引用聖句:エペソ人への手紙4章13節-15節
エペソ人への手紙6:10-17
人間は、共通して皆悩む者です。皆わかってるんですけれども、多くの人はうまく隠そうと思っているけれど、意味のないことです。 人間は確かに悩む者です。大体一時的な問題のために悩んでいる人は多いのではないでしょうか。 ご主人はあまりうまくいかない、子どもも問題を作る、経済的にもちょっと苦しい、あまり健康でないし・・・、やっぱり人間はいろいろなことで、悩んでいます。 どうして悩みがあるのでしょうか?必要だから・・・。根本問題が解決されていないからなのではないでしょうか。 根本問題の解決とは、もちろんイエス様のものとなることです。結果として、変わらない喜びを得ることであり、あらゆる不安から、心配から、開放されるよになり、そして生き生きとした希望を持って、前向きに生活することができるのです。 けれども、救われた者の生涯は、おもむくままの散歩ではなく、まさに闘いです。勝利の冠を得るための闘いです。今日からの題名は、そういうものじゃないかなあ!「勝利の冠を得るための闘い」、他の題名を付けてもいいでしょう。たとえば、「キリスト者の使命」という題名を付けても良いかもしれない。 人生において最も大切なことは、救い主をもつことです。すなわちイエス様を体験的に知ることです。救いの神を知るようになった人々の証しとは、次のようなものです。 3,000年前にダビデ王は次のように言ったのです。 詩篇28:7
2,600年前にイザヤは次のように言ったのです。 イザヤ書12:2
救いとはものではない。救い主を持つことです。イエス様を生んだマリアは、次のように告白したのです。 ルカの福音書1:46-47
救いの神を知ることによってはじめて、わたしたちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。 満たされた人生を送るためには、永遠の命、主なる神との平和、罪の赦し、したがって主イエス様が私を心配し、導き、そして守っていて下さるという確信が、生活の土台とならなければなりません。 そして私たちが死んだあとは、永遠にイエス様と交わり、栄光をともにすることになるという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。いつまでも主イエス様と共になるという事実について考えると、確かに小さくなり、主を礼拝せざるを得なくなります。 このような人間の永遠の栄光というものは、新しく生まれ変わることによってはじめて可能となるものですから、そのことこそ私たちの人生において、最も大切なことに他なりません。 けれども聖書は、新しく生まれ変わったばかりのキリスト者は、幼子のようなものであると言っています。例えばペテロは書、ペテロの手紙第Iの2章2節に次のようにいたのです。 ペテロの手紙第I、2:2
ここで、乳飲み子はいつまでも乳飲み子の状態に留まっているのではなく、成長しなければならないということは、言わなくても明らかなことです。もう一箇所、 コリント人への手紙第I、3:2
今度はペテロではなく、パウロはコリントにいる人々に同じようなことを書くようになったのです。 やっぱり悩みながら、苦しみながら書いたのではないかと思います。パウロは、コリントにいる信者に対して、乳飲み子にミルクを飲ませることだけしかすることができなかったのです。ミルクは、消化のために最も良い食料であるけれど、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。 コリントにいる兄弟姉妹は、例えばエペソにいる兄弟姉妹や、コロサイにいる兄弟姉妹に対してパウロが書き送ったような性質の、ここの真理を理解することができなかったのです。 このようにパウロは、多くの信者たちに対して、ちょうど母がその子どもを育てるようにふるまったのです。けれどもパウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなく、信者たちが、全き人となることでした。ですから今読んでもらいました個所の中でパウロは、大人にならなければならないと書いています。 エペソ人への手紙4:13-15
