引用聖句:ヨハネの福音書7章37節-39節
使徒の働き2:1-4
使徒の働き2:22-24、32-33、36-38、41
この世でふた種類のカレンダーがあるんです。ひと種類のカレンダーは習慣と迷信に基づくカレンダーなんです。私はたまに使います。どうしてであるかと言いますと、友引はいつか知りたいんです。火葬場は閉まっているから。 もうひと種類のカレンダーは永遠の事実に基づくカレンダーなんです。クリスマスのことだけではなくて、受難節のこと、復活祭のこと、昇天記念日ですとか、五旬節云々とちゃんと載ってるカレンダーもあります。 日本人の多くは、例えば、五旬節はいつ?と分からないのです。カレンダーに載っていないから。本当はこの間の日曜日だったのです。 ドイツだと非常に大切にされる日で、もちろん学校も休みですし、日曜日だけではなくて月曜日もどこでも休みがあるのですけど、最近、反発する派が増えたのです。「月曜日もうやめましょうよ。」、ヨーロッパ全体はそういう方向に行くのです。 結局、「聖書に基づくことだって別にどうでもいいじゃないか。みんな自分勝手なことすればいいだろう。」、協調のないヨーロッパ。尺度をなくしてしまったヨーロッパと言ってもいいのではないでしょうか。 今日はちょっと、「神の大いなるみわざ」について少し考えたいと思います。 新約聖書の中には、7つの大きなお祝いが記されています。しかもこの7つのお祝い、あるいは主の大いなる7つのみわざの中で今日われわれにとって一番大切なものは五旬節なのではないでしょうか。この7つのお祝いについてちょっとだけ一緒に考えたいと思います。 第一は、だれでもよく知っている、いわゆるクリスマスです。 これは今さら改めていうまでもなく、イエス様の御降誕をお祝いするものであります。 けどもイエス様の御降誕ということは、イエス様の始まりではなく、イエス様がこの世に姿をお現わしになったことにすぎない。イエス様によって万物が造られ、イエス様は永遠から永遠まで生きておられるお方です。 確かに多くの人々は、イエス様だって奇蹟的に生まれたこと、ピンと来ない。確かにそうよ。ピンと来るものではない。 けどももしイエス様が男と女の間にできた人間であったならば、私たちの救い主になり得なかったのです。 イエス様は奇蹟的にお生まれになったからこそ喜ぶことができる。イエス様を救い主と信じることができる。 第二は、受難節です。すなわちイエス様の十字架を記念するためのものであります。 イエス様は裸にされ、十字架に釘付けられました。イエス様のこの世でのご生涯は30年間だけでしたが、その間イエス様は大工さんとして30歳まで働き、残る3年間は福音を宣べ伝え、病人をいやし、死人を生き返らせました。 けどもパリサイ人、当時の宗教家たちによって、聖書学者たちのねたみによって死刑の宣告を受けるように至ったのです。 イエス様は次のように言われました。まずご自分が神の子であるということです。そしてイエス様がこの世に来られたのは、もちろん楽な生活をしたり、富を付け加えたりするためではなく、死ぬためであることをはっきりとお示しになりました。 人類は、いのちの泉である神から離れたため、死の罰を受け、永遠の滅びに行かなければならなくなりました。 けど、主なる神は人類を愛されたため、彼らにひとつの救いにあずかる機会を与えるためにイエス様は遣わされたのです。「人類の身代わりとしてわたしは死ぬ。」とイエス様は何回も何回も言われたのです。 聖書の中心なるテーマとは、いうまでもなくイエス様の教えではない。イエス様の死です。イエス様の死とは殉教者の死ではなく、私たちの代わりの死でした。 われわれは日曜日ごとにどうしてパン割きを持つようになるか、そのためなんです。イエス様はいかに悩んだのか。苦しんだのかを覚えるためです。それによって人間はやっぱり、もう顔を上げられなくなる。恥ずかしくなる。けど、喜びことができ、礼拝することができるのではないでしょうか。 去年日本で一つの映画があったのですね。観た人もいるのです。「パッション」という映画なのですね。