キリスト者の使命、人に仕える奉仕


ベック兄

(「集会広場」から転載)

引用聖句:民数記8章14節、16節、24節
14あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
16彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。
24「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

今日もキリスト者の使命について考えたいと思います。
救われた人々は結局、みな一つの使命を持っています。いつも言われることですけど、救われた人々は、救われるためだけに救われたのではなく、用いられるために、主の道具となるためです。

救われることとは、もちろん一つの宗教に入ることでもないし、もちろんキリスト教という宗教を持つことを意味しているのではありません。
大切なのは、キリスト教、キリストの教えというものよりも、イエス・キリスト御自身を知ることです。
人間は、一つの教えを知ることによって、信じ込むことによって救われないからです。人間を救うことができるのは、神の救い主なるイエス・キリストだけです。

救われることは、したがって何かを経験することを意味しているのではないし、一つの教えを理解することでもありません。
結局、救いとはなんであるか、ハッキリ説明できる人間はいないのではないかと思います。説明することができれば、理解することができることであり、そうすると頭の良い人は、みな先に救われるようになるからです。決してそうではありません。

救われた人とは、何を証しすることができるかといいますと、「わたしの罪、わがまま、過ちは偉大なる神によって赦されたのであり、わたしは永久的に受け入れられている者です。今晩死んだとしても、必ず天国へ行くようになる。」と言うことです。
本人は、どうしてこの確信を得たのか、もちろんハッキリ掴めないでしょう。けれどもこの確信から離れられないことは、素晴らしい事実ではないでしょうか。

引用聖句の箇所を見ると、レビ人についていろいろなことが書いてあります。レビ人というのは、もちろん救われた人たちだったのです。イスラエルの民に属する人々だったのです。
イスラエルの民に属する人々は、結局みな、自分たちの代わりに流された小羊の血の聖める力、解放する力を体験的に知るようになった人々だったのです。
彼らは、「我々は神の恵みによって救われた、解放された。」と、みな告白することができた人々だったのです。
けれども彼らにとって大切だったのは、救われることだけではなく、用いられることです。そして彼らは、本当に主を証しする証人だったのであります。

先日もちょっと言いましたように彼らは、いわゆる会見の天幕を、契約の箱を担う努めをする人だったのです。
16節を見ると、全く神に捧げられている人はレビ人だったのですし、14節見ると主は、彼らは私のものだと言われたのです。救われるということは、主のものとなるということです。主に属することが真の救いであります。
そしてレビ人たちは、一つ残らず全てを主にお捧げした人々だったのです。全てを主に捧げ尽くした、このレビ人こそ、主の栄光をあらわすことのできる模範の人々といわねばならないのではないかと思います。

いわゆる契約の箱とは、主の臨在をあらわすものだったのです。そして彼らは、この契約の箱を運ぶ者たちだったのです。
結局イスラエルの民は、主の臨在の雲の柱が上がった時、今まで留まっていた所から出発し、そしてこの臨在の雲に導かれ、この雲が再び留まった所で民たちも留まったのです。

先頭にいた人たちは、いつもこのレビ人だったのです。彼らは、神の臨在の雲が留まった所には、素直にそこに留まったのです。どうしてであるか、もちろん分からなかったのです。けれどもこれこそが、主の御心であるから彼らは、素直に従ったのです。
それがどんなにすごしにくい場所であっても、また、見る目に良くない場所であっても、導きのままに留まったのです。
これを通して彼らは、本当に主に仕える人々だったのです。

彼らの一つの大切な特徴は何であったかといいますと、主なる神に対する礼拝だったのです。
彼らの生活そのものを通して、主はあがめられ、礼拝されるようになったのです。
前回、礼拝の内容について、意味について一緒に考えたのですけど、今日、もう一つ別の特徴について考えたいと思うのです。すなわち、このレビ人の第二番目の特徴は、奉仕でした。仕えることでした。

イエス様も自分のことについて、「私は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。」と言われました。
奉仕とは、このレビ人の奉仕とは、我々の奉仕とは、いったいどういうものであるべきでしょうか。
ヨハネの福音書6章29節に一つの答えが書き記されていますが、すなわち、イエス様は、次のように言われました。

ヨハネの福音書6:29
29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

と書いてあります。神に対する御奉仕とは、すなわち信じることであると、この箇所を通して言えるのではないかと思います。不思議な御奉仕の定義だと思います。
真の奉仕とは、信仰の表れであるべきです。たとえ私たちが、全生涯を捧げ、持っている全てのものを捧げたとしても、信仰がなければそこには、御奉仕もありません。
ヘブル人への手紙の著者は、11章6節に次の様に書いたのです。よく知られている大切な箇所です。

