引用聖句:歴代誌第II、29章5節-7節、9節
コリント人への手紙第I、6:13-20
今、紹介のありました兄弟は、ちょうど高知にいまして、直接精神病院から来たんです。そして同じ日、悔い改める恵みにあずかるようになり救われたんです。彼は後で何と言ったかと言いますと、「俺にとって怖いものは3つあった。まず警察、2番目税務署、3番目聖書。」 聖書は怖いものだよ。全部光に照らされれば大変だよ。もちろんわれわれ信ずる者にとって大変な書物です。なぜならば、信ずる者の考えと主の考えとは、同じだったらありがたいけど、とんでもない話。違う! たとえばイザヤ書の55章を見ると次のように書かれています。もちろん異邦人に向かってじゃなくて、イスラエルの民に対する呼びかけです。 イザヤ書55:6-9
信ずる者に対する呼びかけとは、「主を求めよ」、「目を高くあげよ」、「本物のイエス様から目を離さないでいなさい」 人間は簡単に惑わされます。信者もそう。もちろんいわゆる宗教に入った人々とは、みな知らないうちに騙されています。 本物のイエス様は、本当に言葉で言い表わせないほど素晴らしい、偉大なるお方です。このイエス様とは、要求するお方じゃなくて、与えるお方です。 主は「導きたい」「教えたい」「守りたい」「満たしたい」「用いたい」と望んでおられます。けどもこの本物のイエス様は、罪を明るみにするお方です。けども明るみに出された罪はもう罪じゃない。光です。 ピンとこない。どういうことか分からない。つかめない。けども主の前に明るみに出された罪はもう罪ではない。主は、「あなたの罪を二度と思い出さない。決して、決して、心に留めない」と約束しておらるるお方です。 この本物のイエス様は、「わたしのところに来なさい」と呼んでおられるだけではなく、イエス様ご自身が近づいてくださいます。 われわれの主は聞く耳を持つお方であり、答えてくださるお方であり、恵もうと望んでおられるお方です。このイエス様を仰ぎ見ると確かに礼拝せざるを得ないし、そして満たされるようになります。 信ずる者の集いは、いつも「喜びの集い」です。もちろん「喜びの集い」と言っても、来る人々はみんな悩んでる人々ばっかり。時間をつぶすために誰も来ていない。他に金の使い道がないからなのでもないよ。みんな悩んでます。そしたら、どうして信ずる者の集いは「喜びの集い」なのでしょうか。悔い改められるからです。すごい恵みです。 ドイツの宗教改革者であるルターは、何と言ったかと言いますと、「悔い改めることは、最も素晴らしい仕事である」と。なぜならば、それによって赦してくださる方を知るようになるからです。主の愛を前よりも知るようになるからです。 悔い改める兄弟姉妹は、みんなの喜びのたねです。悔い改めたくない兄弟姉妹は、みなの悩みのたねになります。もちろん新約聖書の手紙を読むと分かります。やっぱり2種類の信者がいます。みんな同じ救いにあずかったし、みんな罪の赦しを受けたし、みんな「もう天国は保証された」と確信できる。けど、それにしても2種類がいるようです。 パウロは、ある兄弟姉妹のことを考えた時、ほんとに嬉しくなっちゃった。テサロニケにいる兄弟姉妹はそういう人々だったんです。「私は、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています。」 たまにじゃないよ。「いつも」、ある特定の兄弟姉妹のためじゃなくて、「あなたがたすべてのため」に。パウロはテサロニケに集まる兄弟姉妹のことを考えた時、本当にもう嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。イエス様はすごい! けども、他の多くの場所でやっぱり違ったんです。他の兄弟姉妹のことを彼は考えた時、「私は困ってる」「私は悩んでる」「私は苦しんでる」と彼は書かなければならなかったんです。もちろんだいたいみな彼を通して導かれたんです。同じ福音を聞いたんです。同じ救いにあずかるようになったのですけれども、成長は全然違ったんです。 すなわちある兄弟姉妹は、「イエス様なんてまだまだ来ないでしょう。そんなに待たなくてもいい」という態度をとったし、他の兄弟姉妹は期待を持って、「今日かもしれない」と待ち望んでいたのです。 ある兄弟姉妹は自分のために生活し、自分自身を実現しようと思い、他の兄弟姉妹は「イエス様のために生活したい。