引用聖句:エレミヤ書18章1節-6節
テモテへの手紙第II、2:20
先週、ある陶芸される兄弟の家で集会がありました。それで、みなで陶芸をしました。いろんな器を作りました。 その集会でも、陶器士について学びました。陶器士なる主なる神は、「見よ、わたしは、すべてを新しく作る」 結局、「わたしを見なさい。わたしにとって不可能なことはない。」、けど主は、もちろん強制なさいません。救われたいと思えば、必ず救われます。救われたくなければ、自分の罪をあいかわらず隠そうと思えば、偉大なる陶器士である主でさえもお手上げなんです。強制なさいません。 人間は、へりくだれば罪が赦され、永遠の命が与えられると聖書全体は言っています。 主は、人を用いようと望んでおられます。けれども、自分のいわゆる権利を、主に明け渡そうとしなければ、主はお手あげです。用いることができないのです。 聖歌の中で、「意志も心も主のもの」と、先ほど歌いました。そういう心構えがあれば楽になることができますし、周りの人々も、次々と用いられるようになります。 この陶器士である主は次のように呼びかけておられます。 エゼキエル書36:26
エペソ人への手紙2:10
このような個所を読むと、主ははっきりとした目的を持って人間ひとりひとりを用いよう、導こうと、望んでおられるのです。 この主の約束とは、「私を見て!私はすべてを新しくする。」と呼びかけておられます。 聖書全体を見ると、もちろん主にとって不可能なことはないと証明されています。主は、ダメになった器でさえも作り変えることができると語られています。 主なる神が、どのようにして、混乱し、罪に陥り、失敗に満ちた者を回復したでしょう。主なる神の創造は、すなわち創り変えのみわざは、間に合わせの取り繕いではなく、全く新しく創造され、創り変えられるみわざです。 再創造は、死と暗黒、自分自身に対する絶望のあとにやってきます。 イザヤ書45:18
神は、この地球をいたずらに混乱した状態にはお造りにならなかった。けれども、創世記1章の2節より、その後の混乱した地球の様子が書かれています。「地は形がなく、何もなかった・・」 主によって創られた地球は完全でした。完全なる主は、不完全な地球を創られ得ない。けれども、この地球は、悪魔によって荒れ果ててしまった。形もなくむなしく望みもなくなった。 けれども、大いなる陶器師なる主は、その御手をもって創り変えられ、よしとみなされた。 創世記1:31
主は、ダメになった地球を非常に良いものとしてくださった。 また、はじめの人間はどうでしょう。地球に、2番目の大きな混乱がやってきました。はじめの人が罪を犯し、全部の被造物がのろわれました。全人類が、神ののろいのもとに落ちた。 これに対して偉大なる陶器師は何をしたでしょう。「もう、仕方がない。」とあきらめたでしょうか。決して、そうではない。 主は、あわれなさまに粘土に御手を触れ、お働きになりました。アダムの子のアベルは、主の目にかなう者となりました。アベルは、アダムの罪の性質を受け継いでいましたが、偉大なる陶器師の御手によって、新しく創りかえられた。 イエス様は、マタイ福音書23章35節で次のように語っておられます。「義人アベル・・・」 アベルは義人であった。主によって良しとされた。 次の例は、信仰の父と呼ばれたアブラハムです。聖書は、この偉大な信仰の人の弱さや欠点について、いろいろなことを語っています。 すなわち、このアブラハムもたいした者ではなかった。憐れな粘土にすぎなかった。彼は、偽って自分の妻を妹だとウソをつきました。 彼は、主を信頼しないで、自分の息子欲しさに、めかけをめとりました。その結果はどうなったでしょう。主なる神は、その後13年間、13日ではなく、ひとことも話さなかったのです。 主とアブラハムの関係がダメになってしまいました。アブラハムのうちになにか良いものがあったのでしょうか。決してそうではない。アブラハム自身は、他の人間と全く同じく、あわれな、とりようのない者でした。 けれども偉大なる陶器師なる主は、アブラハムを捨てようとはされなかった。このできそこないの器であるアブラハムは、後に、信仰の父と呼ばれるようになったのです。 全能なる父は、アブラハムを「わが友」と呼ばれた。「私のすることをアブラハムに隠して良いだろうか。」、そこまで言われるようになったのです。 アブラハムは陶器師なる神の心にかなった者に変えられたのです。 