引用聖句:ローマ人への手紙8章15節-30節
イエス様はかしらであり、我々につながっているからだです。からだなる教会を心のまなこで見ることこそが、考えられないほど大切です。主のご目的とは、今言われましたように、私たちすべてがイエス様の似姿に変えられていくことです。 今の福音書は私たちにとって、一番大切な箇所の一つなのではないでしょうか。苦しみ、試み、また悩みが増し加えられれば増し加えられるほど、私たちにとっては、私たちをさらに引き上げ、新しく堅い土台に立たせて、新しい信仰の目が開かれる必要があります。 ですから今日ちょっとだけ、主のご目的がどこにあるのか、新しく考えてみたいと思います。 どんな困難の中にあっても、主のご目的をはっきりとわきまえていますと、絶えず力強い歩みができるのです。 7つの点に分けて考えてみたいと思います。 第一番目、この世で起こるすべての現象の真ん中にある、主のご目的、主のご予定という点を考えてみましょう。 今、読んでもらいましたローマ人への手紙8章15節から30節までを見ると、主は以前から、あることをはっきりと、あらかじめ定めておられたことが解かります。 永遠の昔より、この世界を創造される以前より予定しておられました。この主の予定されたことは、できるかできないか解からないが、やってみようといったような思いつきではありません。 もし、主が何かお考えになりますと、それは必ず成就されます。よく開くエレミヤ書29章11節を見ると、主は言われます。 エレミヤ書29:11
主がご自分でご計画され、それを成就されようというのに、そのようなことはないとあえて言う人はいないでしょう。主がお考えになることは必ず成し遂げられます。 主のお考えは行いです。この世のありとあらゆる現象、出来事の中にあって、またそれを通して主が我々に予定されていることは、私たちが主イエス様と同じ姿に変えられていくことです。 このご予定は、必ず成就されます。なぜなら、主のお考えは必ず行いとなるからです。 主は、あらゆる時代を通して、この変わらないご目的を持っておられました。 今の世にあっても、私たちは、いろいろな困難、試みを味わう時、この主の御心を静かに考えることは、我々にとっては非常に益するところが大きいと思います。 主のものとなった者の生活には、偶然というものがありません。なぜかと言えば、主ご自身が選びたもうた我々を導いておられるからです。 全能なる主は、この世のあらゆる出来事を御手の内に握りしめておられます。あたかも船の舵をとっておられるようなお方です。この世の現象の中心に、主のものとなった人々が渡来しているということは、聖書がはっきりと言っています。 この世のあらゆる現象を通して、主が予定され、ご計画され、願っておられることは、私たちが、御子イエス様と同じ似姿に変えられていくことです。 この、主の変わらない、動かすことのできない、あらかじめ定められた御計画が、私たちの確信となり、喜びとなり、また平安となり、拠り所となることができれば、本当に幸いです。 2番目、この世の出来事の上に立つことの必要性についてちょっと考えましょうか。 私たちは今、いわゆる原子力の時代に生きています。国々は争って、原子力の研究を進めただけじゃなくて、ある意味で成功した。けれども、これらの科学の進歩していく、その陰には言い知れない不安があることも見逃せません。 私たちが働く、生きていくその最後は、一体どういうことになるのでしょうか。完全な破壊でしょうか。 信じる者だけではなく、未信者も世界にも同じ疑問が持たれています。今のこの世の現象は、本当に混沌とし、めちゃくちゃではないでしょうか。 人間の目から見ると、確かにそうです。けど主の目は、そのようには見ておられません。 人々は、もっと良い時代を願っています。もっと良い状態になることを願っています。だからこそ、たとえば原子爆弾に反対するようになった人は多いです。 主はこれに対して、我々の時代を良くし、環境を改善しようとは思っておられません。私たち自身を人間を良くしようと思っておられるのです。私たちは、御子イエス様と同じ御姿に変えられなければいけません。 この、主の御目的を考えて、時代を良くしよう、環境を良くなるように願っても無駄です。そこに立っているのは絶望だけです。 私たちは、あらゆる出来事と環境の上に立たなければいけません。 もちろん私たちは、この世にあって悩み苦しみに引き込まれます。そして私たちの意志も感情も、また考えも、この苦しみに巻き込まれてしまう時もあるでしょう。 けど、我々の霊だけは、その上に堅く立っていなければいけないのです。 もし私たちが霊において、出来事と環境の上に立っていないなら、主の証し人として立つことができませんし、また御心にかなった御奉仕を成すこともできません。それに加えて、あらかじめ定められた、主の御目的にかなうことができません。 