イエス様を喜ばせたい」と心から望むのです。結局「イエス様だけが中心となり、私はそんなに大切じゃない」、ある兄弟姉妹は「中心になりたい」「役割を演じてもらいたい」「同情してもらいたい」、もしそうでないと「面白くない」、不平不満を言います。 他の兄弟姉妹は「イエス様にのみすべての栄光を帰してきたい」と望んでいます。ある兄弟姉妹はつまずきを与え、分裂を起こす者であり、別の兄弟姉妹はいのちがけで集会全体の一致が現われることを心から望んでいます。 ひと言葉で言いますと、ある兄弟姉妹は暗やみの中にいる。もちろん知らないんです。分かれば問題ないよ。けど知らないうちに暗やみの中にいる兄弟姉妹もいます。 他の兄弟姉妹は、マルコの福音書5章に出てくる女のように、「イエスに真実をあますところなく打ち明ける」兄弟姉妹です。 ダビデは心から叫んだのです。すなわち「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと、私の心を試してください」 私たちが心からなる願いを持って、自らの内を主の光によって照らし、試していただく必要があるなのではないでしょうか。主の光に照らされると、もちろん誰でももうちいちゃくなります。顔を上げられなくなります。「どうしましょう」としか考えられないでしょう。 光に照らされた時、初めてサウロは自分のやってることはとんでもないことであり、全く悪魔的であり、的外れな行ないであることを分かったのです。 イエス様の呼びかけとは、「おいで。わたしのところに来なさい。わたしは光です。唯一のまことの光です」 光のもとに来たくないことは、結局自分の罪を隠すことであり、正直になりたくないことであります。不幸への道です。けども生まれつきの人間は、決して光のもとに行こうとしない。 ある時ひと家族が家まで来まして、ご主人の挨拶は非常にすばらしい挨拶でした。「私は悔い改めるために来た。私は間違っていた。家族の者たちを大いに悩ませた」、それを聞いて一人の娘は驚きと喜びのあまりもう泣いてしまったのです。悔い改められることとは、すばらしい恵みなのではないでしょうか。 主は結局、人間一人一人を「まことの喜び」「真の平安」「生ける希望」に満たしたいのであるから、聖書は言っています。 詩篇81:10
「満ちる」という言葉は聖書の中でよく出てきます。 「満ちる」とは「終わりの時」を意味しています。すなわち終わりの時代には悪が満ち満ちて成熟し、また正義も満ち満ちて成熟に至ります。 イエス様を退ける者は、いっそう遠くイエス様から遠ざかるようになり、イエス様を喜ばせようと思う者は自分自身を無条件にイエス様に明け渡すことによって変えられるようになります。祝福になります。 ですから大切なのは「私たちは何によって満たされてるなのでしょうか」、意味は「私たちを動かす力とは、どういうものなのでしょうか」、「われわれの支配者がいったい誰なのでしょうか」 「主を知らないすべての人間の心は、悪に満ちているものです」と聖書は言っています。もちろん多くの現代人はそれを否定しています。「悪いのは環境だよ!」 よく子どもはね、親のせいにする。学校の先生のせいにする。笑い話。結局いわゆるヒューマニストたちの考えは、「人間の心は、なかなか良いものだよ。環境だけ改善されれば、人間は自分で努力をするならば、より良いものになる」と思ってるのです。 けどこれは夢の世界です。聖書は非常に現実的で、もうすでに創世記の中で何を書いているかといいますと、 創世記8:21
エレミヤ書17:9
直そうと努力する人は、みな壁にぶつかります。上手くいきません。「人間の心はよろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まってる」と、神のみことばは言ってるのです。 もちろんわれわれにとっていつも考えるべきなのは、「イエス様は人間について何を考えたでしょうか」 マルコの福音書7章を見ると、「イエス様の判断」について書かれています。ここでアンダーラインすべき言葉は「内側」という言葉です。 ここで「人」とは、すべての人を意味するのです。全人類を意味するのです。未信者だけじゃないんです。信ずる者も含まれています。「人」だからです。 マルコの福音書7:21-23
