引用聖句:ピリピ人への手紙3章14節
コリント人への手紙第I、9:24-27
エペソ人への手紙6:12
この間、御代田で始まったテーマなんですけれど、すなわち主の勝利を得るための戦い、あるいは、キリスト者の使命についてです。 結局、救われた目的とは何でしょうか?もちろん、救われた目的とは、いつか将来天国に行くためではないのです。 今、生きている間に主によって用いられることこそが、救われた目的です。 我々の人生において、最も大切なことは救い主を持つことです。救いとは、得ることではない。救い主を持つことです。救い主を体験的に知ることです。 救いの神を知ることによって初めて、私たちは、この地上において本当に満たされた生活を送ることができます。 満たされた人生を送るために、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがってイエス様が我々を心配し、導き、そして守っていてくださるという確信が生活の土台とならなければなりません。 そして、私たちが死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、栄光をともにすることになるという確信こそが、最高の宝物です。 いつまでも、イエス様とともになるという事実について考えると、主を礼拝せざるを得ません。 パウロは喜んでイエス様を紹介しました。多くの人々は、イエス様によって導かれ救われました。パウロももちろん嬉しかったでしょうけれど、パウロの目的は、いつまでも、乳飲み子の世話をするのではなく、信ずるものがまったき人となることでした。 新約聖書の手紙はどうして書かれたかと言いますと、せっかく救われた人々がなかなか成長しなかったからです。 エペソ人への手紙4章13節に、パウロは、 エペソ人への手紙4:13
と書いたのです。イエス様を知ることは恵みです。けれど、私たちがイエス様のために用いられる器となるために、イエス様を私たちの主として、支配なさるお方として、より良く、体験的に知ることが大切です。 そして、聖書の中で、主の勝利について、勝利の冠について、いろいろなことを言っています。永遠の勝利の冠のために生きていくことは、考えられないほど大切です。 新約聖書の中では、この地上における普通の競争と、我々信者の霊的、信仰的な戦いは我々の信仰を励ますためのものとして、考えられているということがわかります。 パウロは、よく信ずる者の戦いについて書いたのです。おもに、三つの異なったギリシア・ローマ時代の競争について書いたのです。これら三つの競技について、聖書は次のようなものを描き上げていますね。 一番目、競争、二番目拳闘、そして、三番目、戦い(格闘)。 けれど、多くの場合に競争のことが述べられています。この競争は、我々の目前にある主の目標を目指している、すなわち、私たちは、イエス様において召してくださる神の賞与を得ようと努めているのです。 今、司会の兄が読まれましたピリピ人への手紙の中で、パウロは、ローマでつながれていた刑務所の中で書いたのです。 ピリピ人への手紙3:14
彼はもちろん、もうすでに、永遠のいのちを持っていました。罪の赦しを持っていました。神との平和を持っていました。彼は悩みながら喜ぶことができたし、不安から、心配から解放されたのです。生きる希望を持っていました。 けれど、それにしてもやはり、信ずる者の生活とは、決して楽なものではない。一つの競争である。 ですから、主の栄冠を得るために、目標目指して走るべきであると、彼は書いたのです。 そして拳闘は、今、読んでもらった箇所の中でコリント人への手紙第I、9章でしたけれども、拳闘は、我々の中にいる敵と戦うことを目標としています。 そして、パウロがはっきり言っているのは、信ずる者をして、失格者になる可能性がある。永遠のいのちを失うことはない。けれども、主の備えられている褒美を得られない可能性がある。 ですからパウロは、 コリント人への手紙第I、9:27
あり得ることです。 そして三番目は、格闘、あるいは、相撲は、我々の周囲にある、我々の外にある闇の力との戦いを目指しています。 エペソ人への手紙6:12
すなわち人間に エペソ人への手紙6:12
我々の戦いとは、悪霊に対する戦いであると絶えず、毎日、覚えるべきでないでしょうか。 このように、三種類のスポーツと比較することは、それらが非常に似ているにも関わらず、我々の、キリスト者の戦いの三つの異なった精神的な方向を意味しています。 今日は、おもに競争についてちょっとだけ考えたいと思うのです。その競争が、意味している最も大切な真理は、次のようなものでしょう。 すなわち、すべてのキリスト者は、目標に到達することができる。したがって、主の力をもって御旨に従えば、私たちもまた目標を得ることができるのです。 すべてのキリスト者は、力の限りを尽くして走り、そして急がなければならない。したがって、私たちもそうしなければなりません。 すべてのキリスト者は、目標を常に意識しなければなりません。誰も、枝葉のことに目を奪われて、目標から離れることは許されません。したがって、私たちも、また、的外れな生き方をしてはなりません。 すべてのキリスト者は、ゴールインするまで走りぬかなければなければなりません。誰も途中で疲れてやめてしまうことは、許されません。 すべてのキリスト者は、休みなく前進しなければなりません。そして、立ち止まることは許されません。 すべてのキリスト者は、この障害物競走でつまずかないように、また倒れないように注意しなければなりません。敵は、我々を倒そうとしますけれど、イエス様は、我々を守ることのできるお方です。 すべてのキリスト者は、最高のものを得ようと欲しなければなりません。そして、いかなる時にも、低い目標で満足してはなりません。したがって、私たちも、そうしなければなりません。 その時にだけ、初めて、私たちの主イエス様の栄光の冠に与るようになるのです。 ペテロは、当時、迫害され、憎まれ、悩んでいた兄弟姉妹に、書き送ったのです。 ペテロの手紙第II、1:11
