引用聖句:コリント人への手紙第I、15章1節-21節
集会の雑誌の題名は、「主は生きておられる」です。5、6人の兄弟たちが話し合ったり相談したとき、どういう題名を付けましょうか。「主は生きておられる」と付けたら一番いいなのではないか。 振り返ってみると、やっぱり良かったと思う。私たちの主は生きておられます。私たちは誇りをもって、確信をもって、喜びをもって、これこそ宣べ伝えるべきなのではないでしょうか。 私たちの主こそが生きておられ、支配しておられるのです。このよみがえられた主イエス様についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 初代教会の人々の証しとは、どういうものであったかと言いますと、 使徒の働き2:32
パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。 ローマ人への手紙14:9
助け手となるためじゃない。救い主となるためじゃなくて、主となるために、 ローマ人への手紙14:9
それから同じくパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、イエス様の死なれた目的について書いたのです。 「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで、よみがえった方のために生きるためです。」 私たちの主イエス様は、人類の罪のために十字架につけられたのです。すなわちイエス様は葬られ、すべての罪人のために死の刑罰を受けたのですけど、イエス様は死んだままではありませんでした。イエス様はよみがえられたのです。 イエス様は生きておられます。実際に復活なさったのです。主イエス様は生きていて、今日も支配しておられるのです。 イエス様は罪の、山のような重荷を背負って十字架に行かれました。そしてイエス様は死んで、その身をおかれました。そしてイエス様は勝利者として墓からよみがえられたのです。 イエス様は死からよみがえられた最初の人です。イエス様がよみがえらせた死人はみな、再び墓の中に戻らなければならなかったのですけど、イエス様は死に対する勝利者であり、イエス様に対しては死はもはや力を持っていないのです。 イエス様がよみがえられたということは、「イエス様の死という犠牲が、私たちのすべての罪を贖うのに十分である。」と、父なる神が認められたことを意味しています。 主なる神は、死からのイエス様のよみがえりを行なうことによって、全世界に知らせたのです。すなわちイエス様は全世界の罪の贖いとして完全で、十分であるということを、お知らせになったのです。 私たちは、死んだ救い主をもってる者のではありません。イエス様のいのちは十字架で終わったのではありません。イエス様がよみがえられたのであります。私たちはよみがえられた主をもってるのであり、その主はいのちに溢れてるのです。自然の生きる力は確かに力強いものです。 ドイツのひとつの町であるハノーバーにひとつのお墓があります。このお墓は硬い岩でおおわれていて、その岩の上には「この墓は永遠に開かれざるべし」と書いてありましたけど、墓の中にあった白樺の種が大きくなって、硬い岩を壊してしまったのです。 この白樺は傲慢な人間の言葉をあたかもあざ笑うかのように、岩の隙間から成長したのでした。このように自然の生命力は岩をも粉砕することができるのです。 けど、よみがえられた主イエス様の生命力は、どんなことができるなのでしょうか。このイエス様の生命力は、人の死んだ精神を生きたいのちに目覚まし、石のような人の心を肉の心に変えることができるのです。 新しく生まれた子どもはまさしく主なる神の力の奇蹟です。けど、再び生まれた人間はまさしく、主なる神のいのちの奇蹟なのではないでしょうか。 イエス様の生命力は非常に強いので、あらゆる病人はイエス様が触るだけでいやされたのです。けども今日の人々は、イエス様がその人に新しいいのちを与えるとき、その人の精神は、当時の人がからだに経験した奇蹟を精神に経験するのです。 私たちの精神は、主なる神に対して死んでいます。それが生きます。 私たちの精神は主なる神に対してつんぼです。それが聞こえるようになります。 私たちの精神は主なる神に対して目暗です。それが見えるようになります。 私たちの精神は主なる神の奉仕に対して痺れています。