御霊に満たされなさい


ベック兄

(吉祥寺学び会、2001/06/05)

引用聖句:エペソ人への手紙5章3節、5節、8-14節、18-21節
3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
10そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
11実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
13けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
21キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

今読んでくださった個所はいうまでもなく、もうすでにイエス様に出会ってイエス様を信じるようになった人々に書かれたものです。パウロだけではなく他の使徒たちも、何回も何回も、繰り返し繰り返し聖霊に満たされなさい!と書いたのです。
ちょうど一昨日、日曜日は五旬節でした。日本ではあまり大切にされない日かもしれないし。日本のカレンダーでさえも書いてないんですね。クリスマスぐらいがせいいっぱいなんです。イースターのことも書いてないし、昇天の記念日のことも書いてないし、五旬節も書いてないしね。
その記念すべき日とは一昨日でした。外国でこの日は大切にされるだけではなく、学生たちは2週間ぐらい休みのところもあります。何処の学校でもそうですしそれを利用して多くの人は特別集会を設けたりしますし、ドイツのアイドリンゲンではいつも若者だけ集まるんです。
少なくとも4千人以上集まるんです。もちろん毎回はっきりと福音が宣べ伝えられますしいろいろな人々が導かれるようになります。

五旬節とは非常に大切な日でした。いわゆる教会の誕生だったでしょう。
五旬節とは聖霊、約束された神の霊がこの地上に注がれました。イエス様の復活の後五十日目に起こった出来事だったのです。イエス様はすべての人のために完全な救いを成就してくださいました。けど、この救いとは人間一人一人のものにならなければ役に立たない。
銀行でいくらお金があっても下ろさなければ食べれなくて餓死して死んじゃうかもしれない?
父なる神は永遠の昔から私たち一人一人の救いの計画を建てられました。そしてニ千年前にこのご計画を自分のいのちを与えることによって成し遂げられた。
この成し遂げられた救いは御霊の働きによってのみ人間のものになります。

弟子たちがいつ新しく生まれ変わったかといいますと、間違いなく五旬節の時でした。弟子たちにとってこの五旬節とは考えられない大切な日でした。あらゆる心配から、不安から解放され彼らは全世界に行ってイエス様を紹介するようになったのです。
もう彼らは臆病者そのものだったんです。もうイエス様について話さない、もうおしまいと彼らは思ったんです。けども五旬節の日から彼らは変えられました。結局神の住い、聖霊の宮になったのです。

前に話したことがあるんですけども、いわゆる無心論者、哲学者であるフランスのサタレーと言う男はよく福音を聞いたし、けどもう結構ですという態度を取ったんです。どういう気持ちで言ったか、死んだからもうわかりません。
今司会の兄弟が言われた、疲れについて話されている時、ちょっとドイツの詩人政治家でもあったゲーテのこと考えたんです。彼は死ぬ瞬間、もっと光を!と言ったそうです。
得られたかどうかわからない、彼の親しい友だちの多くはほんとに新しく生まれ変わった人々だったんですけども、いつも頭下げたくない、もう傲慢のかったまりだった。サタレーもそういう男でした。彼はまあつぎのように自叙伝に書いたのです。「私の人生はもうどうすることもできないものになった。」

彼は喜びのない、平安のない、希望のない人間になってしまったんです。いったいどうして?彼は確かに変わった表現をつかったんです。
「私は地下室で聖霊を捕まえ、それを追い出した」、聖霊とは真理の御霊と呼ばれ聖霊は光を与えるものです。彼は意識して頭を下げたくなかったから、悔い改めたくなかったからやっぱり喜びのない、希望のない人間になったしまったのです。
聖霊の働きによってのみ人間は自分の罪を認めるようになり、悔い改めるようになりイエス様の提供されている罪の赦しを自分のものにすることができます。
けども今読んでくださった個所を見てもわかります。すなわち聖霊の宮になったとしても、問題なんです。多くの聖霊の宮になった人々とは、勝利の生活を慕い求めてます。けどいくら努力してもいつも失敗に終わります。

