みことばを慕います


ベック兄

(「集会広場」から転載)

子供のようにみことばに頼る者は幸せです。子供は素直で勇敢でむしろ大人よりも真実に近いのではないのでしょうか。
みことばは、「愛されている人よ。」と語りかけます。この問いかけは、私達すべてにあてはまります。自分の名前をそこに入れても良いでしょう。主によって愛されていない人はいない。
心配され愛されていると見方が変わり希望が湧いてきます。安心して、勇気をもって生涯に向かうことができるのです。

昨日ある所で、ある悩んでいる夫人が次のように語られました。「わたしは孤独です。わたしは満ち足りていません。」、何回も何回も言われました。
そのとき、バッハのあるカンタータの題を思い出したのです。「わたしは、満ち足りています。」という題です。この夫人の語ったことと正反対です。彼女のために、バッハのカンタータの言葉を紹介しました。

わたしは、満ち足りている。
わたしは、きょうにも喜んでこの世を去ろう。
わたしは、満ち足りている。
たとえこの世と別れるときが今であっても、
わたしは喜んでいよう。
わたしは満ち足りていると。
別れを告げよう、この世に。
わたしは、喜んで、主を待ち望む。
ああ、いまにもその時がきますように。

このカンタータを聞くと喜びが伝わります。もうみんないやになったから死にたいという気持ちではなくて、行く先が決まった、死ぬとイエス様といっしょになるから、うれしくて仕方がない。このような希望を持つことが、大切ではないでしょうか。
人間的にある人々は、たしかに喜びを持って満ち足りていると言えるかもしれません。しかし多くの人は、孤独です。そして満ち足りていませんと言わざるを得ない。
別のある夫人は、次のように語らえました、「わたしは何をやってもむなしい。」、結局、自分の罪の問題をどのように解決したら良いかわからない。人間は結局、イエス様に出会わなければ、気の毒で、可哀想なものです。パウロは、彼の殉教の死の前にテモテへの手紙第IIで次のように告白したのです。

テモテへの手紙第II、4:6-8
6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

パウロは殺される前に、もうちょっとで天国です、いつまでもイエス様と一緒になれると確信したのです。これは経験でもないし、勉強の結果でもありません。どうして確信を持てるかというと、約束を与えるお方はうそつきではなく、詐欺師ではないからです。
パウロは確信を持っていました。パウロは、わたしは憐れみを受けたと確信し、またイエス様はわたしをも愛してくださったと確信しただけでなく、もうちょっとで、イエス様と一緒になれると確信しました。パウロの確信とは、みことばだけでした。

パウロはいつも、「聖書は、こう言っています。」「聖書はなんと言っていますか。」と、このことを何度も何度も語ったのです。パウロの言いたかったこととは、「わたしが、今まで勉強したことは、別にどうでも良いです。いまのわたしの考えてることもぜんぜん大切ではない。そうではなくて、聖書はなんと言っているかと言うこと。すなわちみことばだけが大切です。」と言い換えられるのではないでしょうか。
パウロは、このことを言い続けました。

ローマ人への手紙10:11
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

生ける唯一のまことの神に信頼する者は、失望させられることがない。ここには、「その教えに頼る者」とは書いていません。大切なのは、ひとつの教えに頼るのではなく、十字架にかかられたイエス様に頼ることです。
イエス様は真理そのものです。イエス様は、神の言葉と呼ばれています。ヨハネの黙示録の中でも、再臨されるイエス様が、神の言葉と呼ばれています。ヨハネの福音書1章の1節でも、

ヨハネの福音書1:1
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この「ことば」とは、ひとりの人格者です。結局、ことばは神ご自身であります。このことばとは、イエス様を指しています。イエス様は、神そのものであった。さらに、14節

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

人間は決して神にはなれません。けれども、神が人となって、私達の間に住まわれた。イエス様に出会った人達は、恵みに出会ったのであり、まことの真理そのものに出会ったのです。イエス様は、死にわたされそれから復活なさったお方です。

ローマ人への手紙4:25
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

イエス様は、私達の受けるべき罰を受け、死にわたされてしまいました。ごみのように捨てられました。イエス様が罰せられたから、生きておられる唯一の神は、罰するお方ではなくなったのです。確かに旧約聖書の中で、罪を犯した魂は死ぬべきであると、何回も書かれています。
神さまは人間の罪を赦せない。でも、イエス様がかわりに罰せられたから、もう心配ない。罪は一回だけ罰せられたら、それで十分です。

ローマ人への手紙5:1
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

わたしたちは、義と認められ受け入れられた者です。受け入れられた者は、永久に救われています。誰も、彼らをわたしの手から奪いさる者はないとイエス様は約束してくださったのです。