それが働くようになります。 これが主イエス様のいのちの奇蹟の結果です。 人間の死んだ精神が生き、そして死から出ていのちに至るということは、絶対に必要なことです。イエス様は正しい生活を送っていて、しかも信心深く、学問のあるニコデモに次のように言われました。 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」 これはもちろん、誰にも当てはまる言葉です。だれでもが新しく生まれ変わらなければなりません。 どうでしょうか。私たちが今のままの状態で、主なる神の国で生活することができないということを知ってるなのでしょうか。自分の力で新しい生活を送ろうと試みたことがあるなのでしょうか。 その新しい生活とは、絶対に誠実で、絶対な愛をもって、絶対的に聖く、完全に自己を滅ぼした生活を意味します。 この新しい生活を送ろうと試みたことがあるなのでしょうか。その試みはいかがなのでしょうか。それは失敗の生活ではなかったでしょうか。真面目に試みれば試みるほど絶望するに違いない。 死んだからだが浅間山を登ることができないと同じように、私たちは新しく生まれ変わることなしには、新しい生活を送ることはできません。 いくら自分の力であらゆる努力をしたとしても、それは新しい生活の買い物や真似事にすぎません。だれでもが新しく生まれ変わらなければならない。 けど、どうやって新しく生まれ変わることができるなのでしょうか。死人が自分で再び生きることができないと同じように、自分の力で生まれ変わることができる者は誰もいません。 イエス様がそのことを成すに違いない。そして私たちはそれに反対してはいけません。イエス様にそのことをさせましょう。 私たちは主イエス様との交換を認めます。すなわち私たちの持ってるもの、すなわち自分の罪を自分の弱さ、自分の不信仰、疑問、疑い、悔い改めたくない心をイエス様に与えるのです。 私たちの罪はイエス様の死となりました。イエス様は私たちのために十字架につけられたのです。けどもこれは交換の半分でしかありません。 今や私たちは主イエス様のもっている、義といのちを受け取るのです。何という交換でしょうか。私たちは死といのちを交換するのです。イエス様のいのちはわれわれのいのちとなるのです。これが新しく生まれ変わるということなのです。 パウロは、主イエスは「私のいのちである」と喜んで告白したとき、この経験を、すなわち新生という経験を味わったのです。私たちはたぶん今まで、この交換の最初の半分だけをしたにすぎず、イエス様に自分の罪を与えたにすぎないなのではないでしょうか。 どうか意識して、残りの半分を交換したいと思いませんでしょうか。すなわちイエス様の贈り物としての、完全な義と永遠のいのちを受け取りたいと思いませんでしょうか。 そうすれば、新しく生まれ変わり、主イエス様がご自分の子どもを呼び、ご自分の相続人として受け入れてくださるということを、よく、しっかり確信するのです。 ヨハネの福音書1:12
とあります。もし私たちが、新しいいのちという贈り物を受け取ったならば、主なる神のもっとも大きな願い、すなわち人との交わりという願いは満たされます。 そして人のもっとも深い要求である、主なる神との交わりは満たされるのです。主のいのちを内に宿したところの、新しく生まれ変わったところの人間とだけ、主は本当の交わりをもつことができるのです。 よみがえられた主イエス様によって、主なる神は私たちに非常に近いものとなるのです。主イエス様との交わりは本当の満足です。 精神生活の孤独は止みます。すなわち愛情の渇きは完全に静まるのです。あらゆる欲望とあらゆる虚しい努力は完全になくなりますので、私たちは完全な心の平安を得るのです。 私たちは主イエス様が、「わたしは小羊たちがいのちと完全な満足を得るためにやって来た。」と言われるとき、イエス様の思っておられることを知るのです。 これは人間に完全な満足を見いだそうと試み、その当然の結果としてひどく失望させられた、すべての人々にとって喜ばしい知らせです。人の心を満足させることは、よみがえられたイエス様だけができるのです。 私たちは毎朝、仕事の前に聖書読んだり、祈ったりする静かなときをお持ちなのでしょうか。私たちがもしも、集会に行くことができないとします。そのことはそんなに大切でないとしてもこの静かなときを持つということは非常に大切です。 