イエス様を持つことは、確かにすばらしいことです。けれどもそれだけでは決して充分ではありません。むしろイエス様が私たちを肉の中に置くことによって、私たちの主として私たちの全てを支配なさることが大切です。 イエス様を知ることとは確かに恵みです。努力した結果ではない。けど、私たちがイエス様に用いられる器となるために、イエス様を私たちの主として、より良く体験的に知ることが大切です。 従って私たち信者は、全ての生活が、絶えずイエス様のために営まれているように、主に従っていかなければなりません。ですから、自分に与えられている生活の目的、また使命とはいったいなんなのでしょうか、と考えるべきなのではないでしょうか。 別の言葉で表現すれば、私たちは永遠の勝利の冠のために生きていくことは大切なことであると言えるのです。 新約聖書の中では、この地上に於ける普通のいわゆる競争と、我々信ずる者の霊的・信仰的な闘いとが対比されています。従って、競争あるいは闘いは、我々の信仰を励ますためのものとして考えられているということがわかります。 新約聖書の書かれた当時のギリシャ・ローマで行なわれたスポーツについて、ちょっと簡単に考えてみたいと思います。 その当時ギリシャ人は、ただ単に精神的な訓練だけでなく、肉体的な訓練をも重要なものと考えていたのです。『健全なる精神は、健全なる肉体に宿る』というように、一般に考えられていました。 そのために、その当時のギリシャ人は、男も女も7歳になると、激しい運動をやらされたのです。小さい時からそのような訓練を受けたために、大人になった時にも非常に美しく健康な身体が形作られたのでした。 それが、その当時の彫刻などを見ればよくわかります。美と徳とは切り離すことのできないものであると、当時のギリシャ人の共通した考え方でした。従って、美しい心と健全な身体とが理想とされたのです。 ギリシャ語以外の言葉では、良いものと美しいものとは区別され、別の表現でもって表されるが、ギリシャ語ではそれらの言葉が同じ表現から作られています。 このようにギリシャでは、善と美とが理想とされましたが、これに対してローマでは、正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共に法律によって達成されると考えられたのです。 けれども、ギリシャやローマのスポーツは、常に偶像礼拝と結びついていました。たとえば、オリンピック競技はゼウスの神の名誉のために行なわれたのです。 別の競技は、コリントの近くで行なわれたために、海の神ポセイドンを称えるために開かれたのです。またある競技は、太陽の神アポロを記念するために行なわれたのです。 オリンピアでは、中心にゼウスの祭壇が築かれており、全ての競技が終えられた後で、この祭壇の前に華やかな行進が繰り広げられたのです。 ローマでは、スポーツを始める前に、神々の偶像が車に乗せられて競技場を一回りすることが慣わしとされたのです。この競技はひじょうに有名なので、人々はいろいろなことをよく知っていました。 従ってパウロもその競技についてはよく知っていたが、それが偶像崇拝であるために、彼は決してそれに参加したことも、また見たこともなかったでしょう。 そのようなわけで、確かにこのスポーツは、偶像崇拝であったけれど、パウロは一つの例として、この競技を使って説明したのです。 けれどもパウロは、決して妥協したのではなく、初めから終わりまで、真理を証したのです。パウロは、ギリシャ人の考え方やローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々にわかりやすく説明するために、このような例を用いたのです。 パウロは、このような一つの例を用いて述べ伝えた福音は、イエス様が救い主であるということに他ならなかったのです。イエス様こそ、罪の債務と罪の力から開放される救い主なのであり、このイエス様を信じた人々は、新しい命を得ることができ、あらゆる問題を解決することができ、そして喜びと力とは与えられると、パウロは証したのです。 それだけではなく、主は勝利の生涯、すなわち栄光に満ちた永遠の目標と、生き生きとした望みとをわたしたちに与えてくださると、パウロは強調したのであります。ローマ人への手紙1章16節を見ると、彼は次のように書いたのです。 ローマ人への手紙1:16