日本で百万人以上観ていた映画なのです。 ちょっと人間的には大成功なのです。私も行ったのです。映画が終わってからだれも何も話さない。みんな静かに出たのです。 ある国でひとりの人がこれを観て心臓発作で死んでしまったのですって。確かにひどい映画です。 そうだったでしょう。私はあの映画を観る前に、ある聖書の個所をちょっと理解できなかったのです。イエス様は自分の十字架を運ばなくなってしまった。一体どういうことでしょうか。 イエス様はそんなに弱い者ではなかった。33歳の男で、30歳まで大工さんとして働いたでしょ?イエス様は怠けなかった。一緒に働いている大工さんたちは適当にやったのではないかと思います。イエス様の建てた家をちょっと見たいです。すごいと思うよ。 イエス様は間違いなく丈夫だったのですけど、自分の十字架でさえも運べなくなったのは、一体どうして。結局あの映画を観ると分かります。 もう血まみれになってしまいました。どうしてその前に死ななかったのかは奇蹟ではないでしょうか。少なくとも悪魔はイエス様をその前に死なせたかったに違いない。 けれども血まみれになることとはだれでも想像することができるし、だから映画も作ることができるでしょう。けどイエス様の本当の苦しみとはそういうものではありませんでした。 十字架につけられたイエス様は罪のかたまりにされてしまった。罪のかたまりにされた者はいくら祈っても答えがない。真っ暗闇。 この地上におられるイエス様の最高の楽しみとは何だったのでしょうか。祈ることだと思う。 父との交わりとはイエス様にとってすべてでした。いくら疲れていても夜じゅう山に登って祈られたと聖書は言っているのです。全然寝ないで、次の朝もう元気そのものでした。。 父との交わりとはイエス様にとって休息だった。 けどもイエス様は十字架の上で、答えがないと分かったのです。それは恐ろしくて、恐ろしくてしょうがなかった。 だからイエス様は、「お父様。人類を救うためにほかの道があればありがたいけれど、わたしの思いではなく、みこころだけがなるように。」 3時間だけですけどイエス様にとって地獄の地獄でした。ですから聖書の中心なるものとはやっぱり十字架です。「完了した。」すべてが終わった。万歳とイエス様は叫ぶことができたのです。 第三番目の大切にすべき日とは、もちろん復活祭です。いわゆるイースターです。 イエス様は復活なさったのです。もし復活なさらなかったならば、イエス様の死は意味のないものでした。 ある人々は、「あんた、預言された救い主であることを証明してくれ。」、やっぱりイエス様は毎日なさった奇蹟を通して証明されていたのですけれど、彼らは悔い改めようとしなかったから証明してくれと言ったときイエス様は、「わたしは3日目に復活する。復活しなければわたしは結局詐欺師です。嘘つきです。」とはっきり言われたのです。 イエス様は復活なさいました。イエス様に出会った人々は何人であったか分からない。私は今まで五百何十人と言ったのですけど、最近やっぱり私は間違っていると思ってしまった。なぜならば500人の兄弟たちと書いているから。姉妹たちもいたでしょ? 復活なさったイエス様に出会ったのは弟子たちではない。姉妹たちだったのです。ですから500人以上なのではない。もっともっと多かったに違いない。 イエス様は死の状態に長くとどまることをなさらないで、はや3日目に復活なさったのです。 イエス様の復活はイエス様が本当に約束された救い主であり、神の子であるという事実をもっともよく証明するものです。孔子も釈迦も死にましたけど、決して復活しなかったのです。死んだまま。ただイエス様だけが復活なさったのです。 なぜならばイエス様こそまことの神の子であり、約束された救い主であったからです。またイエス様の復活は全人類の贖いが実際に有効となり、本当の力を持つことの証明でもあります。 第四番目は、昇天記念日です。すなわちイエス様が昇天されたことを記念するお祝いであります。 この昇天記念日は、復活祭のあと40日目に行なわれますが、その理由はイエス様が復活されてから40日間弟子たちにご自分を現わされ、ともに交わりを持ち、食事をし、そして何百人もの人たちが復活したイエス様を見たのです。 そして弟子たちの見ている前で天に引き上げられたのです。使徒の働き1章を見ると次のように書かれています。 使徒の働き1:9-11
