引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章1節-10節
読んでもらった箇所は、パウロによって書かれた箇所です。パウロは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを自身を宣べ伝えます。わたしたちは、伝える僕なのです。 パウロの個人的な決心は、「あなたがたの間で、十字架以外何も知らないことにした。」、どうしてかと言うと、唯一の救い主であるからです。 イエス様は救いそのものであるからです。彼らが、この態度を取った結果が、テサロニケの教会です。テサロニケは、多くの人々の模範でした。ですから今朝の題名は、「模範的なクリスチャン生活」としたいのです。 テサロニケ人への手紙第Iは5章に分かれています。この手紙を読むのに110分かかるでしょう。 読みながら次の事柄がわかると思います。つまり、テサロニケの兄弟姉妹は、新しく生まれたばかりの信者でした。彼らの信仰生活の第一歩を観察することができます。ですから、テサロニケ人への手紙第Iは、信仰生活のはじめについての文です。 このテサロニケの兄弟姉妹の生活は、模範的な信仰生活であるとパウロはここで言っています。パウロは彼らについて、1章の2節に テサロニケ人への手紙第I、1:2
とあります。「いつも」、「すべてのために」感謝することができたのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:7
どうでしょうか?私達はほかの所に住んでる兄姉の模範になっているのでしょうか? 読みながら、もうひとつのことを知ることができます。と言うのは、パウロは自分の宣べ伝えた福音の説明をしています。パウロは、よく私たちの福音、私の福音と言う言葉を使いました。この宣べ伝えた福音の結果は模範的なキリスト者でした。 パウロはこの福音を4つの点から説明しています。 第1、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち返ったか。 第2、あなたがたが、神の御子イエス様が天から下って来られるのを待つようになった。 第3、神が死者の中から甦らせた主イエス様に対する信仰。 第4、主イエス様がやがて来る御怒りから私達を救い出してくださる。 あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち返ったか。これは信仰生活の第一歩です。 このテサロニケ人は異邦人でした。もちろん、彼らはもともとは異邦人の地に住んでいて、偶像礼拝者でした。 テサロニケ人への手紙第I、1:9
原語を見ると、「仕えるばかりでなく礼拝するようになった。」と言う意味があります。 彼らは信じるようになり、従うようになり、仕えるようになり、礼拝するようになり、待ち望むようになったのです。 もし、ある人が生けるまことの神ではなく、ほかのものを大切にし、礼拝すると、その人は異邦人であり、偶像礼拝者です。 生けるまことの神を礼拝することが本当の礼拝であり、ほかのものを礼拝することは、みな偶像礼拝です。パウロはエペソにいる兄姉に次のように書きました エペソ人への手紙5:3
エペソ人への手紙5:5
全部を主イエス様の足もとに捧げることは、信仰生活の第一の特徴です。 どうでしょうか。私達は、いったいどうして、イエス様を信じる者になったのでしょうか。何回も聖書の話しを聞いて、罪と悔い改めのことを話しに聞いて、新しく生まれることに話しを聞いて理解されたからなのでしょうか。 悔い改め、罪を告白することを学ぶことは決して悪いことではありませんが、これはひとつの教えなのではないでしょうか。人間は、ひとつの教えを信じ込むことによって決して救われません。 聖書の中心は、生きておられる主イエス様ご自身です。十字架にかかられた主イエス様です。 パウロは告白したのです。彼の全く個人的な証しなんですけども、ガラテヤ人への手紙の1章。 ガラテヤ人への手紙1:12
結局、私の信仰の土台となるものは、ひとつの教えではない。教えられもしなかった。ただ、イエス・キリストの啓示によって受けた。 ガラテヤ人への手紙1:16