福音とは神の力そのものです。けれどもイエス様と結びついている時にだけ、この力が現れることを忘れてはなりません。 聖霊がこの力を私たちに与えるように、とりなしておられます。けれども大切なのは、私たちがすべてを主に任せること、委ねることです。 イエス様を信じることは、すなわち勝利の闘いを勝ち取ることを意味します。したがって私たちは、この力によって、主の目的である勝利の冠を得るために走ることを急がなければなりません。 このように私たちにとって、主イエス様から与えられた力を用いて、主の目的に向かって走ることは必要です。したがって、救われた者の生涯は、前に話したように散歩ではない まさに、勝利の冠を得るための闘いに他なりません。 私たちは、自分自身の力によって闘うのではなく、主の恵みとあわれみによって与えられた、上からの力によって闘わなければなりません。 新約聖書の中には、ギリシャ・ローマ時代の競技のことが描かれているが、いったいこれは何のために書かれているのでしょうか。 私たちにとっては、救われた者であるということだけでは充分ではないから、それは単に初めの第一歩にしかすぎません。むしろ永遠の戦いの目標が重要な問題です。 そのためには、私たちは今まで以上にもっとイエス様を信頼し、イエス様にすべてを委ねなければならない。私たちは、真剣に、そして喜びに満ちて主に従って行くべきです。 私たちは今までよりももっとイエス様に信頼し、イエス様にすべてを委ねなければならない。私たちは真剣に、そして喜びに満ちて主に従って行くべきです。 私たちは、主の証人として用いられなければなりません。したがって私たちは主のご目的をめざして走り、イエス様に於いて上に召してくださる主の勝利を得ようと務めるべきです。 すべてこの世のものは、過ぎ行くはかないものです。ただ永遠なるものだけが、いつまでも存続するのです。 そのために、永遠なるものを目指して、私たちは一生懸命にならなければなりません。したがって私たちはこのような信仰の闘いをする時、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部出し切って、主のために生きなければなりません。 私たちが目指して走っている目標は、本当にすばらしい栄光に満ちているのです。私たちが忠実な主のしもべとして、最後まで奉仕するならば、それによって得られる報いは、考えられないほど大きいものです。 生きておられるイエス様は、私たち信者に霊の力を充分に備えていてくださいます。イエス様は我々に大胆な証しする勇気と、信仰の確信と、確実なる勝利とを与えてくださいます。 パウロが言ったように、信者の生涯とはいわば、組み打ちのようなものである。つまり悪霊に対する闘いであるとあります。前に読んでもらいましたところ、もう一回開きましょうか。 エペソ人への手紙6:10-11、13
別の言葉で言えば、競技場で走る競争のようなものです。同じくパウロは、ピリピにいる方々に次のように書いたのです。これも良く知られている個所です。 ピリピ人への手紙3:12
私たちは、このようないろいろな力に対して、霊の闘いをしなければならない。 ある場合には救いのかぶとをかぶり、御霊の剣を持って、伏兵戦を行ない、またある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を行なわなければならない。 エペソ人への手紙6:16-17
そこでは、打ち砕かれた悪魔の要塞が問題となります。 コリント人への手紙第II、10:4-6
私たち主の恵みによって救われた者は、その意味で戦士であると言えます。テモテへの手紙第IIの2章3節にパウロはその表現を使いました。 テモテへの手紙第II、2:3
イエス様のためにご奉仕することは、すなわち聖なる闘いです。主イエス様のしもべとして、証人として堅く立とうと思う者は、この闘いの意味を自ずから感じ取るはずです。 私たちがイエス様と共に行こうとする時には、この世の未信者から強い攻撃を受けることが明らかです。なぜならば、それがイエス様を受け入れない者、すなわち生まれながらの人間の性質だからです。 彼らは皆、口を揃えて反対します。イエス様の時代の場合もそうでした。 ルカの福音書19:14
これこそ生まれつきの人間が語る言葉です。 今まで私たちは、主に外面的な敵に対する闘いを考えて来ました。そこで次に、私たちの内面的な闘いについて、ちょっと考えたいと思います。 ここで大切な、「成果」という言葉が多く使われるけれど、それは私たち人間が小さくなり、その代わりにイエス様ご自身の姿が大きくなることを意味します。したがって、いつかは古きものがなくなり、新しいものがもたらされることになります。 ヨハネの福音書3:30
すなわちイエス様 ヨハネの福音書3:30
この態度をとる者は自由になり、用いられます。 信ずる者にとって、最も大切な聖書の個所とは、おそらく、ガラテヤ人への手紙2章20節でしょう。皆さん暗記しているかもしれないし、成長の秘訣を表す言葉です。 ガラテヤ人への手紙2:20