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

信仰について考えると、一つだけ覚えたら一番分かりやすいと思うのです。
「信仰とは、一つの教えを信じること、理解することじゃなくて、イエス様とつながっていることです。」
イエス様とつながっていない人は、決して信じられないからです。

ここで、信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

イエス様に出会った人々はみな、一つの切なる願いを持っていると思います。すなわち主に喜ばれたい、良い子になりたい、主に用いられたい気持ちを持っているのであります。

ここで大切なのは、信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。喜ばれようと思えば、主に頼りなさい。御言葉だけ頼りなさい。
立派になり、聖書研究し、熱心にあれとこれをやりなさいということではなく、ただ素直に、主に頼りなさいということです。
信仰がなくては、主なる神に近づくことは無意味です。同じように信仰なくして、御奉仕することも無意味です。

けれど、主を信じることは、何を意味しているのでありましょうか。
主に奉仕するということは、信仰の働きです。もしこれが、神の御心であると確信するなら、惑わず、ためらわず、前進することができます。
このように主にゆだね、任せきることが真の信仰です。
何かを始めるにあたり、はじめは不安です。自分に何の力もない。自分の弱さ、みじめさ、無力さをよく知っているからです。
けれどもやっているうちに効果があらわれて来ます。結果が希望的に見えて来ます。そのうちに自分は、できると思い込んでしまいます。これは、危険です。

我々の奉仕は、瞬間瞬間、一秒一秒、主を見上げ、主に寄り頼みすがっていく奉仕でなくては役に立たない者です。
いろいろな経験をし、なされていても、どんなに年功を積んでも、まったきへりくだりを持って、ただひとり全てを知りたもう、全てをなしたもう主に、時事刻々寄り頼んでいなければなりません。
信仰を持つことは、それなのです。

旧約聖書を読んでいきますと、このレビ人は驚く程たくさんの奉仕をなしたことが分かりますけど、このレビ人たちは、御奉仕に自分の力、自分の能力に寄り頼まないで、ただ主の力に寄り頼んでしたことが分かります。
我々の御奉仕も、信仰の表れでなければなりません。もしそうするなら、どんな小さなことも本当の奉仕になります。

パウロは、コロサイ人への手紙3章23節に次のようなことを書いたのです。奉仕する者の心構えとは、どういうものであるべきかと。

コロサイ人への手紙3:23
23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

何をやるのか、それは別に問題ない。どういう気持ちで、どういう動機で、心構えでやるのかが、問題なのです。

コロサイ人への手紙3:23
23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

そして似ている箇所は、

コリント人への手紙第I、10:31
31こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

神の栄光があらわされなければ、結局、全ては空しい努力です。
あなたがたは、結局何をしても、ただ神の栄光をあらわすためにしなさい。自分は誤解されても、憎まれても神の栄光があらわされるように、切に主に頼りなさいと。

真の奉仕とは、ここでも書いてありますように、主の栄光のあらわれることです。それがなんであれ、信仰を持って御栄えのためにやるなら、真の奉仕です。
主が語りかけてくださった、その答えとして何ごとでもするなら、それは真の奉仕です。自分の考え、自分の伝統に捕われず、ひたすらただ主に寄り頼み、すがって歩みたいものです。
私たちの生活が、全く主の御支配の元に入っていることを証しするために、我々の全生活を主に捧げたいものです。

主の栄光を明らかにするために、主、御自身が全ての誉れを受けることこそが真の奉仕の目的です。結果です。
けれど、我々は、自分の奉仕を成し遂げるために、もちろん力が必要なのです。
いかなる迫害にあっても、あふるる喜びが、また、いかなる無理解の中に合っても、たえざる平和が必要です。ですから、使命を成し遂げる力とは、このような絶えざる喜び、いつまでも続く平和です。喜びがなければ、平和がなければ、力はないなのは当然です。

使命を成し遂げるための力とは、もちろん聖霊です。イエス様を信じ受け入れた人は、みな、例外なく聖霊の宮であると書いてあります。
ローマ人への手紙8章9節の後半だけちょっとお読みします。いつもよく引用する箇所です。救いについて考えるとこの箇所は、どうしても大切なところじゃないかと思うのです。

