宮崎喜びの集い記念会


ベック兄

(宮崎喜びの集い、2002/09/28)

引用聖句:ヨハネの福音書20章19節-21節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

ヨハネの黙示録1:17-18
17それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ま、今日このようにして愛する兄弟の記念会で、少し神のみことばである聖書について考えることができることは感謝です。
なぜならば、聖書を通してのみ、生ける希望が与えられるからです。聖書が、書き記している一言とは、「死は、終わりではない。」 ま、死んでから始まる。
イエス様は、「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。」と語りました。意味は、死とは、終わりではない。
愛する 兄弟もこの事実を理解できなかったでしょう、けど、素直に信じるようになったのです。だから、幸せです。

いま、司会者が言われたように、兄弟は病気だったのです。アルコール中毒だったのです。ひとつの病気です。
普通の人間は、いくらお酒を飲んでも中毒にならないよ。なるのは珍しい。ま、お医者さんに聞くとわかる。
ある人々はなる。ある人々はならない。そうすると、なる人はちょっと、かわいそうじゃないか。不幸じゃないか。

ま、ちょうど兄弟の半分くらいだったですかね。23歳のある男の文章を紹介したいと思います。彼は、いわゆる筋ジストロフィーの患者だったのです。
ま、結局、もう手足も思うように使えないし、話しも思うようにできないし、それだけでもなく親もないし、兄弟もないし全くひとり。けども、彼は、岐阜の高山の小学校へ行って、中学校へ行って、それからだんだん寝たきりになりました。
けども、小学校の先生はイエス様を信じる者だったのです。

先生は、やっぱりイエス様知らなければ、もう希望ないし。イエス様のことを紹介したのです。
ま、悩む者はイエス様のことを聞くとうれしくなる。ま、へたな字だったのです。私は、この葉書を先生からもらったのです。

前略

お元気ですか?
この前、先生からもらった手紙で先生のお母さんの亡くなったことを知り、非常に残念です。
一度、お会いしたかったな。

でも、先生、元気を出してください。人は、みないつかは死が訪れます。それは、悲しいことです。
でも、聖書にはこう書かれています。たとえ死んでも、たましいは永遠に滅びることはない。

そして、イエス様は私たちの大いなる父、主のもとへ導いてくださり、そして、この世のすべての苦しみ、悲しみ、そして罪からも解き放ち、永遠の安らぎを与えてくださる。
だから、ボクは、死に恐怖はありません。

だって、主や、イエス様がおられ、そしてまた皆に会えるのだから。

最後に、ボクの好きな言葉。
「わたしは、あなたのそばを離れない。どんなことがあっても、たとえ死ぬ時でさえも。」

重病人の彼が、先生に元気を出してくださいと書いたのです。ま、かわいい文章です。
博士論文には、ならないかもしれないけど、やっぱりこの子は不幸なのではない。幸せです。
おそらく、この子はもう体が丈夫で、頭が良くて東大にはいったとしても、おそらくそういう気持ちになれなかったのではないでしょうか。

不幸という、ドイツ語の言葉の意味は、「心の故郷に帰るための道しるべ」
ちょっと、考えるべきことじゃないですか?不幸とは、人間の考えているよりも、幸せになるために必要なのです。
あの子は、確かに苦しんだよ。親もいない、兄弟もいない、誰もいない。体は不自由になった。

兄弟は、ま45歳だったんです。彼も、この病気(アルコール依存)を通して、やっと悩むようになったのです。劣等感もあったし、どうしたら良いか、結局わからなくなったのです。
だから、イエス様の話しを聞いたとき、うれしくなったに違いない。イエス様だったら、私の気持ちを理解できる。イエス様だったら、私を無視しない。私は、愛されてると知るようになった時に、喜びが、湧いてきたのです。
ま、希望が与えられるようになったのです。

主イエス様に与えられた名前は、いっぱいあります。我々は、ま、ひとつしか与えられていない。主にある名前は、600以上です。
そのひとつの名前は「望みの神」です。
結局、あきらめてはいかん。主が、全部知っておられ、なんでもできるお方です。

それから、「慰めの神」と呼ばれています。結局、慰めを与えられるお方であるからです。
「インマヌエル」という名前もあります。意味は、神が私達と共にいるです。
残されてるご家族のひとりひとりが、急だったから、やっぱり寂しくなったかもしれない。けど、このインマヌエルと呼ばれている神は、私をあなたがたを孤児とはしない。私はいつまでも、あなたがたと共にいると、約束してくださいます。

ま、人間を見ると、確かにいえることは、ふた種類の人間がいます。
ある人間は、ま、望みを知らない人間です。後ろ向きの生活をする人々です。
もうひと種類は、やっぱり、望みを持つ人々です。