みことばだけに頼ることが、確信のもとです。イエス様は、あるとき祈りの中で、自分の心を明らかにして言われました。「あなたのみことばは真理です。」
聖書全体が、イエス様にとって真理そのものでした。イエス様が信じたから、私たちも安心してみことばを信じることができる。理解できないかもしれない。ぴんとこない個所があるかもしれない。それは、でも全く違う話しです。わかってもわからなくても関係ない。わからなくても良いと、わかれば正解かもしれません。

イエス様は、天国にはいる人々は、幼子のような心を持つ人であると、何回も何回も言われました。あなたがた聖書学者たちは、幼子のようにならなければ救われませんと、はっきり言われました。
彼らは、頭を下げたくなかったから、「殺しましょうよ」と決めて、そしてその通りになりました。けれども、イエス様は、「ひどいじゃないか。」とは思われませんでした。十字架の上で、「父よ、彼らの罪をお赦しください。彼らは、ないをやってるのか、わからないのです。」と祈られました。

聖書を読むと、大人は、だいたい内容を理性でもってわからなければダメではないかと考えてしまいます。でもこの考え方はよくありません。なぜならなば、その時、たいせつになるのは、人間の理解力であり、人間の考えていることであるからです。
人間は大切であり、聖書そのものは勉強すべき教科書のようなものである。そういう考えは、根本的に間違っています。権威のあるのはみことばであり、人間の考えていることは大切ではありません。
ですから小さくなって、「主よ語ってください。しもべは聞いています。」、この態度をとることこそがたいせつです。そうでないと、いわゆる頭の知識は与えられるかもしれないけれど、命にはならない。力にもならない。

主イエス様は命のパンです。パンは、博物館の陳列棚に飾るために作るものではなく、食べるために作るものです。食べなければ役に立たないものになります。信ずる者の霊的な命は、この命のパンを食べる程度に従って成長していきます。
結局イエス様は、命のパンです。わたしは、研究の対象ではなく、食べるものであると語られました。わたし(命のパン)を食べると、必ず元気になるよとおっしゃいました。エレミヤは、次のように語りました。

エレミヤ書15:16
16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

変わらない喜びを欲しい者は、みことばに頼りなさいとしか言えません。みことばを通して見れば、希望を持つようになります。みことばを通して、あきらめる必要はないと、はっきりわかるようになります。みことばについてまた、イエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書5:39
39あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

それなのに、人々は、イエスのもとに来ようとはしません。考えられない悲劇でした。聖書学者で救われた人は多くいませんでした。例外もあった。ガマリエルもニコデモも聖書学者から導かれた。
イエス様は、聖書はわたしを紹介するためにだけ書かれた。ひとつの主義を信じこむことによって、人は救われ得ない。イエス様を知ることによって、命を得る。
モーセは、また次のように叫んだ。

申命記32:47
47これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

聖書は不思議なものです。聖書を通して、人間は元気になります。だからイエス様は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によると言われました。わたしの言葉は命であり、霊である。みことばは命を与えるものであり、生かす力を持っている。主のみことばによって、生きることこそが大切です。
ダビデはよく、みことばは私にとってすべてのすべてですと、語りました。どうしてでしょう。みことばなしには、ダメになる。うちのめされた気持ちになる。この目に見える現実のとりこになる。けどみことばに頼ると、喜びも希望も力も湧いてくる。

詩篇119には、ダビデのみことばにかかわる心がわかります。近いうちに、ぜひ読んでみてください。詩篇119は長いのでゆっくり読んだ方がいいかもしれませんね。そして、やっぱり、ダビデはみことばを通して生かされた者であったから、喜ぶことができたのです。
「主よ、語ってください、しもべは聞きます。」そういう心で聖書を読むと、元気になります。満腹させないものは役に立たない。みことばに頼ると、「わたしは、満ち足りている。」と言えるようになります。

ルカの福音書10:39-42
39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

どうしても、必要なことはわずかです、いや、ひとつだけです。わたしたちも、毎日、選ばなければならないのではないでしょうか。
必要なのは、いったいなんなのでしょうか。大切なのはいったい何なのでしょうか。主の要求されてることとは、いったい何なのでしょうか。
わたしたちは決断し、選ばなければならない。マリヤは、何を考えたかというと、「わたしは、イエス様を喜ばせたい。イエス様を喜ばせるために、どうしたら良いでしょうか。」、彼女はわかった。
彼女がわかったこと。イエス様は、人間一人一人を大切にするお方です。イエス様は、わたしのために来た。疲れちゃったから休むためではない。お腹がすいたからごちそうを食べるためでもない。イエス様は、わたしと交わりを持つために来た。
だから彼女は、今大切なことはごちそうを作ることよりも、イエス様の足元にすわることです。こうして結局、イエス様のまわりの人々とは、みな不安から、心配から解放されたのです。心配も不安も消えちゃいました。イエス様の近くにいると、どうしてかわからないが、幸せですと経験しました。