私たちは毎日毎日、いろいろな出来事に出くわしますけど、それから開放され、自由であらねばなりません。私たちは、この世のあらゆる出来事の上に、雄々しく、堅く、抜きん出て立っていなければなりません。 ところが、何が私たちを、時代的な出来事と環境の中から引き上げてくれるのでしょうか。何が私たちを開放してくれるのでしょうか。 私たちを引き上げ、解放してくださるのは、永遠に変わらない、動かすことのできない主の御計画と御予定です。 主の関心の全部は、私たちが御子の姿に変えられることに注がれています。主が、我々にこの御目的を持っておられるということを私たちは、御霊によって教えられているのでしょうか。 もし、御霊によって教えられているなら、私たちは、あらゆる問題に勝つことができます。あらゆる悩み苦しみの上に立つことができます。もし御霊の証しを持っておられないなら、悩みと苦しみが来るとすぐに、絶望してしまわなければならないはずです。 私たちは、あらゆるこの世の出来事の上に立つことが出来るようになるため、主の御目的に対し、心の目を開いていただきたいものです。 3番目、主の永遠に変わらざる、ゆるぐことのない御計画について、ちょっと考えたいと思います。 ローマ人への手紙8:29
神の御子の形にされていくことは、主の深い御心です。これこそが、私たちが日常、出くわす理解できない問題の説明となるみことばなのではないでしょうか。 この、主の御目的は、私たちが今出くわしている問題の解答です。また、私たちが今持っている、悩みまた苦しみの説明でもあります。 主は私たちに対して、御子と同じ姿に変えられるという、1つの御目的を持って働きかけておられます。 主は、永遠の昔より、私たちが御子の形に似た者となるように、あらかじめ定めておられました。 まもなく私たちに訪れて来ます永遠の世界に入ります時、この御目的は現実のものとなります。 すなわち私たちは、イエス様と同じ姿に変えられます。このローマ人への手紙8章28節、29節を見ると、主は働いておられると書いてあります。 なぜ、こんなにたくさんの理解に苦しむような試みが来るのでしょうか。それは、主が、我々の内にその似姿をかたち創られるためなんです。 今日の望みのないような状態の中にあって、ただ一つの希望はイエス様です。そして主の御心は、御自身の御子主の似姿が、我々一人ひとり、信者の内にかたち創られ、我々を通して、イエス様が現れることです。 私たちの内に住んでおられるイエス様こそ、我々の栄光の望みです。 私たち自身の内には、爪のあかほどの望みも見出すことはできません。 けれども、このような者の内に、主は、主の変わらない永遠の御目的が成就されていくということは、何という大きな恵みでしょう。 私たち皆ともに、御子イエス様の似姿になるのだということを考えてみると、すばらしいのではないでしょうか。 4番目、悩みによって、主と同じ御姿に変えられることについて、ちょっと考えたいと思います。 私たちが今、いろいろな持ち場で働いていますけど、それは主がそこに置きたもうたのです。たとえ苦しみがあっても、悩みがあっても、主の御心を甘んじて受けていかなければなりません。 主は今、私たちが出会わしている悩みや苦しみを通して、私たちの内に何かを成したいと思っておられるのです。 もし、もっと良い時が訪れて来るのを待っていたら、良い環境が来るように願っているとすると、後になって後悔するようになるでしょう。 後になって、「私はあの時、主の目的を苦しみの内に、知るのが本当だった。私は忍耐を持っていなかった。私はあの時、自分の周りにあった環境をもっと良くしようとばかり考えていて、環境によって、主は私自身を変えようとなさっていたことに、気がつかなかった」と言うようになるでしょう。 悩みや苦しみを通して、主が我々の内に御自身の似姿をかたち創られ、私たちは、主の似姿に変えられていくのです。 そして一方では、自分がどんなに恐るべき罪の性質を持っているかということに気がつき、恐れおののきながら、他方では、主がこのような者の内に似姿を創ってくださるという幸いを感謝しながら歩むようになるのです。 この御子の似姿に変えられていくのは、非常にゆっくりです。 しかし、最後には御子が多くの兄弟たちの中で長子となるために私たちは、全く主と同じ似姿に変えられていくのです。 イエス様は、なぜ私を日本に導いたのでしょうかね。 主が導かれた大事な目的は、みことばを述べ伝えること、イエス様を紹介する、いわゆる奉仕のためではないと思います。 御子と同じ似姿に変えられるのを第一の目的として、日本に使わされました。 なぜ貴方が、たとえば会社で勤め、学校で働いたり、勉強したりするのでしょうか。苦しみなしに安楽な時を過ごすためでしょうか。そうではない。主の似姿に変えられていくために、そのような環境に置かれています。 