救われた目的


ベック兄

(吉祥寺学び会、2009/08/23、救われた目的シリーズ1)

引用聖句:詩篇118篇14節
14主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

イザヤ書12:2
2見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

ルカの福音書1:45
45主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

今朝の題名、「救われた目的」とは、いったい何なのでしょうか?そう言うことです。
確かに、救われることとは考えられない程大切です。もっと、大切なことはない。けれども、救われた目的とはいったい何なのでしょうか?
私たちの人生において最も大切なことは、救い主を知ることです。救い主についていろいろ知ることではなくて、救い主ご自身を知ることです。イエス様を体験、味わい知ることです。

救いの神を知るようになった人の証しとは、今読まれたように次のようなものです。ダビデは、主は私の力で誉め歌であると、主は私の救いと告白しました。
救いとは、救い主を持つことです。イザヤも全く同じことを告白しました。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」
救い主を持つこととは、心配から不安から解放されることです。主は、私の力、私の誉め歌、私のために救いとなられた。2,600年前に書かれた言葉です。

イエス様を産んだマリヤは次のように言ったのです。「わが霊は、私の救い主なる神を喜び讃えます。」救いの神を知ることによって、私たちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。
満たされた生活を送るために、永遠の命、主なる神との平和、罪の赦し、したがってイエス様が、私を心配し導き、そして守っていてくださる確信が生活の土台とならなければなりません。
そして、私たちが死んだ後、永遠に主イエスと交わり栄光を共にすると言う確信こそ、最高の宝物です。

いつまでも、主イエス様と共になるということ実について考えると、本当に言葉がない。主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。
このような人間の永遠の栄光と言うものは、新しく生まれ変わることによって初めて可能となるものですから、そのことこそ、私たちの人生において大切なことに他なりません。
けれども聖書は、新しく生まれ変わったばかりのキリスト者は、幼子のようなものであると言っています。

ペテロの手紙第I、2:2
2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。

それによって成長し、救いを得るためです。
ここで、乳飲み子はいつまでも乳飲み子の状態に留まっているのではなく、成長しなければならないということは、言わなくても明らかです。
コリントにいる人々とは、確かに救われたのですけど、パウロは彼らのことを悩みました。

コリント人への手紙第I、3:2
2私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

パウロはコリントにいる信者たちに対して、乳飲み子にミルクを飲ませるようなことしかできなかったのです。ミルクは確かに消化のために最も良い食料である。けれども、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。
コリントにいる兄弟姉妹は、たとえばエペソにいる兄弟姉妹や、コロサイにいる兄弟姉妹に対してパウロが書き送ったような高等な真理を理解することができなかったのです。
このようにパウロは、多くの信者に対して、ちょうど母がその子供を育てるようにふるまったのです。けれども、パウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなくて、信者たちが全き人となることでした。

エペソ人への手紙4:13-15
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

イエス様を持つことは確かに素晴らしいことです。けれども、それだけでは決して十分ではありません。むしろイエス様が、私たちを御手の中に置くことによって、私たちの主として、私たちのすべてを支配なさることが大切です。
イエス様を知ることは恵みですけど、私たちが主イエス様に用いられる器となるために、イエス様を主としてよりよく体験的に知ることが大切です。
したがって、私たち信者は、すべての生活がイエス様のために営まれているように主に従っていかなければなりません。

そこで、私たちは本当の信者の生活の目的の使命について正しく理解しなければならないのではないでしょうか。別の言葉で表現すれば、私たちは永遠の勝利の冠のために、生きてゆくことは大切なことであると言えるのです。
新約聖書の中では、この地上における普通のいわゆる競争とは、私たちの信者の信仰的な戦いと対比されています。
従って戦いは、私たちの信仰を励ますためのものとして考えられていると言うことはわかります。

私たちはその当時、2,000年前の話しですけれども、当時のギリシャ、ローマで行われたスポーツについてちょっと考えたいと思うのです。
当時ギリシャ人は、単に精神的な訓練だけではなく、肉体的な訓練をも重要なものと考えていたのです。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うふうに、一般に考えられていました。
そのために、その当時のギリシャ人の男も女も、七歳になると激しい運動をさせられたのです。

