キリスト者の使命、悪の霊に対する戦い/ベック兄 引用聖句:民数記8章14節、16節、24節
今まで学んできたテーマ、すなわちキリスト者の使命というテーマについて、今日はもう一回一緒に考えてみたいと思います。 主の目的は、今まで学びましたように、一人でも多くの人が真の救いにあずかることです。 永遠の命をもつことができ、毎日安心して生活することができ、生き生きとした希望をもって、死に向かうことができる。そしてもちろん死後、永遠の喜びの泉であられる神とともに過ごすこと、これこそが、主の目指すところであります。 けれどもそれだけではなく、救われた人を通して、主は御自分の御臨在、御栄光を現そうと切に望んでおられるのです。 すなわちイエス様を信じ、イエス様を受け入れた人々を通して、主は働こうと望んでおられます。 内に住んでおられるイエス様こそ生まれ変わった証拠です。 すなわち、周りの人々は、我々の内にイエス様が住んでおられるのに気付くはずです。そのように、実をもってイエス様を証しして初めて、主の証し人と言えると思います。 そして、読まれました箇所をみますと、会見の幕屋で働き、いわゆる契約の箱を担う務めをしたレビ人たちこそが、証し人だったのです。 彼等は、全く主に捧げられていたことを前に読んだ箇所で知ることができます。一つ残らず全てを主にお捧げしたのが、当時のレビ人だったのです。 すべてを主に捧げ尽くしたレビ人こそ、主の栄光を現すことのできる模範の人々でした。 レビ人には、三つの特長があります。 第一番目は、神に対する礼拝です。 第二番目は、人に仕える奉仕です。今まで、この二つの点いついて学びました。 第三番目は、悪の霊に対する戦いです。 レビ人は、この三つの特長を持っていました。この三つのことは、このまま我々の日々の生活に、主が求めておられることなのです。 礼拝とは何でしょうか。父ならび御子イエス様の偉大さを認め、いかに尊い方であるかを心から言い表すのが礼拝です。もっともっと心の目が開かれ、主がどんなに素晴しく、偉大なお方であるかを見させていただきたいものです。 主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとって本当に必要なことです。偉大さがわかればわかるほど、真の礼拝ができ、礼拝すればするほど主の偉大さが見えてきます。 我々の生活の真ん中に、主にに対する真の礼拝がなされているのでありましょうか。 私たちは、なるほど主の恵みによって救われた者です。けれどもこの世に生活する者として、礼拝する者として、毎日毎日過ごしているのでありましょうか。主なる神はあまねく全地をみまわし、心を全うして礼拝する人々を切に望んでおられるのです。 結局神に対する真の礼拝は、我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。 あなたは、ただ救われるために救われたのではなく、あなたによって主なる神が礼拝の中心になるように、これこそがあなたの生活の使命なのです。 礼拝は、主なる神が、あなたにあって全てとなられることなのです。 主は、我々の心のうちにどれほどの価値をもっているかが問題です。 主は、我々のためにいかほどの価値があるのでしょうか。主が、私たちにとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものが一つもありません。あまりに高いと言うものも一つもありません。 私たちのあらゆるものは、それが最も深く、最も素晴しくあっても主に対して捧げます。 主は、かつてペテロに「あなたは、私を愛するか」と尋ねたのでありますが、もちろん、今日も同じように「私を愛するか」と聞いておられます。 前に私たちは、新訳聖書に出てくるベタニヤについて考えたのですけれども、ご存知のようにベタニヤは、おのおの違った特長を持った三人の兄弟姉妹、すなわちマリア、マルタ、ラザロの住んでいるところでした。 そしてイエス様は、いつも好んでこのベタニヤに来られて、いつも三人の兄弟姉妹をお訪ねになったのです。そこでお休みになり、また食事を取ったりされました。いつも、楽しみにしてベタニヤを訪れたイエス様だったのです。 イエス様は、どうしてそんなにベタニヤを愛されたのでありましょうか。その第一の理由は、今話したことです。ベタニヤで本当の意味でイエス様は、礼拝されたのです。