み使いの使命


ベック兄

(昭和62年の古いテープから聞き取り)

今読まれました8章の27節に、ソロモン王は、もろもろの天もあなたをお入れすることはできませんと、祈りの中で告白したのであります。
ソロモンという王は、当時のイスラエルと国を支配しただけでではなく、全世界を支配した偉大なる王さまだったんです。けれども彼は、主の偉大さを知るようになっただけではなく、へりくだって主だけが自分自身を明らかにしてもらいたいと望んでいたのです。そして結局、彼は主の栄光を拝するようになったのです。

主の栄光とは、主の明らかにされたご臨在です。最近私たちは、神のいわゆる三位一体、三つにまして一つの神という奥義について考えたのであります。
それから、主なる神は、この世界を創造される前になにをなさったのか、ということについて学んでまいりました。すなわち、主なる神が我々を世界の基に置かれる前から、キリストのうちに選び、御前に聖く、傷のないものにしようとされた。
神はただ、御心のままに私たちを、イエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもって予め定めておられたと、エペソ人への手紙1章4節、5節に書き記されております。

多くの人々は、のけ者にされ、無視されております。だから、私は居ても居なくてもどうでもいいじゃないかという気持ちになりますけど、この考え方は根本的に間違っています。一人一人は、主なる神に知られているだけではなく、大いに愛されているのです。
確かに私たちは多くのことを理解することが出来ません。だから、どうしてか、なぜか、どうして私だけがそんなに悩まなくちゃならないのかと、思うようになる人は非常に多いのです。
けども、主なる神は一人一人のことを思っておられ、一人一人のために心配してくださるお方です。このソロモン王の告白を読んでも、彼は創造の偉大さを見て主の前にひれ伏したのであります。

今日ももう少し、この創造の偉大さについて考えたいと思うんですけど、この間この創造の偉大さは星に見られるのである、と話したんですけれども、それだけではなく、天使、天の使いたちの軍勢においても見られるのではないかと思います。
世界はこの天空の中で、何のために存在するのでありましようか。生命のない物質を、主なる神がお喜びになるのでありましょうか。主なる神は、生きるものの神ではないでしょうか。魂のない物質が、すべての命の主である神を褒め称えることが出来るのでありましょうか。あるいはむしろ、主なる神が創造された星の世界でさえ、人格的生命に満たされているのではないでしょうか。

聖書の中で、しばしば星と天使(み使いたち)を等しく呼んでいます。ですから、み使いたちは星を各々支配しているものではないかと思われます。
天使、天の使いという言葉は、聖書の中によく出てくる言葉です。旧約聖書で中で108回、新約聖書の中で165回出てくる言葉です。従って、天の使いたちが存在していることはもちろん疑いありません。
目に見える世界とはこの世の肉体的なもの、例えば植物ですか、動物ですか、人間などですけど、まったく同様に存在する見えない世界とは天的な霊の世界であります。

天使たちとは、やっぱり遣わされたものと聖書はよくいっております。み使いたちはすべて仕える霊である、救いを受け継ぐ人々に奉仕するため遣わされた霊であると聖書は言っているのであります。
ですから、天使あるいはみ使いたちとは遣わされたといえます。天使たちは元々神の命令によって造られたものです。み使いたちはこの世が造られた時にすでに存在したと、ヨブ記を通してまた、詩篇を通して知ることが出来ます。パウロはすべてのものがイエス様によって、イエス様のために創造されたと書き記したのであります。
ですから、み使いももちろん、イエス様によって、イエス様のために創造されたと聖書はいっています。

ヨブ記の中で、人間は泥の家に住むものですが、天使は決して泥の家には住まないと書き記されております。泥の家とは肉体のことを意味しています。人間は肉体を持っています。
天使は肉体を持っていません。天使は霊であると聖書ははっきり言っているのであります。要するに天使は、イエス様によってイエス様のために造られたものです。そしてみ使いは、神に仕えるために創造された霊的な存在であると、聖書は言っています。
この天使たちの使命について、ちょっと一緒に何箇所かひらきたいと思います。

