引用聖句:ローマ人への手紙7章14節-8章16節
ガラテヤ人への手紙5:16-18、24-25
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 ドイツであるパンフレットをもらいました。題名は、「あなたは地獄へ行くために何をしたらいいのでしょうか。」、いい題名でしょ? 何も書いてない。何もしなくてもそのままだったら地獄だよ、と。ですから聖書は厳しく、「求めなさい。」、「本物を求めなさい。」と言っているのです。 本物を求めれば、結局壁にぶつかる。罪滅ぼしのために何もできない。本物とは罪の赦しです。神との平和です。永遠のいのちです。求めれば必ず与えられます。 今日読んでもらった個所はちょっと長かったのですけれど、二ヶ所の内容とは、信ずる者にとって大切なのは何なのであるか。 救われることだけでは十分ではない。御霊によって歩まなければ、御霊に導かれて、御霊に支配されて歩まなければならないということが強調されています。 イエス様を信ずる兄弟姉妹の歩みについて考えると、二つの歩み方があります。一つは、肉による歩み。もう一つは、御霊による歩みです。 イエス様を自分の救い主として受け入れれば、それで十分だと考えている人はたくさんいますけれど、イエス様はそれでは十分ではない。御霊による歩みをしなければならないと教えています。 今読んでもらいましたローマ人への手紙8章の8節、9節をもう一回お読みしましょうか。 ローマ人への手紙8:8-9
かつてイエス様は地上におられたとき、イエス様といっしょに歩んだ弟子たちは、すばらしい主の御力を目で見、耳で聞き、経験しました。 イエス様といっしょに歩いた弟子たちはどんな困難がやって来ても、行き詰まったことがありませんでした。欠乏を知りません。 病気の悩みはともにいるイエス様の御手によって全部いやされたのです。どんなにイエス様の敵が向かって来ても、イエス様の前では手も足も出ませんでした。 今日の私たち、主イエス様を信ずる者にも、このイエス様の力が現実のものとならなければならない。 また、イエス様とひとつになるならば、現実のものとすることができるのです。 私たちのあらゆる問題はイエス様によって全く消え、イエス様の御側近くにはべることにより、主のご臨在、主の平安がわれわれの心を支配し、限りない主の力がわれわれのうちを満たしてくださいます。 あるときイエス様は弟子たちに、「わたしはやがて天に帰る。けれど私の代わりに、わたしはあなたがたに助け主を与える。それはあなたがたを導き、力づけるのです。私が天に行くことは、かえってあなたがたのために益である。」と言われました。 弟子たちはこれを聞いて驚いたに違いない。どういう意味か全く分からなかったはずです。 けれど五旬節のときに、弟子たちは主が約束された御霊の降臨を受け、御霊に満たされたのです。御霊でいっぱいになったのです。弟子たちは、神の宮となりました。聖霊をうちに宿す者となったのです。 同じように御霊はわれわれのうちにも宿っておられます。コリント人への手紙第Iの中で、われわれにも当てはまることばが書き記されています。 コリント人への手紙第I、3:16
どうして忘れたの? コリント人への手紙第I、6:19-20
とあります。生きるまことの神がわれわれのうちに宿っておられるのですから、私たちはこの世における一番の財産家と言わなければならないのです。 けれども今日の問題は、御霊を宿してはいるが、果たして私たちは肉によって歩んでいるか、または、霊によって歩んでいるかということです。 聖書に書いてある、御霊による歩みを私たちはすでに自分のものとして実行しているのでしょうか。 主の一番喜ばれるわれわれの叫びは、「主よ、私はあわれな存在です。どうかあわれんでください。」という叫びであると聖書は言っています。 もしここまで主の御前に砕かれるなら、御霊による歩みにはいることは、そう難しくありません。人間の目から見ると、全く打ちのめされた、あわれな状態が、主の目から見ると、解放のよいチャンスに見えるのです。 ちょっとだけ三つの点に分けて考えたいと思います。 第一番目。霊肉の戦いについて。 第二番目。いのちである主イエス様について。 第三番目。聖霊の法則についてです。 いったいどうして信ずる者の間に違いがあるのでしょうか。同じ御救いにあずかり、同じ御霊を受けていながら、ある人は霊的であり、ある人は肉的です。 その訳は、どのキリスト者も二つの性質を持っているからです。