同じイエス様がおいでになる。今まで教会歴史を見ると300人以上の人々は、「オレは再臨されたキリストだ。」と宣告したのです。 私が一度会った人のようです。彼はインド人だったのです。ちゃんと12人の弟子たちが付いていたし、白い衣を着て。その中にはひとりのスイス人もはいっていました。「来られた救い主である」、いわゆるキリストの名刺までも貰ったのです。結局信じる人、ついて行く人がいます。 十字架につけられたイエス様こそ、またおいでになる。釘痕必ずあります。 第五は、五旬節です。 これは、復活ののち50日目に行なわれます。これはただ一度だけ聖霊がこの地上に注がれた時のことを記念するものです。 イエス様は弟子たちに次のことをはっきりと約束なさいました。 ルカの福音書24:49
聖霊は父に約束された霊であり、送るお方とはイエス様です。 ルカの福音書24:49
エルサレムから離れてはいけないという意味です。そして使徒の働きの1章4節、5節、8節を見ると次のように書かれています。 使徒の働き1:4-5、8
五旬節の日に聖霊が注がれました。前に読みました使徒の働き2章を見ると、これについての4つの特徴が記されております。 その第一は、風が家全体を満たしたということです。これは聖霊のご臨在を証明するものでした。 第二は、みんなが聖霊を受けたということであります。そしてまた、炎のような分かれた舌が、ひとりひとりの上にとどまりました。 第三は、みなが聖霊を受けただけではなく、聖霊に満たされたということです。聖霊は彼らを支配するようになりました。 第四は、彼らが聖霊の賜物を受け、今まで聞いたことも習ったこともないようなことばで話したということです。 異言を語った。そのときの異言とは、100%主の賜物でした。あとで完全に、だいたい2,000年間なくなったのです。 それからアメリカの黒人の間にまた現われて、その影響によってヨーロッパも大変なショックを受けるようになり、今異言を語る必要はない。 イエス様でさえも、聖霊に満たされたイエス様でさえも異言を語れなかったのです。ほかの宗教の人々も異言を語ります。違う霊を与えるものです。惑わす霊です。 五旬節はちょうど一度だけイエス様がご降誕なさり、十字架につけられて復活なさり、昇天なさったように、これもただ一度だけのことでした。 聖霊は五旬節以来この地上に住まわれ、まことの信者のうちに宿っておられます。 ここで知識の問題が大切なのではなく、それよりもはるかに大きなことが大切であることに注意しなければならない。私たちの人生が永遠の滅びで終わるか、それとも永遠のいのちに終わるかということこそ、一番大切なことです。 イエス様はすべての人のために完全な救いを成就してくださいましたけど、この救いは私たちひとりひとりの体験とならなければならない。 そしてこのことはただ聖霊によってのみ実現されるのです。それですから私たちが聖霊に対して一体どのような態度を取るかということが非常に大切な問題となるのです。 あるフランス人の哲学者は色々なことを書いたのです。彼の自叙伝の中でどういう文章が出てくるかと言いますと、「私の人生はもうどうすることもできないものになった。」 これはまことに震撼すべき告白です。彼は望みなき人間、喜びなき人間になってしまったのです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。 彼は自ら次のように書いたのです。「私は地下室で聖霊をつかまえ、それを追い出した。」、その結果は目的なき人生となったのです。 彼は福音を聞き、聖霊の働きを感じましたが、それに対して意識的に心を頑なにしてしまったのです。 しかしそのことによって彼は、もっともあわれむべき人間になり下がってしまいました。