引用聖句:ルカの福音書18章31節-43
今紹介されたように、渋谷の家庭集会はもう長く続いています。渋谷にある喜びの集いと言ったほうがいいのではないでしょうか。 どうして、喜びの集いであるかと言いますと、悔い改められるからです。 ドイツで、イエス様を信じるある人から変なことを聞いたのです。ショックでした。「私も、悔い改めなくちゃ、いけないの??」、ふぅーーー。それくらいわからなければ、もうたいへんなのではないでしょうか。 けども、悔い改められることとは最高の幸せなのではないでしょうか。確かにその意味で、聖書はちょっと恐ろしい書物です。人間の本当の姿を明らかにしているからです。 聖書を読めば読むほど、やっぱり自分はもうだめ、どうしようもない者です。けど、イエス様の光によって罪が明らかにされたら、告白することができ、そして確信を持つことができる。すなわち赦された。永久的に忘れられたということです。 どうして喜びの集いであるかと言いますと、結局、イエス様は生きておられるお方であるからであります。そのイエス様とはなんでも、できるお方です。 このイエス様の呼びかけとはなんでしょう。「おいでよ。疲れてるから、ストレスを知っているから。休ませてあげます。私の所に来なさい。ある宗教、たとえばキリスト教に入るんじゃない。ただ私の所に来なさい。」 人の導かれ方とは、人によって全く違う。ある姉妹は、お兄さんよりも先にイエス様を信じて、もちろん彼のために祈ったし、彼もいろいろな教会へ行ったらしいのです。 彼とは大学の教授で非常に頭が良くて、アメリカの政府からあちこちの国まで遣わされるようになったのです。けども、まともな男だったから、「偽物は結構です。本物が欲しい。」、けど、どこへ行っても見つからなかったのです。 彼に出会った時、うれしかった。けど、ゆっくり話す時間なかった。やっと話せたとき、私は聖書の箇所じゃなくて、ある奥さんの挨拶の話をしていたのです。 吉祥寺で火曜日の集会の前に一人の人に出会って、「どう、元気?」と聞いたら、「はい。」と言わない。ちょっと変わった返事でした。「私は、イエス様大好きです。」 彼は、この文章だけを聞いて、いっぺんに分かったのです。知識じゃない。イエス様を知るようになれば、愛されてることがわかる。彼はその夜、イエス様しかないと思っただけじゃなくて、ひとつの歌を作ちゃったのです。イエス様だいすき・・という歌でした。 後で、いろいろな人を導くために彼は必ずその歌を、恥ずかしがらないで、歌ったのです。特別に良い声じゃなかったけど。 いやー、もう結局、心が歌ったよ。イエス様大好き。次の日、姉妹の家で洗礼を受けたのです。 親戚も受けましたし、彼は、洗礼の前に両手をあげて、「イエス様だい好き。」と叫んだのです。そういうお兄さんだったのです。 結局イエス様を知れば知るほど、自分がダメとわかる。けど、イエス様が大好きになる。 この渋谷の集いとは、何のためであるかと言いますと、イエス様を知るためであり、またイエス様を大好きになることなのではないでしょうか。 ストレスとは孤独から来るのですね。僕はストレス全然ない。経験しない。結局、いくら心配しても、考えても意味のないことなのではないでしょうか。 イエス様は、「おいで、私の所に来なさい。私が心配するよ。」と言われたのです。このイエス様とは、もちろんなんでも知っておられた。人間としてさえも。 自分の将来について、はっきりとしたことを言える人はいないでしょう。 もちろん誰でもいつか死ぬでしょう。けど、どういう死に方をするのか、何を経験するようになるのか、全くわからない。イエス様は全部言ったのです。今読みましたルカの福音書18章を読んでも、そうでしょう。 ルカの福音書18:31-34
結局、イエス様の死を信じた人は一人もいなかった。すなわち十字架につけられることが考えられないことでした。もちろん弟子達も信じなかった。ましてやイエス様の復活も、全く考えられないことでした。けどもイエス様は全部知っておられ、そういうふうに話されたのです。結局、預言者たちの書いているすべてのことが実現されるとありました。 イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。イエス様は偽物じゃなくて、本物を与えられます。 人間にとって最も大切なのは、いわゆる罪の赦しです。私のわがままが赦されている。したがって結果として、安心して希望を持って死ぬことができる。 今朝も、非常に弱くなった姉妹から電話がありました。入院されていて、もう立つことができなくなっちゃったし、痛みもあるし、医学的には全く希望がない。 