霊的なキリスト者は肉に打ち勝っているのであり、肉的なキリスト者は肉に打ち負かされているのです。 これが私たちの間にも見られる違いの原因です。この二つの性質を持っているということを私たちは経験によって知っています。 結局、心のうちに二つの掟があり、一つは罪に引き込もうとし、一つは主イエス様に私たちを引き上げ、高めようとします。 一つは古い罪とアダムの性質であり、もう一つは新しい霊的な主イエス様の性質です。 生まれながらの性質は罪しか犯すことができません。それは魚が水の中でしか生きることができないように、古い性質は罪の中に溺れているのです。 そしてこの古い性質は、死を知らず、主に従わず、主に喜ばれません。この性質は私たちの中にも死ぬまで残っています。 けれど私たち信ずる者のうちには、イエス様を受け入れることにより罪を犯すことのできない新しい性質も与えられています。 この新しい性質は、主を認め、主に従い、主に喜ばれる性質です。この新しい性質は聖霊によって与えられます。 イエス様を信ずる者は、生まれながらの性質を持っているのであり、そして聖霊によって全く新しい性質も持っているのですから、霊肉の戦いが始まります。 多くのキリスト者はこの戦いを戦って疲れ、勝利の生活は不可能であると言って絶望してしまいます。 またある人は、戦いをやめて、この世を愛する者になってしまいます。パウロのように、ローマ人への手紙の勝利の声を上げる人は極めて少ないようです。ローマ人への手紙。前に読みました8章1節、2節です。 ローマ人への手紙8:1-2
それはどういうわけでしょうか。それは、多くの主を信ずる者は、肉の性質は良いところがひとつもないということを深く知っていないからです。 私たちはたましいの中核から、全体、隅から隅まで全く罪にまみれている存在です。 前に読まれたローマ人への手紙7章18節です。 ローマ人への手紙7:18
肉による歩みとは、自らの力で何かすることであり、そのように続くとき、主の勝利を自分のものとすることができません。 主イエス様の勝利は私たちが御霊によって歩んでいるときに初めて経験することができるのです。 御霊による歩みとは、内に住んでおられる御霊に、「自分は何もできません。あなたにすべてをおゆだねします。」と言って、内住の主にすべてをゆだねて歩む歩みを言います。 そのとき主を認め、主に従い、主に喜ばれる生涯を送ることができるのです。私たちは、また自らの力に頼り、肉によって歩んでいるのでしょうか。 もちろんイエス様に仕えるには、良い肉を持って仕えるでしょう。パウロの生きていた時代の信者がそうでした。 ピリピ人への手紙を見ると次のように書かれています。1章の17節です。 ピリピ人への手紙1:17
また、 ピリピ人への手紙3:2-3
また、ピリピ人への手紙の3章の18節です。 ピリピ人への手紙3:18-19
それが良い肉であっても、悪い肉であっても、生まれながらの肉である限り、イエス様の御前から厭うべきもの、嫌われるべきもの、憎むべきものです。 多くのイエス様を信ずる者は、自分で意識しないかもしれないけれど、自分の力で、自分のために、自分によって色々なことをやっています。 イエス様は私たちの身代わりに死に、よみがえり、そして、高く、御座にのぼり、そこから私たちに聖い霊をお注ぎくださいました。 それは私たちを変えて、御霊により、主のために御霊を通してすべてのことを行なうようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためだったのです。 何かことが起こると、すぐに、いつも主の御前に行き、「私には何にもできません、あなたは私のうちにある柔和であり、謙遜であり、愛であり、すべてですから、どうかあなたがこのことに解決を与えてください。」、というのが、御霊によって歩む人の特徴です。 私たちはときには次のようなことを経験したかもしれない。自分の生まれながらの性質を恐れて、何とかしてそこから抜け出したいと考え、主におゆだねして、全く任せきります。あとから気が付いてみると、知らず知らずのうちに古い性質が出ないで済んでいた。 このような経験をなさった方がいるかもしれないけれど、もしそれが一時的であるなら、御霊による歩みとは言えない。常に古き人に打ち勝っていって初めて、御霊によって歩んでいると言えるのです。 御霊による歩みの中にはいりますと、勝利のために戦うことが終わり、勝利のうちに休むことができます。 内住の主にすべてをおゆだねし、主にすべてをしていただくという任せきった生活が、御霊による歩みです。 もうすでに旧約聖書の中で次のように書かれています。出エジプト記の14章の13節からお読みいたします。 出エジプト記14:13-14