ここで啓示と言う表現が使われています。もし、唯一の生けるまことの神ご自身が御子、イエス・キリストを私たちに啓示してくださるとき、私達は、新しく救われた者になります。すなわち改心を経験した者です。 本当の悔い改め、また私達の罪のための十字架の意味は聖霊の働きにより、だんだんわかるようになります。けども、これらの事柄の根本ではありません。 主なる神が御子をわれわれのうちに啓示してくださることが、問題なのです。これこそ、信仰生活の根本なのです。 御子がわたしたちのうちに啓示されると、私達は、主イエス様だけが価値あるお方であるとわかります。イエス様がすごい、すばらしい救い主であると喜びます。喜びながら歌うこともできます。 すなわち私達は礼拝せざるを得なくなります。 私達は一体、どうして救いに預かる者になったのでしょうか? 聖書の事実を理解したからではなく、単純に信じたからです。結果として、主イエス様の偉大さや価値を体験したからです。 生けるまことの神の御子であるイエス様が我々のために、死なれ我々のために罪とされ十字架につけられたことを心の目で見ることができたからです。勉強したのか、理解したのではなく、救いの恵みの偉大さとすばらしさを心の目で見たからです。 もし、主なる神が御子イエス様を私たちのうちに啓示されると、私達は、ひとつのことをするようになります。すなわち、ここに書かれているように偶像を捨て、生けるまことの神を崇拝せざるを得なくなります。これは、本当に根本的なことです。 人は、どうして救われるのでしょうか?聖書の教えを理解し、教理問答書を研究したとき信じたのでしょうか。 それとも聖霊の啓示によって、イエス様の十字架の偉大さ、イエス様ご自身の目で心の目で見ることによって、イエス様のみが価値があるお方であると叫ぶようになったのでしょうか。 イエス様の価値を見ることは絶対に必要です。なぜなら後の信仰生活において、悪魔の試みが来るからです。 私達は、いつもひとつの問題にぶつかります。これは、イエス様に勝る価値を持っているでしょうか?あの人は、イエス様に勝る価値を持っているのでしょうかと。 イエス様が、我々にとって、どれだけの価値があるでしょうかということになります。 イエス様が我々にとって、真に尊い方であれば、ほかにあまりに良いということも物もひとつもありません。あまりに高いと言うものもありません。 あらゆるものが、それが最もすばらしくあっても、イエス様に対してささげます。 全部、イエス様の足元にささげることは、まことの信仰生活の第一の特徴です。 テサロニケの信ずる者の群れは、マケドニヤとアカヤにいる人々全体の模範となったとあります。なぜならば、テサロニケの信者たちは、この世の一番尊いものでさえ、主イエス様に勝る価値を持っていないということを信仰生活のはじめに、確信していたからです。 どうでしょうか?イエス様は、我々にとって、どんな価値があるのでしょうか?金やほかの人物、仕事や遊びが主イエス様より勝っていると考えているのでしょうか? これは非常に大切な根本的な問題です。毎日の生活のさなかに、この問題は実際的にあります。 もし、私達が、ある程度まで聖書の教えを理解していても、啓示によって心の目でイエス様を見なかったら私達は、遅かれ、早かれ失敗するでしょう。人間は、自分の力で救いに預かることはできません。 けど多くの人は、「あ、あの人もキリスト教にはいったね。」と言います。実はこれは愚かな言葉です。 なぜなら、イエス様によって捕らえられることが問題であるからです。 イエス様に対する啓示が必要です。わたしたちは、イエス様の偉大なる価値を見なければなりません。私達は、イエス様によって閉じ込められ、監禁された者となったのでしょうか。 イエス様は我々の全生涯を、支配してくださっているお方でしょうか。 イエス様は我々に聖書に対する頭の知識を要求されません。大切なのは、我々の心の内にどれほどの余地を持っているかが、問題なのです。 イエス様はパウロに、「私はあなたを捕まえた。あなたを捕らえるために努力したが、今、あなたを捕まえた。」、パウロはその時から、自分の思い、自分の計画、自分の目的はぜったいだめだということを知っていました。 パウロは、大喜びで、「私は、キリスト・イエスによって捕らえられた。わたしは、主イエスの僕であり奴隷です。」と告白したのです。 その時から、自分の思い、自分の目的は間違っていたと言うことを知るようになりました。そして、聖霊の支配のもとに、生まれつきの能力などは使わなくて、聖霊とひとつになることによって、聖霊の判断、聖霊の標準をもつようになったのです。 私たちもパウロと同じように、イエス様によって閉じ込められ監禁された者なのでしょうか? イエス様は、あなたは理解したのかなどとは聞こうとはされません。私達は、自分の道を持って自分の考えによって前進しようと思うなのでしょうか? 自分の目的、自分の興味が大切と考えているのでしょうか?このようにイエス様はお聞きになります? 私達がどれほど頭で理解しているかが問題なのではなく、イエス様ご自身が我々をどれほど閉じ込められ、監禁されたかが問題です。 テサロニケの信者たちは、はっきりとした答えを持っていました。彼らは、この問題を信仰生活の初めに解決したのです。だからパウロは彼らについて、「私は祈りのたびにいつも覚え、いつも感謝しています。」と言えたのです。 