引用聖句:エペソ人への手紙2章4節-6節
ローマ人への手紙5:17
ヨシュア記22:5
今、兄弟が言われたように、今日の学び、イエス様を知らない人々はだいたい誤解して、「大変だ。勉強しなくちゃいけないの?」云々と。 そしてやっぱり集会に来てもやっぱり全くピンと来ないのは決まってる。けども大人はピンと来なくてもいいと、なかなかわからないから、困っちゃうんです。 私はもう60年前にイエス様を信じ救われたけど、今日までピンと来ない。そんなもんじゃない。勉強してわかったから信ずるという信仰は間違ってる。 多くの人は、「いやー、特別なこと経験しましたから、いい気持ちになったから信じます。」と言うんです。 危ない。人間の気持ちはかわりやすいのではないでしょうか。 いったいどうして信ずることができるか。わかったからじゃない。十字架の上で犠牲になったイエス様は嘘つきじゃないからです。 このイエス様のみことばに頼ると絶対に後悔しません。けどもイエス様をよりよく知るためにやっぱり聖書に頼らなくちゃいけない。 火曜日の集いの目的とは結局そのためなんです。 先週でしたか、イエス様にゆだねられた人生についていっしょに考えました。日曜日、御代田でイエス様に頼る者の幸せについて考えました。 今日はイエス様に満たされる秘訣について、あるいは今読んでもらいましたローマ人への手紙5章の17節の中からのことばも、題名として使うことができるのではないかと思います。 すなわち、いのちにあって支配することの必要性。もう一回17節読みましょうか。 ローマ人への手紙5:17
いのちにあって支配することの必要性だけではなく、可能性についていっしょに考えたいと思います。 昔、ドイツの哲学者であり、牧師の息子でもありながら、無神論者であったフリードリッヒ・ニーチェという男は次のように書いたのです。 「『自分は救われている。』と言う人がいるならば、その人は私が見ても本当に救われてるような様子が見られるべきであって、もしもそのような様子が見られないならば、私は決して救い主を信ずることができません。」 彼は何と何を経験したのかわからない。おそらく父親は牧師でありながら、まことの信仰をもっていなかったでしょう。 けども私は彼の親戚を知るようになりまして、やっぱり牧師だったんですけど、救いの確信をもっていなかった牧師でした。 彼は、この親戚であるフリードリッヒ・ニーチェのところ、最後まで見舞いに行ったんです。 精神病院に入っていました。そしてもう完全に狂って死んでしまったと言われてるのです。 もちろん彼の今読みました文章は、ある意味で身分証じゃないのではないでしょうか。まことの主なる神を求める者に対しては、必ずイエス様は救いを成就してくださるのですから、ニーチェの言葉は単なる言い訳にすぎないけど、その反面ある程度まで一理ある言葉であるとも言わざるを得ないのではないでしょうか。 この間御代田で詩篇の34篇の中からちょっと学んだんです。主を仰ぎ見る者は輝く。輝く人に出会いますと、やっぱりほしくなるのではないでしょうか。 まことの喜びがあれば、喜びをもっていない人々はやっぱりねたむようになり、また求めるようになるのではないでしょうか。 私たちがどのようなことを言っているかということよりも、私たちがどのような者であるかということのほうが、はるかに大切なのではないでしょうか。変えられた人間こそ、もっとも有効なあかしです。 私たちの人生がいったいどのようなものであるか、証しとなっているかどうかという問題は決してどうでもいい問題ではありません。 また、私たちの人生が主イエス様にとってどのようなものであるか。すなわちイエス様に対してほかの人を引き付ける存在であるのか、それとも反対に離れていく気持ちを引き起こされるような性質のものであるかということはどうでもいい問題ではないのです。 イエス様を信じる者の人生はもぐらのようなものか、あるいは鷲のようなものかどちらなのでしょうか。 明らかなことはイエス様がわれわれの信ずる者の人生において乞食のような存在ではなく、すべてを支配する王のような存在に私たちがなることを望んでおられるということです。 イエス様は天においてもっとも高い地位を占めておられる王の王、主の主であられます。すなわち主イエス様はすべての権威と力の上にあって支配しておられるお方です。 ことばを変えて言うならば、イエス様はすべてを超越したお方であるということです。 そしてまた私たちはいつか将来、御座に着くであろうということではなく、今現在すでにイエス様にあってイエス様とともに御座に着いているということを信仰を通して、信仰の目によって見ることができなければなりません。 つまり、救われているということは罪を赦されて、永遠のいのちをもっているということだけではなく、主イエス様にあってイエス様とともにすでに今現在、御座に着いているということをも含んでいるということなのです。 私たちは祈るとき、主イエス様とともに御座についている者として祈るべきです。 なぜならば、からだなる教会はかしらなるイエス様と結び付いているからです。ほかの言葉で言うならば、かしらなるイエス様と正しい関係をもつことがどうしても必要であるということです。 この関係についてヨハネの福音書の15章に次のように書き記されています。よく知られている、毎日覚えるべきことばの一つなのではないかと思います。ここでイエス様は、 ヨハネの福音書15:5