次はヤコブです。ヤコブもやはり、普通の人間にすぎなかったのです。彼はウソによって、長子の権利を兄のエサウから奪い取ってしまいました。 そればかりでなく、平気でウソをついて長子の祝福も、自分のものにしてしまいました。 また主に頼ろうとせず、自分勝手に妻を捜してめとりました。 彼はまた、ラバンという親戚の富を騙し取りました。これが、ヤコブです。あわれな粘土に、すぎなかった。 でも、このダメなヤコブが、陶器師なる主によって御心にかなう器に変えられました。主は後で、「私は、ヤコブの神である。」と誇りを持って言えるようになったのです。 次はエリヤです。 ヤコブの手紙5:17
エリヤは、私たちと同じような人でしたと書かれています。同じ材料、同じ粘土でできていた者です。列王記第Iの19章の中で、今まで勇気に満ちていたエリヤは、全く、絶望してしまったのです。 木の下に座り込んで、死にたいと思いました。「主よ、十分です。もう、イヤです。」、そういう態度をとったのです。 彼の、前の特徴とは、信仰に勇気があり、従順でした。けれども彼も結局、普通の粘土にすぎなかったのです。 でも、陶器師の手によって、はじめて御心にかなう器に変えられたのです。死のう死のうと思った彼が、生きたまま天にひきあげられました。主は、偉大な陶器師です。 変貌の山では、モーセとエリヤも現れました。彼らは、御心にかなう器に変えられました。 つぎの例は、ダビデです。 彼は、その信仰生活のはじめの半分を、主の導きのままに過ごしてまいりました。けれども、彼の生活にも破綻がやってきました。 姦淫の罪を犯し、同時に殺人の罪も犯してしまいました。 もし私たちが、みずからの心をよく知っていなければ、あんなにすばらしい信者でさえ、あんなような罪を犯すのだろうかと疑問に思います。 これに対して主は、「ダビデはもう望みがない、あきらめだ。捨てよう。」と言われたでしょうか。 ダビデは、詩篇の51篇で、たましいの底から叫んだのです。 詩篇51:3
詩篇51:12
彼は叫んで頼んだのです。このダビデは変えられました。御心にかなう者になったのです。 ダビデがどのように変えられたかは、詩篇を見ればわかります。ダビデのように主を賛美し褒め称えた人はめったにいない。 ダビデは心から、主を賛美し礼拝しました。彼は、頑張ったから努力したから、そのことによって変えられたのではありません。陶器師なる主の御手によって変えられたのです。 次の例はペテロです。ひとりの弟子であるペテロについて考えても同じことが言えます。彼もまた、みじめな材料でできたものでした。 彼の生活のうちには、同じく失敗もあったでしょうか?彼は、やはり粘土のような者だったのでしょうか。 ペテロは力をこめて、自信に満ちて告白しました。「あなたと一緒に死ななければならないと言われても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」 彼は、そういうふうに思っただけではなく、イエス様に誓いました。まもなくこのペテロは、イエス様のことは、なにも知らないよと、イエス様を否んでしまったのです。 ペテロは、われわれと同じ人間だったのです。この仕損じた器は、どうなったのでしょうか。偉大な陶器師の手に陥り、その心にかなう器に作り変えられました。 もし私達があの五旬節の日、ペテロが行った証しを読み、裁判官の前に、いかに大胆にイエス様を証ししたかを考えるとき、ペテロの書いた手紙を読むとき、彼がどんなに御心にかなった、すばらしい器に変えられたかがわかります。 ペテロは主の恵みによって、用いられる器となりました。 次の例は、マルコの福音書を書いたマルコです。 彼は非常に恵まれた環境で大きくなりました。彼の実家はエルサレムでした。いわゆるイエス様を信じる者たちの中で、いわばクリスチャンホームの中で育てられました。イエス様はマルコの家にしばしば出入りされておられました。 彼は幼いときからイエス様をその目で見て、その耳でイエス様の言葉を聞けた幸せな者でした。 あるとき、このマルコは自ら奉仕に立とうと決心して、パウロとバルナバの大伝道旅行に加わりました。マルコは各地で主のみわざを見て、旅を続けました。 でも、その旅は決して楽な旅ではありませんでした。泊まる所もきちんとなかったでしょうし、食べ物もあまりなかったでしょう。 いつ迫害され殺されるかもわからなかったし、ちょっと面白くなかった。 