使うと、我々の戦いの武器は、肉の物ではなく、霊のものである。 我々の戦いは、この世の知恵や力に対する戦いではなく、また血肉に対するものではなく、もろもろの支配と権威と闇の世の主権者、また天にいる悪の霊に対する戦いであるとパウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。 だから、我々の戦いの武器は、どうしても徹頭徹尾、霊のものであるべきです。すなわち私たちは、この悪の霊また悪魔の軍勢に対する優越を持っているべきという事実が明らかになります。 我々の優越とは、いったい何でしょうか。私たちのこの世に勝る力とは何でしょうか。というのは、イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられたことなのです。これこそが、我々の唯一です。 これは霊のものです。神の家は、霊的な家です。この神の宮である教会の霊的な目的は、悪の霊に、イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられたことを明らかにすることです。 もし、私たちがこの悪の霊に対して、霊的な方法を使わなければ、必ず失敗します。 我々の戦いは、直接にあるものに対する戦いではなく、このものの後ろに隠れている、この目で見ることのできない、悪の霊に対する戦いです。 これは本当に覚えるべき事実です。我々の戦いは、世界的帝国の後ろに働いている、悪の霊の力に対する戦いです。私たちは、この悪の霊を妨げることができるのです。 イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げらるたことは、悪の霊を我々を通して投獄しなければなりません。これこそが、からだなる教会の霊的な目的です。 この世の主権者の後ろに、悪の霊や悪魔の軍勢が働いていますけど、私たちの主イエス様はすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられました。 そして私たちは、祈りや証しや霊的ないのちによって、この隠れた悪の霊の力に、イエス様の優越を示さなければいけません。 これは、言葉の問題、あるいは教えや教理の問題ではなく、いのちの問題です。 実に神の家の支配している掟は、いのちと霊性なのです。主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜った。これは動くことのできない事実です。 父なる神が、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かせたのです。これも動くことのできない事実です。 けど天において、現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても現実とならなければなりません。そうしたら、初めてこの悪の霊に対して、私たちによって、イエス様の最高の権威と栄光を現すことができるのです。 主の平安とイエス様にある満足に対する確信とは、霊なる神の住まいの第2番目の面なのではないでしょうか。 霊なる神の住まいの目的は、エペソ人への手紙1章12節にあるように、神の栄光を褒め称えるようになるためである。 すなわち私たちが、主のいこいの場所、安息の場所、神の愛された者、神の心にかなう者でなければいけません。 初代教会のあらゆることの始まりは、高められたイエス様でした。彼らは、この事実を確信し、大喜びで証しました。したがって、高められた主のご栄光をそんなに現したから、悪霊にさえ、非常に深い印象を与えたのです。 主なる神が、イエス様によって絶対的に満足されました。主イエス様は、神の安息なのです。同じように、私たちも霊の家として、主なる神のご満足のために生きなければならないのではないでしょうか。 主は、いのちと霊性によってだけ満足されるのです。 我々の際立った特徴は、いったい何でしょうか。いのちの霊性でしょうか。そうしたら初めて、父なる神に、教会によって、栄光が世々限りなくあるようにとなります。 主の栄光が問題なんです。聖書を読むと、この事実が解かるはずです。たとえば、ラザロのよみがえりもそうでした。ヨハネの福音書11章4節に「この病気は死ぬほどのものではない。それは、神の栄光のためのものなのである」とあります。 けど、疑問と不信仰によって、イエス様が長い間妨げられました。最後にイエス様は、大声で叫んだんですね。「ラザロよ。出てきなさい」と呼ばわりました。すると死人は、手足を布で巻かれ、顔も顔おおいで包まれたまま出てきたとあります。 これは、霊的は戦いでした。イエス様の内にあったいのちは、死より勝る力でした。これは神の栄光のためでした。