望みを持たない人々は、不安で心配です。
イエス様を知るようになった人々は、明日のこと、確かにわからない。でも、先の先のこと、わかる。
私たちは、いつも、主と共にいる。すなわち天国です。いまの人生とは、おもに、年輩の方々わかるでしょう。たいしたものじゃない。やっぱりみんな苦労しているのじゃないでしょうか。

兄弟も悩みました。苦しみました。どうしたら良いかとわからなかった。けど、今、生きてる間に多くのことを理解することができなくても、いつか、ぜーーんぶ明らかになります。
「私は、あなたがたのために立てている計画を、よーく知っているから。それは、災いではなく平安を与えるものであり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
いま、いろいろなことわからなくても、いつか、ぜーーんぶ明らかになります。主イエス様は、言われました。

マタイの福音書5:4
4悲しむ者は幸いです。

幸せです。なんの苦しみも悩みも苦労もなければ、人間は本当にかわいそうです。なぜならば、心から祈ろうとしない。私の我が儘を赦してください、憐れんでください。そういう気持ちになり得ないからです。
神は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与える。悲しむ者は、幸いです。

その時、すぐにわからなくても、いつか必ずわかるようになります。
ま、愛する兄弟は、イエス様を信ずるようになった。いろいろなこと、わかったからじゃないよ。わかったから信ずるという考え方は、宗教的ですけど、間違っています。
どうして、信ずることができるか。十字架にかかったイエス様は、うそつきでないから。イエス様は、おいで、私の所に来なさい。決して、捨てないと約束してくださいました。
愛する兄弟は、イエス様の所に行っちゃったのです。祈ったのです。イエス様、憐れんで。私の、わがままを赦してください。そういう心構えがあれば、行き先は決まり。
イエス様は、私は決して捨てないと約束してくださったからです。ですから、イエス様を信ずることとは、自分の無力さ、自分のみじめさ、罪深さを認め、告白することです。そして、兄弟はこの恵みに預かることになりました。

きょうの記念会とは、誰のためかなー?兄弟は、もういないよ。この世に、もういないよ。この世と関係のない者になった。
もし、彼は、我々人間を見ると、おそらく悲しくなると思う。どうして、自分の力で頑張って、努力するの?どうして、もっとイエス様に頼らないの?どうして、もっともっとみことばに頼らないの?と思う。
うーーん、だから、やっぱり先に天国に行った人々は、我々のことを見られない。
今日記念会とは、愛する兄弟のためよりも、残されている者のためなのです。・・・

残されている人々とは、みな兄弟に負けた。追い越されたからです。
お父さんは、先にゴールインしちゃった。その意味で、きょうの集いとは、喜びの集いです。ま、後で4時から始まる集会も喜びの集いです。そういう名前を持つものなのです。
でもね−。いくら、喜びの集いといっても、集まる人々はみんな悩んでいる人ばっかり。どうして、喜びの集いといえるかと言いますと、イエス様は、勝利者だから、死を克服してくださったお方であるからです。
それから、本当の意味での今日の集いは、どういうものであるかと言いますと、今日の集いとはね、大喜びの集いとなるべきです。大喜びの集いになるために必要なのは、砕かれた気持ちを持つ人々です。

もし、今日来られた方のおひとりが、実は私もわがままなんです、私も過ちを犯す者です、イエス様、ごめんなさい。そういう気持ちがあれば、大喜びの集いになるだけじゃなくて、天国にその知らせが行って、兄弟もそれがわかるようになる。聖書は、そう言っとるのです。
「ひとりの人が、悔い改めれば、天国で大いなる賛美が始まると」聖書は言っています。

結局、今日の集いとは、みんな、自分たちの死について考えるべきではないでしょうか。ね。
今度は、誰の番?ま、順番がわかれば有りがたい。そうしたら、もっと真剣になる。20年先だったら、もう平気だと思う。再来週だったら、たいへん。
前に飛行機の中で、東京のガンセンターで働いてるドクターの記事を読んだのです。まーー、外科でオランダでも大学で教えてる先生でちょっと面白いことを書いたのです。
「癌になった人々に、必ず教えないとけしからん。やっぱり、自分の死について考えるべきです。病人だけじゃなくて、健康な人も、毎日、自分の死について考えない人は愚かな人です。」と書いたのです。
けども、彼はイエス・キリストを信じてないよ。わたしは、努力して、努力して、彼と会ったのです。ま、1時間半くらい。

けども、やっぱりまともな人間だと思うよ。いつか死ぬでしょう。そうすると準備しなければ、おかしいよ。
たとえば、子供が幼稚園入る前に、親はいろいろなことを考えますよ。心配して....中学にはいっても、大学にはいっても...なのに、死について考えないのは、おかしい。