イエス様は次のように言われました。「誰でも手を鋤につけてから、後ろを見る者は神の国にふさわしくありません。」 この言葉はマルコに当てはまる言葉です。マルコは、苦しくなったから途中でやめます。そういう者は使いものにならない。マルコは結局、わがまま病になりました。 マルコは後ろを見ただけではなく、逃げてしまいました。 しかしその後、マルコはどんな具合に考えたことでしょうか。 「わたしは、終わりだ。わたしは、ほんとうにダメなものだ。わたしのために、パウロとバルナバは争いを起こしてしまった。わたしのために、パウロとバルナバは一緒に働けなくなってしまった。」 彼は非常に自らを責めたに違いない。 主である陶器師は、このダメになった器を捨てようとはしなかったのです。御手のうちに取り上げて、そしてこの器を全く新しく造り変えられました。 ある人々は、誰が正しかったかな?パウロ?バルナバ?と考える。結果を見れば、言えることは、パウロは正しかった。 パウロは、自分のことを考えて逃げてしまう人は役に立たない。自己否定を欲しくない者は用いられない。 マルコとバルナバは親戚でした。親戚でしたから、いいじゃないかとバルナバは妥協してしまった。あとで、バルナバとマルコは出かけますが、祝福されたことについて書いてありません。マルコは親戚の同情によって得るものはなかった。 パウロは、必ず毎日マルコのことを心配して祈っているのをマルコはわかるようになった。結果として、彼は変えられた。同行をそのとき断ったパウロは、あとで、なにを書いたかと言うと、「マルコを連れて一緒に来なさい。彼は、必ず役に立つから。」 役に立たない者が、役に立つ者になりました。変えられました。結局、このマルコは神に用いられる人になりました。そして、主はマルコの福音書を書くために彼をお用いになりました。 このマルコの福音書によって、どんなに多くの人が救われ主に立ちかえり、どんなに多くの信じる者が、マルコの福音書により祝福されたか。 マルコは陶器師も心にかなう器に変えられました。 失敗してしまったアブラハム。 自分のことしか考えられなかったヤコブ。 絶望してしまったエリヤ。 とんでもない罪を犯したダビデ。 イエス様を裏切ったペテロ。 逃げてしまったマルコ。 みな御心にかなう器に変えられました。 主は、「陶器師が器を造り変えるように、わたしも、あなたを造り変えることができなだろうか?」と呼びかけておられます。 聖書を読むと、こういうふうに、主なる陶器師によって新しく造り変えられた人達を見ることができます。 けれども、陶器師の手からもれて、めちゃめちゃに壊れてしまった器についても、聖書は記しています。ここでやめて、暗い話しはやめた方が良い気持ちもありますが、聖書は明るい面だけを記していません。 主の手からもれ壊れ、ついに回復せずに終わってしまった器もあると聖書は言っています。 その中には、アベルの兄弟がおり、ヤコブの兄・エサウがあり、ダビデの敵であるサウロであり、またイエス様の弟子であるイスカリオテのユダであります。 彼らの回復について、聖書はなんにも語っていません。なぜ、神のみことばである聖書が、ダメになってしまった器について書いているのでしょうか。 それは、なぜ回復されなかったかという理由をわれわれに教えるために、反対の場合、なぜ回復されたかを知るために書かれているのでしょう。 2番目に、私達が回復に向かうか滅びに向かうか、ふたつに一つの道を選ぶ決心をするために書かれているのではないかと思います。 カインについて、ヨハネの手紙第Iでは、3章12節で次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、3:12
前に話したように彼の兄弟アベルは、イエス様によって義人と呼ばれました。彼は、提供されている救い、提供されている罪の赦しを受け取ったのです。カインは、受け取ろうとしなかったのです。 確かに彼は、宗教的な男だったのです。カインは主の存在を、もちろん疑い得ずに信じていました。なぜなら彼は主に捧げ物を供えました。彼は、主が生きておられることを知っていました。 けれどもカインは、もしささげものをしなければ、主は喜ばれない、御利益がない。そのような動機から捧げ物をしていました。喜んで主に捧げることをしようとはしなかったのです。 ところで、カインはどうして回復しないで滅んだのでしょう。