天使たちについて聖書は一体何と言っているのでありましょうか。7つのことが言えると思います。
まず一番目は、天使たちは我々の歩みを見守るものです。例えば死んだ人たちは、我々を見守ることが出来ません。この世にいないからです。けれども天使たちは、我々の歩みを見守るものだと、聖書ははっきりと言っているのです。
例えば、コリント人への手紙第I、4章9節にパウロは当時のクリスチャンたちに次のように書き記したのであります。

コリント人への手紙第I、4:9
9私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

私たちはみ使いの見世物となったと、書いたのです。天使たち、主に仕える僕たちは、我々の歩みを見ることが出来ると、この箇所を通しても見ることが出来ます。

2番目に、天使たちは主なる神の使者であると、聖書全体を通してはっきりと知ることが出来ます。主に福音書の中で、この事実が証明されているのではないかと思います。

ルカの福音書1:11-13
11ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
12これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

バプテスマのヨハネとは、主イエス様のために道を備えた者と呼ばれた者だったのです。
イエス様の判断によると、彼は預言者たちの中でナンバーワンだったと言っているのです。どうしてであるか、はっきり分からないけど、少なくとも彼は主のことを預言したばかりではなく、救い主を見るようになり、体験的に知るようになり、そして喜んで「彼は盛んになり、私は衰えなければならない。」と、叫ぶようになったのです。

彼のお父さんは祭司でした。そして、彼はここに書かれているように、不安を覚え、恐怖に襲われてしまったのです。結局、み使いの現れる前に、こういう風に不安を覚えるようになったのです。
み使いはもちろん主の使いとして、主のメッセージを伝えたのです。「怖がることはない。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。」
ありえないことが可能になる、ということをみ使いは知らせに来たのです。キリストの誕生の前にも同じようなみ使いが遣わされることになったのです。マタイの福音書1章20節に似ている言葉が書き記されています。

マタイの福音書1:20-21
20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

結局、み使いは、はっきり約束された救い主は、特別のことを教えるものだと言わなかったのです。この方こそ、罪から救う方です。
聖書の救いとはいわゆる幸せ、道徳、特別な教えではありません。罪からの救いです。罪を許すことが出来、罪を忘れられるお方は主なる神だけです。

み使いのメッセージも、ここで恐れないで、約束された救い主がくるということだったのです。旧約聖書の中でも、主にダニエル書の中で、み使いについていろいろなことが書き記されています。
例えばダニエル書の9章21節、ここでガブリエルという名前が出てきます。聖書の中でみ使いたちの頭なるものとは、ガブリエルとミカエルではないかと思うんです。ガブリエルとは、み使いたちの頭のようなものです。

ダニエル書9:21-23
21すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
22私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
23あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。

ガブリエルが伝えに来たものだったのです。あなたは神に愛された人だったからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟り云々と書いてあります。み使いたちとは結局、主なる神から遣わされた使者のようなものです。
同じことがヨハネの黙示録1章1節に書き記されております。ダニエル書とヨハネの黙示録の中でみ使いについて、一番多く書き記されております。

ヨハネの黙示録1:1
1イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

み使いたちは使者であり、遣わされるものです。ヨハネの黙示録ももちろん、み使いを通して伝えられたものだったのです。

ヨハネの黙示録22:6
6御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

とありますね。み使いたちは我々の歩みを見守るものであり、また主なる神から遣わされたものです。
第3番目は、天使たちは私たちが困ったの助力者であると、聖書は言っています。

ヘブル人への手紙1:14
14御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

と、書いてあります。み使いたちは仕える霊ですと書いてあります。それから、主の救いに与った人々を、助けるために遣わされたものです。
初代教会の人々はよくこのみ使いの助けを知るようになったと書かれています。

使徒の働き12:7
7すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

これは、主の使いの成した奇蹟だったのであります。いっぺんに牢から開放されたのです。一番よく知られている箇所、み使いたちの助けについて考えると恐らくダニエル書の3章ではないかと思います。

ダニエル書3:25-28
25すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
26それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
27太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。
28ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。