ダビデは、みことばについて次のように語りました。これは、またマリヤの告白にもつながります。

詩篇119:97
97どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。

マリヤは、イエス様の近くにいることが、イエス様のみことばを聞いていることが、幸せそのものであると知ったのです。主のあしもとにすわって、みことばを聞いていたマリヤは、元気になりました。彼女は必ず、私は満ち足りていると言えたのです。
彼女がどうしてイエス様のあしもとにすわったかというと、強制されたからではない。要求されたのでもない。そうすると元気になるばかりではなく、イエス様も喜んでくださるとはっきりわかったのです。マリヤは選びました。決断しました。お姉ちゃんのマルタに誤解されても、どうでもいい。

モーセについても、ヘブル人への手紙で次のように語られています。

ヘブル人への手紙11:24-26
24信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。

モーセもまた選んだ人でした。彼は、苦しむことを選びました。キリストの偉大さを知ったからです。マリヤも、また選びました。イエス様の偉大さがわかったからです。
結果として彼女は、イエス様のことを心から愛したのであります。ある時、彼女は、自分の今まで大切にしたナルドの油をイエス様に注ぎました。周りの人は彼女を非難しました。「もったい、ない。」
結局、あの香油はイエス様より大切だ。でも彼女は、もったいないとは思わなかったのです。イエス様のためだったら、決してもったいなくはないと彼女は思ったのであります。
人間的な思わくでは、彼女のしたことは確かにおかしいです。けれどもイエス様は、彼女のしたことを考えられないほど誉めたのです。

マルコの福音書14:8-9
8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

イエス様はこのような言葉をペテロについて言ったこともないし、ヤコブについて言ったこともないし、このマリヤについてしか言わなかった。

聞く耳を持つことは、考えられないほど大切です。最近はよく子供も使う言葉です。「うるさい。」、このような態度、このような言葉を使う者は孤独です。その結果、満ち足りていない状態になります。
結局聞きたくない。聞く耳を持たない。大切なのは、自分の気持ちです。マリヤはそういう愚かな者ではありませんでした。彼女は主の足元にすわって、「イエス様、話しください。しもべは聞いています。」
どうして?彼女は勉強したかったからではない。いろんな事を理解しようとしたかったらでもないでしょう。彼女が、どうして聞きたかったというと、従いたかったからです。語ってください、しもべは聞きます。イエス様の思いだけが重くなり、わたしの思いは大切ではなく、御心だけがなるように。この考え方は、マリヤの心を満たされたのです。

ヨハネの黙示録2:4
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

彼らが、はじめの愛を与えられたのは、だいたい35年くらい前だったんです。そのとき、パウロはエペソでイエス様を紹介したのです。いろいろな人が悔い改め、イエス様を信じ、受け入れたのです。当時のエペソの教会は模範的な教会であり、生きたあかしそのものでした。
けれども35年くらいあとに、あなたには非難すべきことがある。あなたは、はじめの愛から離れてしまったと、イエス様が言わざるを得なかったのです。はじめの愛とは、何でしょうか。はじめの愛とはイエス様との交わりです。

マリヤは、イエス様との交わりこそが、すべてのすべてであるとわかったから、主のみもとにすわって、みことばに耳を傾けました。もし、毎日毎日、みことばがわれわれの慰めの源、慰めの源、知恵の源になるならば、はじめの愛が保たれることになります。
エペソの兄弟姉妹たちの心は、もはやイエス様との交わりの中にはなかったのです。主の足元にすわることを、彼らは知らないうちに忘れてしまったのです。その結果は、主イエス様は、「もはや、あなたがたと共にいることはできない。あなたはたは、わたしとの交わりを忘れたから、あなたがたは用いられなくなった。あなたがたは、もはや光輝くあかしではない。」

エペソの教会は、だめになってしまいました。主は、悔い改めなさいと叫びつづけました。もちろん、彼らは救われていますから、永遠の命の損なわれることはない。天国へ行きました。でも彼らは用いられなくなってしまいました。
これこそが、イエス様にとって大きな悲しみだったんです。結局、イエス様との交わりから離れれば、主は悲しまれる。主の足元に座ること、静まること、「イエス様語ってください」、この態度をとることこそが、最も大切であり、必要です。はじめの愛はイエス様を中心に置きます。