イエス様は、本当の意味で愛されたのです。 主にマリアの特長は、この真の礼拝ではなかったのでしょうか。彼女は生涯、イエス様を愛し貫きました。非常に値の高い菜種油をイエス様に降り注ぐことによって、実に高い、聖い主に対する愛を示したのです。 ベタニヤは、主に対する愛が満ち溢れていたところです。福音書をみると菜種油のにおいが家全体に満ちたと書き記されていますが、それと同じように愛の雰囲気が三人兄弟のうちを包んでいました。本当の意味での礼拝者だったのです。 して主は、満足して下さったのです。主に対する、このようなマリアの愛は、主が何にもまして求めておられることです。 イエス様は、私たちが心から全てを捧げ、主を愛しているかどうかを見ておられます。 そしてレビ人の第二番目の特徴は、前に言いましたように真の奉仕でした。或いは仕えることでした。 我々のご奉仕は、瞬間瞬間、主を見上げ、主により頼みすがっていくご奉仕でなくてはなりません。 レビ人は、驚くほど沢山の奉仕をなしたのでありますが、このレビ人たちはご奉仕に自分の力、自分の能力に寄り頼まないで、ただ主の力により頼んだのです。 我々のご奉仕も信仰の表れでなければなりません。もしそうするならば、どんな小さなことも真のご奉仕となります。 パウロは、次のように書き記したことがあります。 「何をするにも、人に対してではなく主に対してするように心から働きなさい。」 「飲むにも食べるにもまた、何事をするのにも全て神の栄光のためにすべきである。」 「全てを通して、神の御臨在が神の御栄光が明らかになるように。」 それが何であれ信仰をもって御栄のためにやるならば、それは真のご奉仕であるということです。 キリスト者の使命について考えると、この間使徒の働きから一箇所読みましたが、イエス様は、次のように言われたのです。 使徒の働き1:8
キリスト者の使命は、全世界に福音が宣べ伝えられることです。 もし私たちが大胆な証し人でなかったら、管がつまっているのです。へりくだりましょう。管が通り良くなるために。 ベタニヤにかえりましょう。ベタニヤに生涯を通してイエス様を愛し貫いた。マリアだけでなく主に忠実に仕えたマルタもいたのであります。 ですから私たちは、この主の対する愛に満ちた中で同時に、主に対してなされた忠実な奉仕を見ることができます。 このマルタはイエス様のために、自分のためじゃないのです、他の人のためよりも主のために食事を準備したのです。 我々も同じように主に対して奉仕する者であるのでしょうか。これは、他人のみでありこれをやるのでしょうか。 献身をし、できるだけ多くの奉仕をするのが問題ではありません。私たちがイエス様に対して奉仕してるかが問題です。 また、マルタがイエス様のために食事を用意したときに何を考えたのでありましょうか。 「これを作ったら、主は大喜びになるのでしょうか。こうやったら主は、満足するのでありましょうか。」 イエス様を喜ばせたいという気持ちでいっぱいだったと思います。 これこそが大切なのです。私たちは、主の御前に出るときに主は、私たちの奉仕を心から喜び、満足しておられるのでありましょうか。 そうなったら、私たちは初めて主の喜ばれたベタニヤとなることができる。主の憩いの場所となることができるのです。 私たちは、この二人の姉妹を見るとイエス様に対する真の愛と、イエス様に対する真の奉仕という主の御心にかなった二つの大切なことがらを見ることができます。 けれどもこの二つ、主に対する愛、主に対するご奉仕が決して最後ではありません。私たちの主イエス様は、もっと大いなることを、望んでおられるお方です。 けれども、何と言ってもまず第一に、この愛と奉仕がなければ、主は私たちをもっと先へ導くことができません。 第三番目になりますが、私たちが主のよみがえりの力を経験しなければならないということです。 イエス様は、何を願っておられるのでしょうか。イエス様は今、死の暗闇を通り、その後、主のみことばによってよみがえらせられた、ラザロと食を共にし、交わりを持ちたく願っているのであります。 聖書を読むと、主のために働いた人たちを見ると、また教会の歴史を見て主によって用いられた人々を見ると、それらの人たちは、主に対して二つに分かれていない愛を持ち、また忠実な奉仕をした結果は何であったかといいますと、死のような苦しいところを通らされ、後によみがえりの力を持っていたことです。 イエス様の救いにあずかり、イエス様をよりよく知ろうと思えば、イエス様に用いられたいと願うようになれば必ず、戦いの中に閉じこめられるのでありましょう。 この戦いに勝つためには、全力を挙げて走らなければならないと聖書は言っております。なぜならこの戦いは激しいものであるからです。 パウロは、キリスト者の生涯を競技者に例えていますが、 コリント人への手紙第I、9:24