外側からじゃないんです。今の人間はね、完全な環境の中に置かれていても、この完全なる環境はすぐ不完全になる。人間はわがままだからです。自分のことしか考えられないからです。 将来のいわゆる「千年王国」は、どうして与えられるなのでしょうか。このことを証明することだけです。千年王国の気候も違うし、食べものも違うし、支配するのはイエス様だけなんです。悪魔も人間を誘惑することができない。もうしあわせです。 けどもその後で、悪魔はちょっとまた自由になり、そして人間はどういう態度をとるかと言いますと、「イエス様は結構です」 結局全然変わっていない。環境を良くしても人間は良くなるもんじゃない。全部内側から来るからです。 このイエス様の判断は、人間が誰でも心の中にいだいてる思いであるわれわれを取り囲んでいるいろいろな世のもの、つまり週間雑誌やテレビの番組や、人々の愛のない結婚生活や、異常の経済的な状況、またモラルの低下している政治の時代などを考えると、やっぱり聖書は正しいと認めざるを得ない。聖書は真実であります。 3,000年前に世界を治めたソロモンという大王様は言ったのです。伝道者の書の9章3節の後半。 伝道者の書9:3
エゼキエル書の中でも似ている箇所があります。 エゼキエル書9:9
こういう箇所は、まさに現在の状態に対して語られてるのではないでしょうか。 人間の心がいかに悪に染まってるかということを、ちょっと新約聖書から3つの例をひいてもらいましょうか。 使徒の働きの13章の中で一人の男について、魔術師だったんですけども、名前はエルマということについて書かれています。 使徒の働き13:10
このエルマという男は、意識して真理に敵対した者でした。真理のみことばの特徴はありのままであること、また素直であることです。エルマはこれとちょうど反対に偽りの者、またよこしまな者と言われたのです。 2番目の例は、ルカの福音書4章に出てくるのですけれども、イエス様の故郷であるナザレの人々でした。 イエス様は自分の故郷に帰って、当然ですけどもちろん福音を宣べ伝えました。そして初めて彼らは嬉しくなった。反応は、 ルカの福音書4:22
けどもその後の反応は逆になったんです。 ルカの福音書4:28-29
ナザレの人々は、ひどく怒り、つまり怒りに満たされ、主イエス様を追い出して殺そうとしたのです。 言うまでもなく、このナザレの人々とはイスラエル人であり、主によって選ばれた民でした。彼らは自分自身では「敬虔な者である」、と自認していたのです。安息日ごとに会堂に集い、主のみことばを聞きました。 けど自分自身の心を真っ直ぐに見つめて、悔い改めようとする気持ちがなかったのです。その結果彼らの心を満たしていたものは、主にある喜びではなく怒りでした。 もう一つの例は、非常に悲しい例なんですけど、初代教会に属する兄弟姉妹の例です。使徒の働き5章に出てくるアナニヤとサッピラの例であります。 使徒の働き5:3
ここで「どうしてあなたはサタンに心を奪われたのか」と書かれていますけれど、原語によればここは、「サタンに心を満たされたのか」という意味になっています。 もちろんこの夫婦は初代教会に属する者でした。自分の財産の大部分を捨てて、主に仕えようという気持ちを持っていたのです。けど彼らは、うわべでは「自分の持っているものすべてをささげてイエス様に仕えている者だ」という態度をとりました。 これは偽善的な行為でした。彼らは別に1円もささげなくてもよかった。誰も要求しなかった。彼らのとった態度は偽善者の態度でした。それゆえ彼らの心には悪魔がつけ込む隙があったのです。彼らの心を満たしていたものは、イエス様の真実ではなく悪魔の偽善でした。それゆえ主なる神のさばきがただちに彼らの上に下されました。 私たちもまた、主のみことばによってつねに吟味されていなければならないなのではないでしょうか。「私たちは、いったい何によって動かされてるなのでしょうか」「何によって満たされてるなのでしょうか」 われわれの心を満たしているものは、悪い考え、汚れ、不品行、ねたみ、また、愛のない態度ではないでしょうか。 私たちは聖書を読む時、単なる習慣や義務的な気持ちから読むのではなく「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度をとって読んでるなのでしょうか。 主の前にへりくだり、「自分自身は粉々に砕かれてもかまわないという」、心の用意があるなのでしょうか。 確かに、主の人間の心に対する判断とは面白くない。けど現実的です。パウロはローマ人への手紙3章の中で全部まとめたんです。 もちろん彼の考えてることではなかったのです。彼は詩篇からあちこちの箇所を集めて引用しただけなんです。 ローマ人への手紙3:10-14