人が呼吸しないでは生きていけないと同じように、キリスト者はこの静かなときを持たない限り、御心にかなった生活をすることができません。 この静かなときに、イエス様のいのちが絶えずわれわれのいのちにしみこんでくるのです。 イエス様との交わりが深くなれば深くなるほど、私たちの生活は豊かになります。主イエス様は私たちの精神、たましい、神経、からだにとっていのちの泉であり、力の泉なのです。 イエス様の中にはいのちの力が溢れています。私たちは、イエス様から出て生きるということを、ますますよく学ばなければならず、われわれの貧しさや弱さから出る生活を学んではいけません。 信ずる者同士、私たちは、イエス様から絶えず流れるいのちを得ていなければなりません。それは時々であったり、気まぐれであったりしてはなりません。 もし人が暗い部屋に灯りを持って入りますと、その部屋は灯りがあるからもちろん明るいはずです。けどもその灯りのもとが無くなりますと暗くなります。すなわち絶えず流れてる灯りを必要とするわけです。 そのことは、私たちのいのちにおいても、同じことなのではないでしょうか。すなわち私たちはいつも暗いのですから、私たちは主イエス様の光の泉により頼まなければならない。 もし子どもが生まれますと、その子どもは両親から離れていのちをもちます。そしてその子どもは両親が死んでも生き続けます。けど、新しく生まれ変わった人のいのちはそうではありません。 その人のいのちは、自分自身の中に生命をお持ちになっているただ一人のお方、すなわちイエス様により頼まなければならない。新しい人のいのちの秘密は何という深いことでありましょうか。すなわち主イエス様と私の二人の毎日の絶えざるいのちの交わりです。 けど交わりには義務があります。どんな交わりも、別れるということが条件となっています。交わりは深くなればなるほど、ますます別れもまた深くなってしまいます。 夫婦における交わりも、別れることが条件となってるなのではないでしょうか。聖書は言ってます。 エペソ人への手紙5:31
よみがえられた主イエス様とのいのちの交わりは、この世と別れることが条件となってます。 一週間に土曜と日曜日だけ自分の妻と過ごし、ほかの日は他の者と過ごすことを考えてみればどうでしょうか。それは日曜日だけ主と過ごし、ほかの日はほかの主人に仕えるというキリスト者に似ていませんでしょうか。 聖書はこのような者の如く生きる信者たちについて、非常に厳しく語っています。 ヤコブの手紙4:4
信ずる者に書かれた言葉です。 ヤコブの手紙4:4
と。この世との交わりはキリスト者にとっては姦淫よりも悪いのです。 それは主イエス様に敵対する姦淫であります。あるとき、ある娘さんがいまして、救われていない人々を導こうとして、踊りながらそのパートナーに「あなたは主イエス様を信じますか?」と尋ねますと、その男は「もちろん、違うよ。」と答えました。 そして、「ところであなたはキリスト者なのでしょうか。」と、その娘さんは尋ねられましたので、「そうです。」と言いますと、この若い男は「こんな所で何をしようと言うなのか。」と言いました。 この世の人々は、見せかけのキリスト者をあざ笑います。また、この世の人々は、この世のものを身につけてるキリスト者を笑います。パウロは次のように書いたのです、 ローマ人への手紙14:9
と。 主イエス様は、完全に私たちに満足しておられるなのでしょうか。私たちが満足してるかどうかなのではなく、イエス様が満足しておられるかどうかが問題です。 その過ごした時間は、イエス様との交わりだったでしょうか。また、自分の心がイエス様のほかに、もちたいと思ってるすべてのことから完全に離れていたなのでしょうか。 それとも、主イエス様のみことばである、「貞操のない人たち、世を愛することは神に敵することである」ことが分からないなのですか。「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」という言葉が自分に当てはまるなのでしょうか。 イエス様は私たちを訴えるなのでしょうか。 主イエス様との交わりをおろそかにすることは罪です。主イエス様が私たちをお呼びになるとき、暇があるなのでしょうか。義務と名付けてるほかのことがらが、もっと大切なのでしょうか。 仕事が先、交際が先、テレビが先、本を読むことが先で、その他色々なことが先なのでしょうか。