それから、 へブル人への手紙12:1
それからパウロはもう1箇所、使徒の働き20章24節で次のように告白しています。よく知られているところです。すばらしい告白であります。 使徒の働き20:24
こういうふうにパウロは、キリスト者の戦いについて書き記したのであります。キリスト者の生涯を競技者に例えているわけです。 これらの言葉を読むと、信仰の競争を走り貫くには、いろいろな物を捨てなければならないことが分かるのではないでしょうか。それが思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、不従順、人間を恐れる恐れかも知れません。 また、十字架を負うことを拒むことであるかも知れません。 悪魔は、神に用いられ、神の御業のために心を尽くしてご奉仕しようと心がけている者の上に集中的に攻撃してきます。 主の御臨在をもちはこび、真のご奉仕にかなう人たちは、地獄の憎しみの真ん中に置かれ、悪魔の攻撃の目標に置かれます。もし悪魔の目的の中心に立たされていないならば、我々の礼拝、我々のご奉仕は、根本から誤っていると言わなければなりません。 この戦いは、厳しい現実です。この激しい戦いにあるときも、なお主が成し遂げてくださった完全な勝利に包まれて雄々しく立っていなければならないのです。 勝利を得るために戦うならば、その人はそのとき負けてしまいます。悪魔の力を伺い、このように、あのように戦おうと考えるとき、もうすでに負けてしまっているのです。 ゴルゴダの丘の上で、十字架の上でイエス様が勝ってくださった勝利は、完全なる勝利です。勝利のために戦う必要は少しもありません。我々が戦おうとする試み、戦いは私たちを絶望に陥れるだけなのです。 イエス様は、完全な勝利をお取りになりました。悪魔は、討ちまかされた敗北者です。これを堅く信じなければなりません。 不安、いろいろな思い煩い、周りを見て、行く末を見て考えること、これらは無益なことです。 父なる神の右に座したもうイエス様から、目をそらす瞬間、私たちは、証し人としての力をなくしてしまいます。普通の世人と同じ状態になってしまいます。 イスラエルの民を取り巻く敵たちは、会見の幕屋を見たとき、その上にとどまる主の臨在を見ました。 主を知らない人たちが、我々の真ん中に来るとき、私たちの内に光輝く主を見るでありましょうか。或いは、失望して元気のない惨めな人を見るのでありましょうか。どちらかでしょう。 私たちの戦いは、勝利で始まります。勝利から始まります。イエス様は完全な勝利者となられましたから、私たちも勝利者となることはできますし、また、そうする必要があります。 どんなに悪魔の力が強く、攻撃が激しくとも、私たちはイエス様が私たちのためになしてくださった勝利のうちに堅く立っていなければなりません。 けれども、私たちは実際にどうでしょうか。イエス様の勝利の真ん中に立っているのでしょうか。 聖書ではなるほど、主の勝利を告げています。また、私たちは過去に勝利を収めたかも知れませんが、今、今日、勝利の真ん中にいるのでありましょうか。 もし、私たちが勝利の真ん中に堅く保っているならば、主の証し人として生きていることになります。 今日、新しくイエス様が、十字架でなしてくださった完全な勝利に心からの感謝を捧げたいものです。私たちは、もうすでに悪魔の攻撃に対する答えを持っているのです。 私たちもレビ人と同じように、悩みと苦しみと誤解と無理解の荒野のまっただ中で、なお、主の臨在を願い、御栄えのためにひたすら前進する者になっているのでありましょうか。 臨在の雲は我々の上に留まっているのでありましょうか。私たちは、主の喜ばれる者となっているのでありましょうか。私たちの目は、主の偉大さに開かれ、私たちは、真の礼拝する者となっているのでありましょうか。 私たちは、全身全霊をあげて主に寄り頼んでいるのでありましょうか。それとも私たちの奉仕は、肉の力でなされているのでありましょうか。 あらゆる問題の中にイエス様の勝利が、もたらされ、私たちはそれを喜ぶことができているのでありましょうか。 私たちに与えられた使命とは、いったい何なのでありましょうか。 主イエス様の香り輝く栄光の知識を明らかにすることだと、コリント人への手紙第IIに書き記されています。 コリント人への手紙第II、4:6-7