小さい時から、そのような訓練を受けたために、大人になった時には非常に美しく健康な体が形造られた。それがその当時の、彫刻などを見ればよくわかります。
美と徳とは切り離せないと、その当時のギリシャ人は共通した考えだったのです。美しい心と、健全な肢体・身体とが、理想とされていました。
ギリシャ語以外の言葉では、良い物と美しい物は区別されて別の表現でしたが、ギリシャ語ではそれらの言葉が同じ表現から作られています。このようにギリシャでは、善と美とが理想とされました。

それに対してローマでは、正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共にスポーツによって達成されると考えられたのです。けれども、ギリシャやローマのスポーツは常に、偶像礼拝と結びついていました。
たとえばオリンピック競技はゼウスの神の名誉のために行われました。別の競技は、コリントの近くで行われたために海の神、ポセイドンを褒め称えるために開かれたのです。またある競技は、太陽の神アポロを記念するために行われました。
オリンピックでは、中心にゼウスの祭壇が築かれており、すべての競技が終った後で、この祭壇の前に華やかな行進が繰り広げられたのです。ローマでは、スポーツが始まる前に、神々の偶像が車に乗せられて、競技場を回ることが習わしとされていました。

この競技は非常に有名なので、人々はいろいろなことをよく知っていたのです。従って、パウロもその競技についてはよく知っていたのですけれども、それが偶像礼拝であるためにそれに参加したことも見たこともなかったのです。
確かに、このスポーツは偶像礼拝であったけれども、パウロは、ひとつの例として、この競技を使って説明したのです。
けれどもパウロは、決して妥協したのではなくて、始めから終わりまで真理を証ししたのであります。

パウロは、ギリシャ人やローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々にわかりやすく説明するために、このような例を用いたにすぎない。
パウロは、このような1つの例を用いて宣べ伝えた福音は、イエス様が救い主であるということにほかならなかったのです。
イエス様こそ、罪の債務と罪の力から解放される救い主であり主である。このイエス様を信じた者は新しい命を歩むことができ、あらゆる問題を解決することができ、その喜びと力とが、与えられるのです。
そして主は、勝利の生涯、永遠の目標と生き生きとして望みを私たちに与えてくださるのです。それゆえに主イエス様こそ救いであり、主なる神の力の現れに他なりません。イエス様がご自身を現される時に、暗闇は完全に打ち負かされるのです。

初代教会の証しとは、ローマ人への手紙1章16節にのせられています。パウロは、

ローマ人への手紙1:16
16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

福音とは、救いを得させる神の力そのものです。けれどもイエス様と結びついているその時にだけ、この力が現れることを忘れてはなりません。聖霊はこの力を私たちに与えられるように、とりなしておられます。
けど大切なことは、私たちがすべてをイエス様にゆだねることです。まかせることです。
イエス様を信じることは、すなわち勝利の戦いを勝ち取ることを意味します。従って、私たちはこの力によって主なる神の目的である勝利の冠を得るために、走ることを急がなければなりません。

このように、私たちにとって、主イエス様から与えられた力を用いて、主の目的に向かって走ることは必要です。したがって、救われた者の生涯は、赴くままの散歩ではなくて、まさに勝利の冠を得るための戦いに他なりません。
私たちは自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵みと主の憐れみによって与えられた上からの力によって戦かわなければなりません。
新約聖書の中には、ローマ、ギリシャ時代の競技のことが描かれていますが、いったいこれは、何のために語られたなのでしょうか。

私たちに、救われた者であると言うだけでは決して十分ではないから。それは単にはじめの第一歩にしか過ぎません。むしろ永遠の戦いの目標が重要です。
そのために私たちは今以上にもっとイエス様を信頼し、イエス様にすべてをゆだねなければなりません。
私たちは真剣に、喜びに満ちて主に従っていくべきです。私たちは主の証し人として用いられなければならないのです。したがって私たちは、主の御目的を目指して走り、イエス様において上に置いてくださる主の勝利を得ようと努めるべきなのではないでしょうか。

すべてのこの世のものは、過ぎゆき儚いものです。ただ、永遠になるものだけがいつまでも存続するのです。そのために、永遠なるものを目指して、私たちは一生懸命にならなければなりません。
従って私たちは、このような信仰の戦いをするためには、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部出し切って、イエス様のために生きなかればなりません。
私たちが目指して走っている目標は、本当に素晴らしい栄光に満ちています。私たちが忠実な主のしもべとして最後までご奉仕するならば、それによって得られる報いは大きい。生きておられるイエス様は、私たち信者に霊の力を十分に備えてくださいます。