主は、あなたが何をなさるかより、あなた自身に関心を持っておられます。主にとって大切なのは、いわゆる奉仕するのではなく、我々の性格が大切です。人格が大切です。 天の標準は、地上のそれとはちょっと違います。天では、私たちが何をやったか、私たちを計ることをいたしません。主イエス様の標準によって、私たちは計られます。すなわちイエス様が、どれほど我々の内にかたち創られているかによって、私たちは働く、計られるのです。 もし私たちがご奉仕して、その結果、人々の内にイエス様の似姿がかたち創られていないようなら、そのご奉仕は、全く空しい奉仕と言わなければなりません。 私たちが、どんなに説教を聴いても、喜びの集いに行っても、イエス様が我々の内に似形を創られていくことはできない。苦しみによってのみ、我々は主の似姿に変えられていくのです。 それでは、私たちは何のために、たとえば今日ここに、このように集まったのでしょう。私たちは、お互いに助けに共に主の御心は何であるかを知るために、ここに集まってきました。けど、実際に主の御形に似せられていくのは、日ごとに経験する艱難と苦しみによってだけなのではないでしょうか。 5番目、御霊だけが我々を御子の姿に変えることができるということについて、ちょっと考えたいと思います。 ローマ人への手紙8:26-27
御霊は、いつも主の思い、主の計画を御存知で、いつもそれが成就されるようにと働きます。御霊だけが、我々をイエス様と同じ姿に変えてくださいます。けど、それこそとりもなおさず主の御目的です。 もし御霊がすべてのことにおいて支配をしてくださらなければ、どんなに説教しても、どんなに教えを述べてもそれは空しいことです。 もし私たちが御霊に支配されなければ、どんな集会に集っても、1ミリも前進することはできません。 私たちは、知識を蓄えても、いくら教えを聞いても、御霊が働くことができなければ、イエス様の似姿に変えられていくことはできないのです。 私たちは、多くの知識を持っているかもしれないけど、2〜3年後になって、その知識が実際には役に立たず空しいものであった、私たちの信仰生活の土台であるイエス様の血のところまでもう一度戻らなけれいけないと気づくのです。 そのような時、教えは役に立たない、捨ててしまってもいいと考える人もいるかもしれないけど、それもまた良くないことです。私たちは、主の御目的を知っているかもしれませんが、その知識を聖霊がお用いになるかどうかが問題でしょう。 私たちの持てる知識はみな、御霊がお働きになるための土台とならなければなりません。なぜ、神の子とされた者に悩みや苦しみがあるのでしょうか。それは、繰り返して言っていますが、御子イエス様の似姿に変えられるためです。 主は、この目的を達成されるために、いろいろな悩みや苦しみをお与えになるのです。 イエス様は、いつも「お父様、わたしの心ではなく、あなたの御心をなしたまえ」と祈られたのです。ですから、もし私たちが御子と同じ似姿に変えられていきたいなら、主と同じように「主よ、私の心ではなく、あなたの御心をなしたまえ」という態度をとらなければなりません。 もし、そうなるならば、自分では何事もすることができなくなり、すべてを主におまかせした、より頼みの生活になってきます。 自分自身の努力ではなく、御霊のお働きによって、こうなるのです。 私たちの内に主の似姿をかたち創っていくために、御霊が自由に、私たちの内でお働きになりますように。 6番目、イエス様の似姿に変えられていくと、まことの知識にあずかるに至るのです。 ちょっとパウロの祈りを読みたいと思います。すばらしい祈りです。 コロサイ人への手紙1:9-14
まことの知識を持っている人は、主を喜ばせる人、また主を崇拝する人です。 もし私たちが、いつまでも残る実を結ぶ奉仕がしたいと思うならば、また常に天の窓が開けて、光のうちに生活したいと思うならば、まことの知識を持つ必要があります。 まことの知識とは、経験によって得られるもので、この知識を一旦自分のものとすると、私たちの人格は切り離せないものになります。主は、私たちがこのような知識を持つように願っておられます。 もちろんこのまことの知識は、頭の知識とはぜんぜん関係がありません。主を信じる者の中で、私は前には、そのように信じたが今は信じていない。前にはそう考えていたが、今の考えは違うというような人々が、確かにいます。 けど、主はそのようなことを喜びたまいません。 私たちは今、次のように生きておられますか。書かれているように必要としているのは、しっかりと立っている人であって、河原にはえている葦のように、風の吹くままに向こうに傾いたり、こちらに傾くといった人ではありません。 しっかりと立つには、まことの知識が必要です。私たちはいったい何を知る必要があるのでしょうかね。 まず私たちは、我々の生まれながらの罪の性質は、決して直らないということを知らなければなりません。