それは彼が、「私の人生はもうダメになってしまった。」と言った、その言葉から明らかです。 また、アメリカの有名な作家であるヘミングウェイはかつて次のように言いました。もちろん彼は自殺してしまったのですけど。 「わが人生は暗黒の道であります。そしてこの道は一体どこに続いて行くのか全く分からない。皆目分からない。わが道は終わりなき暗黒の道であり、どこにも行かない道である。」、最後は自殺でした。 われわれの人生が目的のないものにならないように、また暗黒の道にならないように聖霊が遣わされたのです。 聖霊とは単に神の影響、神の力、感情ではなく、人格そのものです。聖霊は創造主なる神、また主イエス様と同じように神そのものです。 聖霊は次のような名前が付けられています。真理の御霊。恵みの御霊。いのちの御霊。約束の御霊。力の御霊。愛の御霊。節制の御霊。聖めの御霊。知恵の御霊。啓示の御霊。栄光の御霊。信仰の御霊。主の霊などであります。 次の質問は、聖霊が救われていない人々に対していかなる最良を与えるのでしょうかということについて、ちょっとだけ考えたいと思います。答えはヨハネの福音書の16章8節なのではないかと思います。 ヨハネの福音書16:8
とあります。そこでまず聖霊が罪について目を開かせるということを、みことばからちょっと考えたいと思います。 人間はだれでも罪人と呼ばれています。主なる神の判断は、 ローマ人への手紙3:10、12
ローマ人への手紙3:12
結局例外なく ローマ人への手紙3:12
これはすべて知り給う主の判断です。このような罪人が聖霊の働きによって自分の本当の姿、すなわち罪にまみれた姿を認める以外には決して何の望みも、いかなる救いもあり得ません。自分が本当の逃れ道のない者であることを知った者だけが、まことの救い主を呼び求めるのです。 第二に、義について目を開かせるものも聖霊です。すなわちイエス様によって救いが提供されているというこの事実にほかならない。 イエス様はこのように私たちを義と認めるのです。コリント人への手紙第Iの1章30節。ひと文章だけですけれども、大切な個所です。 コリント人への手紙第I、1:30
イエス様をもつ者は義とされている。このキリストを信頼し、受け入れる者は義とされます。 主なる神の前に義とされるのは、決して人間の行ないや人間の努力によるのではない。ただイエス様を信じる、信頼することによってです。 第三に、さばきについて目が開かれるのも、もちろん聖霊の働きによるものです。 イエス様を個人的に、また意識的に受け入れない者はだれでもさばきを受け、愛の泉、いのちの泉であられるまことの神から永遠に離れた状態にとどまらなければならないと、聖書ははっきり言っているのです。 あなたは罪人です。そして罪人として永遠の死に服さなければならない。しかしそれは決して終わりではない。イエス様は身代わりに死んでくださり、聖なる神の罰をお受けになってくださった。 イエス様に信頼を置くならば、恵みによって義とされ、このすばらしい贈り物を拒み、自分勝手な道を行く者は望みがなく、救いが全然ないのです。この真理を明らかにするために聖霊は一生懸命、夜昼働いておられます。 この真理を素直に肯定する者には本当の悔い改めと罪の認識があります。罪を告白し、罪から離れるという者はイエス様を信じるようになるのです。 聖書を見ると、悔い改めてイエス様を受け入れる者は、賜物として聖霊を受けることが分かります。このように聖霊を受けることは、結局新しい生まれ変わりを意味します。 イエス様は当時の立派な聖書学者であるニコデモに次のように言われたことがあります。 ヨハネの福音書3:3、6
もう一ヶ所。テトスへの手紙3章の5節を見ましょうか。パウロは次のように書き記したのであります。 テトスへの手紙3:5
またパウロはコリントにいる人々に次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:17
