イエス様による満たし


ベック兄

(ドイツ喜びの集い、2010/10/12)

引用聖句:ヨハネの黙示録3章17節
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知ればいいけど、知らなければ悲劇的です。そしてこのことばは、もちろんいわゆる救われていない、未信者に対する言葉じゃないんです。
けども結局、主の考えと彼らの考えとは、根本的に間違っていた。結局そういう人々は、本当は何を考えているのか。惑わす霊に支配されている。完全に盲目にされているのではないかと思います。
哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを解かれば、逃げ道があるかもしれないけど、解かろうとしなければ、解かるものじゃない。結局このラオデキヤの兄弟姉妹たちは、解かろうとしなかったのです。自分のことばっかり考えたのです。

3,000年前のダビデという王様は、違う態度をとったんです。
「主は私の羊飼いです。」、意味は、私はもちろん、どうしようもない迷える羊にすぎない。もうどうしたらよいか、全くわからない。けど、主は私の羊飼い、私の導き手で、養うお方であるから、乏しいことはない。
「私の杯は、あふれている。」、意味は、私は喜んで喜んで、どうしたらいいか解からない。どうして?主は私のものだからです。

大切なのは、結局、主の富を見出すことなのではないでしょうか。そのために、やっぱり自分のみじめさを知らなければ、ありえないでしょう。
ピリピ人への手紙というものは、刑務所の中で書かれたものです。パウロは何回も、刑務所に入れられたんです。合わせてみると、おそらく7年間、刑務所の中で過ごしたんです。ちょっと考えられない。
けども彼は、このピリピにいる兄弟姉妹に書いたのは、私の神は、結局、神は私のもの、私の神は、キリストイエスにあるご自身の栄光の富を持って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

どうしてそんなこと、書くことができたかと言いますと、刑務所の中で経験したからです。主は近くにおられるし、主は私の必要をすべて満たしてくださるということができたのです。
私たちはもちろん、主について考えてもぴんとこないし、主を理解できる人間はいないし、あんまりにもすごいお方であるからですね。「光よあれ。」と言って、光になっちゃった。いったいどういうこと。ぴんとこない。
けども我々の主とは、もちろん満ち満ちておられるお方です。そして考えられないこととは、この満ち満ちておられる主は、どうしようもない人間を生かしたいということです。

ですから、「導いてください。」、「教えてください。」、「満たしてください。」という心がまえを持つことこそが、最も大切なのではないでしょうか。
私たちは、どんな困ったことがあっても、その時こそ祈ることができ、主に近づくことができ、全部主に打ち明けることができるのは、最大の特権なのではないでしょうか。
主は赦してくださるお方ですし、解放してくださるお方です。

もちろん聖書の中で、満たしという表現はよく出てきます。もちろん満たしとは、ものじゃないんです。イエス様です。そしてイエス様こそが、どうしようもないダメな人間を、生かしたいと望んでおられるのはすごいのではないでしょうか。
主は、詩篇の作者の口を通して言われました。「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう」詩篇81編10節です。「あなたの口を大きくあけよ」結局、主は、我々にほんの少しのものだけをあげたいなのではない。満たしたいと願っておられます。
もちろん、非常に残念なことは、多くの人は祈りのために、また祈りを通して、口を大きくあけようとしない。マタイの福音書25章34節を見ると、イエス様は、次のように当時の弟子たちに言われました。

マタイの福音書25:34
34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

「世の初めから」。考えられない事実です。我々人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではない。世の初めから備えられた御国です。
結局、父なる神は、私たちにイエス様を通して、最も良いものを与えてくださいました。イエス様は、我々のために苦しんでくださり、十字架の上で死なれました。そしてイエス様によって、我々に必要なものはすべて与えられています。
有名なローマ人への手紙8章32節、みな暗記していることばですけど、

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

主の満たしについて、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。4つの点について考えましょうか。
第1番目いのちの満たし、すなわちいのちによって、満たされることです。
2番目愛の満たし、すなわち愛によって、みたされることです。
3番目喜びの満たし、すなわち喜びに満たされることです。
4番目平和の満たし、すなわち平和に満たされることです。

まず、いのちの満たしについて考えましょう。
ここで1つのたとえを申し上げると、もし私たちが、重病人を病院に訪ねることをします。そして私たちが、その人の名前を呼んだ時、その人が一度だけ、かすかに目を開けても、またすぐに瞼を閉じてしまいますと、我々は何を考えるのでしょうか。
確かにその人は、まだいのちはあるけど、いのちに満たされていない。もう死にそうですから。