このようなことばを知っていても、なかなか信じられないのではないでしょうか。 枝として私たちはぶどうの木であるイエス様のいのちが、自由に流れ込んで働くようになっていなければならない。 いのちにあって、すなわち主イエス様にあって支配するということは、信仰によって主と結び付いていること。また従順に主イエス様に従うこと。そして御霊に導かれることを意味します。 最後に読んでもらいましたヨシュア記の22章の5節。もう一回読みましょうか。満たされた人生の秘訣とはいったい何なのでしょうか。 ヨシュア記22:5
この一節によると、いのちにあって支配される人生、すなわち満たされた人生の特徴は、次の五つに分けられます。 第一番目、あなたの神、主を愛せよ。イエス様を大好きにならなければ問題です。 第二番目、主のすべての道に歩め。 第三番目、主の命令を守れ。 第四番目、主にすがれ。そして 第五番目、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えよ。 とあります。この五つの特徴、及び命令について簡単に見てみたいと思います。 まず第一に、「あなたの神、主を愛せよ。」というみことばについて、ちょっと考えてみたいと思います。 すべてを超越して主にあって、支配する者にとってもっとも大切なことはイエス様に対する愛です。 人間的に考えるならば、主に奉仕することがもっとも大切であるかのように思われがちですけど、聖書は主を愛することこそ、もっとも大切な主の命令であると言っています。 主なる神に奉仕することは第五番目の戒めであり、したがって第一番目から第四番目までの戒めが守られて初めて、有効な意味をもつのです。 つまり主イエス様に対するご奉仕は主と結び付いていることの結果でなければならない。 イエス様に拠り頼むのでなければ、すべての人間的な努力、したがって私たちの奉仕も意味のないものになってしまうのです。 つまり、私たちの自分の知恵や力で行なうことは、それがどれほどすばらしいものであっても、主に受け入れられません。 もっとも大切なことは、主のみこころが何であるかを正しく知ること。そして主イエス様が私たちひとりひとりに対してどのようなご計画をもっておられるかを知ること。 そして主イエス様の知恵と力を借りて主とともに働くことです。 私たちがどうして主を愛するかと言いますと、それはまず最初に主がわれわれを愛してくださったからです。 よく引用されるヨハネの手紙第Iの4章19節に、初代教会の人々は告白しました。 ヨハネの手紙第I、4:19
主に愛されていると知るようになった人は、愛せざるを得なくなります。 世が造られる前に、人間がひとりもいなかったとき、すでにイエス様は私たちを愛してくださったのであり、われわれの人生に対してはっきりとしたご計画を立ててくださったのです。 エペソ人への手紙の1章を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙1:3-6
いかに愛されているか、確かに考えられない。ピンと来ない。けども動かすことのできないすばらしい事実です。 エレミヤ書31:3
と書かれています。ここで複数形じゃなくて単数形に書かれているから、主は人間ひとりひとりをまったく個人的に愛してくださる。 そして主の愛は永遠なる愛です。だから私たちは主を愛すべきである。愛されている者として主を愛すべきある。 もう一ヶ所、申命記の10章12節をお読みいたします。 申命記10:12-13
申命記11:1
申命記11:22-23
主を愛することの大切さは聖書の中で何回も何回も要求されています。コリント人への手紙第Iの8章3節にも書いてあります。 コリント人への手紙第I、8:3
と書かれています。 ヤコブの手紙2:5