これをまことに知っている人は、自分でやることはできない。主により頼まなければ、何もやることができないということも知っているのであります。 私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができなかったんです。ただ一方的な憐れみによって、義とされました。同じように、私たちが清められていくのも、自分の行いではありません。このことも知らなければなりません。 このことをまことの知識として知っている人は、自らを自ら清めようと努力することを止め、ただよみがえられたイエス様に、自らをおゆだねするはずです。 私たちが知らなければならないのは、からだなる教会に対する主の御計画です。教会は、イエス様の肢体であり、すべてのものに満ち満ちているところのものであり、また聖霊の宮です。 からだなる教会は、全く天的なものであり、霊的なものであり、また世界的なものであるから、いかなる組織や人間によっても、支配されるべきではありません。 もし、この知識を上からの啓示によって、自分のものとすることができるなら、それは我々の喜びで力であり、また自由です。 一言で言えばこの知識は、我々のいのちとなります。 もしこの知識を捨てるとすれば、それは霊的な自殺を意味しています。私たちはみな、かかる知識を必要としています。 まことの知識はいのちです。けど問題は、いかにしてこのような知識を持つことができるかということです。それはイエス様と同じ姿に変えられていくことによってのみできるのです。 けど御霊は、御子と同じ似姿に私たちを変える御業を、ただ悩みによってのみ行います。悩みと戦いの真っ只中にあって、初めてイエス様と同じ姿に変えられていくのです。 イエス様は、我々を人間的な目で見るならば、全く望みのない絶望的な状態に導いてくださいます。 主はなぜ、そのようにお導きになるのでしょうか。 それは私たちが、我々の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、まことの知識として知っているかどうか、また我々は、清きに至ることについて、全く無力であるということを、まことの知識として知っているかどうか、またイエス様のからだなる教会に対する知識が、単なる教えであり、または私たちのいのちとなっているか、これらを試し見るために、主は悩みのうちに私たちを導いてくださいます。 この方法によってだけ、まことの知識を得ることができます。 私たちがイエス様と同じ似姿に変えられていくと、まことの知識は、頭の知識ではなく、我々のいのちとなります。 私たちは、もっともっと数多くのまことの知識を得たいものです。 7番目、苦難を通して、全うされることについて、ちょっと考えたいと思います。 どうしてこの世は、こんなに混沌としているのでしょうか。なぜこの世には、理解に苦しむことがこんなにたくさんあるのでしょうか。またなぜ、悩みや苦しみが、こんなにたくさんあるのでしょうか。 主は、これらのすべてを、私たちが御子の似姿に変えられるためにお用いになっておられます。 イエス様が、我々を通して、すなわち主のからだなる教会を通して、現されていかなければいけませんが、これは主の御計画です。この目的のため、主は我々を、創造の初めより選んでくださいました。 悩みや苦しみにうちひしがれている人々のために、何を祈ったらいいのでしょうか。その人の苦しみからの解放のために祈りますけど、祈ってもその人の状態が好転しません。ますます悪くなります。 そのような時、悪魔がやって来て、「お前の祈りは駄目だ。」、私たちは失望してしまいます。 私たちのこのとりなしの祈りにおける、絶望から希望が生まれるのでしょうか。はい、希望があります。その信じる者が悩み苦しみ、押しつぶされているのは、主の御計画です。 その苦しみによって、この人の内に御子イエス様の似姿がかたち創られていきつつあるのです。 御子イエス様と同じ似姿に変えられていくということは、主にとって一番大切な御目的ですが、すぐに祈りに応えて、悩みから開放されるということをされないのです。 イエス様の苦しみの中における、あの忍耐を見てください。私たちも主と同じ姿に変えられなければならないのです。 イエス様は、苦難を通して全うされました。私たちが全うされるためには、他の道はありません。 4福音書を読んでみると、イエス様は他の人々とは根本的に違っておられたことがわかる。イエス様のお母さん、またイエス様の弟子たちでさえも、イエス様のことを理解できないことが度々ありました。 私たちも、主と同じ姿に変えられなければいけません。 イエス様の最後の頃を考えてみてください。イエス様は、人から全然省みられませんでした。また人から少しも誉を受けませんでした。 もし、信じる者が救われた者の間だけでなく、未信者の間でも、何か認められようとするのを見ます時、それは一番苦しい、悲しいことです。