ここも満ちているという言葉、出てきますね。 ローマ人への手紙3:15-17
まとめとして、 ローマ人への手紙3:18
主に対する恐れがなければもうおしまい。祝福がない。いくら聖書読んでも、祈っても、悔い改めても。 多くの人々は「悪かった」と言うんです。けどそう思ってないよ、全然。これこそが大変なのではないでしょうか。もちろん見えないからです。 (テープ A面 → B面) ・・・喜びもあり得ない。 主を畏れる「恐れ」を持つ必要性について、たくさん書かれてます。詩篇の111篇10節。たぶんソロモンの書いた詩篇でしょう。何を書いてるかと言いますと、 詩篇111:10
今の世界で求められているのは、確かに頭のいい人々です。優秀な人々です。魅力的な人々です。金を持つ者です。権力を持つ者でしょう。 けども主はそういう人々に対して全く無関心です。主はどういう人々を求めているかと言いますと、「心を砕かれ」「みことばにおののき」「主を恐れている」人々です。 確かに聖書の中で素晴らしい約束もいっぱいある。けど面白くない約束もある。たとえば砕かれている心を持たない人は、祝福され得ない。みことばにおののかない人は、決して祝福され得ない。主を恐れない人は何があっても祝福され得ません。大変なのではないでしょうか。 聖書を通して主に用いられた人々、主に祝福された人々とは、みな「主を恐れた人々」でした。一つのアブラハムの告白について考えれば分かります。彼は何を祈ったかと言いますと、 「私はちりや灰にすぎません」 けども彼はそう思っただけ、そう言っただけじゃなくて、心からそう思ったんです。ちりや灰とは役に立たないよ。捨てるべきです。 「役に立たない!」アブラハムはそう思ったんです。「私は捨てるべきものです」「もう駄目なんです。主のために何にもできない。捨てられたらちょうどいい」 けどもこのような態度をとる者は、大いに祝福されます。アサフという詩篇の作者は、 詩篇73:22
と告白したのです。だから大いに祝福されるようになりました。 主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって心砕かれた人々です。そして主の光によって自分のみじめさ、むなしさを知るようになった兄弟姉妹です。 「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度をとり続けることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 イザヤ書の中で書かれてます。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」 ガラテヤ人への手紙の中で、今度はパウロは人間の心について書いたのです。もちろんこの言葉は、ガラテヤ地方に住んでるイエス様に出会った人々についてのために書かれたものです。未信者のためじゃないんです。 ですから、こういう罪を犯す可能性がなければ、書く必要がなかったのです。 ガラテヤ人への手紙5:19-21
いったいどうしてまた滅びに向かって行く何百万という人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま、歩み続けてるなのでしょうか。これはみな信ずる者の罪のゆえです。自分のことばっかり考えてるからです。 いったいどうしてイエス様の体である兄弟姉妹は、こんなに弱く、力なく、悪の霊と戦うのに弱いなのでしょうか。自分のことを考えてるからです。 いったいどうして多くの兄弟姉妹は、なまぬるく、不熱心で、自己満足してるなのでしょうか。自分のことばっかり考えてるからです。 「聖霊の宮」であるべきわれわれの心は、往々にして「悪魔の城」となることがあるとイエス様はよく言われました。 「聖霊の宮」であるべきわれわれの心は、しばしば「強盗の巣」となってしまいます。これを信じ認めてるのは、残念ながらほんの少数の信者でしかないということです。 