神を愛するものに約束されている御国を相続する者とされたではないかとあります。 試練と困難の真っ只中にあってさえ、私たちは主を愛すべきです。 色々な試練に会うと、悪魔は主がもう愛していないとささやき、私たちを惑わそうと試みることを私たちはしばしば経験します。 けど主はとこしえに変わらない愛をもって、私たちを顧みていてくださるのであり、どんなことがあっても私たちを捨てることをなさらない。 もっとも良き友でいらっしゃるのですから、たとえ試練のときであっても、私たちは主に対して変わらざる愛をもち続けるべきです。 ダビデは多くの試練と悩みを経験しましたが、それを主からの祝福として受け取ったから、豊かな恵みと祝福にあずかることができました。 例えば詩篇の18篇を見ると彼は次のように言えたのです。 詩篇18:18-19
私たちも、どのような試練と患難にあっても絶えず主を見上げ続けるならば、ダビデと同じように主の豊かな恵みと祝福にあずかることができます。 このようにすることによって私たちは主をよりよく知ることができるようになり、主の愛のすばらしさをさらに深く体験的に知るようになります。 満たされた人生を送ろうと思うならば、苦しみを通してよりよく主を知るべきです。ヨハネの黙示録の2章4節に、主はエペソという町にいる信者たちに次のように言わざるを得なかったのです。 ヨハネの黙示録2:4
初めの愛から離れてしまった。このエペソの信者たちはイエス様を捨てたわけではない。けど初めの愛から離れてしまいましたので、そのために主は深く心を痛められました。 試練と苦しみのときに、主に対するわれわれの愛が冷えないように注意しましょう。 イエス様に対する奉仕の原動力はイエス様に対する愛でなければなりません。主に仕えることによって主が喜んでくださることをしてると思ったら、それは大間違いです。 主に対する愛は、喜んで主に従い、喜んで奉仕することを通して現われます。 イエス様に対する愛があるかないかということが実際問題としてすべてを決定するものであると言えます。 いのちにあって支配することの秘訣とは何なのでしょうか。今話したように、主を愛することです。 第二番目、主のすべての道に歩むことです。 主は私たちが成長して、主の完全な状態にまで至るように望んでおられます。 詩篇に戻りまして18篇の30節ですか。ここでダビデは心から祈りました。ダビデとは祈り人だったから大いに祝福されたのです。 詩篇18:30
ダビデは主をこういうふうに経験したから言えたのです。 「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」 主の道に歩むことは実際問題として、主イエス様に身を避けることです。主の道は完全ですから、主に導かれることは安全を意味します。また詩篇の作者は告白したのです。 詩篇77:13
何があってもあなたの道は聖ですと考えるべきなのではないでしょうか。 モーセはまた告白しました。申命記の32章の4節ですけれども、 申命記32:4
すばらしい証しなのではないでしょうか。このモーセとは主の友、神の友と呼ばれていたのです。 モーセと主と語ったのはもう最高の幸せだったのです。この主との交わりの結果として、モーセはこういうふうに告白したのです。 「まことに、主の道はみな正しい。」 ローマ人への手紙の11章の最後に、33節にパウロはまた次のように主の道について次のように告白したのであります。 ローマ人への手紙11:33
その道は、何と測り知りがたいことでしょう。もう一ヶ所。ヨハネの黙示録の15章を見ても、主の道について次のように書かれています。 ヨハネ黙示録15:3
「もろもろの民の王よ。」と。「あなたの道は正しく、真実です。」とあります。 今の個所を見てわかることは、主の道は完全で、聖で、正しく、測り知りがたく、真実です。この主のすべての道に歩むことが大切です。 主イエス様とともに歩むことは、イエス様に賛成すること、そしてイエス様と一つの心をもつことを意味します。 アモス書の中で一ことばだけなんですけど、次のように書かれています。 アモス書3:3
ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。そのようなことは決してあり得ないということは、このみことばから明らかです。 主なる神は、私たちは主とともに歩むことを決して強制なさいません。私たちが主に従いたくないならば、主はそこまで私たちを強制なさることをなさいません。 私たちは自発的に主に従ったり、主とともに歩んだりすべきです。 主のみこころは私たちの思いとなるべきです。私たちは主とまったくひとつになるべきです。 そのとき初めて私たちは主とともに歩むことができます。主なる神は私たちがいったい主は何を望んでおられるかを正しく知ることができるようにと切に望んでおられるのです。 主の完全なみこころを知るとき私たちは完全に、主とひとつになって歩むことができるようになります。すなわち天にいる主とこの地上にいる私たちは、まったくひとつとなって歩むことができるようになるのです。 これは私たち主イエス様を信じる者にとって非常に大切な経験です。 私たちは一日中祈るかもしれない。そして聖書の知識をたくさんもつかもしれないけど、もしも私たちが主のみこころを知らず、それを行なわなければ、私たちのすべての奉仕はまったくむなしいものです。 ダビデはまた詩篇の25篇の4節、5節に次のように告白しています。もちろんダビデはだいたい祈りの中で告白したのであります。 詩篇25:4-5