私たちは迫害されたり、誤解されたり、悪口言われたりすることがあるかもしれない。私たちはおおいに悩んだり未解決の問題に直面したりすることがあるかもしれないけど、主の言葉、聖書はどのようなことがあっても絶えずまことの平安と心からの喜びを持つことができると約束されています。
多くの信者はイエス様に出会い、回心の経験をしましたけども日常生活は喜びがない。本当の平安もない。いかなる勝利も知らない、絶えずあがったり下がったりしているのです。
パウロは今読みました個所によると、この現実について書いたのです。すなわちパウロがはっきり言ったのは、イエス様に出会った人も罪の奴隷となることができる。感傷的になり分別を失うということもあるうる。
信者であっても、ねたんだり肉の欲に負けたり、お互いに争いあったりすることも可能である。可能でなければ、ああしてはいかんこうしてはいかんと書くべきなのではないなのではないでしょうか。
信ずる者だれでも主にある兄弟姉妹を愛すべきであるということを知っています。ヨハネは手紙の中で次のように書いたのです。

ヨハネの手紙第I、3:16
16ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ヨハネの福音書の3章18節は有名な個所ですけれどもヨハネの手紙第I、3章16節も同じように大切な個所である。

ヨハネの手紙第I、3:16
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

私たちは勉強して理解したのではない、私たちは愛がわかった、愛されてることをわかった!ですから私たちは兄弟のためにいのちを捨てるべきです。
もちろん兄弟姉妹だけじゃあなくて、敵でさえも愛すべきであると聖書ははっきり言ってるのです。けど現実を見ると一体どうなのでしょうか?
たとえば子どもが生まれても成長しなければそれはちょと大変な問題になります。生まれた時皆うれしくて喜びの種であるかもしれない。全然成長しなければ、大きくならなければ自分の力で食べられなければ、また自分の力で空気を吸うことができなければやっぱり悩みの種になってしまいます。
それと同じように、信仰に導かれた人々が霊的に全然成長しなければ、霊的な赤ちゃんにとどまるならばそれは周囲の者にとって大きな悩み重荷なのではないでしょうか。

それは次のようなことによっても現れてきます。自分が中心にならなければつい怒ってしまったり、自分の殻に閉じこもったりすることがあります。あちこちの集会に行くとはっきりわかります。
すなわち集会の中で本当の成長がないならば、結局みんな律法的になります。ああすべきだ、こうすべきだ、そうしないとだめなのではないか。あるいは集会の中でほんとの成長がなければ、知らないうちに自分は「OK!」と思い込んで傲慢になります。
また集会の中でほんとうの成長がなければ、それは死んだようなものとなり、冷たいものになります。結局周りの人々にとって魅力的ではなくなってしまいます。救われるためにどぉ〜したらいいなのでしょうか?言う声は聞けなくなってしまいます。

それは一体何が原因なのでしょうか?パウロが病んでる所を指摘して明るみに出し「御霊に満たされなさい!」とはっきり言ったのです。もちろんこれはパウロの提案でなく、主ご自身の御心であり命令なのです。
御霊に導かれる一番の早道は、十字架につけられたイエス様を心のまなこで見ることであり、十字架につけられたイエス様について考えることなのではないでしょうか。
いばらの冠がイエス様の頭の上に置かれました。イエス様の御手と御足は釘で打ち抜かれました。われわれの身代わりとして、主イエス様はわれわれのわがままのために死なれました。私たちはみんな律法を犯したものです。
そして罪の報酬は死であると聖書ははっきり言ってるのです。私たちの造り主である主イエス様はわれわれのかわりに罰を引き受けることをしてくださいました。
父なる神は私たちのすべての債務を犠牲のために備えられた神の小羊であるイエス様の上においてくださいました。イエス様は私たちの罪の贖いであったのであり、イエス様の死は救いと贖いの代価でもありました。