旧約聖書の中で、たとえばサムソンという男は、ライオンを裂き、ダビデはライオンと熊を殺したと記されていますが、確かにこの二人は、いのちに満たされていたと言えるのではないでしょうか。
多くの人は、新しく生まれ変わっていますけど、証しをする備えも意思も持っていない。
主はご自分の証し人を求めておられ、私たちがその証し人となること、そしてどのようにしてイエス様のいのちをいただいたかを、他の人々に述べ伝えてもらいたいと願っておられます。ヨハネの福音書の中で、イエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書10:10
10わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

豊かなるいのちが約束されています。これこそ、イエス様がこの地上に来てくださったことの目的であり、その意味において私たちは、自分だけが満たしを受けるだけじゃなくて、そのいのちの満たしを一人でも多くの人々に、伝える使命を持っているもです。
この使命にまい進するために祈り、またそのような器として用いられるように祈ろうではないでしょうか。

2番目、愛の満たし、すなわち愛に満たされることです。
これは、あなたがどんな人をも、その人が敵であっても愛することができるということを意味します。
使徒の働きの中で、初代教会の始めての殉教者であるステパノについて書かれています。言えることとは、このステパノという男は、愛に満たされた男でした。

彼は、石を投げつけられて、息を引き取る時、祈ったんです。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」とひざまづいて大声で叫びました。これこそ、愛の満たしです。
私たちもまた隣人、また兄弟姉妹、そして敵でさえも、愛すべきであると聖書は、はっきり言っているのです。
もちろんこのような愛は、私たちが生まれつき持っているものではない。また、どんなに努力しても持つことができないものです。

けど、有名なローマ人への手紙5章5節に書かれています。

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

とあります。ですからそのことを、させていただくことができるのです。

3番目、喜びの満たし、すなわち喜びによって満たされることです。
ダビデは決して完全ではなかったし、けど彼は、詩篇16編11節に告白しました。

詩篇16:11
11あなたの御前には喜びが満ち、

これはダビデの証しですけど、主の御前で光の中を歩む者は誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを主は、我々にも与えたいと望んでおられます。
主の喜びは、波のように変わるものではない。絶えざる喜び、変わらざる喜びです。
ハバククという預言者がいまして、彼もいろいろの辛いことを経験しました。一生懸命、頑張って努力して、全部空しかった。

ハバクク書3:17
17そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

悲劇的だよ。けど、彼の態度はすごい。

ハバクク書3:18
18しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

「喜ぼう」と。考えても解かる、これは気持ちの問題じゃない、感情の問題じゃない。意思の問題です。この喜びの満たしは、この世の財産やさまざまな事情にかかっているのではない。この喜びは、理解することも説明することもできない。
初代教会の信者たちは、確かに誤解されました。迫害されました。いじめられましたけど、それにもかかわらず、言葉につくすことのできない栄えに満ちた喜びに踊った人々でした。

4番目、平和の満たし、すなわち平和によって満たされることです。
主は、ご自分の全き平安を我々にも与えたいと願っておられます。イザヤ書26章3節を見ると、次のように書かれています。

イザヤ書26:3
3志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イエス様は、平和の神と呼ばれていますから、このイエス様なしには誰も全き平安を持つことはできません。
イエス様がこの世に来られたのは、ご自分の平安を与えるためです。イエス様に信頼するならば、必ず主は我々に、ご自分の平安を与えてくださいます。
マタイの福音書26章30節ですけれども、次のような文章が出てきます。

マタイの福音書26:30
30そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

結局、イエス様はゲッセマネの園に行く前に、賛美の歌を歌ったということ。
イエス様はまもなく捕らえられ、5、6時間後には十字架に釘づけられ、我々のすべての罪の苦しみを受けてくださり、主なる神に見捨てられるということを知っておられましたけれども、賛美の歌を歌ったとあります。
イエス様は、十字架の上で、考えられないほどの苦しみを悩みを経験なさり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。
このような苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は、賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。

それは、イエス様が全き平安を持っておられたから。イエス様は、我々にも同じ平安を与えたいと思っておられます。
そのためには、何が必要であるかと言いますと、ただ一つ、イエス様に満たされること。
すなわち主のいのち、主の愛、主の喜び平安に満たされることです。

最後に一つの質問ですけど、満たされるために何をしたらいいの。主の満たしを受ける秘訣はいったい何なのでしょうか。
まず第一に、自分が空っぽの者であるということを知る必要があります。
もしも、私たちが本当に正直であるならば、自分の内には何も良きものがないということを認めざるをえない。けども、福音とは何でしょうか。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

すごい、すばらしい事実です。イエス様は、すでにご自分の血潮によって、尊い代価を支払ってくださいましたので、私たちの罪を赦したいと切に願っておられます。
確かにある人は、自分の罪はあんまりにも大きすぎ、果たして主はこの罪を赦すことができるだろうかと疑っています。
けれども、イエス様は必ず、そのような罪をも赦してくださるのであり、その時を待っておられるのです。