私たちは、この宝を土の器の中に持っているとパウロは言っています。何の宝でしょうか。キリストの香り輝く神の栄光の知識です。 私たちの使命は、いったい何なのでしょうか。私たちの働きや目的は、何なのでしょうか。キリストの香り輝く神の栄光の知識を明らかにすることなのです。 これは偉大なる使命です。 私たちの場合はいったいどうでしょうか。私たちは、イエス様を信じる者になったのですが、キリストの香り輝く神の栄光の知識を明らかにするのでありましょうか。 これこそが私たちに与えられている使命です。 神の栄光を現すのは、よみがえりのいのちです。明らかになるのは、いつも自分のわがままであるか、主のよみがえりのいのちか、どちらかです。パウロの生活を見ると、これがよくわかるはずなのです。 神の御栄光は、よみがえりの力です。 パウロは、死に面したこともしばしばあった。また、生きる望みさえ失ってしまった。いつも、イエスの死をこの身に負っているとパウロは、告白しています。 パウロは、とっても強かったのでしょうか。パウロの利口さのせいでしょうか。いえ、決してそうではありません。 パウロの彼の証しは、今読みましたところなのですね。7節 コリント人への手紙第II、4:7
土の器に宿っているよみがえりの力は、パウロの生活の秘訣だったのです。 あなたは土の器でしょうか。「ああ、私は弱い者だ。あまり役にたちません。主が、私を用いることができないでしょう。」などと言うのでありましょうか。 パウロは、実に土の器でしたけれど、パウロはこの土の器こそ、神の計り知れない力の器であるべきだと確信しました。 神がこの土の器によってだけ、御自分の計り知れない力を表わすことができるのです。 先ほどのふたりの姉妹の弟、ラザロを見てみましょう。ラザロは、イエス様に愛された者だったのです。 ラザロのついて書かれているヨハネの福音書11章の一番初めに「一人の病人があった。それは、ラザロだった。」と書かれています。 どうしてイエス様は、ラザロが病気になることをお許しになったのでしょうか。ラザロは、心からイエス様を愛し、またイエス様は、心からラザロを愛したのです。なぜラザロは、病気になったのでありましょうか。 そのときのラザロを想像してみましょう。彼は、病の床に倒れました。日を追うに従ってだんだん衰弱して行きました。しかしイエス様は、来られません。 「ああ、もしイエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もないのに。」 本当に、もしイエス様がおられるなら問題はないのでしょうか。 もちろん、ラザロにとって主がおられるなら、何の問題もありません。病もすぐに治ったでしょう、けれどそれは、イエス様の御心ではなかったのです。だからイエス様は、すぐにラザロのもとに来ようとしなかったのです。 もちろん心の中では、3人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いたでしょう。イエス様は、一刻も早くラザロを助けたかったのですけど、御心は違ったところにありました。 ですからすぐには、ラザロの元においでにならなかったのです。 ラザロがイエス様のよみがえりの力を経験するには、死を通らなければならなかったのです。我々の信仰生活におきましても、主は、同じような導き方をされます。 恐ろしい自分を愛する愛と、主を愛する愛は、共にあることはできません。自分の名前を人に知ってもらおうというような気持ちと、主に対する真の奉仕は、両立しません。 己の考えと計画も、これらと一緒に死に渡されないと、よみがえりの力を自分のものとすることはできません。 私たちの信仰には、いろいろな思い掛けないことが起こります。そうすると「いったいどうしてだろう、なぜだろう。」と考えます。けれどそれも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は、思い掛けない悲劇に終わることもあります。 すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きないことが往々にしてあります。 信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さい光を見つけ、それに取りすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて、全く絶望してしまいます。 「自分はもうダメだ。自分の前には、死がまっている。墓がまっている。」とさえ思うこともあるでしょう。 そこまで主が私たちを、導いてくださるとき、そうなって始めて、絶望して初めて主が、私たちをしっかり握ってくださいます。 それは、いったいどういうわけでしょうか。 それは、イエス様は、私たちを通してよみがえりの力を表したいからです。 それは理論でもなく、説教でもなく、また特別な教えでもなく、主の御心なのです。 あなたの生活、また私の生活は、イエス様の証しのためでなくてはいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。 けれど、主の御心はもちろん死ではなく、いのちである。しかしこのいのちは、死を通して始めてやって来るというところに目を留なければいけません。 ヨハネの福音書12章2節に、「イエス様と一緒に食卓についたものの内にラザロも加えられていました。」 ラザロが何かを喋ったとは書いていません。ラザロは、別段説教者ではなかった様です。けれども12章9節から11節には、驚くべきラザロの証しが書かれてあります。 ヨハネの福音書12:9-11
彼らは、当時結局ユダヤから、ユダヤ教から去ってしまったのです。ユダヤ教は、結局、形式的ないのちのないものになってしまったのです。 今日言えることは、多くの人たちは組織されたいのちのない教会を離れると、周りの人のいわゆるクリスチャンたちは、憎しみを感じるようになるのではないでしょうか。 結局、祭司長たちは、ラザロを殺そうと相談したわけです。彼を通して多くの人たちは、イエス様に対する飢え乾きを感じるようになり、イエス様によって満たされるようになったのです。 この箇所を見るとラザロは、口で証しをしなかたようです。よみがえらせられた生きたいのちで証ししました。 よみがえり力で生活するとっはいったいどういうことなのでしょうか。 「主よ、あなたが召して下さった御奉仕に力がない、私は何一つできない。この奉仕をするのは、あなたでなければダメです。私を導き、力を与えて下さい。」という全く自分の無力を認めた生活がそれなのです。 すなわち、生まれながらの力、人間の知恵で起こる生活ではなく、全く主に寄り頼む生活こそ、よみがえりの力による生活の道です。 多くの人は、ラザロの証しを通してイエス様を信じるようになり、救われたのですけど、それで終わりではありませんでした。 ラザロが証しした時、悪魔も祭司長たち、聖書学者たちを通してラザロを殺そうと攻撃してきました。すなわち、悪魔にとってよみがえりの力より嫌なものはありません。 私たちは、ラザロと同じように主と共なる交わりを持ちたく思っているのでありましょうか。主と共なる交わりをうるには、苦しみも、攻撃も、戦いも経験しなけれがいけないでしょう。 第一に死を通らなければなりません。 誤解もあり、迫害もあるかも知れません。それとも私たちは、もっと楽な道を選びたいと思うのでしょうか。 私たちは、今、末の世に生きています。イエス様は、間もなくおいでになるでしょう。 どこへ行っても、あそこには暗黒と混乱があります。けれどもし私たちが、イエス様の御心が何であるかをよく知っているなら、大きな喜びを持って信仰生活を前へ進むことができます。 簡単にまとめてみますと、ベタニアは、主に対する分かたれざる愛が満ちているところでした。 また、主に対する御奉仕、忠実な奉仕がなされたところでした。 そして、イエス様のよみがえりの力が表されたところでした。 私たちは、深い、聖い、分裂のない愛を持ってイエス様を愛し、主のみこころにかなうようにと心を用いて、主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎ、よみがえりの力を経験した者として、その力を証しする者となりたいものです。 また、レビ人のように主に礼拝し、人に使え、悪霊に戦う者となりたいものです。 そして、主の御臨在を表していきたいものです。 |