イエス様は私たちに大胆な証しをする勇気と、信仰の確信と、確実なる勝利を与えてくださいます。
パウロが言ったように、信者の生涯は、組み討ちのようなものである。つまり、悪霊に対する戦いです。
エペソ人への手紙6章から読みましょう。本当は、毎日読むべき箇所かもしれません。

エペソ人への手紙6:10-17
10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15足には平和の福音の備えをはきなさい。
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

別の言葉で言えば、競技場で走る競争です。もう一箇所、ピリピ人への手紙の3章12節です。これもよく引用される箇所です。

ピリピ人への手紙3:12-14
12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

私たちは、このようないろいろな力に対して、霊の戦いをしなければなりません。
ある場合には救いの兜をかぶり、御霊の剣を持って白兵戦を行い、またある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を戦わなければなりません。

エペソ人への手紙6:16-17
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

そこでは、うち砕かれた悪魔の要塞が問題です。
同じくパウロは、コリントの兄弟姉妹に書き送りました。

コリント人への手紙第II、10:4-6
4私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
5私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
6また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

私たちの主の恵みによって救われた者は、その意味で、戦士であると言えます。
だからパウロは、愛弟子であるテモテに、殉教の死を遂げる前に書いたのです。

テモテへの手紙第II、2:3
3キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

イエス様のためにご奉仕することは、すなわち聖なる戦いそのものです。イエス様のしもべとして、証し人として堅く立とうと思う者は、この戦いの意味を、自ずから感じ取るはずです。
私たちが、イエス様をともに行こうとする時には、この世の未信者から、強い攻撃を受けることが明らかです。なぜなら、それが主イエスを受け入れない者、すなわち生れながらの人の性質だからです。
彼らは皆、口をそろえて、反対します。当時もそうでした。ルカの福音書19章14節に次のように記されています。

ルカの福音書19:14
14しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。

すなわち私たちは、主イエスが王となることを望んでいない。これこそ、生まれつきの人間が語ることばです。今まで、外面的な敵に対する戦いについて考えてきました。
次に、内面的な敵に対する戦いにつて考えましょう。ここで大切な、「聖化」という言葉が多く使われされるけど、それは、私たち人間が小さくなり、その代りに主イエス様の姿が大きくなることを意味します。
従って、いつかは、古きものがなくなり、新しいものがもたらされることになります。ヨハネの福音書3章30節に、ひと文章だけですが、大切な箇所があります。バプテスマのヨハネは願った、告白した。心から思った。

ヨハネの福音書3:30
30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

有名なガラテヤ人への手紙2章20節。パウロの勝利の秘訣についての箇所でしょう。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この箇所を読むと、いつも嬉しくなる。徹底的に信ずる者を迫害したパウロは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」と言うようになったのは、「すごい。」なのではないでしょうか。
イエス様の救いに預かるようになった兄弟姉妹の中には、古い性質と新しい性質があります。
古い性質と新しい性質が併存しているよりも、対立していると言う表現を使った方が良いでしょう。

ガラテヤ人への手紙5:17
17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

このような内面的な戦いは、我々の肉体が存在している限り、絶えず行われるのです。しかしながら、残念ながら、多くの救われた人々は、この二つのものが対立しあうよりは、むしろ妥協して、いい加減になってしまっていることに慣れてしまっているのではないでしょうか。
その結果、聖霊の導きに対して鈍感になったり、優柔不断な態度のために証する力がなくなったり、この世のことを優先させ、私たちの思いや望みが全く塵にまみれてしまうことなどです。
このような、妥協した生活との別れは、早いければ早いほど簡単であり、徹底的にすればするほど良いことは言うまでもありません。私たち主の血によって買い取られた者は、常に競技をする者であるべきです。

テモテへの手紙第II、2:5
5また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。ここで、使われている競技の規定とか、定められたコースを忠実に、公正に守らなければならない約束のことを言うのです。
たとえば、マラソンをする場合に、定められたコースを走らず、楽をしようと思って、最短距離を走ってゴールインしても、勝利の栄冠は得られません。
これは地上の競技ですが、信仰の戦いにおいても、イエス様を全く信頼し、すべてを主に委ねることが要求されます。イエス様は、心からの献身を望んでおらます。決して、妥協することは許しません。