カインには、罪の自覚がありませんでした。意識して頭を下げようとはしなかったし、光の中を歩もうとしなかった。 もっとも彼は、自分自身のことも知ろうとしなかった。自らを正しいとし、自らに満足していました。彼は、自分の身代わりとなる救い主を必要とはしなかったのです。 アベルを殺す前に、誰かが、「あなた、人殺しと同じ罪人です。」と言ってもカインは頷かなったでしょう。 彼には、罪の自覚がなかった。主は、このような人々をどうすることもできません。アブラハム、ヤコブ、ダビデ、エリヤ、ペテロ、マルコ、これらの人々とは、自分をどうすることもできない罪の性質をよく認めましたから、どうしても救い主を必要ですと認めました。 カインの場合は、それとは全く反対でした。どんなにすぐれた陶器師も、このような人間を扱うことはできません。 この3番目の例はサウロです。サウロは、主に信頼する信仰と、へりくだりがかけていたのです。 主は、預言者サムエルを通して彼に語られましたが、彼は従おうとしなかったのです。主を信頼しようとしなかったのです。 このような粘土を、陶器師は思うように扱うことができません。サウロの最後は自殺でした。われわれを、御心のままに形造るには、われわれの信仰と、従順と、信頼が必要です。 この4番目の例はユダであります。ユダは本当に恵まれた男でした。3年半、イエス様と共に生活を送ることができた。 もし、今わたしたちがイエス様と共に生活ができ、主との交わりと共に生活できるとするなら、それこそ素晴らしい特権ではないでしょうか。 ユダはイエス様との交わりに召されたのに、ただの銀30枚で、すべてを失ってしまいました。ユダはイエス様との交わりを持つことができるという素晴らしい特権に、気がつかなかったのです。 コリント人への手紙第I、1:9
イエス様に召されて、イエス様との交わりが与えられているという特権は、なんと素晴らしいことでしょう。偉大なる陶器師が、あわれな粘土であるわれわれを、造り変え、用いようと望んでおられます。 けれども、明るみに全部出そうとしなければ、主はお手上げなのです。 ユダは、このすばらしい特権を軽んじました。もし彼が、イエス様を裏切った後で、十字架にかけられたイエス様のところにとんでいったら。 「実は、3年間偽善者でした。あなたのお金も適当に使いました。大嘘つきです。ごめんなさい。」と、ユダがイエス様に告白したら、イエス様は、なんと答えたでしょう。 もちろん、「わかったよ。あなたを呼ぶ前に、ぜんぶわかったよ。けど、あなたは、頭を下げたから、あなたは、きょうわたしとパラダイスにいるよ。」と言ったにちがいありません。 ユダはそこまで行けなかった。罪を知らない人を裏切ってもらった金をかえして、おわりだった。自殺した。十字架につかれたイエス様のところに、彼は行こうとすればできたのです。 イエス様は、喜んで赦したに違いない。けれども彼は、それをしようとはしなかったのです。 主にとって、不可能なことはない。主は限りない愛と忍耐をもって、用いられる器に造り変えようと思っておられ、わたしたちを御手のうちにおさめておられます。 私達は、この永遠に変わらない主の恵みの御心のほどを、心の目で見、はっきり知っているでしょうか。 次のように、聖書は語っています。 ローマ人への手紙8:18
私達は、人に喜ばれてなくても、人に認められてなくても、もし主の御心にかなう器でさえあれば、それで良いのではないでしょうか。 主のご計画とは、いったいどのようなものなのでしょうか。みことばに、書かれています。 ヨハネの福音書3:30
生きているのは、 ガラテヤ人への手紙2:20
コロサイ人への手紙1:27
ガラテヤ人への手紙4:19
コリント人への手紙第II、4:7
コリント人への手紙第II、4:10
コリント人への手紙第II、4:17-18
ローマ人への手紙8:29
陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手で壊し、再びそれを陶器師自身の気にいった器に造り変えられます。 主にとって不可能なことはない。私達も、主を仰ぎ見ると経験します。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」 ヨハネの黙示録21:5
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