主の器となるために、主に仕えるために救われたのです。けどもしばしば、われわれの内の古き人がわれわれを支配し、指導してきたなのではないでしょうか。 私たちの心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなってるなのでしょうか。私たちは主イエス様を見上げ、イエス様にご自分の形を内に形作っていただくよう、自分の思いは聖められているなのでしょうか。 パウロは御霊によって、私たちが「神とともに働く者である」、と書いたのです。私たちは神とともに働いてる者である。 前に読んでもらいました、コリント人への手紙第Iの6章でした。ここで2回同じ質問が書かれています。「知らないの?」と。 コリント人への手紙第I、6:15
結局「忘れたの?」それから、19・20節にも、 コリント人への手紙第I、6:19-20
イエス様が私たちを価を払って買い取ってくださいました。ですから私たちは、「イエス様のからだの肢体」となることができたのです。 からだはかしらに従わなければならない。私たちはなんと主に不従順なことでしょう。またなんと高ぶる者でしょう。私たちは、イエス様の肢体として用いられる器じゃなくて、結局自分勝手に満ちた者なのではないでしょうか。 信ずる者に対して最も厳しい言葉の一つは、ヤコブの手紙の4章4節じゃないでしょうか。 ヤコブの手紙4:4
パウロはよく「愛する兄弟姉妹」と書いたんですけど、ヤコブは、 ヤコブの手紙4:4
「忘れたの?」と。 ヤコブの手紙4:4
主の御前に、自分の本当の姿を知っている者は、取税人のように「私は、強盗であり、姦淫を犯した者であり、御前に全く駄目な者です」と言うでしょう。 主の祝福を得る道とはいったい何なのでしょうか。はじめに自分の汚れたさまを見て、自らのもの足りないさまを知り、飢え乾くことが必要です。 なんと多くの兄弟姉妹は自分にではなく、他の人々に不満を投げかけています。批判したり、さばいたりします。 他の兄弟姉妹にどんなに不満を持っても、喜んでいるのは悪魔だけです。他の兄弟姉妹を不満に思うのではなく、まず自分自身をもの足りなく思わなければならないなのではないでしょうか。 結局新約聖書の手紙を通してはっきり言えることとは、私たち主のものになった者は、「聖霊の宮」であっても「強盗の巣」となる可能性があるということです。 ですから、前に歴代誌第IIの29章を一緒に読んでまいりました。その中で何を書かれてるかと言いますと、当時の聖所の中にいまわしいもの、汚れがあった。当時の信ずる者は主を捨て、主の住まいに顔を向けなかった。それから「主の香をたかずに・・・」と書かれています。 すなわち信ずる者は「祈りの生活」を送っていなかったということ。「主の助けを求めなくてもいい。なんとかなるなのではないか」と。そして9節。ある者は剣に倒れ、ある者は捕虜となったのです。これはみな、この世との妥協から生まれたものでした。今日の信ずる者の群れのさまと、全くよく似てるなのではないでしょうか。 「主の宮」に汚れがありました。これが当時の民がみじめになった原因でした。主のご臨在である「主の宮」は、主のご支配が去り、ただ汚れるに任せられていたのです。 以前にはともに集い、心から主を賛美し、ご臨在を味わった兄弟姉妹が、今は主を離れ、主に用いられるどころか、悪魔のとりこになっている、といった状態でした。 イスラエルの民がとりこになったように、喜びを失い、礼拝の精神をなくし、あわれなさまになっているものでした。 当時レビ人は、まず自分の罪を認め告白するために、いけにえの動物を祭壇に持ち来り、これを殺し血を流して主に悔い改めました。 「神の宮」は、主のご臨在と支配を表す場所でした。汚れが宮に満ちた場合、徹底的に聖めなければなりません。ヒゼキヤの時の汚れた宮は、16日かかって聖められました。 私たちも心をさぐっていただく、どんなに小さな罪も主の御前に告白し、聖めていただいたらほんとに幸いなのではないでしょうか。 信ずる者として与えられている使命は何でしょうか。「神の宮」であることです。私たちは自分のものではなく、「主のもの」です。 ヨハネの黙示録2:4-5
どうして信ずる者は喜びの集いであるかと言いますと、結局悔い改められるからです。悔い改めると、主は大いに恵んでくださり、満たしてくださり、用いてくださるのです。 |