結局私はもうどうでもいい!大切ではない!内に住むイエス様が働くことができ、導くことができれば私は喜ぶと、パウロは決心したから大いに用いられるようになったのです。 主の救いにあずかるようになった兄弟姉妹の中には、古い性質と新しい性質とあるが、それらの性質が・・・ (テープ A面 → B面) ガラテヤ人への手紙5:17
このような内面的な闘いは、私たちの肉体が存在している限り、絶えず行なわれるのです。しかしながら残念なことには、実際問題として、多くの救われた者は、これらふたつのものが対立しあうというよりは、むしろ妥協していい加減になってしまうことに慣れてしまっているのではないでしょうか。 その結果は、聖霊の導きに対して鈍感になったり、優柔不断な態度のために証する力がなくなったり、この世のことばっかり考えたり、私たちの思いや望みがまったく塵にまみれてしまうことなのです。 このような、妥協した生活との別れは、早ければ早いほど簡単であり、徹底的にすればするほど良いことは言うまでもありません。私たち主の血によって買い取られた者は、常に競技をする者であるべきです。 テモテへの手紙第IIの2章5節で、パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、2:5
ここで使われている競技の規定とか、定められたコースは、忠実に公正に守らなければならない約束のことを言うのです。 例えばマラソンをする場合に、定められたコースを走らずに、楽をしようと思って最短距離を走ってゴールインしても、勝利の栄冠は得られません。 これは地上の競技であるが、信仰の闘いにおいても、イエス様を全く信頼し、全てを主イエス様に委ねることが要求されます。 イエス様は、心からの献身を望んでおられます。決して妥協することは許しません。いずれにしても、古い性質と新しい性質とがごちゃごちゃになってしまうことは、退けられなければなりません。 この闘いとは真剣な闘いであり、主に対する信仰をゆるがない心で持ち続け、主に従っていかなければなりません。 使徒の働き11章23節でバルナバという男は、アンテオケまで行って、そして次のような態度を取ったのです。 使徒の働き11:23
常に主に留まることこそが大切です。主と結びついていると、祝福があり、周りの人々も導かれます。 このように私たちは、信仰生活の一面として、主のものになった兄弟姉妹の責任について考えました。そこでこれから信仰生活のもう一つの面について、考えるべきなのではないでしょうか。 確かに、自分の意志で決定することは大切であるが、主の力によらずに、自分の力で栄冠を勝ち取ろうとしたり、古い性質に対して闘おうとすることは、正しくないのです。 ではいったい、主のものになった兄弟姉妹の目印となるものは何なのでしょうか。 第1番目、主のみことばである聖書を愛し、それから2番目、信ずる者の主にある交わりを求め、また3番目、ことごとくに感謝を持って、祈りと願いとをささげることを、挙げることができます。 また4番目、悪いとわかっている物事や人々から離れることも、主の勝利の現れなのではないでしょうか。 けれど残念なことに、多くのせっかく救われた兄弟姉妹は、自分の利益を考え、この世の愛を求め、他人に対して冷たくあしらったり、心が頑なであったり、生き生きとした祈りの力を体験することがなく、証しにも力がなく、みことばを尊重せず、罪に負けてしまうのです。 いったい、このような状態からの逃れ道があるのでしょうか。もしもイエス様は我々の中で勝利を治めておれられるならば、同時に罪の力に対しても勝利を得ていることを意味するのであります。 ネヘミヤ記8:10
別の訳は、『主を喜ぶことは、あなたがたの力です。』と。すなわち、毎日の生活の中で勝利を得る力に他ならない。私たちが主イエス様を見上げ、主イエス様に従い、主イエス様に留まるならば、罪に対する勝利の問題は、実際に解決されることになります。 その結果、私たちは喜んで光の中を歩むことができるようになります。 今まで述べてきたことを要約すると、先ず第1にしなければならないことは、勝利の栄冠を得るために、力を尽くして走ることであり、次に、主から与えられた恵みを素直に従順に受け取ることです。 したがって、栄冠を得るために私たちは決して中途半端な、あいまいな態度を取るのではなく、すべてを主イエス様に委ね、イエス様に依り頼むことが大切です。 最後に、いったい誰が勝利の冠を得ることができるのでしょうか、ということについてちょっとだけ考えたいと思います。 テサロニケ人への手紙第I、2:19