テサロニケの兄弟姉妹は啓示によって、上からの光によってイエス様を見、イエス様によって閉じ込められた者として全生涯をイエス様に捧げたのです。 あなたがたは、神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになり、生きるまことの神に礼拝するようになったのです。 「生きるまことの神」、なんと言う言葉でしょうか。生きるまことの神に礼拝するようになった。 もし、私達が生きるまことの神ではなく、ほかの人物や、ほかの者に仕えると、これは終わりで、死を意味してしまいます。すなわち答えがないのです。永遠の実も結びません。 生きるまことの神と違うほかのもの全部は偶像です。そして、偶像にどんなに一生懸命仕えても答えが無い。そして遅かれ早かれ、これは死がと言うことがわかるようになります。 生けるまことの神、聖書に示されている神は、生ける神であり、まことの神です。ほかの生けるまことの神はない。 もし、私達が生けるまことの神ではなく、ほかのものに全生涯を捧げるようになると大間違いであり、空虚だけが残ります。 聖書に示されている神は生けるまことの神です。信仰生活において、この生けるまことの神は生き生きとした現実です。 もちろんこの現実はいつも悲しいことではありません。なぜなら主は困難と苦しみによって教育されますから、悩みもありますが、困難のさなかにおいて、信仰は主の尊いご臨在を確信することができます。 偶像礼拝者は生けるまことの神を持っていませんし、そして自分の持ってる偶像は祈りを聞いてるくれるかどうか疑問を持っているはずです。 生まれ変わったキリスト者にとって生けるまことの神は現実です。全部、生けるまことの神の足元に捧げることは、信仰生活の第一の特徴です。 第二番目。あなたがたは、主イエスが天から下って来るのを待つようになった。 主は来たり賜う、間もなくイエス様は来たり賜うと言う確信を持つようになる。この確信は模範的な信仰生活のために絶対に必要です。 神の御子主イエス様が再び来られることが、救いのメッセージにはいっている大切な事実です。これは、信仰生活の根本であるべきです。 どうして、テサロニケの兄弟姉妹は模範となったのでしょうか。彼らは、イエス様ご自身が間もなくおいでになる。そう信じただけではなく、心から祈り続けたからです。「主イエス様ー、来てください。」 けれどもこれは、テサロニケ人にとって何を意味していたのでしょうか。というのは、全部の事柄が、イエス様の再臨にかかっていると彼らは知っていたからです。 主イエス様の再臨がないなら、自分の主に捧げられた生活は馬鹿げたことであり、この世と自分との生活は大きな謎になります。 イエス様が天から下って来られることなしに、イエス様の来たるべき王国なしに信じる者は騙された者となります。 テサロニケの兄弟姉妹は、啓示によって改心したときに、「イエス様はまた来られます。迎えに来られます。」そういう堅い確信を自分のものにしたのです。 おのおのの時代で世界をよくするためにいろいろな運動がありましたが、今までにどんな運動も今までに成功しなかったのです。世の中は、だんだん悪くなりました。実にそれは、むなしい努力です。 ある人は次のように言いました。「私達は一生懸命、歴史を勉強するけど、この勉強によって何を習ったかと言いますと、わたしたちは、歴史から、なーんにも習っていない。」 世界をよくするために、平和が現実となるために、なんと多くの人は努力するでしょう。実にこのむなしい努力は、失望への道です。 ところが聖書は、我々に逃れ道を示されています。この希望は、イエス様の再臨です。 イエス様の絶対的な支配によってあらゆる問題が解決されます。テサロニケの兄弟姉妹はこのように確信しました。彼らは、この世は、争い不一致、失望と絶望に満ちている。この世から少しも得るものがないことを知るようになったのです。 けどもこのテサロニケの兄弟姉妹は悲しくなりませんでした。なぜなら、イエス様はご自分の再臨を約束されたからです。「主は来てくださる。」、その確信を持って、彼らは前進したのです。 イエス様は、天から下って来られると、この世の失望と絶望が終わります。 テサロニケの兄弟姉妹は神の御子であるイエス様が、天から来てくださるのを待つようになりました。これこそが根本的な問題です。 この問題は、私たちの信仰生活の初めに解決されなければならない。 私たちの希望は、この世ではなく、我々の望みは主イエス様のご支配です。イエス様なしに私達は希望がありません。 聖霊の目的は、やはりこのイエス様の再臨です。したがって、もし再臨について話し、また考えると聖霊の働きがわかります。なんと多くの信者は、困難と言い表すことのできない苦しみの最中に再臨を覚えて、大喜びで主を賛美したことでしょう。 我々の主イエス様はすぐ来られる。その日は失望や戦いの終わりを意味しています。 スイスのある友達は、何年間、毎週、スイスのあるご夫婦を訪ねたのです。ご主人は、少しも歩くことができなかったのです。20年間以上。 夫婦は、ひとつの部屋を持っていましたが、この世の財産を少しも持っていなかったのです。 けども彼らは絶望した者だたのでしょうか。いえ、そうではない。友達が来た時、いつも大喜びで、主イエス様は間もなく来られると話しあって、これこそが彼らの力の源でした。 もうちょっと、もうちょっとでイエス様は来られると覚えるべきなのではないでしょうか。 テサロニケの兄弟姉妹も、苦しみと艱難を知っていた人々でした。 テサロニケ人への手紙第I、2:14