けれども、彼女もご主人も、喜びと、希望に満たされているのです。 病気とは、偶然に起るものではないし、いわゆる運命でもない。愛されている証拠であると、二人は確信しているから、もうストレスも知らないし心配もありません。そう言う人々こそが幸せなのではないでしょうか。 どうしてそういうふうになれたかと言いますと、自分がよく勉強したからではありません。 立派になったのでもないし、強い者になったのでもありません。やっぱり全部イエス様のおかげなのです。 本当に強い方に頼れば、もう心配から解放されます。 今日の聖書の箇所には、気の毒なひととイエス様との出会いについて書き記されています。聖書の中で、数えられない多くの病人が癒されたのです。けど、彼らの名前は別に記されていないのです。 けど、この病人の名前は出てくるのです。どうしてか、なぜか、よくわからない。おそらく、弟子達にとって非常に印象深かったからなのではないでしょうか。 「バルテマイ」と言う男は、イエス様がいなかった時、本当にかわいそうな者でした。 彼はイエス様のそばにいるようになった時に、もう重荷から解放され喜ぶようになった。そして結果として、彼はイエス様に従うようになった。もうイエス様から離れられない。 イエス様は、私によって癒されたから、今から私の弟子になれと言ったことがない。結局、自発的に喜んで従いたい。イエス様から離れられない。 リャオ兄のように、「イエス様、わたしは、だーーい好き。」と言うようになったに違いない。 人間にとって一番大きな苦しみは、イエス様と共にいることのない状態なのではないでしょうか。このバルテマイにとっても、イエス様に出会わなかったことが一番大きな問題でした。 彼にとってイエス様が共におられないことは、癒しと、救いの希望がないことを意味していたのです。けど、癒しと救いの希望がないことは、喜びと平安のない恐るべき人生を意味しています。 ここに出てくるバルテマイの動作を表す動詞を見ると、バルテマイのことについてよく知ることができますね。 マルコの福音書10:46-52
ここに出てくる動詞を見ると、バルテマイの人生の歩みがわかります。はじめは盲人であり乞食であった彼は、最後は見えるようになって、イエス様に従って行くようになったのです。なんという違いなのでしょうか。 結局イエス様を知ることによって、イエス様との出会いによって、彼の人生は喜びがあり、目的を持つようになりました。 どのようにして、そのようになっちゃったのでしょうか。 まず第一に、彼はイエス様のことをいろいろな人から聞いたでしょう。そして、彼は間違いなく、イエス様のことについて、もっと聞きたかったでしょう。 いろいろな人々のうわさを通して、このイエスとは、比類ないお方であること、このイエスにとって不可能なことはないらしい。自分を癒すことができると思うようになりました。 彼の心には、イエス様は普通の人ではない。もちろん宗教家でもない。救いを与えるお方である。旧約聖書で預言されたメシアであると言う確信を持つようになりました。 どうしてであるかと言いますと、約束された救い主について聖書ははっきり言っているのです。 盲人の目を開かれるようになる。 イエス様はあらゆる病気を癒してくださっただけではなく、もうすでに死んでしまった人をも甦らせたのです。 次に、この盲人であるバルテマイは、イエス様を100%信頼するようになりました。この箇所を見ると、イエス様のことを人々はなんと呼んだかと言いますと、「ナザレのイエス」と呼んだのです。 もちろんイエス様は、ナザレで大きくなっただけなのです。けど大部分の人はそれもわからなくて、ナザレのイエスと呼んだのです。バルテマイは、そういう浅い気持ちを持っていなかったのです。 彼は、「ダビデの子」と叫んだのです。ダビデの子とは、すなわち約束された救い主です。 第三に、この乞食であるバルテマイは、ただ単にイエス様のうわさを聞いたり、信頼を寄せたりするだけじゃなくて、どうしてもこのイエス様を体験的に知りたいと思うようになりました。 ですから、彼は叫び、ますます激しく叫び続けたのです。 人間が、何を考えてももう何も関係ない。人間を恐れる恐れから解放されなければ本物は得られない。彼の全生涯は、助けを求める叫びそのものでしたと言えるのではないでしょうか。 バルテマイの叫びは、ささやきではなく、叫びでした。私は何があってもイエス様を知りたい。イエス様のみもとに行きたい。バルテマイが激しく叫び続けたから、多くの人、2、3人じゃないんです。多くの人なんです、が彼を叱って黙らせようとしましたが、どうすることもできなかったのです。 