主は、いつも死より強い力によって、栄光をお受けになるのです。 聖書は、アブラハムの召されたことについて、次のように言っています。使徒の働き7章2節。一文章だけです。大切な文章です。「栄光の神が彼に現われた」 もし、私たちがこの召されたことについて考えると、次のことが解かるはずです。すなわち、神は、アブラハムに「わたしは、あなたを召した。しかし、あなたの満足のためではない。わたしの栄光と満足のためである。」と主は言われました。 そして、アブラハムの生活に対する、主の取り扱いはいつも、死とよみがえりによって栄光が世々限りなくあるようにとなったんです。 アブラハムは、主の導きによって、自分の関係、望みと希望、財産と目に見えること全部を捨てなければならなかったんです。 これは死でした。しかし、その後に主は、新しい啓示を与えられ、新しい契約を結ばれたのです。アブラハムの生涯の終わりに、主は言われました。 創世記22:2
これは何を意味しているのでしょう。 もしアブラハムが主に従えば、主から与えられた約束と望みを捨てることではないか、もしイサクが死んだら、神の忠実、主の約束と契約などは、全部ダメになってしまいませんか。 ヘブル人への手紙11:19
アブラハムは、堅い確信を持っていたのです。そして、アブラハムはイサクの出来事によって、よみがえりを経験しました。よみがえりによって、主はいつも栄光をお受けになります。 しかし死なしに、よみがえりはあり得ないことです。だから、アブラハムは何回も何回も死、苦しみ、困難を経験しなければならなかったのです。 いかにして主なる神は、栄光をお受けになるでしょう。いかにして主なる神は、満足されるのでしょう。よみがえりのいのちを現す兄弟姉妹によってだけ、主は栄光をお受けになるのです。 しかし、死なしによみがえりは馬鹿げたことです。だから、死の様と等しくなることによってのみ、これは可能です。すなわち、十字架につけられている者によってのみ、主は栄光をお受けになります。 イエス様の場合も同じでした。イエス様の死とよみがえりによって、父なる神が満足されました。栄光をお受けになりました。 イエス様は、死に完全に打ち勝ったことの証明は、高く引き上げられたことです。イエス様のからだなる教会の歴史を見ても、連続的な死とよみがえりだけだったんです。そして、各々のよみがえりによって、主なる神に栄光が世々限りなくありましたことは明らかです。 どうでしょうかね。私たちは一度、主なる神の御前に、自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などは全部ダメだということをはっきりと知りましたでしょうか。 そして本当は、暗闇に入って苦しんだのでしょうか。けれどもそれは、もちろん終わりではない。よみがえりが付いてきました。主が新しい啓示を与えたのです。 こういうふうに、主なる神は、栄光をお受けになりました。神の家の支配する掟は、前に言いましたように、いのちと霊性なのです。 けれども死なしに、十字架なしに、いのちと霊性はありえないことです。いのちすなわち、よみがえりと霊性によって、主なる神は栄光をお受けになるのです。これは、我々の生活の目的であるべきではないでしょうか。 私たちは、よみがえりのいのちと霊性を自分のものとすることが出来るために、何回も何回も死を経験しなければいけません。 けれども、死は決して終わりではなく、終わりはよみがえりと主のご栄光なんです。 最後の敵である死とは、教会の内に、また教会によって、イエス様のからだによって、滅ぼされると聖書は、はっきり言っているのです。しかし、教会の内に、また教会によって、滅ぼされるでしょう。 なぜなら、イエス様はすでに死に対する勝利を得たからです。 そして、この勝利を得た主は、今日ご自分の教会の内に住んでいらっしゃいますから、勝利を得たかしらなるイエス様は、ご自分のからだなる教会によって、すなわち、教会によって、最後の敵を滅ぼすということは、聖書にはっきりと記されています。 こういうふうに父なる神に、教会により、また主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるようにとなります。 私たちは神の家なのである。この霊なる家の目的は、神の栄光をほめたたえるためです。 私たちは、霊なる家として、主のご満足のために、生きなければなりません。 さて、私たちは、霊的な死を経験すると確信しながら、これは終わりではない、これこそが主の栄光のためであると考えるべきです。これは決して簡単なことではない。けれども、こういうふうに父なる神は、栄光をお受けになります。 もう一度、いかにして、主なる神は、栄光をお受けになるのでしょうか。よみがえりのいのちを現す兄弟姉妹によってだけ、これは可能です。