テサロニケ人への手紙第I、3:3-4
テサロニケの信者たちは、迫害、困難、苦しみを知っていましたが、前進しました。彼らはこうしてマケドニヤとアカヤにいる信者全体の模範となったのです。 どうしてでしょうか。彼らは、主が来たり賜うと言う確信を持っていたからです。 あなたがたが、神の御子イエスが、天から下って来るのを待つようになった。私達にもこの御言葉が当てはまるのでしょうか? 第三番目。神が死者の中から甦らせなさった御子、すなわち主イエスに対する信仰は、模範的な信仰生活の根本的な特徴です。 死人の中から甦った神の御子とはテサロニケのクリスチャンにとって、何を意味していたのでしょうか。 生けるまことの神だけが死人を甦らせることができるのです。全能の神の主権たる行いによってイエス様は甦ったのです。 イエス様の甦りはいったい何を意味しているのでしょうか。イエス様が甦られたということは、イエス様の死という犠牲が我々を贖うのに十分であると父なる神が、認められたことを意味しています。 主なる神は、死からの甦りをイエス様に行うことによって全世界に知らせました。イエス様の犠牲は、全世界の罪の贖いとして完全で、十分であるということをお知らせになったのです。 テサロニケの兄弟姉妹はそれを確信していました。イエス様が十字架によって罪の問題を解決されたのです。 主なる神は、イエス様の血潮を見て満足されたのです。これこそが、われわれの救いの根本です。 悪魔はいつも私たちに、「あなたは、もうダメだ。いつも、罪を犯すからあんまり役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ。主との交わりはもう失われた。」と訴えるでしょう。 けれども、イエス様の救いは完全な救いです。悪魔は、十字架の死を通して本当はどうすることもできなくなってしまったのです。 イエス様の血によって父なる神が我々の側に立たれ、そしてこの死は、敵の力より、私達を救い出しました。悪魔は、我々を訴える権利を持っていない。なぜなら、イエス様の救いは、完全な救いであったからです。 多くの信者は、一週間は大喜びで過ごして、次の一週間には失望してしまいます。そして特別な集会があったら、たぶん新しい喜びを得、勇気を持って前進するかもしれないけど、しかし、何か起こったら、「もうダメだ。絶対、ダメだ。失敗した。」と叫びます。 テサロニケの兄弟姉妹はそうではなかたのです。彼らは試練の中から、甦った御子に対する信仰をはっきり持っていたのです。 そしてこの甦りは、イエス様の死という犠牲が自分の罪を贖うのに十分であると、主ご自身が認められたことを意味しています。だから罪に定められることがない。 ローマ人への手紙8:1
これこそ主なるまことの神がわれわれにお知らせになったのです。 もし、私達がこの事実を自分のものとしていなければ、決して、テサロニケの信者と同じように永続的に前進することはできません。 主なる神はイエス様を死人の中から甦らせたばかりでなく、イエス様を高く引き上げられた。すべての名に勝る名をイエス様に賜ったのです。 そして、キリストにあって、共に甦らせ、共に座に着かせてくださったんである。生けるまことの神は言っておられます。 信じる者は、イエス様と共に天の座につかせてくださったのです。ですから私達は、もうだめだと言う権利を持っていません。 悪魔と議論しないでください。悪魔の声と訴えに耳を貸さなくてもいいのです。私達は、主イエス様と共に天上の座なのです。 テサロニケの兄弟姉妹は、死人の中から甦ったイエス様を、高く引き上げられたイエス様を確信し、前進したのです。彼らは、こうして、模範的な信仰者になったのです。 我々の信仰生活の根本はなんなのでしょうか?死人の中から甦り高く引き上げられたイエス様なのでしょうか?テサロニケの兄弟姉妹の場合はそうだったのであります。 主なる神が御子イエス様によって絶対的に満足されました。イエス様は、父なる神の憩いの場、安息の場所であり、主に愛された者、父の御心にかなう者です。イエス様の甦りと高く引き上げられたことは、この事実に対する、主なる神の証印です。 