それから彼は上着を捨てたのです。どうしてかというと邪魔だったからです。ないほうが、早くイエス様の所へ行くことができるからです。 彼の悩みは、群衆を恐れる恐れよりもはるかに大きかったのです。 乞食だったから、上着をおそらく二つ持ってなかったでしょう。けど彼にとって、上着だってもうどうでも良かったのです。彼は、一番大切なことを、イエス様のみもとに行くことを行なったのです。 その時、彼は人々が喜べ、立て、イエス様がお前を呼んでいると言うのを聴きました。 だれが呼ばれましたか。この乞食しかないのです。ほかの人々は呼ばれなかったのです。どうして、彼が呼ばれたかと言いますと、彼だけが「憐れんでください。」と思ったからです。 人間にとって一番大切な言葉はね、「憐れんで下さい。」「赦してください。」「ごめんなさい。」と言う態度をとることです。結局、心からのまことの助けを求めたのです。 バルテマイは、イエス様の招きに従って、イエス様のみもとに行きました。盲人は、イエス様の所へ行く道を見いだしたのです。そして、このことが彼の人生の転換点となりました。 イエス様の所に来る者はやっぱり奇跡を経験します。価値観も変わる、人生観も変わる、ストレスからも必ず解放されます。 イエス様がいなかった時の彼は、本当にみじめで、もう同情すべき哀れな者でした。けども彼はイエス様のそばに来た時に、すべてが変わったのです。 イエス様は絶望した盲人に向かって、ある意味で変なことを聞いたのです。知ってるのに聞いたのです。「私に何をして欲しいの?」と尋ねられたのです。 おいしい朝ご飯と言わなかったよ。新しい靴と言わなかったよ。イエス様は結局、何を欲しいの。私だったらなんでもできます。頼みなさいよ。彼は、当然のことを言ったのです。 「見えるようになることだよ。」 この答えの中には、決して揺るぐことのない態度がありました。そのような態度には、必ず報いがあります。その瞬間、彼は見えるようになりました。 バルテマイが目が見えるようになった時、そこにイエス様が自分をじっと見つめる愛の眼差しを見ることができたのです。それから、彼の新しい世界が開かれました。 その時、彼はその日のもらったお賽銭や必要であった杖、あるいは上着のことはきれいに忘れました。それから彼の居る所は、街角ではなくて、イエス様のそばであることを知りました。 そしてその時、彼ができたことはひとつしかなかった。イエス様に従うことでした。イエス様のみもとに居ること、そしてイエス様に従って行くこととは彼の心からの願いでした。また望みでした。 イエス様との出会い、イエス様を知るようになってから、結局彼の悩みはすべて消え去ったのです。 イエス様のみもとにいる時は、すべてのことが満たされているということをこの盲人は、身をもって体験したのであります。 ひとつのドイツの歌を紹介します。 主イエス様、私は、今、本当の心の憩いが、あなたご自身の中にものみあることを見いだした。 多くの悩みの後に、全き平安を得ることができた。私は長い間、安らぎと幸せとを捜し求めた。 しかし、それをあなたに求めることはしませんでした。 それなのに、あなたの愛が、私の心を捕らえて下さり、今や私は、あなたのものとなりました。 この世の快楽の泉はむなしく、誰も、満ち足らせることはできません。 しかし、あなたの命の泉を飲む者は、決して変わることがない。 あなたは、私の目を開いてくださり、それほどまでも、私を愛してくださいました。 主イエスよ。あなたは、ご自身の命を私に与えて下さり、すべてを新しく造り変えてくださった。 私の心は感謝と喜びに満ちあふれ、やがて、父の家で、あなたと共に新しい歌を歌うときまで、私は、あなたを昼も夜も賛美し続けます。 私を満ち垂らせてくださるお方は、あなた以外に、この世にはいません。 私はこれほどまでに私を愛して下さるあなたの中にのみ、本当の喜びを見いだすことができる。 そういう歌です。かつては盲目であったバルテマイが今、喜び勇んでイエス様に従っていく者に変えられたのです。 同じように言える人は、幸いなのではないでしょうか。 最後に、もうちょっとイエス様のことについて考えて終わります。 イエス様の動作を表す動詞を見ると、49節「イエス様は立ち止まって、彼を呼べと命じられた。」、それから、「イエスは彼に向かって言われた、『私に、何をして欲しいのか?』」 そして52節、「主は行けと言われた。」 イエス様は、ひとりの憐れな乞食が叫ぶのを聞いて立ち止まりました。 前に話したように、イエス様はその時ご自分の生涯の中で、最も大切な道を歩んでおられたのです。