そこには新しい創造がある。新しい創造とは、どうしようもない人間の中に住むようになったイエス様です。御霊を通して住むイエス様です。 聖霊がなければ望みもなく、救いもありません。だからパウロはローマ人への手紙8章9節に次のように書いたのです。 ローマ人への手紙8:9
聖霊の宿になっていない人は救われていないということです。どういう教会に属していても、洗礼を受けても、財産全部献金したとしても救われていない。 何百年か前にひとりの百姓さんだったと思いますけれど、非常に主によって用いられた人となったのです。ヘンリオという男でした。 彼は主の恵みについて、人間の罪にまみれた状態について、回心の必要についてもう、夜昼話したのです。ある聞いた人が、「あなたの話よりも、盗んではならない、殺してはならないというようなことについて話してほしい。」、結局、道徳的なことについて話したほうがいいのではないか。 これを聞いたこのヘンリオは何と言ったかと言いますと、庭にある梨の木の例を引いて、分かりやすく答えました。 すなわち、「良い梨を作ろうと思ってある人が毎日梨の木に向かって、『良い梨を作れ!良い梨を作れ!』と命令しても何にもならない。その木を切って、良い梨をもたらす木を接ぎ木すれば、良い梨を収穫することができる。」と言ったそうです。 これと全く同じようにわれわれ人間も聖霊の働きなしには新しく生まれ変わることも、良い実を結ぶことももちろん無理です。 最後に、もうすでに救われた人々への御霊の働きについてちょっとだけ考えたいと思います。もちろん聖霊は未信者に対してだけではなく、信者に対しても働きます。すなわち御霊の賜物が問題なのではなく、御霊の満たしが大切です。 五旬節に聖霊を受けた者は、「すべて聖霊によって満たされた。」と書かれています。けど聖霊の満たしは過ぎ行くものであり、そのあとも彼らは何回も何回も聖霊に満たされたと聖書は言っているのです。 御霊の賜物は一回限りのものであり、決して失われないものです。 最近飛行機の中である論文を読んだのです。内容は、「イエス様によって救われた人は悪霊につかれることができるか。」という題名だったのです。 色々な聖書の個所を引いて、結論から見ると、無理。はっきり新しいいのちをもつようになった人は、聖霊の宮になった人は、悪魔のものになることができない。 けれども与えられた満たしをもちろん失う可能性が十分あります。満たしは失われるものだから何回も満たされる必要があります。エペソの信者たちは聖霊の御霊をもってはいましたが、それにも関わらずパウロから御霊に満たされなさいという警告を受けたのです。 次に御霊の賜物と御霊の満たしの違いを間単に見てみることにしたいと思います。 第一に、御霊の賜物と新しく生まれ変わることは一回限りのもので、いつまでも続きます。けれど御霊の満たしは全き献身の結果として与えられるものから、失われる性質をもっています。 第二に、御霊の賜物によって人は新しく生まれ変わり、新たに造られた者となりますが、御霊の満たしは古き人が死に渡されることによってなされるのです。 第三に、御霊の賜物によって本当の信者は生まれ、御霊の満たしによって信者はイエス様に似た者とされるのです。 第四に、御霊の賜物によって主に対する戦いが終わり、御霊の満たしによって悪魔に対する戦いが始まるのです。 第五に、御霊の賜物によって主なる神との平和を与えられ、御霊の満たしによって主なる神ご自身の平和を与えられるのです。 第六に、御霊の賜物は罪に対する罰を無にし、御霊の満たしは罪を犯すことから守ってくれます。 第七に、私たちは罪にまみれた生活をイエス様に明け渡すことによって御霊の賜物を受け、献身によって御霊の満たしを受けるのです。 イエス様を信じることによって御霊の賜物を受ける人は確かに大勢います。けれど御霊の満たしを受ける人は少ないのではないでしょうか。 満たされることとは聖霊によって支配されることです。意見を語ることとは聖霊によって満たされている証拠ではない。そういう人々はだいたい傲慢です。「私は受けた。あなたはまだでしょ。」、云々と。 それはもう、はっきりとした証明です。間違っていること。 イエス様を受け入れることは大切ですけれど、十分ではない。イエス様とともに歩むことが要求されています。 例えばコロサイ人への手紙の2章6節を見ると次のように書かれています。 コロサイ人への手紙2:6