イエス様はほんとに息を引き取り死んでくださったあとで葬られたのです。けどもイエス様の約束の通り三日目に復活なさいました。よみがえられたお方としてのイエス様は少なくとも五百何十人の人々に出会い、そして四十日目には弟子たちの目の前で天に引き上げられたのです。
それからまあ十日たってから、すなわちイエス様がよみがえられてちょうど五十日あとに、120人の兄弟姉妹はイエス様が命令されたように1箇所に集まりました。
ルカの福音書の24章の49節を見ると次のように書かれています。

ルカの福音書24:49
29さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

とあります。復活の五十日後で、弟子たちは御約束が成就されたことを経験しました。すなわち聖霊は120人の兄弟姉妹の中に住まわれるようになったのです。
今までの信ずる者はこの御霊の影響を受けたし、けども彼らは住いにならなかったのです。ですからイエス様はわたしはいないほうがいい、と言われたのです。イエス様はただ弟子たちとともに弟子たちの傍にいただけなのです。
いつもじゃない、イエス様は時々弟子たちが眠ってしまったとき荒野行ったり山に登ったりして祈り続けたのです。その時弟子たちは一人ぼっちだった。
けども五旬節からイエス様は彼らとともによりも、彼らの中に住むようになったのです。彼らは神の住い.聖霊の宮になったのです。

使徒の働き2章の4節はこの出来事について短く語っております。

使徒の働2:4
4みなが聖霊に満たされ、

とあります。聖霊の支配を通してこの120人の人々は根本的に変えられるようになったのです。そしてこの五旬節以来、イエス様を自分の人生に受け入れるすべての人々は、聖霊をももつようになります。
イエス様は父から離れられないし、御霊ももちろんイエス様から離れられないのです。イエス様を救い主として受け入れる者は、同時に御霊も受け入れるようになり結果として御霊の宮になります。
もちろん私たちは聖霊を感ずることはできないけど、私たちは御霊の内住を計算に入れてそれを通して主に喜ばれる生活を営む力を受け取るということが大切です。

わたしたちは聖霊が望むような余地を与えなかったでしょう。私たちは私たちのうちにいる聖霊をしばしば悲しませたり、御霊を消してしまったりしたことでしょう。私たちはみなしばしば御霊に満たされなかったことがあったでしょう。これはすべて敗北の根拠です。
いかなる信者も自分の力で主に喜ばれる生活を営むことはできません。それですから御霊に満たされなさいという命令が、われわれにもあてはまるのです。問題はいかにしてこの御霊に満たされるのかということです。
すべての本当のキリスト者の切なる願いは次のようなものです。

私は力強さ愛に満たされたい。
私は私よりも強い力を必要としてるけど、どうすれば聖霊に満たされるのでしょうか?

聖書全体の答えとは、主の霊は謙遜な砕かれた心の中にのみ支配することができる。御霊はイエス様の血潮が聖められたところにしか支配することができない。
私たちは主の霊に満たされたいと思うならば、イエス様の血潮の拠る聖めを経験すべきです。
言い訳をしたり、よく見られたりしようとしてはいけません。悪魔は私たちのしてることはたいしたことはないと言うかもしれない。けど悪魔は偽る者、欺く者、人殺しです。

すべての罪は主の目には恐ろしいものです。聖なる主はどんなにちっちゃな罪であっても赦すことができません。私たちは光の中に来てもはや何一つ隠したくないと思うならば、イエス様の血潮による聖めの力を知ることができるのです。
いかなる罪も絶対に赦せないほどのひどいものはありません。ヨハネの手紙第Iの1章9節を見るとどういうふうに聖められるかについて書かれてあります。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、

条件付ですね。もししなければ、もちろんだめ。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ヨハネの手紙第I、1:7
7御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

エペソにいる人々とはこれを経験しました。彼らは赦された罪とはもう罪ではない!光である!と知るようになったから大いに喜ぶことができたのです。
けども使徒たちは、共通して信ずるものに書き送ったのです。すなわち主の血潮による聖めの後、信じるもの自身のすべてを主にゆだねることが大切であるということです。