いずれにしても、古き性質と新しい性質とがごちゃごちゃになってしまうことは、退けられなければなりません。
この戦いは真剣な戦いであり、イエス様に対する信仰を、揺るがない心で持ち続け、主に従っていかなければなりません。

使徒の働き11:23
23彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

常に主にとどまっていたい。このように私たちは、信仰生活の一面として、主のものとなった兄弟姉妹の責任について考えて参りました。
そこでこれから、信仰生活のもう一つの面について考えたいと思うのです。確かに、自分の意思で決定することは大切ですけど、主の力によらずに、自分の力で栄冠を勝ち取ろうとしたり、古い性質に対して戦おうとしたりすることは、正しくない。
では、いったい主のものとなった兄弟姉妹の目印となるものは、何なのでしょうか。

1.主のみことばである聖書を愛する
2.信ずる者の主にある交わりを求める。
3.ことごとく感謝をもって、祈りと願いを捧げる。
4.悪いと分かっている物事から離れることも、主イエスの勝利の現れ。

けれども残念なことに、多くのせっかく救われた兄弟姉妹は、自分の利益を考え、この世の愛を求め、他人に対して冷たくあしらったり、心が頑なであったり、生き生きとした祈りの力を体験することがなく、証しにも力がなく、みことばを尊重せず、罪に負けてしまうのです。
一体このような状態からの逃れ道があるのでしょうか?もし、イエス様が我々の中で、勝利を収めておられるならば、同時に、罪の力に対しても勝利を得ていることも意味するのです。

ネヘミヤ記8:10
10悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

主を喜ぶことは、あなた方の力です。すなわち毎日の生活の中で、勝利を得る力に他ならない。
私たちがイエス様を見上げ、イエス様に従い、イエス様にとどまるならば、罪に対する勝利の問題は、実際に解決されることになります。
その結果、私たちは喜んで光の中を歩むことができるようになります。

今まで述べてきたことを要約すると、まず第一にしなければならないことは、勝利の栄冠を得るために力を尽くして走ることであり、次に主から与えられた恵みを素直に従順に受け取ることです。
従って栄冠を得るために、決して私たちは中途半端な、曖昧な態度を取ることじゃなくて、すべてを主にゆだね、イエス様に拠り頼むことが大切です。
最後に、いったい誰が勝利の冠を得ることができるのでしょうか。テサロニケ人への手紙第Iの2章19節を見ると、パウロは次のように書くことができたのです。テサロニケの信者は、パウロの誇り、喜びでした。

テサロニケ人への手紙第I、2:19
19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

このテサロニケにいる兄弟姉妹は、パウロのご奉仕によって、主に導かれただけではなく、主の恵みによって成長した者で、豊かな実を結ぶものとなったのです。
その意味で、彼らはパウロの喜びでした。

ダニエル書12:3
3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

これに反して、一人もイエス様の御許に導けなかったものは、どうして勝利の冠を得ることができるでしょうか。決してできません。毎日曜日言いますが、一つの大切な手段とは、集会の本を配ってください。
今日も、何百冊持って行っていいですよ。皆、わかっているのでしょう。無料なんです。たくさん運んできてもらいたい。
結局、みことばとは種です、回心の種です。人々が導かれ救われなければ、多くの場合は信ずる者のせいです。未信者の不信仰ではない。信ずる者の不信仰です。

ギリシア、ローマ時代の競技は、多数の観客が集まったんです。セルクスというローマの競技場では、パウロの時代に125万人集まったんです。4世紀になると、38万5千人の観衆が集まったとあります。
それに対して今日、私たちの信仰生活の戦いは、ただ単に周囲の人々から見られているだけでなく、イエス様をはじめとする目に見えない世界からも見られていることを忘れてはなりません。
ローマ時代の競争は、人間と人間の力を競わせるスポーツから、次第に人間と野獣の戦いに変わっていったんです。

例えば、ライオンとの格闘は、初めは犯罪者だけにやらせたのですが、ネロの時代になると、イエス様のものとなった人々をも戦わせ、ひどい場合は、イエス様を信ずる者に、油をかけて火を付けるなども平気で行われたのです。
パウロは、ローマ人への手紙16章の中で、25人の兄弟姉妹の名前を挙げて、それらの人々について語っています。パウロは、ローマ人への手紙16章3節、9節で、キリストにあって「私の同労者」と言いました。

ローマ人への手紙16:3、9
3キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
9キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと...