ある時、兄弟とちょうど倍の歳の方だったのです。ま、長男に頼まれて訪問したのです。
もう長くない。けど、やっぱりね。はじめて会うのはね。心配。結局、つまずき与えるのは、簡単だからね−。ま、恐れながら、訪問したのです。
ま、後で聞いたのです。ボクの考えは、おかしかった。彼は6人部屋だったのです。前の日から、みんなに言ったのです。
明日ドイツの者来るよ。ドイツの者来るから。そして、朝からいつ来るかいつ来るかと待っていたのです。けど、それ、わからないよ。
ですから、私は挨拶してから、何をしゃべっていいか、わからないし。ね、初めから、聖書、聖書、イエスさま、イエス様言うと、つまずくかもしれないでしょう。ですから、適当に話そうと思ったのです。

でも、彼は、何と言ったかというと「結論とは?」
はぁー、うれしくなちゃった。それだけ聞きたい。結局、彼は85歳。もう末期の癌。いつまで持つかわからない。けど、どうしたら、安心して死ねるの? 教えて−−。そういう気持ちだったのです。

そうだったら、ありがたい。もちろん、85歳のおじいちゃんに、いろいろなこと教えようと思っても、問題なのです。
人間は、教えを信じ込むことでは、救われないよ−−。へりくだればOK。自分のわがままを赦してください。そういう砕かれた気持ちがあれば、主は赦してくださり、受け入れて下さると、主はおっしゃっている。
ま、そういうことを簡単に話して、彼はもう心開いていたから、「イエス様、わたしも、確かに、わがままでした。過ちを犯した者です。赦してください。私のためにも死なれたらしいから、ま、ちょっとピンと来ないけど、ありがたい。今からよろしく。」
素直に祈って、後で顔は輝いていたのです。ま、長男は後で言ったのですけど、小さい子供が人形を抱いて寝るように、その時置いてきた「光よあれ」を抱いて寝るようになったのです。安心して、喜んで。

結局、愛する兄弟の記念会とはきっかけになって、自分の死について、考えるようになれば、幸いです。
確かに45年間、短いでしょう。でも85歳になっても短いでしょう。人生は、聖書によると、たいしたもんじゃない。
「あなたがたには、明日のことはわからないのです。」まー、ちっぽけな者だよ、人間は。明日のことでさえもわからない。
けど、いまの人生は、別の意味で考えられないほど大切です。永遠の人生への準備期間だからです。
愛する兄弟は、この準備期間を用いたのです。別に、キリスト教に入ったんじゃないよ。
ただ、素直に、イエス様は自分のわがままのゆえに犠牲になり死なれたことを信じたのです。理解したからじゃない。

結局、人間は、成功すれば、金持ちになれば、病気にならなければ、ま自分の思うようになれば、幸せと考えているのです。
けど、違う。偽物です。
この世界で、たぶん頭の良い男、そして一番お金持ちになった男とは、たぶん、3000年前に王であったソロモンです。
このソロモン王様は、もちろん、欲しい物を全部持っていたのです。地位もあったし、名誉もあったし、財産もありました。あやゆるものを持っていたのです。
でも、彼の結論は、この世のものはすべて、むなしーーい。苦の苦である。
全部、持っていたとしても、心は満たされていない。けども、この満たされていない人間は、愛する兄弟のようにイエス様に祈ると、希望が湧いて来ます。
死は終わりではない。という確信を持つようになります。

愛する兄弟が信じるようになったイエス様とは、どういうお方なのでしょうか。
キリスト教とは、関係のないお方です。無宗教です。
死を克服してくださった方です。罪滅ぼしのために犠牲になられたから、このイエス様はあらゆる人間の罪を喜んで赦すことができる。赦したくて、赦したくてしょうがない。
イエス様は、前に話したように、死んでも生きると言われたのです。わたしが、来たのは自分勝手な道に向かう、彷徨う羊のような人間が命を得、豊かに持つためである。
私の父の御心は、私を見て信じる者が永遠の命を持つことです。私は、その人たちを、ひとりひとり終わりの日に、甦らせます。

聖書を通して提供されている救い。また、愛する兄弟の味わうようになった救いとは、どういうものなのでしょうか。
過去の克服です。それから、死の恐怖からの解放です。
行き先は、決まっている。天国です。

初代教会の人々は、確信を持って私たちの国籍は天国ですと言えたのです。この確信は、たーいへんな宝物なのでは、ないでしょうか。
天国の状態について、聖書はつぎのように言っています。

ヨハネの黙示録21:4
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

ま、われわれにとって夢の世界です。苦しみのない世界、病気のない世界。考えられない。けども、愛する兄弟は先にゴールインしたから、この幸せを体験的に知るようになったのです。
ほんとうに、来るべき栄光は考えられないほど素晴らしいものです。だから、聖書は、次のように言っています。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

いま、いくら苦しくても、将来どうして、なぜ、とはっきりわかるようになるだけでなく、そのために感謝するようになるに違いない。




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