立って、主の救いを見なさい。 あるとき、姉妹はなかなかいいことを言ったのです。「私は頑張りません。」、頑張っても何にもならないと分かったからです。 いくら頑張っても疲れることだけなのです。しっかり立って、主の救いを見なさい。 イスラエルの民は自分で何かをなそうと努力しません。主が何をなし給うかを、ただ主にゆだねて見ているだけでした。 昔の話なのですけれど、日本と支那が戦ったとき、日本兵は戦車をたくさん使いました。支那の兵隊は何とかして戦車をダメにしようと考え、狙撃兵を組織し、面白い戦法を考えました。 それは、日本の戦車がやって来ると、一発だけ鉄砲を撃ちます。すると戦車は立ち止まって、どこから弾が来るか見極めようとします。そのうちにしばらく経って、また一発撃ちます。 そのうちに戦車の中にいる兵隊は面倒臭くなって戦車から首を出し、弾の来る方向を見定めようとして出て来ます。それを狙って人を殺し、戦車を分捕るという戦法でした。 これと全く同じように、悪魔が用いる戦法は、いつも信ずる者の己を外に出させようとすることです。悪魔の手に乗り、うっかり自分を高めると、また、自分で何かをやろうとすると、失敗して打ちのめされてしまいます。 もし私たちが無力になって何もやらないと、御霊が代わりにやってくださいます。そのとき初めて勝利の生活を送ることができるのです。 ですからパウロは、前に読んでもらいましたガラテヤ人への手紙5章で信者たちに御霊による歩みをするようにと切に願ったのです。もう一回読みましょうか。5章の16節です。 ガラテヤ人への手紙5:16-17
いくら頑張っても。 ガラテヤ人への手紙5:18
ガラテヤ人への手紙5:24-25
御霊による歩みとは、前に話したように、戦いが止み、御霊が私たちのうちに、また、私たちを通してなさる主のみわざを見て生活することを意味します。 第二番目。いのちである主イエス様について少しだけ考えたいと思います。 パウロは霊肉の戦いが終わったとき、ローマ人への手紙7章25節に次のように喜びの声を上げたのです。 ローマ人への手紙7:25
私は何というみじめな人間なのだろう、と言う男は急に喜びに満たされて言えたのです。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します。これと同じ意味を持っているみことばが、ガラテヤ人への手紙の2章20節にあります。みなさん暗記している、もっとも大切なことばのひとつではないでしょうか。パウロは、 ガラテヤ人への手紙2:20
パウロは、キリスト者のいのちは、イエス様のいのちであるべきだと言っています。 信ずる者のいのちは、今まで持っていたいのちよりマシないのちではなく、御霊によって新しく与えられたイエス様のいのちでなければなりません。 新しく生まれるということは、良くなったことではなく、イエス様ご自身が御霊によって私たちのうちにお入りになったことを意味します。 けれど、うちに与えられたこの新しいいのちは、そのままであって良いのではなく、いよいよ成長して、外に現わされていかなければならないのです。 パウロは、この点がガラテヤの信者たちに欠けていることを知り、彼らのために悩み、苦しみました。ガラテヤ人への手紙4章の19節です。 ガラテヤ人への手紙4:19
もう、この主の恵みによって救われた。主の御救いにあずかるようになった兄弟姉妹は、パウロの悩みの種になりました。 あるところにイエス様を信ずる夫婦がいて、子どもたちをもっていたのですけれど、その教育に心を悩ませていました。自分たちには子どもを教育するのに、あまりにも忍耐が足りなさすぎると考えていました。 そこで知り合いの兄弟を招き、このために祈ってくれるように頼みました。するとその兄弟は夫婦に何と言ったかと言いますと、「祈っても、おそらく聞き届けられないでしょう。」夫婦はもちろん驚いたのです。 その訳を尋ねますと、兄弟が言うには、「あなたがたに必要なのは忍耐ではなく、イエス様ご自身です。忍耐、謙遜、柔和、愛、それらはバラバラに与えられるものではない。イエス様ご自身のうちに宿すとき、ともに与えられるものだから。」、と説明したのです。 私たちがイエス様に宿っていただくとき、私たちの必要な謙遜、柔和、愛、節制、その他のあらゆる徳はイエス様のいのちとともに、われわれのうちに与えられるのです。 例えば、永遠のいのちとはいったい何なのでしょうか。物ではない。イエス様ご自身です。ヨハネの手紙第Iの5章を見ると、ヨハネは次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、5:11-12