ローマ人への手紙6:16
16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

われわれの心、手、足、目、耳、舌すべてのものは主に捧げられねばなりません。主は本当に支配主、すなわち主とならなければならない。主は私たちを自由に用いる力をもたなければならない。主はすべてのことにおいて優先権をもたなければならない。
何事も主によって支配されるべきです。主に満たされること、御霊に満たされることとはそれなんです。
確かにある人々は、「いやあ、私はイエス様信じてます。イエス様のためだったら死んでもいい。殉教の死を遂げてもいい。」といいます。けどもひとつのことだけは確かでしょう、すなわち本当に主のために生きるよりも死ぬことのほうがはるかに優しいなのではないでしょうか。
主のために死ぬことだって時間的なもので、主のために生きることとは絶えざる自己否定であるから、ずっと大変なのではないでしょうか。

パウロは、

ローマ人への手紙12:1
1あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

と書いたのです。余すところなく主に捧げるべきである!と、使徒たちはみんな強調したのであります。
結局、意識的な献身は必要であるということです。私はもはや自分自身のために生きているのではない、「私はすべてをあなたにおゆだねいたします、ただあなたにだけお仕えしたいと願います、どうか導いてください。私の思いではなくあなたの思いだけがなりますように。」、これこそがわれわれの絶えざる態度であるべきなのではないでしょうか。
この態度を取ったならば、主が私たちを器として、管として用いることができるようになります。御霊に満たされるということとはそいうものなんです。

私たちは残すことなく主に明渡したならば、主が私たちを受け入れてくださったことを、そして私たちは主の器であることを幼子のように信ずることができます。私たちの主はあらゆる罪から聖けてくださることがおできになる。
けど私たちは、聖められた後すべてを主に捧げるべきです。それは主が私たちを満たし、お用いになることがおできになるためなんです。救われるためにじゃない、もうすでに救われてるから。けども用いられるためにどうしても必要です。
聖められた後意識的に献身するようにならないならば、悪魔が力を得て、聖められる前よりも深い罪の中に沈んでしまうことがありうると、イエス様ははっきりと言われたのです。
ちょと見てみましょうか、

ルカの福音書11:24-26
24汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。
25帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
26そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

と。イエス様の血潮によって聖められた後、どうしてもまったき献身が成されなければならない。意味は、「私は自分のために生きたくない。代わりに死なれ復活なされたイエス様のために生きたい。」という意識的な献身が要求されています。
もはや私ではなくキリストが私のうちに生きているのです。もはや自分自身のために生きるのではなくイエス様のために生きたいのです。
これは一方において、最大の犠牲であるかもしれないけど、他方において最大の解放でもあります。イエス様に自分を明渡す者は、主が私たちを受け入れてくださったこと、そして主は私の主であるということを知ることができ、はっきりとした確信を持つことができるのです。

主の支配の結果とは、前に話したように御霊に満たされることです。
主の御霊に満たされることとは、例えば異言とは全然関係がない。したがって感情とは無関係であるということです。信仰によって救われる。

ガラテヤ人への手紙3章2節を見るとパウロは、あなたがたは信仰によって御霊を受けたのです。そして信仰は感情や理性にもとずくものではなくただ神のみことばだけにもとづくものです。聖霊を受けるのは感情や認識や努力によってではなく、単純な信仰によるのです。
私たちはどのようにしてイエス様を知るようになったなのでしょうか?ちょっと答えられない。唯一の答えとは、主は恵んでくださったからです。主がみもとに来る者を決して拒まないと約束してくださったから、私たちは主が私たちをも受け入れたと信ずるようになったのです。
理性でもって掴めない、気持ちもついてこない。

主は約束してくださったから安心して信ずることができます。私たちが理解しているかいないかは大切ではない。主がみことばによって語られることだけが大切です。
結局、大切なのはわれわれの理性また感情ではなく主のみことばだけです!