満たされる根拠は、すべての罪は赦されており、忘れられているという確信です。
そして大切なことは、ただ単に空の器として、ありのままの状態で主の御許に行くことだけではなく、すなわちただ単に自分の罪を認めて言いあらわすだけではない。

第2番目に幼子のような信仰を持つことです。主の約束を理解することじゃない。つかむことです。
悔い改めた後で、主が自分の罪を本当に赦して、洗い清めてくださったという確信を持たなければなりません。
この確信の土台となるものは、もちろん人間の感情でもないし、人間の理解力でもありません。約束されておるから信じます。この断固たる態度をとることこそが要求されています。

主の約束のみことばこそ、本当の土台です。中途半端な信仰は何もならず、主が求めておられることは、徹頭徹尾、主に信頼することです。
マルコの福音書9章23節にすばらしい約束があります。

マルコの福音書9:23
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

信仰とは、主の贈り物をいただこうとする空っぽの手のようなものです。そして、まことの信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものとすることです。
主の目から見て最も恐ろしい罪は、不信仰です。この不信仰の罪のゆえに、救われていない人々は滅びるようになります。
そしてこの不信仰のゆえに、すでに救われている人たちは、成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。

信仰のある所には、悪魔は逃げざるをえません。そして信仰のある所には、主が栄光をあらわすことがお出来になり、奇跡を行うことがお出来になります。そして信仰のある所では、主は礼拝され、誉を受けるようになります。
ですから私たちは、信仰生活においていつも一つの分かれ道に立たされています。すなわち、目に見える現実の世界を見て、それに動かされ、支配されているか、あるいは、みことばを自分のものとして、主により頼むかのどちらかです。
これこそが、主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって、私たちは主を喜ばせることができるのです。

現代人の多くは、自分のことだけを考えるので不幸になっています。それではどうすれば、幸せになれるのでしょうか。それはイエス様と結びつくことによってのみ実現されます。
そのための段階は、今話したように第一段階として、ありのままの状態でイエス様の御許に行き、すべてを包み隠さず主に打ち明け、罪を言いあらわすことです。
それから第二段階は、幼子のような素直な信仰と信頼を持って主を見上げ、主の約束をつかみ、赦しのために主に感謝することです。

もう一つ、第三段階は何かというと、それは聖霊に満たされることによって、幸せになることです。
信者はもちろん誰でも、聖霊の宮です。主なる神の住まいです。聖霊を宿しています。けれど多くの信者の場合、聖霊はイエス様の栄光をあらわすことができませんが、これは本当に悲しい事実と言わざるをえません。
もちろん聖霊に満たされるとは、奇跡を体験したり、意見を語ったりすることではない。従順に主に従うことであり、自分の支配権を主に明け渡すことです。

そうするとその結果として、2つのことが言えます。
その1つは、イエス様を信じる者が喜んで主を証しすること、すなわち主の証人となり、そして他の人達を主に導くことです。
使徒の働き1章8節を見ると次のように言われました。

使徒の働き1:8
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

イエス様を紹介する者となります。
多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けれど、聖霊に満たされることの特徴は、滅び行く人たちのために、最善を尽くすことであり、イエス様を証しすることです。
それは、自分を否定すること、また犠牲をはらうことなしには決してできません。

もう1つ、御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされたことの特徴でしょう。
有名なガラテヤ人への手紙5章22節を見ると次のように書かれています。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。

このような御霊の実が実らないということは、その人が御霊に満たされていないことの現れです。
いうまでもなく、この御霊の実は、決して人間の自分のと努力の結果ではない。聖霊の支配の結果です。
ありのままの状態で、イエス様の御許に行き、すべてを包み隠さず打ち明け、幼子の信仰を持って、主を見上げ、支配権を主に明け渡すことによって、私たちは主の満たしをいただくことができるのです。

我々が、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるための第4の段階は、主を信じる者どうしの交わりの必要性を知ること。そして実際に交わりを持つことです。
ですからエペソ人への手紙の中で書かれています。「すべての聖徒とともに」という表現が出てきます。読みましょうか。

エペソ人への手紙3:17-19
17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

私たちは、特別の人々だけではなく、主を信じ、主を信頼する者すべての兄弟姉妹を愛することを、学ばなければならない。
これもまた今話したように、自己否定を通してだけ実現されることです。
自分自身を守ろうとする努力は、やめた方がいい。主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのためには自分が犠牲になってもいいと言う人は、本当に幸せです。

その人は、決して損することはなく必ず、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされます。
これもまた決して、私たちだけが独り占めするものではなく、悩み苦しんで、悲しんでいる人々に対して、私たちを通して、彼らもまた、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるためです。このように、用いられるように切に祈ろうではないでしょうか。
もう1箇所、読んで終わります。

コリント人への手紙第II、8:9
9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

あなたがたが、富む者となるべきです。




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