ローマ人への手紙8:9
9キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

結局大切なことは、キリストの御霊を持つことです。聖書研究していろいろな頭の知識を得ることよりも、キリストの御霊を持つことです。

多くのいわゆる聖書学者たちは、無神論者です。聖書の知識は確かにあります。けれども、キリストの御霊を持たない人は、決して救われていません。
イエス様は、我々に溢れ出る程、豊かないのちを得させるために来られたと聖書は言っています。「私は、豊かないのちを得させるために来た。私は、一つの宗教を作るのではなく、私は、なかなか良い教えを伝えるために来たのではなく、私は、いのちを得させるために来た。」とイエス様は言われたのです。

多くの人は、やっぱり正しい教えこそが大切だと考えていますけど、決してそうではありません。
多くの律法学者たちは、正しい教えを持っていました。イエス様は、確かに言われたのです。「彼らの教えていることは、正しい。」と。
けれども、彼らはへりくだっていなかったし、頭を下げたくなかったから、決して救われていなかったのです。ですから、正しい教えがあるかないかよりも、大切なことは、いのちがあるかないかと言うことなのです。
主が働くことができるか、できないか。真の喜びがあるか、ないかと言うことです。

イエス様は、豊かなるいのちを得させるために、この世に来てくださったと聖書は言っています。
豊かないのちを持つ人は、証し人であり、そういう人を通して主は、栄光をお受けになります。けれど多くの信じる者は、イエス様に対する信仰と愛があまりにも小さいので、何か起こるとすぐにぐらついてしまいます。
ヨハネの福音書の4章で、イエス様はメチャクチャな生活をした、いわゆるサマリヤの女に、非常に素晴らしい言葉を言われたのです。

ヨハネの福音書4:14
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

決して渇くことがないことは、本当に満たされていることです。喜びに満たされていることです。神の平和によって守られていることです。

ヨハネの福音書4:14
14わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

我々のうちに泉を持つことは、主の意図されるところです。
私たちは、このような学び会をすることは、もっと聖霊をもらうことではありません。頭の知識を得るためでもありません。私たちは、すでに信じる者としてイエス様を受け入れた者として聖霊を宿しています。
我々は心に従って、泉を持っているから水を探しに行く必要はない。

キリスト者は、イエス様を信じ受け入れた人は、めいめいまったき欠けたところのない聖霊を宿しています。聖霊は、人格者です。聖霊を部分的にもらうことは、ありえないことです。
けれども多くの信者は、つまった管のようで、その中を通って流れません。
聖霊は、我々のうちに少しだけではなく、完全に満たされることだけができるのです。

信じている者は、聖霊を宿しています。聖霊は、どのような割り合いで与えられるのでありましょうか。それは、流れるように与えられるのです。
イエス様は、聖霊について使徒の働きの1章8節に次のように言われたのです。
ここでもイエス様は、キリスト者に与えられている使命について、そしてこの使命を果たす秘訣について次のように言われたのです。

使徒の働き1:8
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

聖霊に満たされることと、主の証し人として用いられることは同じです。これはイエス様の言われた約束であり、イエス様の最後のお言葉でした。
それから後イエス様は、天にお帰りになり、父の右の座しておられるようになったのです。そしてイエス様は、ここでハッキリとキリスト者の使命について、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となるべきであると言われたのです。

信じる者の使命は、自分の信仰を守だけではなく、もちろん家族の救いのために、親戚、友人たち、知り合いの救いのために戦うことであり、祈り続けることです。
ここで全世界に福音が、信じる者によって伝えられなければならないと書いてあります。
もし私たちが、大胆な証し人でなかったら管がつまっているのです。すなわち私たちは、何か役割を演じたく思ったり、傲慢であったり、嫉みを持ちイエス様との交わりをおろそかにしているからです。
へりくだりましょう。管が通りよくなるためです。

前に言いましたように、キリスト者はみな、自分に与えられている使命を成し遂げるための力を持っています。聖霊の宮となったからです。
けれども非常に大切なことは、この事実を信じること、そのために感謝することです。
信仰の現れは、いつも感謝することです。むしろあなたが、「イエス様、わたしはあなたの救いを信じます。」と言ったところでその人は、はたして救われているかどうか分からないと思います。けれども、もし「救われたことを感謝いたします。」と言うと、ちょっと違うことになります。

感謝することは、いつも信仰の現れです。ですから聖霊が、我々に満ちあふれていることを感謝することは大切です。あなたが、それを感じても感じなくても、感謝して下さい。
イエス様の弟子たちは、聖霊に満たされたのです。その結果は、聖書によると彼らが力強く証しした、福音を宣べ伝えたと書いてあります。

罪について、世の人の目を開くために、聖霊が与えられたのです。それを弟子たちは経験したのです。多くの人は、その時「兄弟たち、私たちはどうしたら良いのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。
彼らは、ただ、イエス様のことを宣べ伝えたのです。救いとは、どう言うものであるか、別に説明しようとはしなかったのです。彼らはイエス様を宣べ伝えた結果、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いの。」という叫びだったのです。