そして寝る前の最後の五分、すなわち一日の残り、一番最後の残りをよみがえられた主にささげるなのでしょうか。 エペソにいる兄弟姉妹にイエス様は言われたのです。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」 私たちは、イエス様が第一の場所を占め、主イエス様との交わりが自分の一日の喜びとなるために、今年のイースターである今日、自分の一日の時間割を完全に変えようと思いませんでしょうか。 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んでまた生きられたのです。イエス様との交わりが自分の喜びなのでしょうか。それとも、自分はイエス様との交わりを断ち切られたなのでしょうか。 自分は以前にはイエス様と一緒にいて、今では再び、この世の中にいるようになってしまったなのでしょうか。 もし、次のようであるならば、そのときはあなたはまったく違った状態でした。すなわちあなたの心は、よみがえられたイエス様の愛に燃えていたときでした。けどもその上には、あんまりたくさん灰が乗っかっていますので、自分はその下で燃えるいのちをほとんど気付かないのです。 自分はこの世とともに歩き、しかも私はこのキリストを知らないと言われないけど、状態でそれが分かる、否認する信者となってしまったのです。 私たちが主に背中を向けて、そのときもイエス様の愛は絶えず誠実に続いていたのです。主の腕は私たちを抱き上げようと毎日広げられていたのです。 イエス様は、そむいた者には、「わたしに来る者を、わたしは決して拒まない。決して捨てない。」、誰でも、この主イエス様の言葉によって、イエス様のもとに行くことができ、主の御前にすべてを告白して、イエス様の血は、すべての罪から聖めてくださるのです。 そうすれば、すべてが元通りによくなります。そしてイエス様との交わりを曇らせる影はありません。よみがえられた主イエス様がわれわれの主とならなければならない。十字架に・・・・・ (テープ A面 → B面) 御手のうちにあるのであり、またイエス様は私たちを自分の血で贖ってくださったのです。ですから私たちは、二重に主のものです。 けどもイエス様は、実際に私たちのいのちにおいて主なのでしょうか。 多くのキリスト者は、イエス様を奴隷以上のものに取り扱っていないでしょうか。 彼らが悩みに沈んでる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。彼らが弱っているとき彼らはイエス様から力を得たいのです。彼らが自分一人でもはやできないとき、イエス様が飛び込んでもらいたい。助けてもらいたい。 イエス様は彼らに仕えるべきなのです。けども彼らは主イエス様の支配を欲しくない。聖書はそのようなキリスト者を肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉すなわち自己は支配をもってるからです。 そこには大きな心の悩みがないでしょうか。私たちは自分のための生活が、本当の信仰生活のために障害となってることをしばしば感じます。 私たちは傲慢になります。また、名誉欲やまた逆に劣等感に陥ることがある。この両方とも自己の支配なのです。 けどもイエス様は、その自己の専制政治から解放されるために、来られたのです。自己はわれわれにとって、われわれの一生涯の限りのようなものなのではないでしょうか。そうなら新約聖書が求めてるような生活は、われわれのうちでできる人は誰もいないでしょ。 もしそうなら、主のみことばは単なる夢や妄想のようなものでありましょう。自分自身の権力から自由になるために、ここにひとつの道があります。すなわちイエス様は全人類の代表者として十字架にお架かりになったのです。そしてイエス様はわれわれの代理人でもあるのです。 イエス様に起こったことは私たちにも、私たちの自己にも起こったのです。なぜなら私たちはイエス様とともに十字架につけられたからです。 イエス様が十字架で両手、両足を打たれたとき、われわれの両手、両足も穴を開けられたのです。イエス様が十字架に架かり、なんにもすることができず、行なうこともできなかったそのとき私たちの自我は外に置かれたのです。 十字架に架かった者がほかになにができましょう。十字架に架かった者は消されたのであり、ダメになったのです。