はじめの愛は、イエス様を中心に置きます。だからイエス様は、イエス様を知らないと言ってしまったペテロに、3回も同じ質問をしてくださったのです。
「ペテロ。あなたは、わたしを、愛するか?」、ペテロはイエス様を裏切ってしまって、暗闇にはいるようになったのです。きっと彼はもう食べられなくなってしまったし、寝られなくなってしまったし...もう地獄に捨てられて当然です。わたしのやったことは、ひどいことです...
このペテロは「あなたこそ、約束された救い主その人です。私達は、あなたから離れられません。あなたは命のことばを持っておられます。あなたと一緒に殺されてもかまわない。」と語ったペテロでした。

でも3回、「イエス様?いったいどういう人?知らないよ。」と言いつづけました。イエス様は、後ろを見て彼を見つめた。
それは怒った顔ではなかったでしょう。イエス様は悲しかったのです。ペテロは、イエス様の目を見て外へ逃げて、激しく泣いた。徹底的にペテロは、悔い改めさせられました。
イエス様は復活された朝、このダメになってしまった、弟子達の信頼も失ってしまったペテロに出会ったのです。そのときなにを話されたかはわからないけど、ペテロは、おわりではない、ペテロはあいかわらず愛されている。イエス様は、ペテロを捨てようとはしない。そうペテロに確信させたのです。「あなたは、わたしを愛するのか?」

そのとき、ペテロは何と言ったでしょう。「イエス様。あなたは全部知ってるでしょう...」ペテロは、もうあなたを裏切らないとは約束しませんでした。いわゆる自信が完全に消失しました。
けれども、ペテロが不真実でもイエス様は真実です。イエス様は変わらない。イエス様の愛も決して変わらないと、誇りをもって言えるようになったのです。
主の前に静かになること、静まることが、主の望んでおられることです。主の前に静まると、目に見える現実は変わります。希望が湧いてきます。

詩篇97:5
5山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

主の御前に喜びが満ちていると、ダビデは言いました。主の御前に静まると、山々はとける。山々とは、いろいろな障害物であり、悩みであり、苦しみであり、病気でしょう。けれども、人間は、主の前に静まると溶ける。山々も溶ける。妨げであるはずのものが、祝福の源になります。
結局それを通して、主をよりよく知ることができるようになります。主は、いろいろなことを話された。話された目的とは、人間を賢い者にするためではない。いわゆる知識を与えるためではない。
わたしは、いろいろなことを話したのは、わたしの喜びが、あなたの喜びとなるように。あなたがたが、喜びに満ちた者になるために。

イエス様の提供される喜びを頂くこと。受けること。自分のものにする必要があります。で、問題は、受け取るとはどういうこと?
どういうふうにすれば提供された喜びを自分のものにできるのでしょうか?
聖書の答えは、「主の足もとに座りなさい。」マリヤのように、聞く耳を持ちなさい。主の足元に静まらない者は、主の語ることを聞かない者です。聞けない者は、もちろん従うこともできない。
聞かない者は、主の御心を知ることができない。不従順の結果は、いつも主の祝福に預かることができない。マリヤは時間をつぶすためにイエス様の足元にすわったのではない。彼女は私にとってはイエス様の近くにいることが幸せだと、何回も何回も経験したから、この態度をとったのです。

では、「主の足元に静まる」とはどう言うこと?それは、主に明け渡すことです。
「もう疲れた。よろしくお願いします。」、主に意識してより頼むことです。人間の知恵、人間の力、人間の助けによらずに、主により頼むことです。また、主の足元に静まることとは、主の導きに信頼することです。
今現在、いろいろなことがわからない。けれども、主は全部ご存知です。主は支配者であり、主は最善だけしか考えられないお方です。「主よ、語ってください。しもべは聞きます。」この態度をとる人は次の約束を自分のものにすることができるでしょう。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

もし、「恐れるな!」とだけ書かれているなら、全く意味のないことでしょう。けれども、どうして恐れなくても良いか、ちゃんと説明されています。わたしは、あなたとともにいるから恐れる必要はない。
「たじろぐな!」どうして?わたしが、あなたの神であるから。わたしは、あなたから離れられない。だから恐れる必要はない。たじろぐ必要はない。

あなたは、努力して頑張らなくちゃいけないのではない。わたしはあなたを強めます。わたしはあなたを助けます。わたしはあなたを守ります。それで十分なのではないでしょうか?
わたしたちは、主のものであるだけではなく、主ご自身が、わたしのものである。ダビデは、主はわたしの良い牧者であるから、乏しいことはない。満ち足りています。わたしの杯は溢れています。
このダビデの主は、わたしたちの主です。

わたしたちが、主を仰ぎ見ると、主は、ご自分を明らかに示してくださいます。




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