とあります。光に来ることだけが大切なのではなく、光のうちを歩むことこそ、信じる者にとって大切です。だからヨハネは次のように書いたのです。「主が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むべきです。」 やっぱりイエス様のみもとに来るだけではなく、イエス様にとどまり、イエス様によって歩むことが大切です。 ヨハネの手紙第I、2:6
とあります。新しいいのちを持つだけではなく、新しいいのちにあって新しい歩みをすることが必要です。 信仰を持ってイエス様に近づくだけではなく、毎日の信仰生活において、身と心によってではなく、信仰によって歩むことが要求されています。 御霊の賜物を持つだけではなく、御霊にあって歩むことが要求されています。ですからパウロはガラテヤ人への手紙5章16節に、 ガラテヤ人への手紙5:16
召しを受けることだけではなく、召しにふさわしく歩むことが必要です。イエス様の愛を体験的に知るだけではなく、愛のうちに歩むことが大切です。それで一体自分はどうでしょうかという問いを真剣に考えるべきではないでしょうか。 私たちは御霊によって動かされているのでしょうか。御霊はわれわれの考えや行ないに臨んで働いておられるのでしょうか。聖霊よりも人間のほうがわれわれに影響を及ぼしているのでしょうか。 イエス様の愛こそ私たちにとって第一のものなのでしょうか。それともほかの別の目的でもあるのでしょうか。 また一例を挙げてみましょうか。ここで一本の銅の針金があります。これを見てある人は普通の針金だと言い、詳しいことを知っている人は高圧電流の針金だと言います。普通の針金と高圧電流の針金とは全く違います。 それと同じように、私たち信者も普通の針金にすぎないか、それとも大きな力を運ぶものかのいずれでしょう。 またここに一枚の紙があります。ある人は普通の紙だと言いますが、銀行員は何千万円もの価値をもった小切手であると言います。 私たちもこれと同じように御霊がわれわれを自由に用いることができるか否かによって、普通の紙切れであったり、莫大な価値をもつ小切手であったりするのです。 以上のことから五旬節については、私たちが聖霊に対していかなる態度を取るかが非常に大切であることを、もちろんだれでも分かったと思います。 そこで次に、残った二つのお祝いについてちょっとだけ述べて終わりたいと思います。 第六は、イエス様の再臨です。 イエス様は確かにいつか、イスラエルを攻撃する国々を滅ぼすようになるし、約束された千年王国を建てるようになりますけれども、その前にイエス様はへりくだった人々、恵みを乞うた人々のために迎えに来る。「わたしはあなたがたを迎えるために来る。」とはっきり言われたのです。 いつになるか分からないけれど備えあれば憂いなし。今日来るかもしれない。 これを考えるとやっぱりどういう問題、山のようなものがあっても違うのではないでしょうか。もうちょっと、イエス様は来られる。 そのときイエス様のまことの姿を見ることができるため、イエス様の再臨は本当に心からお祝いすべきことです。 イエス様を見ることは、もう考えられない最高の栄光です。 聖書は、「私たちがイエス様に似た者となる。」と言っています。いつなるかと言いますと、イエス様を見た瞬間。 毎日このお祝いを待ち望むべきではないでしょうか。 最後の第七のお祝いは、もっとも偉大なるものでしょう。すなわち、小羊の婚姻です。 ヨハネの黙示録の19章を見ると次のように書き記されています。 ヨハネの黙示録19:9
小羊の婚姻とは私たち信じる者がイエス様と完全に、永遠にひとつとなることです。これこそ想像に絶する出来事です。 パウロは次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:9
とあります。 |