5節、8節、9節、12節で、「主にあって愛する兄弟姉妹」と言いました。

ローマ人への手紙16:5、8、9、12
5またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。
8主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。
9キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。
12主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。

7節、「私といっしょに投獄された兄弟」と言いました。

ローマ人への手紙16:7
7私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。

10節、「練達した兄弟」とも言いました。

ローマ人への手紙16:10
10キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。

13節、「主にあって選ばれた兄弟」とも言っている。

ローマ人への手紙16:13
13主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。

ここに名前を挙げられた兄弟姉妹の大部分は、疑いもなく、パウロ自身と同じように迫害され、殺されました。
この手紙が書かれてから6年くらい経って、特にローマを中心として、イエス様のものとなった兄弟姉妹に対する大きな迫害が始まったんです。
しかしながら、そのような大きな迫害にかかわらず、これらのキリスト者は、少しも死を恐れることなく、静かなうちにもイエス様を信ずる喜びを持って、その苦しみを甘んじて受けたのです。

しかし残念なことには、それと反対に、迫害や死を恐れたために、信仰から離れ、ダメになった信者もありました。
例えばゲティオス皇帝のときに行われた迫害について、その当時のことを記している古文書の原典は言っています。
「ある72歳の老人は、皇帝の命令に服従して、偶像崇拝を行ってしまった。つまり彼は、主イエスのことを思わず、人のことを思ったため、この世と妥協して、信仰から離れてしまった。その当時のローマの秘密警察は、その老人が偶像崇拝をしたことを見たと証明している。」

この古い文書が記されていることは、何という恐るべき悲劇でしょう。
あるキリスト者は、イエス様を拒んでこの世と妥協し、殺されないために、自分が偶像礼拝をしているところを役人に見てもらい、それを公に証明してもらったのです。
このことは、現在のキリスト者が、行う証しとどのような関係を持っているのでしょうか。いったい一体、私たちの信仰はどうなのか?

マタイの福音書10:32-33
32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

もし、イエス様を知らないと言うと、おしまいです。
すべてのイエス様のものとなった兄弟姉妹の持っている使命とは、まさにイエス様ご自身をを証しすることに他なりません。救われた目的は、それなのです。
イエス様が我々の中で大きくなればなるほど、私たちも真剣にイエス様を証しせざるをえなくなります。つまり、私たちが外に向かって証しをするということは、すべて主との関係にかかっています。

私たちが、聖霊に満たされなければならない。御霊に満たされれば満たされるほど、救われている事実を感謝と喜びを、一人でも多くの人々に告げ知らせたいという気持ちが強まってきます。
私たち一人ひとりが、イエス様は私たちにいかなる意味を持っているかを、明らかにしなければならない。
イエス様のものとなった兄弟姉妹にとって、証しをすることは、誰にもできることです。そして証しをすることは、どこででもできることです。言葉や行いでもって、証しをするということは、その人との関係が良いとか悪いとか全く関係ありません。

イエス様が、我々の心の目を開いてくださることができれば、私たちは、その時こそ感謝と喜びとを持って、大胆にイエス様を証しすることができます。
しかし証しをするということは、常に戦いと結びついています。信仰の道は、戦いと献身の道を通して進みますが、その結果は、素晴らしい栄光に満ちた勝利の生涯です。
私たち主のものが、すべて主にゆだねることができるならば、豊かな実を結ぶことができるのです。

このように信仰とは、常に十字架の道と結びついていることを忘れてはなりません。十字架の死と復活を経験したイエス様との交わりだけが、あらゆる信仰生活と証しのために無くてはならない原則です。
イエス様はかつて言われました。「あなたがたは、私の証人です。」、私たちは、証し人なのでしょうか。
私たちは、家庭や、学校、職場、あるいは故郷において本当の証しをしているののでしょうか。本当の証人は、力、勇気、愛、知恵に満ちたものでなければならない。

前もって、主にすべてをゆだね、証しの生涯を送ったものでなければ、誰も主とともに生き、主のために死ぬことができません。
私たちの日常生活の中で忠実に、イエス様を証しし続けなければならない。続けなければ、大きな問題が必ず出てきます。
イザヤは、「主よ。私はここにいます。私を導いてください、用いてください。」と願ったのは、彼の祝福された生活の秘訣だったのではないでしょか。
私たちも同じ態度をとれば幸いです。




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