私たちは聞く耳を持っている


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/05/22)

引用聖句:使徒の働き10章33節
33それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」

使徒の働き16:25-34
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
26ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
27目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
29看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
32そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
33看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
34それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

今読んできてくださった10章33節ですね。すばらしい証し、告白でもあります。「よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
意味は、私たちはみな聞く耳を持っている、主のなさったことを聞かせて。我々のすべきことではない。
人間のすべきことについて話すと、やっぱり重荷になります。あれをしないと、これをしないとやっぱり困る。けれども大切なのは、人間は何をやるべきか、何を信ずべきかよりも、主はどうしようもない人間のために何をなさったかということです。それによってのみ自由になります。

もう一回16章31節から

使徒の働き16:31-34
31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
32そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
33看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
34それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

全家族が悔い改めるようになり、素直にみことばを信じるようになりました。大切なのは、全家族の救い、家族の中の一人ひとりの救いよりも全家族です。全家族が救われなければ、やっぱり悩むようになります。
けれどもはっきり約束されています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」このみことばは、多くの人に大切にされ愛されておることばです。私たちも、もう何回も何回もこのことばで祈り、このみことばを信じてきたんですけれど、もちろん疑えないけれど、どうして家族の人がみな導かれていないのでしょうか。
どういうことなのでしょうか。答えのない祈りがあるのでしょうか。もちろん主は、自分で定められた時、人の心の目を開いてくださるし、奇跡を成してくださる。けれど聖書を読むと、祈りが聞かれない原因を考えてみる必要があるのではないでしょうか。ですから、ちょっと祈りが聞き届けられない理由について考えたいと思います。7つの理由があります。

第1番目、不従順です。不信仰といっても同じです。原語は、信仰と信頼について書かれている、同じです。
結局、どうして多くの人が救われないかと言いますと、救われた人々の不信仰、不従順のゆえじゃないでしょうか。
皆さんよく知っている箇所ですが、マルコの福音書6章、ちょっと不思議なことが書いてあります。「イエスは何もできなかった」何でもできるお方は、出来なくなっちゃった。人間の不信仰、不従順のゆえです。

マルコの福音書6:1-5
1イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
3この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
4イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
5それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

それもすごいんじゃないですかね。何人かの人は瞬間的に癒された。けれどイエス様は、その時いた悩んでいる人々みな励まそう、慰めようと思ったし、もちろん病人たちもみな癒したかったけれど、できなかった。

マルコの福音書6:6
6イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

結局、不信仰こそが、主を知ることの一番大きな妨げなのではないでしょうか。
ちょっと旧約聖書からも一箇所読みます。結局、イスラエルの民の不従順、不信仰の罪についてです。

申命記1:42-45
42それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」
43私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。
44すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。
45あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。

どうして?主は助けたかった、勝利を与えようと思った、けれど彼らは従わなかったからです。結局、イスラエルの民は、主に不従順でした。
主は、不従順な民に御顔を向けませんでした。その世代のイスラエルの民は、荒野で滅ぼされてしまいました。これは、主なる神にとってどんなに心を痛めたことかわかりません。

サムエル記第I、14:37
37それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。

サムエル記第I、28:6
6それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった

特別に選ばれた、油注がれた王様であるサウルは、不従順のためにそれまで開かれていた天の窓は閉ざされ、主なる神の恵みはサウルの上を離れました。
彼の終わりはどうだったでしょう。彼は絶望して自殺してしまいました。悲劇的です。
従順に従うことの大切さは、聖書の中で強調されています。

使徒の働き5:32
32私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

従うと大いなる祝福が与えられる。
ここで聖霊が与えられるとあります。不従順なキリスト者は、御霊を悲しませています。意識して逆らう者は、御霊を消し去ってしまいます。
祈りが聞き届けられない第1番目の理由は、今話したように不従順です。

第2番目の理由は、隠された罪です。聖書の中の何回も何回も言っていることとは、隠す者は成功しない。けれど、隠さないと大変じゃないかと思う人もいる。けれどちがう。いくら隠しても、いつか必ず明らかになります。
詩篇の作者ダビデは、詩篇66篇18節、「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」と体験的に知るようになりました。
初めからそうではなかったよ。彼は、とんでもない罪を犯した、そして隠さないと大変だと思ったけれど、隠すこととは、彼にとって苦しくて苦しくてしょうがなかった。

マタイの福音書5:28
28しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

ここで主が言われた罪は、眼差しで犯す罪、動機の不純です。小さいように思われますが、これらも祈りが聞かれない一つの大きな原因です。
主が、我々の祈りに豊かに応えてくださることができるようになるために、私たちのあらゆる罪を主の光の前にさらけ出したいものです。
兄弟姉妹の交わりにおいて、御霊による交わりでなく、人間的な交わりならば、それも隠された罪の一つです。