今からエルサレムへ行こう、エルサレムで私は捕まえられ、十字架につけられます。 そしてその途中で、イエス様は一人の乞食の叫びを聞いたのです。その時イエス様は、もっと大切なことしなくちゃいけないからと言って、歩み去ることをしなかったのです。立ち止まったのです。 それはもし皇太子だったら、そのような叫びに耳を貸さずに通り過ぎてしまったことでしょうけど、イエス様は違う。立ち止まりました。 この世は、すべてイエス様によって、イエス様のために造られたと聖書は言っています。イエス様はすべての権威と力を持っておられるお方です。 この偉大なる主イエス様はひとりの憐れな盲目の乞食のために、立ち止まられたのです。ただ単に立ち止まっただけではないのです。乞食の叫び声を聞いただけではなくて、全人格を持って一人の乞食に立ち向かわれたのです。 イエス様はこの乞食の願いがなんであるかを、もちろんわかったんですけど、「何をして欲しいの?」とお聞きになった。 どうしてであるかと言いますとそれは、人間は祈り、それによってその人の信仰が現れることを待ち望んでおられたからです。 「あなたの信じた通りに・・」と聖書の中で何回も、何回も、書かれています。 イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか。イエス様は光です。その他のものは暗闇です。望み亡き者です。特に盲人はなんにも見ることができず逃れ道を見いだすこともできなかったのです。 そして、イエス様は私は道ですとおっしゃいました。盲人は物乞いをし、他のことは何もできませんでした。 イエス様は命です。けれども盲人は生きる望みを持たずに、もはや明るい希望を持つことができません。このような悩んでいる人間は、イエス様と一緒になれば変わります。 このバルテマイの住んでいたエリコの町は、祝福されていない町でした。旧約聖書を見るとエリコという町は、のろわれた町になったのです。 この町をまた新しく造ろうとすればその人の長男は必ず死ぬと、聖書は言っているのです。そして、その通りになってしまいました。 けども、このエリコはのろわれた町であっただけではなくて、このバルテマイも、なんら祝福されることがなかった。ぼろぼろで汚れ果てて、喜びや希望を全く失ったでしょう。彼は、働くこともできなかったし、生きる目的、目標も持てなかった。 なぜ、このような苦しみがあったのでしょう。なぜなら、イエス様が共におられなかったからです。 先ほど言いましたように、その時、死の犠牲を捧げるためにエルサレムへ向かう途中でした。エルサレムと、そこにいる宗教家・聖書学者たちは、イエス様に対して全く盲目でした。 バルテマイはその反対でした。彼は盲目でしたが、自分が盲目であることを知っていました。疑おうと思ってもできなかった。夢だったらありがたいけど、やっぱり彼は本当になんにも見えませんでした。だから、彼は真剣に祈り癒されました。 イエス様を受け入れようとしなかった人々は、何を思ったかと言いますと、「自分たちはOK。見える。」と言い張ったのです。 実際は、彼らは盲目でした。もう一箇所読んで、終わります。 ヨハネの福音書9:39-41
結局当時の聖書学者たちは、自分のみじめさを自分の本当の姿を知ろうとしなかったのです、頭を下げようとしなかったのです。 実際は見えない者が見えると思ってしまうことはたいへんではないでしょうか。恐ろしいことです。 けども盲目であることを知り、心の目でまことの光を見る者には、なんと言う恵みと祝福が与えられることでしょうか。 私たちは、われわれの人生にとって一番大切なことを要約すると、なんであろうということができるでしょうか。 ある人が東京大学で勉強して博士になり、やがて名誉教授となって文化勲章をもらうと、だいたいの人は、「たいしたもんだ。すごい。」と言うのではないでしょうか。 それも確かに人生の歴史であるかもしれないけど、それがすべてとなって終わってしまうなら、本当に憐れむべきことです。 我々の人生は、ただ、イエス様との出会いによってのみ内容のあるものとなります。どうしでしょうかね。 私たちは、イエス様と出会ったなのでしょうか? イエス様について聞いた時、何を祈り叫んだなのでしょうか? もし、祈らなかったのなら、どうか今日そのようにしてください。イエス様はバルテマイの場合と同じように立ち止まって、あなたの祈りを聞かれるに違いない。 イエス様について聞いた者は心を静めて、静かに考え、イエス様になんとお答えしたら良いかを祈らなければならない。 誰でも彼でも、イエス様のみもとに来て目が見えるようになり、イエス様に従って行くことができるなら本当に幸せです。 |