イエス様はいのちであり、聖さであり、謙遜であり、愛です。 聖さとは何でしょう。私たちは段々聖くなっていくと考えますけれど、それは聖さの実です。聖さはイエス様ご自身です。 コリント人への手紙第Iの1章30節。何回も引用した大切なことばです。 コリント人への手紙第I、1:30
私たちが忍耐を必要としているのでしょうか。忍耐はイエス様ご自身であり、私たちに愛や聖さが欠けているのでしょうか。イエス様ご自身が愛と聖さなのです。 イエス様ご自身はわれわれの持っているありとあらゆる問題の答えとなってくださいます。 パウロは、「キリストは私のいのちである。」と告白したのです。私たちもいよいよこの驚くべき現実に心の目を開いていきたいものです。 私は自分の力では、主よ、あなたのみこころにかなう生活を送ることができません。どうか内に住んでおられる御霊が私を導いて、みこころにかなう歩みをなさしめてください。 このような砕けた、主にお任せする生涯に入ったら、本当に幸いです。 最後に短く、第三番目ですけれど、聖霊の法則についてちょっとだけ考えたいと思います。前に兄弟に読んでもらいましたローマ人への手紙8章1節、2節を見ると、この聖霊の法則について書かれています。 ローマ人への手紙8:1-2
とあります。パウロは生まれ変わって信者になってから、もう長い間、罪に定められているような重い空気の中に住んでいたようです。 そして、どんなに自分で努めても、みこころにかなった歩みをすることができないと悟っていました。 その経験を彼はローマ人への手紙8章8節に言っています。 ローマ人への手紙8:8
また、前に引用したローマ人への手紙7章24節で、 ローマ人への手紙7:24
と。 この同じパウロが、ピリピ人への手紙の4章13節で全く違うことを言うようになったのです。ローマの刑務所の中で書いた証しです。 ピリピ人への手紙4:13
と。このような大きな変化が、なぜパウロのうちに起こったのでしょうか。その答えは、今読みましたローマ人への手紙8章1節と2節に書かれています。 御霊の法則、御霊の原理は、罪と死の原理より、さらにまさって強いのです。 ここで少し、この二つの法則、二つの原理を見てみましょうか。法則、原理とは、いったい何なのでしょうか。法則とは、私たちがいつも繰り返すことです。 例えば人間の定めた法則は、いつも繰り返し、同じように守らなければならないのです。自動車で町を行くとき、今日左側を走り、明日右側を走って良いということはありません。いつも左側通行を守らなければ罰せられます。法則には例外が無いからです。自然法則も同じです。 アメリカに行っても、ロシアに行っても、東京に行っても、本を落とせば下に落ちます。例外無く下へ落ちます。それは引力があるからです。引力の法則に似た法則が、われわれの心の中にもあります。 生まれながらの古い性質は、いつもこの世のことしか思いません。パウロはいわゆる伝道者に向かってさえ言いました。彼らの思いは地上のことだけです。 けれど私たちは古い性質を持っていても、地上のものを思わないで、上のものを求めなさいという、コロサイ人への手紙3章2節のみことばを心に留め、天的なものの中に無限に成長していかなければならない。 新しい性質は、地のものを求めようとしません。しかし、私たちは死ぬまで罪と死の法則を心の内に宿しています。これはパウロも深く経験したことです。 前に読んでもらいましたローマ人への手紙7章18節から24節までを見ると分かります。パウロは本当に戦いました。私はほんとうにみじめな人間です。救われた者として。主の恵みを経験した者として。 けれども問題は、私たち主イエス様を信じる者はいかにしてこの罪と死の原理、法則から解放されるかということです。 法則が別のものに変えられるか、また、その法則を支配するさらに強い法則が定められないかぎり、前の法則から解放されることはできません。 人間の法則はもちろん簡単に変えられます。私はドイツへ帰って、車で左側を走るなら、すぐ罰せられます。日本で右側を走れば、これもまた罰せられます。人間の手で作った法則は簡単に、時と場所が変われば変わります。 万有引力の法則があっても、本を手で支えていたら、決して下へは落ちません。引力より手の力が強いからです。 同じように、信ずる者もうちに罪と死の法則が潜んでいますけれど、それは違う、より強い法則によって留められているのです。ローマ人への手紙8章2節です。 ローマ人への手紙8:2