確信の土台は主のみことばだけです。私たちはそれを理解できるからじゃなくて、主がそのことをはっきり言っておらるるから信ずることができます。主は、主が語られることを思っておられます、すなわち主は適当に処理することをなさらないお方であり、うそ偽りの全然ないお方です。ですから安心して信ずることができるのです。
パウロは当時の信ずる者に、「あなたがたは信仰によって救われた、信仰によって御霊を受けた」と書いたのです。
言い表わされた罪は赦され忘れられていると、初代教会の人々は確信したから、結局用いられるようになったのです。赦されているという確信の結果は何かと言いますと、愛と感謝の現れとして、私の人生は今からただ主おひとりのものとなるべきであるということになるに違いない、すなわち意識的な献身が現れるに違いないのです。

主よ。私はあなたにわたしの持っているすべてをお捧げいたします。私自身もお捧げいたします。なぜなら私はあなたの御手の中にある器にだけになりたいからです。
のようにして自分自身を意識的に主に明渡す人は、主が受け入れてくださったこと、そして御霊に満たして下さったことを信じ感謝することができるのです。みことば、聖書ははっきりとそのことを語っています。
それですから私たちはそのことを信ずることができ、感謝することができます。そしてこのことはわれわれの理性や感情とは何の関係もありません。なぜならそのことは信仰の事柄であるからです。

ひとつの大切な質問があるでしょう。すなわち、御霊に満たされた結果とは一体なんなのでしょうか?
結局、結果は問題なんです。たとえば悔い改めたら結構ですけど、主は悔い改めの実がなければダメよね。だれでも失敗してから反省しますけども、それだけでは十分ではない。まあ御霊に満たされた結果とは何なのでしょうか。
第一に、あなたはあなたの救い主について、あなたの家庭で、会社で、親しい人や友達の中で証をする勇気をもつようになります。あなた方は力を得私の証人となるべきなのではない、私の証人となる。こういう勇気が必ず与えられます。
そしてわれわれの周囲とはも、ちろんわれわれの証を待っています。もちろん周りの人々はキリスト教という宗教を求めているのではない。心の平安絶えざる喜び生ける希望を求めているのです。必要としてるのです。

あなたの周囲は本当の平和を必要としてるのです。けどそれは宗教によって得られるものではありません。いわゆるキリスト教と呼ばれるものは全然必要ない。イエス様だけが必要です。
イエス様がすべての中心となることこそ御霊の与えられた使命です。五旬節の当時の御霊の目的と、今日における御霊の目的とはもちろん同じです。変わっていない。すなわちヨハネの福音書16章14節に書かれてます。

ヨハネの福音書16:14
14御霊はわたしの栄光を現わします。

とイエス様は言われたのです。御霊はわたしの栄光を現す、イエス様だけが中心になられると非常に大きな喜びが現れます。この喜びは、多くの人々をひきつけただひとりほんとに満たしてくださることのできるイエス様のみもとに人々を引き寄せてくれます。聖霊に満たされると証する勇気と喜びに満たされます。

第二番目の聖霊に満たされた結果として言えることとは、忠実になります。
人があなたを認めようが認めまいが、あなたは主があなたを建ててくださったところで、主に仕え主のなさるようにしたいと思うようになります。
現代の一つの特徴とは不忠実ではないでしょうか。不真実な人間は自分のことだけ考え一つの罪からべつの罪へと移っていきます。不真実な人間は祝福を広めるのではなく悩み苦しみを広めます。

聖霊に満たされた第三番目の結果として、主が祝福し実を結ばせてくださることを経験します。いわゆる山上の垂訓の中でイエス様は次のように言われました。

マタイの福音書7:16
16あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。

結局結果を見なさい、実を見なさいということです。
兄弟姉妹を愛さないものは聖霊に導かれていない、聖霊に導かれていないとはっきり言えます。愛は御霊の実だからです。

人間は誰でも主によって愛されてます。そして主は私たち信者のためにも自分の命を捨ててもいいと思うことを期待しておられます。すなわち自分自身のために生きるのではなく、主のために生きる、生きたいという心構えをもつことです。
そして、主のために生きる者は言うまでもなく兄弟姉妹のために生きることも意味してるのです。イエス様に属している者と主と離れられないからです。