これは結局、今まで神に無関心であった、神を恐れなかった王様の告白なんです。結局、彼もこの三人のダニエルの友達の証しを通して導かれるようになり、神を褒め称える者となったのです。
神はみ使いを送って、王の命令に背き、結局自分の命令に背き、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかにはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。

主の側に立つと絶対に損しません。大いに祝福され、そしてまわりの人々も積極的に求めるようになります。ある人々は、いわゆる平和のために妥協します。けども、それによって心の平安と喜びがなくなるし、もちろん証しになりません。
主の側に立つと、主は当時とまったく同じようにみ使いを送ってくださり、奇蹟を成してくださるのです。ダニエルは自分も同じようなことを経験したんですね。これは王さまの告白ではなく、ダニエル自身の証しです。

ダニエル書6:22
22私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。

彼もまた、天使たちによって助けられ、守られたんです、と。
第4番目に、天使たちは、私たちの最後の勝利のために戦うものだと聖書は言っています。

ダニエル書12:1
1その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。

このミカエルとは前に言いましたように、ガブリエルと同じような天使たちのかしらです。このミカエルの勝利の戦いについて、ヨハネの黙示録に書き記されています。

ヨハネの黙示録12:7-8
7さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

この竜とは悪魔のことで、将来に対する預言です。現在は悪魔も悪霊たちも神に近づくことができ、実際問題として、昼夜我々を訴えてるために、神に近づくんだと、聖書は言っているんです。悪魔は地獄に行っていません。地獄は今、まだ存在していないんじゃないかと考えられます。地獄に入るのは悪魔ですが、悪魔はまだ地獄に入っていません。
悪魔は我々を訴えるために、昼夜神に近づくのだと聖書は言っているのです。そしてミカエルは勝利を得るようになり、その時から悪魔は完全に神の臨在から、追放されるようになり、この地球に落とされるようになります。
その時の地球の状態とは、もちろん考えられない状態でしょう。もちろん、再臨の後です。その時から、この地球は悪魔の住まいになります。聖霊の宮になった人々はいなくなってから、悪魔は自由にこの地球をめちゃくちゃにできるようになります。

ヨハネの黙示録19:11-14
11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

と、あります。ここでイエス様は啓示されています。忠実、または真実と呼ばれる方はもちろんイエス様であり、イエス様はここで神の言葉と呼ばれているお方です。
よく知られているヨハネの手紙第I、1章9節に、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、云々と書いてあります。
神は忠実なる、また真実なるお方です。だから、私たちは喜ぶことができ、信頼することができ、安心して将来に向かうことができます。私たちは不真実であっても、主は忠実、また真実なるお方です。
もう一度ダニエル書に戻ります。今度は天使たちのかしらについてではなく、悪霊たちのかしらのことについて書いてあります。

ダニエル書10:13
13ぺルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をぺルシヤの王たちのところに残しておき、

云々と書いてあります。

ダニエル書10:20
20そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ぺルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

結局、悪霊たちは必死になって、私たちを攻撃するものです。ただ、ピンチになると、私たちはよく目に見える世界だけを見るのです。でもそれは間違っております。その背後に悪霊たちが必死になって攻撃するのです。
人間を誘惑するのです。めちゃくちゃにしようと努力するのです。もちろん、悪霊たちも悪霊のかしらも、人間よりもずっと強いのです。
けどもここで、み使いたちのかしらミカエルが、助けるために飛んで来たと書き記されおります。結局、天使たちは我々の最後の勝利のために、戦うものだと聖書ははっきり言っているのです。

第五番目に天使たちは主なる神の、世界秩序の守護者であると言えるのです。一箇所だけ見てみましょうか。

コリント人への手紙第I、11:10
10ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

人間のためではなく、み使いたちのためである。主に仕えるみ使いたちのため、あるいは悪霊たちのためでもあるかもしれません。
かぶりものの意味とは、もちろん救いに関係ないことです。かぶりものの意味とは、ここに権威のしるしと書き記されておりますけれども、その姉妹たちはかぶりものをすることによって、次のことを告白するのです。
私は自分の支配権をイエス様に明け渡した。自分の思い、自分の感じは大切ではない。主、ご自身が完全に支配することができるように。この証しです。