これと同じことが十字架を通してあなたや私に起こったのです。 なぜなら、「私たちの古き人が、キリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っている。」と、ローマ人への手紙に書かれてます。 ですから、主なる神の永遠に当てはまる言葉、すなわち聖書によれば私たちの古い人は、主イエス様とともに十字架につけられたということが、すでに起こった事実であるということになります。 それと同時に、暴君である古い人に打ち勝とうとする努力は虚しいものであり、無駄なものであり、必要でないものです。 私たちは古き人を押さえつけることができず、それと闘うこともできません。また私たちはその古き人を良くすることも、変えることもできません。私たちはただひとつのことをやることができます。 すなわち、古い人はイエス様とともに十字架につけられ、そして私たちがその古い人を主にゆだねるときに、イエス様がその古い人を十字架でしっかりとつかんでくださる力を持っておられるということを素直に信ずることです。 これはわれわれの生活における支配者の交代です。支配者はもはや私たちではなく、主イエス様なんです。 イエス様は、私たちの生活における制限されない主であります。もしイエス様が完全な支配者となったとき、そのいのちはもっとも深い革新、すなわち新しくなることが起こるのです。 私たちは、イエス様の意思を無条件に受け入れるのです。私たちは自分を主イエス様に与えるのです。100%無条件に余すところなく与えるのです。 私たちの意思は、私たちの主のものです。私たちは祈るたび毎に、イエス様を「主」と呼びます。本当にそういう気持ちなのでしょうか。制限されない主の支配より、ほかに人間の生活における偉大なものはありません。これが本当の自由であり、解放です。 イエス様がわれわれの生活の主であるとき、その主である程度に従って、イエス様は私たちの生活に対する責任をもっておられます。 もしも私たちがイエス様に半分だけ支配を与えているならば、私たちの肩にはなおも半分の責任が残ってるわけです。このことは多くのキリスト者の生活を重苦しくしています。 よみがえられたイエス様はすべてを、すなわち私たちの内部的及び外部的生活の、全責任を担いたいのです。私たちはイエス様に第一の場所を与え、私たちは第二の場所に立つのです。これは、私たちを非常に苦しめていた、堅い殻の解放ではないでしょうか。 私たちはなお、自分自身の手や心の中に自分の生活の支配をもってるのでしょうか。それはなんという重荷でしょう。 イエス様はいつも困難ということを知らず、いつも問題の答えを持っておられる、もっとも良いとりなし人です。私たちの生活の支配を主の御手に上げましょう。イエス様は十分です。 よみがえられた主イエス様は、私たちの生活から何をお造りになることができるなのでしょうか。それは新しい生活、満たされた生活、実を結ぶ生活です。 イエス様は、完全ないのちの交わりをわれわれに提供しておられます。すなわちイエス様、よみがえられたイエス様とともにする二人の生活を、差し出しておられるのです。それは婚約の場合と同じではないでしょうか。 ある青年に完全な生活の交わりを、すなわち結婚を申し込まれた娘さんは、何と答えることができるのでしょうか。もちろん「はい」か「いいえ」かです。 けどそれは、絶対的に「はい」か「いいえ」でなければならない。この「はい」という返事は、二人の人間をもっとも深い交わりに導くのです。この「いいえ」という答えは、二人の道を分けるのです。 よみがえられたイエス様が、もしもある人に、今もまだ永遠に続く聖なるいのちの交わりを提供されますと、それはその人の生活における、もっとも偉大にして重要なときが来たことを意味しています。主の言葉を聞きましょう。非常にすばらしい主の呼びかけです。 ホセア書2:19-20
私たちはイエス様に何と答えるなのでしょうか。もしもイエス様に「はい」と言えば、何を失うなのでしょうか。それとも、全部を得るなのではないでしょうか。無条件に自分の生活を、よみがえられたイエス様の御手にゆだねましょう。 イエス様の誠実なしもべであったパウロの告白を、今日、自分のものとして、自分の名前をその下に書こうではないでしょうか。 ピリピ人への手紙3:8
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