コリント人への手紙第Iの6章19節、20節をもう一回ちょっと読みましょうか。みな、暗記している箇所だと思います。
例えば、聖書の中で一箇所読むと、時々助けになるのは、この言葉は誰に書かれたのかということなのです。この言葉は、めちゃくちゃな教会に書かれた言葉なのです。
自分はどうでも良い、主だけが栄光になれば良いじゃないか。そういう態度を取れば一変に全部変わったのですけども、彼らは、自分、自分のことしか考えてなかったのです。だからパウロは次のように言ったのです。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

「あなたがたは、知らないのですか。」と、パウロは彼らに聞いているのです。彼らは、それをもちろん間違いなく忘れてしまったのです。
私たちは、それを知っているのでありましょうか。イエス様を信じる者として、聖霊があなたの内に宿り、あなたは永遠の聖霊の宮であるということを本当に考えているのでありましょうか。
この事実を意識しながら生活する者でありましょうか。聖霊は、あなたの生活でどんな役割を演じているのでありましょうか。あなたは、聖霊の宮として、存在、目的を持っています。

今日多くの人々は、キリスト者も大きな孤独を嘆いています。たとえ親しい人との交わりを持っていても、孤独は去りません。どうしてでしょうか。
なぜならば孤独は、もっと深いものであるからです。その人の最も深い悩み、および最終的な問いの中に見えるのですから。
どうして孤独なのかと言いますと、神の慰め人である聖霊が役割を演じていないからです。

聖霊に与えられてる名前は、慰め人です。だから聖霊は、あらゆる人間の、あらゆる心を慰めることができ、力づけることができるのです。
人々は、聖書を学ぶことができないと嘆きます。聖書は、その人に語りかけないと言います。どうしてでしょうか。何故ならば、それは神を教える方が、すなわち、我々の内にある聖霊を本気にとらず、聖霊に耳を傾けないからです。聖霊は、自由に働くことができないからです。

また、多くの人にとって祈りの生活は、おおいなる苦しみです。どうしてでしょうか。
我々は、自分から祈りを出そうと努め、自分で祈りを作ろうと思い、聖霊を考えないからです。
ローマ人への手紙8章26節に、聖霊がどのようにして与えられたかの、一つの使命、目的についてパウロは次のように書いたのです。

ローマ人への手紙8:26
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

パウロは、決して超人間ではなかった。パウロと同労者を含めて、彼らは何と言ったかと言いますと「弱い私たち、私たちは分からない。」と言っているのです。
私たちは弱い者であるから、私たちは分からない者であるから、だから聖霊が与えられたのです。

多くの人は聖霊の助けを退け、そして結果、弱くなっているのであります。結局、多くの人たちは、コリントの信者もそうだったのですけど、彼らはいつも自分のことについて、自分の内面、生活における悩みについて考えるのです。
けれども私たちは、聖霊の悩みについて考えたことがあるのでしょうか。我々のうちにいる聖霊の悩みについて考えるべきではないでしょうか。
それは私たちの内に住み、そしてどうしても働きたいと思っている聖霊の悩みは、考えられない程大きなものではないかと思うのです。

我々の身体は、聖霊の宮であるということが、深く我々の心を捕らえているのでありましょうか。聖霊は、あなたにどんな種類の場所を見い出しているのでありましょうか。
あなたは、自分の身体を聖霊の宮であるということをハッキリ知り、たぶん今日が初めてかも知れませんが、あえてそのことを感謝して下さい。
それからあなたが、聖霊にどのような住まいを提供していたかを見て見なさい。たぶん、すぐに徹底的な大掃除を始めなければならないかも知れないのです。
聖霊を悩ませ、聖霊を苦しませ、聖霊をため息つかせ、妨げているものを、みな取り去られなければなりません。すなわち、不従順、憂鬱な心、あらゆる傲慢、あらゆる利己主義、あらゆる臆病、また、不信仰が取り去られなければなりません。

イエス様を信じ、イエス様を受け入れた人たちは、結局、聖霊の宮になることによって、力と喜びと勝利の生活に達する可能性を持っています。
けれどもそれは、これらの可能性を妨げられ、制限される時、もちろんそれは、嘆かわしい光景です。
聖霊は、働くことができず、このような信者の中でため息をつき、自由になることを願っています。そのような信じる者たちは、雲雀のようなものです。雲雀は、空高く飛ぶことができますけど、短い糸で雲雀を結び付けられるなら飛ぼうとしても再び地に落ちてしまいます。雲雀のあらゆる努力は、空しいのです。糸が、断ち切らなければなりません。