証しをする特権は姉妹たちだけだと、ここに書き記されております。これは、しなければならない、そういうものじゃなく、もっともすばらしい特権です。ここでみ使いたちのためだと書いてあります。

形式的にやれば、もちろん何の意味もないものでしょう。けども、洗礼式についても同じことが言えるでしょうね。洗礼式もね、儀式としてやれば何もなりません。証しとしてやればもちろん祝福されます。
聖餐式の場合もそうですね。単なる儀式としてやれば、何の意味もないことです。けども証しとしてすれば、大いに祝福されます。
かぶりものの場合もそうなんです。一つの証しとしてすれば、み使いたちは主を拝むようになり、ある意味で、悪霊の攻撃に対する守りでもあります。

前に渋谷に住んでいた、私たちの非常に尊敬されたお医者さんの奥さんは、集会のこと全然知らなかったんです、・・・。けども彼女は一人でお祈りする時、必ずいつもかぶりものをしたんですね。やっぱり、それは悪霊に対する守りです。み使いたちは必ず大いに喜ぶと確信したからです。
そして、彼女はほんとうに、確かに大いに祝福された姉妹だったのです。

第六番目は天使たちは主なる神の審判の執行者である、と聖書は言っているのです。主なる神は自分で裁こうと思わないようです。天使たちが審判の執行者です。

イザヤ書37:36
36主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。

遣わされた使いの成した業です。主の審判の執行者である。新約聖書のなかでも、もちろん似たような箇所いっぱいあります。

使徒の働き12:23
23するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。

と、書いてあります。これもみ使いの業の結果だったのです。このヘロデは、結局神を無視して・・・、みんなヘロデ王こそが神と叫んだのです。彼はそれを否定しなかったのです。だから、彼は神に栄光を帰さなかった結果として、虫に噛まれて息が絶えたとあります。マタイの福音書に同じような事実があります。

マタイの福音書13:39
39毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

ね、刈り手とは主の遣わされたみ使いたちのことです、と。

ヨハネの黙示録14:18-19
18鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
19そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。

結局、悪が熟するまで神は待っておられるということです。

ヨハネの黙示録15:1
1また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

ヨハネの黙示録15:6-7
6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
7また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

云々と書いてあります。

ヨハネの黙示録17:1
1また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。

云々と書いてあります。このような箇所を見ると分かります。天使たちは主なる神の審判の執行者とはっきり書いてあります。
最後に第七番目は、天使たちは、主なる神の購いのみわざのための礼拝者です。主イエス様が誕生した時の出来事についてです。

ルカの福音書2:13-14
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

と、あります。み使い、また多くの天の軍勢が賛美し、礼拝したのであります。

ルカの福音書15:10
10あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

この地上で、ひとりの人が頭をさげて、「あわれんでください、助けて。」、と叫ぶと、天国で大騒ぎになる。み使いたちに喜びがわき起こると書き記されています。
み使いたちはイエス様によって、イエス様のために創造されたものです。この天使たちは、もちろん私たちを見るものであり、助けよう、守ろう、導こうと望む使いたちであります。

私たちは創造の偉大さを全然理解することが出来ません。天使たちの世界も、もちろん考えられないほどすばらしい世界です。私たちの見ゆる創造の世界はちっぽけなもので、一時的にすぎないと、聖書は言っているのです。
神の創造された永遠の世界は更に高く偉大なるものです。コリント人への手紙第IIでパウロは、自分の証しとして書き記しております。当時、誤解され、憎まれ、迫害されたクリスチャンたちは、次のような態度をとったのです。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

今見える創造についても、同じことが言えます。すべての上に、もろもろの天の上に、高めれたイエス様がおられます。最後にもう一箇所読んで終わりましょうか。

ローマ人への手紙11:36
36というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

パウロはこういうふうに、主を褒め称えたのです。私たちも同じ態度をとろうと思いませんでしょうか。




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