キリスト者の根本はそこなんです。悪魔は、いつも私達をこの土台から引きのけようと努力します。けれども、私たちもイエス様とともに甦らせ、共に引き上げられたことを確信しましょう。 なぜなら、これこそ模範的な信仰生活の根本であるからです。 最後に第四番目になります。主イエス様がやげて来る御怒りから私達を救い出してくださると言うことです。 ここで生けるまことの神は、パウロを通してはっきりと、来るべき怒りについて語っています。 来るべき怒りの日が来ます。いったいどうしてそのような日が必要なのでしょうか。どうして主なる神が怒りの日を定めたのでしょうか。 ひとつのことは、この来るべき怒りは、人間のために定められなかった。この怒りは、悪魔のために備えられています。 悪魔は、いろいろな働きの方法を用います。そして、偶像礼拝によって悪魔は、いつの時代でも神の御子、主イエスを除こうと努力したのです。 生けるまことの神は、まことの礼拝者を求めています。テサロニケの兄弟姉妹は、喜びを持って自分の全生涯を主にささげ、主を崇拝したのです。 けれども、なんと多くの人は生けるまことの神ではなくて、悪魔の働きによって偶像を礼拝していることでしょう。 もちろん、意識して注意して、悪魔を崇拝したい人は少ないかもしれない。しかし、悪魔はなんとかして、われわれの崇拝を欲しいのです。 悪魔は光の天使に偽装して誘惑しようと努めているとパウロは、当時の信じる者に書き送ったのです。 ホセア書5:12
と、生けるまことの神は言っておられます。 私たちにとって、イエス様がどんな価値があるのでしょうか。しみのような全くだめなもの、または腐れのようにつまらない存在にすぎないのでしょうか。 金やほかの人物や、、名誉やほかの仕事や、遊びや快楽がイエス様より勝っていると考えている人は、少なくないのではないでしょうか。 もし、主イエス様が御子イエス様が私たちのうちに啓示されると、私達は、イエス様のみに価値がある、イエス様のみが比類ないお方であると言うことがわかるでしょう。もちろんこれが、本当の礼拝なのです。 しかし、生けるまことの神を礼拝しない人々のために定めわれた怒りの日が来ます。恐るべき怒りがくるのです。 けれども、この怒りは人間には、定められなかったのは、福音のすばらしいお知らせなのです。 けども、主なる神の御心は全人類のひとりも滅びないで、永遠の命を持つことなのです。ですから神は御子イエスを通して、全人類に救いの道を用意されたのです。これは事実です。 私達は、いつ救われたのでしょうか?今年?去年?2、30年前? いえ、わたしたちは、千九百何十年前に救われたのです。イエス様が十字架の上で、「すべてが終わった、完了した。」と叫んだ時に、私達は救われました。これは、すばらしいことなのではないでしょうか。 われわれの両親、友達、親戚、みんながこの救いに含まれているのです。たぶん彼らは、この救いを受け入れなかったかもしれないけど、イエス様の用意なさった救いは全人類のために十分です。 あなたは銀行にたくさんのお金を持っているかもしれないけれど、銀行にいって、お金を引き出さなければ、仕方がなくて乞食の生活をしなければならない。けども、もちろん、銀行のせいではなくて自分のせいです。 もしあなたが救われなくても、主なる神のせいではない。自分のせいです。 生けるまことの神が全人類を救ってくれました。けど、この尊い救いを拒む者のために怒りの日が来ます。 イエス様の救い、イエス様によって完成された救いを受け入れたくない人は悪魔の礼拝者です。来るべき逃れ道はただイエス様です。 テサロニケの兄弟姉妹は、将来の不安と怒りから救い出して頂いた人々です。彼らのイエス様に対する信仰は将来に対する平安を意味していました。 あらゆる裁き、あらゆる死、あらゆる刑罰は、神の御子イエス様がしのびました。 テサロニケの兄弟姉妹は自由にされた人々でした。彼らは自分たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様を見、感謝しながら前進したのです。 私たちの信仰生活の根本はなんなのでしょうか? 私達は聖霊の啓示によって、イエス様の十字架の救い、イエス様ご自身を見ることによって、イエス様だけが、価値有る比類ないお方であると知るようになったのでしょうか? わたしたしは、偶像を捨て生けるまことの神に立ち返るまことの礼拝者なったのでしょうか? わたしたちは、イエス様が天から下って来られるのを心から首を長くして、待つようになったのでしょうか? わたしたちは、主イエス様とともに甦らされ、ともに座につかせて頂いたことを覚え確信できているのでしょうか? わたしたちは、自分の来るべき怒りから救い出してくださるイエス様を見ることができ、感謝することができるのでしょうか? |