祈りが聞き届けられない理由がたくさんあります。今話したように、不従順、2番目、隠された罪。
第3番目、無関心です。救われた人々の無関心です。

箴言1:24-33
24わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
25あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
26それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
27恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
28そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
29なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
30わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。
31それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
32わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

多くの信じる者は、自分の家族、親戚、友達の救いに対して無関心です。
ヨハネの黙示録に「励んで悔い改めよ」と主は言っておられますが、私たちも、この点について励んで悔い改め、無関心の眠りから目を覚ましたいものです。

イザヤ書62:6-7
6エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
7主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。

祈りが聞き届けられない理由がたくさんあります。今話したように不従順、隠された罪、無関心です。
第4番目の理由は、律法を侮ることです。すなわち、主のみことばである聖書をおろそかにすることです。

箴言28:9
9耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。

もし私たちが、主のみことばに全く砕かれて、従順に従うかわりに、自らの思いによって動く、自らの好みによってことを成すならば、本当に災いと言わなければなりません。
祈る人の一番大きな宝は聖書です。この生けるいのちのことばなくして、生きることはできませんし、主の御心にかなった生活をすることはできないのです。

祈りが聞き届けられない5番目の理由は、強情、かたくな、かたくなな心です。

ゼカリヤ書7:11-13
11それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」
12彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。
13「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と万軍の主は仰せられる。

「彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と主は仰せられ、どうしてでしょうか。聞く耳がなかったし、へり下ろうとしなかったからです。
人間の生まれつきの性質は、例外なく主なる神にそむく性質です。主に心を閉ざす性質です。我々の自我は、自分でどうすることもできない、一つの怪物です。
パウロもそれを充分経験しました。よく知られているローマ人への手紙の中で、次の証しですか、告白があります。

ローマ人への手紙7:19、24
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
24私は、ほんとうにみじめな人間です。

私たちは、自らの内に自分でどうすることもできない何かがあるのを知って、恐れおののいたことがあるのでしょうか。
バプテスマのヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。私たちも、ヨハネと同じように言えたら幸いです。
もし私たちが、そうなったら御霊は我々の内に自由を与え、御霊による祈りをすることができるのです。そして御霊による祈りは、必ずいつも聞き届けられます。

6番目の祈りが聞き届けられない理由は、心の不安定です。

ヤコブの手紙1:6-7
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

「主から何かをいただけると思ってはなりません」どうしてでしょうか。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようであるからです。
私たちは、しばしば環境や人間や感情や見えるところのものにより、海の波のように心の動揺をきたします。そして聞きとどけられる祈りもできないようになってしまいます。私たちが心に留めて、とりなした人々が救われてこないのもそのためかもしれない。
祈りが聞き届けられない理由は、今話したように不従順、隠された罪、無関心、聖書をおろそかにすること、頑なな心、心の不安定です。

最後にもう一つ、不純な動機です。

ヤコブの手紙4:3
3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

自らに注意力を集中した祈りは、決して聞き届けられません。ただ主にのみ栄を帰し、主の御栄のために祈る人の祈りは聞かれます。奇跡を生み出します。
私たちが今述べた7つの罪を捨てて、主と一つになって祈るならば、どんなに悪魔がわめいても何もならない。私たちには勝利が訪れるのです。
エレミヤ33章3節、よく引用されるすばらしい約束です。主の提供です。提案ではなく命令です。

エレミヤ33:3
3わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」このみことばは、我々の重荷として主から与えられました。もし私たちの家族がみな救われたら、どんなにすばらしいことでしょう。
今日まで家族の人々は、理解してくださいませんでした。それはあたりまえのことと言えるかもしれません。イエス様は次のように言いました。

マタイの福音書10:25
25弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

マタイの福音書10:34-39
34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
35なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
36さらに、家族の者がその人の敵となります。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

これはイエス様の愛です。イエス様は、ご自分の家族に対してどういう態度をとったのでしょう。

マタイの福音書12:47-50
47すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
48しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
49それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
50天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

主の御心とはいったい何でしょうか。イエス様は、「わたしの父の御心は、わたしを見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」
イエス様の変わらない呼びかけとは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」「父がわたしにお与えになる者は、みなわたしの所に来ます。そしてわたしの所に来る者をわたしは、決して捨てません。」
イエス様は、生きている間、家族の者がマリヤを除いて、信じようとしなかった。死んでから。

使徒の働き1:14
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

家族の人々と妥協しているところに救いはありません。絶えず身をもって証しているなら、救いが訪れてきます。
家族に対する証しは、もちろん口先のことばだけじゃなくて、イエス様に対する信仰から生まれ出て来るものでなければ、生きて働かないでしょう。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」このみことばを私たちは信じて立たなければなりませんが、そして経験します。主は必ず応えてくださり、あり得ないことを可能にしてくださるのです。




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