こういう心構えをもつ人々は大いに祝福されるに違いない。 ダビデは主のみこころにかなう者でした。どうしてでしょうか。彼は今読んだように、主に祈ったからです。 詩篇25:4-5
またダビデはこのように祈りましたので、主の道を知るようになりました。私たちもダビデと同じように、主の道を知り、主の道を歩むべきです。 そのとき初めて次のように祈ることができます。「主よ。あなたは約束してくださいましたので、どうか御手を伸ばして奇蹟をなしてください。」と。 こういうふうにして私たちは主イエス様とともに重荷を負う者となります。 私たちは乞食のような人生を待っているのではありません。 もちろん私たちはエリヤのように権威をもって祈るべきです。私たちは主のご計画のうちにあって主のみこころを知るなら、主に頼む大胆さを主は私たちに与えてくださるのです。 もし私たちがすべてを主の前に明らかにして明け渡すならば、主は日々ご自分のみこころとご計画を明らかに示してくださるのです。 ダビデは詩篇の143篇でまた次のように祈ったのです。 詩篇143:8、10
私たちもまたダビデと同じように、日々このように祈るべきです。 私たちがもっとも恐れるべきことは、みこころに反して自分勝手な道を行くことです。ですから主イエス様を信ずる者は日々、主のみこころとご計画が何であるか、私たちは何をなすべきかを祈るべきです。 ソロモンは次のように書いたのです。箴言3章の5節、6節です。よく知られてるすばらしいことばです。 箴言3:5-6
私たちがみこころにかなった歩みをしてるか、いないかということが取りも直さず私たちが天において報いを得ることができるかできないかを決定します。 昔々のエノクとは、主の道を歩んだ男でした。創世記5章24節を見ると、彼について次のように書かれています。 創世記5:24
主とともに歩んだエノクは死を見ないでそのままで天に移されたのです。ヘブル人への手紙の11章5節に、まだもう少し詳しく書き記されています。 ヘブル人への手紙11:5
私たちは主のみこころの中にいるときにだけ、主とともに歩むときだけ、主を喜ばせることができます。 私たちは主のみこころを知る知識で満たされるべきです。それはパウロの絶えざる、日夜信ずる者のためにされた祈りでした。 例えばコロサイ人への手紙の1章を見ると次のように書かれています。 コロサイ人への手紙1:9
真の知識に満たされているときにだけ、私たちは主イエス様と結び付いていることができます。 私たちは主に喜ばれているということを確信できるのでしょうか。日々そのことに心を留めましょう。私たちは日々、主に新たにあるべきです。 私たちには霊で始めて、肉で終わる、すなわち始めは順調な出発をして、終わりはまったく違ったものになってしまうという可能性があります。 だからパウロはガラテヤの地方にいる信者たちに向かって次のように書き送ったのです。 ガラテヤ人への手紙3:3
私たちは霊的に無関心になったり、傲慢になったりするかもしれない。ですから私たちは主のみこころを正しく知って、日々主の道を正しく歩むべきです。 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配される人生の特徴とは今話したように、主を愛することであり、それから主のすべての道に歩むことです。 第三番目、主の命令を守ることです。 いのちにあって支配される人生を送るためには、すべてのことにおいてみことばに支配される必要があります。 聖書、みことばとは本当に大切です。またダビデをちょっと引用しましょうか。 詩篇119:57
詩篇119:69
詩篇119:101
詩篇119:145
詩篇119:168
またヨハネは信ずる者のことを心配して次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:22-23
主の命令に従うこと。ヨシュアもそれを何回も何回も強調したのであります。 ヨシュア記1:7
ヨシュアは主にまったく従順に従い、主の仰ったとおりのことを行なったと聖書は言っています。 ヨシュア記8:18