このテサロニケという町にいる兄弟姉妹は、パウロの奉仕によって主に導かれただけではなく、主の恵みによって成長した者で、豊かな実を結ぶようになったから、パウロの喜びでした。 これに反して、ひとりも主のみもとに導けなかった者は、どうして勝利の冠を得ることができるでしょうか。決してできません。 ギリシャ・ローマ時代の競技には、多数の観客が集まったのです。ツエルプスというローマの競技場では、パウロの時代に約25万人、それから4世紀になると、38万5千人の観衆が集まったと言われています。 それに対して今日私たちの信仰生活の闘いは、ただ単に周囲の人々から見られているだけではなく、主イエス様をはじめとする、目に見えない世界からも見守られていることを忘れてはなりません。 ローマ時代の競争は、人間と人間との力を競い合うスポーツから、次第に人間と野獣との闘いに変わっていったのです。 例えばライオンとの格闘は、はじめは犯罪者だけをやらせたのですが、ネロ皇帝の時代になると、主イエス様を信じる者に対しても闘わされ、ひどい場合には、イエス様を信じる者に油をかけて火をつけるなども、平気で行なわれたのです。 パウロは、ローマ人への手紙16章の中で、25人の兄弟姉妹の名前を挙げて、それらの人々について語っています。 パウロは先ず3節と9節で、「キリスト・イエスにある私の同労者」と言い、次に5節と8節と9節と12節に、「主にあって愛する兄弟姉妹」と言い、それから7節、「私といっしょに投獄されたことのある兄弟」と言い、10節、「キリストにあって練達の兄弟」とも言い、さらに13節、「主にあって選ばれた兄弟」とも言っています。 ここで名前を挙げられた兄弟姉妹の大部分は、疑いもなくパウロと同じように迫害され、殺されてしまったのです。この手紙が書かれてから6年位経って、特にローマを中心として、主イエス様のものになった兄弟姉妹に対する大きな迫害が始まったのです。 しかしながら、そのような大きな迫害にかかわらず、これらのキリスト者は少しも死を恐れることなく、静かなうちにもイエス様を信じる喜びをもって、その苦しみを甘んじて受けたのです。 けれども残念なことには、それと反対に、迫害や死を恐れたために信仰から離れ、ダメになってしまった信者もありました。たとえばレツイウス皇帝の時に行なわれた迫害について、その当時のことを記している古文書の原典は次のように言っています。 「72歳になる老人は、皇帝の命令に服従して、偶像崇拝を行なってしまった。つまり彼は主イエスのことを思わず、人のことを思ったために、この世と妥協して、信仰から離れてしまったのです。その当時のローマの秘密警察は、その老人が偶像崇拝をしたことを見たというふうに、証明している。」 この古い文書が記していることは、何という恐るべき悲劇なのではないでしょうか。あるキリスト者は、主イエス様を拒んでこの世と妥協し、殺されないために、自分が本当に偶像崇拝をしているところを役人に見てもらい、それを公に証明してもらったのです。 このことは、私たち現在のキリスト者が行なう証しと、どのような関係を持っているのでありましょうか。いったい私たちの信仰とはどういうものでしょうか。マタイの福音書10章32節、33節を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書10:32-33
全ての主イエス様のものとなった、兄弟姉妹の持っている使命とは、まさにイエス様ご自身を証することに他なりません。イエス様が我々の中で大きくなればなるほど、私たちも真剣に主イエス様を証せざるを得なくなります。 つまり私たちが外に向かって証をするということは、全てイエス様との関係にかかっています。 私たちが聖霊によって満たされれば満たされるほど、救われている事実を、感謝と喜びを、ひとりでも多くの人に告げ知らせたいという気持ちが強まって来ます。私たち一人一人が、主イエス様は私たちにとっていかなる意味を持っているかを、明らかにしなければならない。 主イエス様のものとなった兄弟姉妹にとって、証しをするということは、誰にもできることです。そして証しをするということは、どこでもできることです。言葉や行いでもって証しをするということは、その人の関係が良いとか悪いとかいうこととはまったく関係がありません。 イエス様が我々の心の目を開いてくださることができれば、私たちはその時こそ、感謝と喜びとを持って大胆にイエス様を証しすることができるのです。けれど、証しするということは常に闘いと結びついています。 信仰の道は、闘いと献身を通して進むが、その結果は、すばらしい栄光に満ちた勝利の生涯であります。 |