よみがえりなしに、霊性はありえないことです。だから絶対に必要なことは、死なんです。 十字架につけられている者によってのみ、主は満足され、栄光をお受けになります。 聖なる神の宮である、からだなる教会の第3の面は、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕なのです。 悪魔は、ただ一つの目的を持っています。霊なる神の住まいにいる、イエス様のいのちを滅ぼそうという目的を持っています。この悪魔の攻撃によって、何と多くの信者は、霊的な暗闇に落ちたでしょう。よみがえりのいのちと霊性は、悪魔の攻撃の目標です。 一つの厳しい質問があるのです。私たちは、この恐るべき戦いの内に、世界の選ばれた者の解放のために、努めているのでしょうか。私たち一人ひとりが、すべての聖徒たちに対する奉仕をするのでしょうか。 からだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕なんです。 私たち皆が、この真理を信じるでしょう。けど、これは問題ではなく、大切なのは、この事実が我々の内に現実となっているかどうかが問題です。 私たちは、すべての聖徒のために祈らなくてはいけません。とりなし人になるためではなく、私たちは、とりなし人だから祈らなければなりません。なぜなら、私たちは主のものとなった者として、霊なる神の家に属していますから。 私たちは、主イエス様のからだの一つの肢体なのです。私たちは、とりなしの奉仕が好きかどうかは問題ではなく、霊なる神の住まいの際立った特徴は、とりなしの奉仕です。神の子の性質は、としなしの奉仕によって、現れます。 とりなしの奉仕は、自発的なはずです。多くの人々は、次のように言うのです。「私たちは、主のからだのイエス様のからだの肢体です。そして、イエス様のからだの使命は、とりなしの奉仕です。だから、私たちは、賛成します。」 私たちは、この真理を信じ、宣べ伝えますけど、この教会に対する真理と信じる者は、分けることができないのです。 大祭司であるイエス様に属している肢体は、皆とりなし人だから祈ります。もし、祈らなければ、何かが、根本的に間違っています。 どうでしょうかね。私たちの生活の目的は、何でしょうか。世界の選ばれた者の解放とすべての聖徒たちに対する奉仕なのでしょうか。私たちは、これを好きかどうかは問題ではなく、霊なる神の住まいは、そのために存在しているからです。 我々の生活の目的は、いったい何でしょう。すべての主にある者たちの解放、またすべての聖徒たちの祈り、いのちに対する奉仕なのでしょうか。 私たちは、集会に来て他の信者に会うと、私たちの臨在はすべての聖徒たちのいのちに対する奉仕なのでしょうか、それとも、選ばれた者は、我々によって責められているのでしょうか。 私たちは、兄弟姉妹の交わりの大切さを解かったでしょう。私たちは、お客様として来、また私たちは中途半端な立場をとることができません。 私たちは、集会に来ると、すべての聖徒たちに奉仕している者として、あるいは邪魔する者として来るのではないでしょうか。 集会に出席したくない兄弟姉妹は、すべての聖徒たちに対する邪魔者です。聖徒たちとの交わりを欲しくない兄弟姉妹は、憐れむべき存在です。 これを考えると、兄弟姉妹に対する無関心は、恥ずかしくないでしょうか。 真理や教えや教理は問題ではなく、これはいのちと霊性の問題です。 主なる神の家が支配している掟は、いのちと霊性なんです。そして、「あなたがたは神の家である。」とパウロは書いたのです。これは、聖霊の言われていることです。 「あなたがたは神の家なのです」、私たちの存在は、他の聖徒たちのために、いのちを意味しているのでしょうか。 私たちは、主から備えられた器として、すべての聖徒たちのいのちを理解する奉仕なのでしょうか。 よみがえりのいのちと霊性によってのみ、わたしたちは、すべての選ばれた者の解放と、すべての聖徒の生活に対する奉仕のために、役に立つことができるのです。 主のからだなる教会は、イエス様の代理、代表であるべきです。教会とは、イエス様ご自身です。しかしイエス様だけではなく、我々の内に住んでいるイエス様です。どこの場所でも信じる者は、イエス様を共同的に現すべきです。 教会全体が、主イエス様を現さなければならないのではないでしょうか。 どこにおいても、教会はイエス様の代理、叙述であるべきなのです。教会は、一つのからだですから、少なくても二人の信者が必要なんです。 教会は共同的なものですから、教会の目的は、イエス様を共同的に現すことです。これは決して組織的な形式的なものではない。なぜなら教会は、霊的なものだからです。 教会は、聖霊の支配のもとにいるのです。教会の指導者は、決して人間ではなく、聖霊なのです。 