我々のイエス様は、そうではありませんでした。 この主イエス様と同じ似姿に変えられたいと願うならば、どうして人々にとり入れられたいと願うのでしょうか。 イエス様は、全能なる神であられました。けどイエス様は、たたかれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。 もしイエス様がそうしようと思われたら、それらの人々は、イエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。 けどイエス様は、すべてを耐え忍んで、自ら悩むをよしとされ、両手両足に釘を打たれ、おまけに十字架の上で、「お前は人を救ったのに自分を救うことが出来ないのか」とののしられました。 もしそうしようと思えば、イエス様のために12の天の軍勢が控えていましたが、主の一言で主を救うためにやってきたことでしょうけど、イエス様はそうされなかったのです。主は柔和にして、心へりくだったお方です。 私たちは、このようなイエス様と同じ似姿に変えられていきたいものです。 イエス様は、天のかおりを身にただよわせておられた方でした。地上に来ておられた時でさえも、イエス様は自ら、「わたしは、天にいる人の子である。わたしの国は、天国である」と言われました。 イエス様は、地上のあらゆる悩みや欠乏の上におられました。我々も主と同じように、この世のあらゆる環境から、注意していたいものです。 コリント人への手紙第I、15:47-52
天国に至る道は、散歩道ではありません。主と同じ似姿に変えられていく道は、確かに楽なものではない。この道は、地上における宿り人のたどる道であり、人類が歩む道です。 イエス様によって、主と同じ似姿に変えられていく人々の特徴は、きわめて天国に対するホームシックにかかっているということです。 社会に認められ、人々から誉れを受けるなどということは、全然考えたくもなくなります。もし、天国を慕い仰ぎ見るなら、私たちの悩みは、また苦しみは消えてしまいます。 けれども、それとともに天国がどういう所か、天国の性質も合わせて考えてみる必要があります。 天国には、ただ一人の人がいるだけです。それはイエス様をかしらとし、そして主の恵みによって救われた者をからだとする一人ひとりの信者です。 そしてこの一人の人の性質は、全く天的で、霊的であり、宇宙的であり、また困ったところのない透き通った性質です。ですから主は、2つのみことばをもって、私たちに非常に厳しく語っておられます。1つは、ローマ人への手紙8章9節 ローマ人への手紙8:9
「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」、意味は、救われていない。 また、 ピリピ人への手紙2:5
イエス様は、透き通った人格の持ち主でした。きわみまでご真実な方であり、また偽善を知らなかった方です。 また、二心を持たなかった方です。向こうに行って、あのように言い、こちらに来て都合のよいことを言うといった方では決してありませんでした。 私たちは、このイエス様の似姿に変えられなければいけません。 イエス様は祈りの方でした。勇気のお方でした。柔和にして、心へりくだった方でした。平安、平和、喜びのお方でした。 このイエス様の似姿に変えられなければなりません。これに至る道は、イエス様の歩みたもうた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた満ちた道であり、あざけりの道でもあります。 マタイの福音書10:24-25
ルカの福音書21:16-17
もう一言付け加えましょう。主イエス様の似姿に変えられていくことができる人は、まず第一にその罪が赦された人です。 御霊が、まだ私たちの内にされていないことを示しておられるなら、主のもとに行って、早く解決しなければいけません。 イエス様の似姿に変えられるためには、そうすることが必要か、人によく見られたい、認められたい、そんなことよりももっとすばらしいことが、我々を待ち構えています。それは、栄えある主の似姿に変えられていくことです。 主の血潮は、各々の罪またすべての罪より、私たちを清めてくださいます。イエス様の似姿に変えられていくことこそ、主は我々の生涯に意図されておられるところです。主は、我々の内にそうすることができるのでしょうか。 人殺しのモーセは、世界で一番柔和な人に変えられました。裏切り者のペテロは、最も大胆な証人となりました。教会の破壊者、迫害者パウロは、最もすぐれた教会の建築士に変えられました。 ローマ人への手紙8:18
もう一箇所、読んで終わります。 ユダの手紙1:24-25
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