(テープ A面 → B面) ・・・かもしれないけれど主に従いますと、必ず報いられると彼は確信したのです。 私たちもまた同じように、みことばに対する全き従順を示さなければならない。 みこころが何であるかを知るための手がかりは、まず主のみことばである聖書であり、聖霊の証しです。 イエス様を信ずる者はただひとり個人でいる場合には、間違った道に行く可能性がありますが、主の支配のもとにある集会全体は、間違った道に行くことができません。 主はかしらであり、主のからだである私たちは主と結び付いています。かしらとからだとの間には一体性があります。 かしらなるイエス様によって支配され、どのような小さなことにおいても主に導かれる。そして主のみことばに従うということは、何というすばらしいことでありましょうか。 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配される人生の特徴とは今話したように、主を愛することであり、主のすべての道に歩むことであり、そして主の命令を守ることです。 第四番目、主にすがることです。イエス様はぶどうの木であり、私たちはその枝です。もう一回、ヨハネの福音書15章見てみましょうか。ヨハネの福音書15章の1節から5節まで読みます。 本当に信ずる者の成長のため、実を結ぶ秘訣についてのもっともすばらしい個所のひとつなのではないでしょうか。 ヨハネの福音書15:1-5
ぶどうの木のいのちが、その枝に流れ込むのと同じように、主イエス様のいのちは、われわれのうちに流れ込んでいます。 コロサイ人への手紙3章3節に、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある。 使徒の働きの11章23節。バルナバについて書かれていますけれども、 使徒の働き11:23
すなわち、バルナバ 使徒の働き11:23
原語を見ると、主にとどまっているように、ではなく、主にすがるように、という意味の言葉が用いられています。主にすがるように。 私たちは主イエス様にすがるとき、本当に意味での一致と交わりとをほかの兄弟姉妹との間にもつことができるのです。 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配されている人生の特徴とは今話したように、主イエス様を愛することであり、主イエス様のすべての道に歩むことであり、また主の命令を守ることであり、主にすがることです。 最後に第五番目の特徴は、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えることです。すなわち最後の特徴は、真心をもって徹頭徹尾、主に仕えることです。 前に申しましたように、主に対するわれわれの奉仕は主に対するわれわれの愛によって支配されるべきです。 私たちは人間にではなく、イエス様に仕えるべきです。 人間に仕えようとする者は、主に喜んでもらうことができない。人を喜ばせ、人に仕えたいと思う者は、知らないうちに人の奴隷となります。そうすると私たちはみことばの通りにみことばを伝えることができなくなります。 つまり私たちは人に喜んでもらえるようなことを語るようになってしまうのです。 主のしもべとして私たちは主イエス様と、主イエス様のからだなる兄弟姉妹に仕えるべきです。 そして私たちを通して兄弟姉妹は生かされ、よみがえりのいのちが自由に働くことができるようになるべきです。 そのために必要なことは、私たちが主のご支配と権威のもとに置かれることです。 イエス様によって与えられるメッセージを私たちはだれをも恐れることなく宣べ伝えるべきです。その意味は十字架につけられた主イエス様だけを紹介することです。 そのひとつの実例はエレミヤという預言者でした。彼は自分を無にして、恐れることなく、さばきを、また福音を宣べ伝えたのですけどイスラエルの民によって捕らえられ、ほら穴の中に投げ込まれてしまいました。 けど彼は何があっても、主によって与えられたメッセージをそのまま忠実に宣べ伝え続けたのです。 私たちが主に仕える奉仕の原動力は、主に対するわれわれの愛であるべきであって、自分の力で行なうのではなく、主によって支配され、主のみこころの中においてなされるべきです。 コロサイ人への手紙の3章23節、24節を見ると、パウロは当時の信ずる者を励ましたのであります。 コロサイ人への手紙3:23-24
パウロはこういうふうに喜んで、コロサイにいる人々に書くことができたのです。「あなたがたは主キリストに仕えている。」 このみことばはわれわれにも当てはまるようになれば幸いです。そして、またいのちにあって支配される人生をひとりひとりがみな実現できるようになれば幸いです。 ダビデは詩篇の143篇の12節に祈ったのです。 詩篇143:12
ダビデは本当に心から言えたのです。「私は主のしもべです。」 最後にもう一ヶ所読んで終わります。 ローマ人への手紙8:32
ローマ人への手紙8:37-39
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