第四番目の聖霊に満たされた結果は、イエス様がすべてのことにおいて最優先されるという、切なる願いだけを持つことであります。
それは聖霊のご目的です。御霊に満たされている者は自分自身のための賜物や経験を欲することをせず、ただイエス様が栄光を受け、イエス様だけがたたえられることを望む者であります。
私たちに何が起ころうがかまわない。イエス様だけが栄光を受け取っていただきたいという態度をとる者は聖霊に満たされていると言えます。

聖霊に満たされた五番目の結果とは、イエスために苦しむことを喜んで引き受ける心の備えを持つようになります。人は誰でも生まれつき苦しみを避け、楽な道を行きたがり、いろいろな困難を避けようとしますけど、聖霊に満たされている者は主よ私は何をしたらよいなのでしょうかと、すべてのことにおいて主に尋ねそして主にだけ従う覚悟を持っているのです。
その結果、家族や親戚や友人から誤解されたり非難されたりすることは避けられないけども、結果として彼らも導かれるようになります。

ジョン・ハイドというイギリス人がいまして、多分100年前に亡くなったと思います。彼は主に出会ってから、やっぱりイエス様のために生きたい、主に仕えたいと真剣に思うようになり、宣教師としてインドへいこうと決心したのであります。彼は出発のため船に乗り込んだ時、面白くない電報を誰かからもらったのです。
「あなたは聖霊に満たされているか?」、それだけだったんです。彼はその電報を読み、興奮して破いて捨ててしまったのです。

私は主に仕えたい。今からインドへ旅をしようとしてる。聖霊に満たされてるとは当然なのではないかと。けど彼は自分の船室に行き跪きました。すると彼は聖霊ではなく自分の思いによって満たされているということ、その証拠に彼が興奮したことがわかったのです。
彼は自分の債務、あやまちを告白し本当にすべてを残りなく主に明渡し、信仰によって聖霊の満たしを要求しました。その結果彼はインドへ言って考えられないほど主に祝福されたのです。インドから満州に行って、満州でも考えられないほど多くの人々は導かれました。それを聞いた中国の多くの人々は満州まで行って同じように祝福されたのです。
一体どうして?

ひとりの信ずる者が聖霊に満たされたからです。御霊に満たされなければおしまいだとわかったからです。彼は29歳で天に召されたのです。けども考えられないほど祝福された世の旅だったのです。
あなたは聖霊に満たされていますか?、という問いとは彼にとって初めてやっぱりショックだったのです。けどもやっぱり満たされざるを得ないと認めざるを得なかった結果として、何にがあってももう全部的外れですから「おねがい!」と祈り続けたのです。

満たされていなければ今日満たされる可能性があるけど、代価を支払う備えがある時だけ満たされます。自分自身を低くしなければならないかもしれない。完全に空っぽにされる必要があるかもしれない。何故ならばおごりでいっぱいだからです。
昨日でしたか、ひとりの兄弟はわたしに言ったんです。今、前にもらった謙遜という本を読むようになった。ある意味でもうショック受けた、私は傲慢の塊です。何の謙遜、何もない!、それを知るようになれば、「やあ、おめでとう!」と言うべきなのではないでしょうか。
謙遜なのはイエス様しかないでしょう?わたしはへりくだってるといえるのはイエス様しかいないのです。

やっぱり空っぽにならなければ満たされ得ない。御霊に満たされている人生は御霊に支配されてる人生です。御霊が主であるならばイエス様は栄光を受け、そして主が栄光をお受けになるならば人間は喜びに満たされるようになります。
心配恐れは消えてなくなります、というのは主ご自身がすべての者に対して完全な責任を受け入れてくださるからです。債務を、自分の失敗をすべての不真実愛のない状態すべての自己中心苦しみを避けようとする気持ち、あらゆる怠け根性すべての自由放任を主に告白すると、主は赦してくださるだけではなくご自身の霊に満たしてくださるのです。




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