教会は、ひたすらな祈りによって、聖霊の導きを求めなければなりません。教会は、全部を聖霊の導きに委ねることによって、霊的になったのです。だから教会の事業は、徹頭徹尾、霊的なのです。 教会と形式的な事業とは正反対です。もし教会の内に問題が起こると、どういうふうに解決したらいいのでしょうか。 誰かが提案をして、そして霊的な人がすぐ解かるはずです。すなわち、これは死を意味します。もし、私たちがこの提案に従うと恐るべき結果になるに違いない。 私たちは、この提案に従う自由を持っていません。霊的な人の内に支配している聖霊が、「これは、わたしの道じゃない」この提案に従うと、敗北に終わるのです。 これは、主の道じゃないと聖霊が言われるのです。それとも「はい。これは主の道です」と言うのです。これは教会の生活の根本です。 こういうふうに、教会はどこにおいても、イエス様を現しています。 主の御心の表現なのです。実に、神の家の支配している掟は、いのちと霊性なのです。このいのちは、共同的な生活です。共同的な生活は、霊的であり、本当のいのちです。 私たちとイエス様との交わりは、いのちの交わりです。 もう一回、ペテロの手紙第I、2章5節を読みます。 ペテロの手紙第I、2:5
イエス様のものになった兄弟姉妹は、イエス様と同じいのちを持っています。イエス様は、尊い生ける石であり、私たちもそれぞれ、生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。 この関係は、霊的な関係です。同じいのちによって、共同的な表現があるのです。 この共同的な表現の根本は、いのちなんです。 いろいろな組合や社会やクラブがあるのです。そして私たちは、組合やクラブの目的に賛成して、一つの会員になることができるのですけど、会員になることによって、同じいのちをもらうわけではないということは明らかです。 しかし、からだなる教会の場合、そうなんです。イエス様に属する人々は、皆同じく、永遠のいのちを持っており、そしてかしらであるイエス様との生き生きとした結びつきがあるのです。 この同じいのちによって結びついた兄弟姉妹は、どこにおいても、イエス様の代理であり、イエス様の表現なのであります。というのは、ただイエス様について、真理を宣べ伝えるのではなく、イエス様ご自身が、からだなる教会の中心に立ちたもうことは、偉大なる事実です。 「二人、三人、わが名によって集まるところには、我もその内にあるなり」とイエス様は約束されました。二人また三人の本当の信者が集まる所に、イエス様ご自身がそこにいるということは、実に偉大なる事実です。これは、単なる請求権ではないのです。 たとえば、教会がある所には、キリストがいると宣言する宗派がありますけど、これはもちろん大間違いです。なぜなら、生き生きとした意思、霊的な意思が必要ですから、すなわち、本当に聖霊とみことばによって、新しく生まれ変わった人々が必要です。 その人たちだけが、イエス様のからだである教会なんです。 そして、このような主に出会った人々が集まると、全然知らない人々が入る時、その人は、「実に神ご自身があなたがたの内にいる」と認めざるを得ないのです。 どうでしょうかね。もし未信者が我々の集会に参りますと、その人は、顔を伏せ主を拝み、まことに主なる神が、あながたの内にいると認めざるを得ないのでしょうか。初代教会の場合は、そうでした。ちょっと見てみましょうか。 コリント人への手紙第I、14章を見ると、次のように書かれています。 コリント人への手紙第I、14:24-25
これは、我々の願いではないでしょうか。もちろん人々が、顔を伏せるかどうか問題ではない。けれども、この人たちは、自分の持っていた先入観や疑いや不安や隠し事などを捨てるかどうかは問題です。 未信者は、まことに神があなたがたの内にいるという、強い印象を受けなければなりません。けど、もしイエス様が我々の生涯の支配を持っていなければ、これは不可能です。 主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜ったんです。 この動くことのできない事実は、からだなる教会の内に現実とならなければなりません。 自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などを捨てることなしに、イエス様は、我々の生活の支配を持つことができず、またからだなる教会は、どこにおいても、イエス様の代理となることができません。 静かにして、主の御前に出て、そして自分の生活は、イエス様の最後の権威を現し、また主の栄光を褒め称えるようになり、そして自分の生活は、すべての救われた者の解放とすべての兄弟姉妹に対する奉仕となるように、またイエス様を現すことができるように、祈るべきではないでしょうか。 |