聖霊が我々の内に働く自由を持っていて、私たちが、聖霊に完全に明け渡していたら、その時初めて、私たちは、自分に与えられている使命を成し遂げることができます。
というのは、その時の聖霊の働きとは、いったいどういうものなのでありましょうか。

ヨハネの福音書15:26-27
26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
27あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

と書いてあります。この箇所を見るとある程度まで、我々に与えられてる使命と、聖霊の使命は似ているものではないかと思うのです。
「私が父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来る時、その御霊が、私について証しします。そしてあなたがたも、証しするのです。」と、ここでハッキリ書いてあります。

結局ここで二つの事柄が、言われています。すなわち聖霊は証しをし、あなたたちも証しすると言うことです。
イエス様は、聖霊の使命をハッキリとまとめられました。ヨハネの福音書16章14節に「聖霊は、私の栄光を現わす。」と、「御霊は、私に栄光を得させる。」これは聖霊に与えられている使命です。
イエス様だけが、中心になるように。結局、聖霊が我々信じている者を通して、イエス様の栄光を得させたいのであります。他の言葉で言いますと、私たちは、イエス様が歩んだように歩むべきです。

ヨハネの手紙第I、2:6
6神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

もちろん、クリスチャンらしい生活を送ろうと思っても、決してうまく行きません。人間は、いくら努力してもダメなのです。
だから信仰がなくては、神に喜ばれることはない。自分はできないから、だから聖霊が与えられているからです。自分はダメだから、意識して主に頼らなければならないということです。
そして我々は、イエス様にあって、神が赦されたように、赦すべきであると書いてあります。

エペソ人への手紙4:32
32お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

世界一の健康人でさえも、「何があっても絶対許さん。」という態度を取ると必ず病気になります。肉体的にも精神的にも、おかしくなります。
「どういう問題があっても許さん。」という態度とることは、決して問題の解決になりません。もちろん自分の力でできないのは、決まったことです。
だから聖霊が与えられているのです。だから、意識して主に頼らなければならないのです。

クリスチャンらしい生活ができるのは、イエス様しかできません。
だからこそ、ヘブル人への手紙に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできない。」と書き記されています。
エペソ人への手紙5章2節と関係があります。すなわち、「私たちは、キリストが愛されたと同じように愛すべきだ。」と書いてあります。

エペソ人への手紙5:2
2また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

ここでもハッキリ書かれていることは、我々は、キリストが愛されたと同じように愛すべきであること。なんという、キリスト者に与えられている使命でありましょうか。
以上のことを達する道は、もちろんただ一つだけです。すなわち、イエス様ご自身が聖霊によって私たちの内に住み、イエス様の特質が、我々の内に宿るということです。

キリストだけが、キリストの特質を持っています。もしイエス様が、聖霊によって、我々の内に宿っておられるならば、私たちの存在のいかなる小さな点からでも、イエス様は、現れておられるはずです。
いかなる言葉の内にもキリストが居り、いかなる光景、いかなる動作、またいかなる行いの中にも、キリストが居るはずです。
そこで聖霊は、自分の目的を達し、私たちを通してキリストの栄光を現わし得るのです。

最後にもう一箇所だけ読んで終わりましょうか。

使徒の働き10:38
38それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

もちろん聖霊は、今日でも、今この地上の信者たちの内を歩き、そして信者たちを通してよい働きを、大いなる業をしようと切に願っておられます。

聖霊は信じる者の手より、他の手を持っていません。
聖霊は信じる者の足より、他の足を持っていません。
聖霊は、イエス様の栄光を現わすために、救われた人々の唇より、他の唇を持っていません。

結局私たちは、小さな悩みにしばしばおかされます。私たちは、できるだけ安楽に争いなくこの世を送りたいと、いかに思っていることでしょう。
けれど聖霊は、いかなる関わりにおいても、我々を通して、イエス様の栄光を帰せたく思っており、私たちが、私たちの力では耐えることのできないような困難な状態が、最もよくイエス様に栄光を帰することができるのです。

本当に、少し静かに、自分の生活を主の前に照らし、考える必要があるのではないでしょうか。聖霊は、邪魔されることなく、我々の生活の内にイエス様の栄光を帰すことができるのでありましょうか。この問いについて、考える必要があるのではないかと思います。
聖霊は、イエス様の栄光を明らかにしよう、現わそうと切に願ってあられます。けれどもそのために、聖霊は、信じる者一人一人を道具として、器として用いようと望んでおられます。




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