とあります。御霊によって主イエス様は私たちのうちに住んでおられ、私たちは主のよみがえりの力にもあずかっているのです。この事実に心の目が開かれれば幸いです。 けれども、この御霊の原理、法則はいかにして私たちの外に現われるのでしょうか。すなわち、御霊の原理の現われについてもうちょっと考えましょうか。 何十年か前に、色々な人がドイツ語を習いに来ましたが、ドイツ語を読むのに苦労しますが、私にとっては、ドイツ語は母国語ですから、読むのは本当に極めて簡単です。 反対も同じです。私が日本語を読むのは極めて難しいことですが、日本人が日本語を読むのは、母国語ですから、本当に簡単なことです。同じように、もし、主イエス様がわれわれのいのちなら、御霊は私たちの出来ないことを簡単にやってくださいます。 そのとき、罪と死の法則は力を少しも外に出すことが出来ません。パウロはこのような勝利に到達するまでに長い時を要したようです。ですから、ローマ人への手紙7章18節に、 ローマ人への手紙7:18
パウロは長い間、勝利を自分の良い意思でいようと努力しましたが、パウロがそのように努めている間、主を喜ばせることはできなかったのです。ただ、主を悲しませるばかりでした。 多くの兄弟姉妹は、良い意思を持って何とかしてクリスチャンらしい生活を全うしようと考えますけれど、それはちょうど、ガソリンの無い自動車を押して、歩くようなものであり、大変な骨折りです。 ローマ人への手紙6:23
ローマ人への手紙8:2
とあります。この二つのみことばには、同じ賜物について書かれているのです。 私たちは勝利の生活を送るために、新しい賜物を受ける必要はありません。けれども勝利の生活を送るために、イエス様がすでに与えてくださった賜物を、心の目を開くことが大切です。 イエス様はわれわれにすべてを与えてくださったのです。私たちは主が与えてくださったものに向かって、目を開きさえすれば良いのです。 このローマ人への手紙8章2節には、解放したからである、と過去形で書かれています。 これをみると、自らの努力は全くむなしい、そればかりではない、妨げであることが分かります。 主にとって一番大嫌いなことばのひとつは、頑張るということばではないでしょうか。もし私たちが自分の努力とすべての意思を主に明け渡すならば、実際生活に御霊の原理がいかに力強いかを経験するはずです。 イエス様は山上の垂訓で、「空の鳥を見よ。」、と言われました。 けれどあの鳥に万有引力の法則を知らないのか。よく落ちないで空を飛んでいることができるものだ。と声を掛けることができるならば、鳥は何と言うでしょうか。 自分は引力もニュートンも知らない。この世で飛んでいるのは、私、鳥が持っている本来の性質だからだ、と答えるに違いない。けれど鳥にも引力の法則が働いているのです。鳥が病気になり、飛ぶ力が無くなれば、地に落ちてしまいます。 イエス様が本当に私たちのいのちになっているなら、御霊の法則は罪と死の法則より強いということが分かります。御霊がわれわれのうちに満ちておられるなら、主のみこころにかなう生活をすることは、実に簡単なことです。 私たちの意思で、努力でするのではなく、われわれのうちに住んでおられる御霊がみこころにかなう生活をなさしめてくださるのです。 忍耐のない者が忍耐を持つように努めるのは、大変な戦いです。戦いの結果は絶望です。けれど聖書は、私たちの努力をもってしては、決して主のみこころにかなう歩みはできない、と教えています。 またイエス様は、私たちが生まれつきの性質で、できないことをよく知っておられ、そのために御霊を遣わしてくださいました。 私たちは、与えられたキリストイエスにあるいのちの御霊の原理をもって、善悪をわきまえることができます。 みこころにかなう生活をするために、教育や教養を積んでもできません。ただ、われわれのうちに住んでおられる主ご自身によってのみ、みこころにかなう生活ができるのです。 そのとき、自分の話した声が大きすぎた。この笑い方はいけなかった。こうしたことは誤った動機だったなどと色々御霊によって教えられます。 どんなに自分が注意して努力しても、自分の歩みを正しく保つことはできません。桃の木は桃の木です。よく話す人はよく話します。生まれつきの性質だからです。 御霊の新しい、強い法則に目を開かなければ、決して自らの古い性質を直すことはできません。 私たちのうちに宿っておられるイエス様は、ご自分で私たちの生活を自由に導いてくださるのです。 もし、だれか、愛することができない人がいるならば、主に、「どうかイエス様、あなたによってあの人を愛させてください。」と祈るなら、御霊の法則がどんなに強いか分かるようになるのです。 このローマ人への手紙8章3節、4節、もう一回読みましょうか。 ローマ人への手紙8:3-4
ここでは二つのことが書かれています。一つは、イエス様がわれわれのために、もうすでに何を成してくださったか。二番目に、イエス様はわれわれのうちに、何を成そうと願っておられるかについて書かれています。 イエス様は罪と死の法則を無力にするため、罪を担って亡くなられたのです。そして内住の御霊が掟を全うなさることにより、御霊の原理が、罪と死の原理より強いことが分かります。 もし私たちが霊によって歩むなら、内住の主イエス様はみこころにかなった歩みをなすことができることをはっきりと知るようになります。 霊による歩みとは、いったい何を意味しているのでしょうか。それはひとつの働きではなく、歩みです。 かつては、みこころにかなうと戦い、努力していたが、今は、内に住んでおられるイエス様がすべてを成してくださるのです。 パウロは肉による働きと御霊の実というふたつのことばを使っています。私たちは自分の力によって、肉によって努力することはできますけれど、そのとき実を結ぶことができません。御霊の実は内住の主に結ばれてくるものです。 二番目に、御霊による歩みは、全く御霊に従わなければダメです。 肉による歩みは肉に従っていることを意味しているのです。 ローマ人への手紙8:5-8
霊による歩みは、霊に従っていることを意味します。 霊に従って歩むとき、初めて、御霊の法則力を知ることができ、現わすことができ、パウロのように、われはキリストとともに十字架につけられたり、われもはや生きるにあらず、キリストわが内にありて生きるなり、と言うことができるのです。 御霊のご支配のうちに全く自分の身をゆだねて初めて、御霊による歩みができるのです。最後にもう一ヶ所読んで終わりましょうか。 コリント人への手紙第II、13:13
神の愛はあらゆる霊的祝福の源です。 イエス様の恵みにより、すべての祝福は私たちのものとなるべき備えられています。そして御霊との交わりは、この測り知れない富を私たちのものとする道です。 御霊は、われわれに、イエス様の持っているあらゆる富を与えるためにおいでになられたのです。 私たちが信者になったとき、同時に、聖霊を宿っている神の宮となりました。 御霊は神のみこころをわれわれに示し、私たちを導き、祈らしめるために、われわれのうちに住んでおられます。 私たちは御霊が私たちの支配者であることを感謝し、その支配にすべてをゆだねたいものです。 ある、寂しいところで住んでいた夫婦がいまして、ある旅人を通して救いにあずかるようになりました。 けれど旅人はもちろん、また去らなければならなかったのですけれど、そのとき、今から大切なのは、あなたがたは自分のものではないこと、内に住んでおられる聖霊の宮であることを知ることですと言って立ち去りました。 旅人が帰ってから、主人は祈ろうと思っていたのですけれど、祈られません。 色々原因を考えますと、今までたくさん飲んでいた酒がみこころにかなわないのではないかと気付きました。 それで奥さんといっしょに聖書を調べ、酒について書かれているところを探したのですけれど、まだ信仰を持ったばっかりですから、結局探しても見つからない。けれど内にささやく声は、酒をやめる、ということです。 主人は奥さんに頼んでそれを隠してもらったところが、また自由になり、祈ることができたのです。 あとで前に来た旅人がもう一度自分のところへやって来たとき、夫婦はその旅人に、その酒のことを話しました。 「あなたもいない。聖書も分からない。困った。けれど心の中に住んでおられるお方に聞き従ったから、助かった。」と言いました。 旅人は、「その、心の内に住んでおられるお方にいつも従っていれば、大丈夫だよ。」と答えたのです。 私たちは内に住んでおられる主を個人的にはっきりと知っているのでしょうか。 そして、内に住んでおられる御霊の声に単純に聞き従っているのでしょうか。 |