パウロもコリントにいる人々にも、似ている言葉を書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:10
救いを受けたものは、報いを受けるべきである。 殉教の死を遂げる前に、パウロの手紙、テモテへの手紙第IIの4章8節に彼は次のように書いたのです。 非常に素晴らしい証しでもあります。 テモテへの手紙第II、4:8
永遠のいのちだけではない、 テモテへの手紙第II、4:8
私たちは、主の現れを、再臨を慕っているかどうかは問題です。イエス様はいつか来ると救われた人々は、皆、疑わずに信じていますけれど、それだけでは十分ではない。 今日かもしれない。イエス様、早く来てください。という心構えを持たないと、ちょっと問題です。 コリントにいる人々に、パウロはまた書いたのです。 コリント人への手紙第I、9:24
救われた人々に書かれた勧めの言葉です。 ピリピ人への手紙3:14
とパウロは書いたのです。 テモテへの手紙第II、4:7
と、パウロはいうことができたのです。 またある時、エペソの責任をとった人々を、彼は呼んだのです。その時、彼は次のように証ししました。 使徒の働き20:24
彼は、そういう風に書いただけではなく、本当に心からそう思ったのです。「私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」 ヘブル人への手紙12章1節、4節、ちょっと見てみましょうか。 これも、考えられない多くの人々の励ましの言葉になりました。 ヘブル人への手紙12:1
この走ることとは何でありますか?と言いますと、2節に書かれていいますね。 ヘブル人への手紙12:2
走ることとは、イエス様から目を離さないことです。 ヘブル人への手紙12:2
今読んだ聖書の箇所は、目標を意識していることと、上のものを求める心を指し示しているのではないかと思います。 一人の人間にとって、その人間がいかなることを考えているか、いかなる目的を持っているかということこそ、決定的なものです。 このような、内面的な態度、および、姿勢から、その人全体の外面的な行いも決定されます。 イエス様は、我々の罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えるだけでなく、我々の人格そのものを新しいものに作り変えたいと思っておられます。考え方、見方、価値観を変えてくださいます。 このような本当の意味での「人間革命」、すなわち、その人を作り変えるためには、常に祈ることが大切となります。 我々の内面的決断、心の考えや、求める気持ちが大いにある、すなわち永遠なるイエス様ご自身に向けられていることこそが、大切です。 コロサイ人への手紙3章1節〜2節を見ると、パウロは、コロサイ地方にいる、もうすでに救われた人々を励ますために書いたのです。 コロサイ人への手紙3:1-2
上にあるものを思う兄弟姉妹は、主が自ら啓示される泉、すなわちイエス様を愛しています。 上にあるものを思う兄弟姉妹は、自分のいのちの泉であられる主ご自身と、個人的に祈りの交わりをもっています。 上にあるもの思う兄弟姉妹は、今、苦しい生活の中にあっても、常に静かな祈りと平安の中にいることができる人々です。 上にあるものを思う兄弟姉妹は、ときどき祈るというのではなく、絶えず祈り、絶えず感謝しているのです。 上にあるものを思う兄弟姉妹は、上にあるものを思うことによって、主が我々をこころに留めて導いて下さるようにと願っているのであり、 上にあるものを思う兄弟姉妹は、この世においても、誠実な、そして、良心的な行いの模範者であり、そして、それと同時に、主の栄光が明らかにされることを心から待ち望んでいるものです。 上のものを思う兄弟姉妹は、この地上においても、責任を果たしているが、その本当の目的は、言うまでもなく、天にあります。 上にあるものを思う兄弟姉妹は、イエス様ご自身を愛し、イエス様のみことばである聖書をも愛する者にほかなりません。そのような、主のみことばを愛する人の生活は、空しく意味のない日は、一日もありません。 そういう兄弟姉妹は、聖書を通して、イエス様が毎日、自分に語りかけることを求めています。 聖書全体は崩されることのない岩であり、信仰といのちの動かない土台です。というのは、主のみことばの全体は、上にあるものを思う兄弟姉妹にとって、約束と戒めであり、イエス様の賜物と使命であり、まことに生き生きとした力を与えるものであり、人生の正しい方向を指し示すものです。 上にあるものを求める心と、聖書を読む喜びとは相伴うものです。すべてのみことばは天からの賜物です。したがって、聖書を読むことをおろそかにしたり、みことばを聞くために集会に行き、主にある交わりを怠る者は、結局地上のことを思い、霊的に貧しく、この世に属し、上にあるものを思う召しを拒むものとなってしまします。 上にあるものを思わない兄弟姉妹は、競争を終わりまでやりとおすことはできません。そういう兄弟姉妹は、本当の競争者がするように、目標を意識して上を目指して走る代わりに、右を見たり、左を見たり、結局は同じような状態に留まらざるを得なくなります。 上にあるものを思う兄弟姉妹は、夜も昼も、みことばを思い、みことばを喜ぶことは、いかに祝福されることであるか、詩篇の作者は次のように言ったのです。 詩篇の1篇ですか。 詩篇1:1-2
上にあるものを思う兄弟姉妹は、主のおきてのうちの奇しきことを見るようになります。 同じく詩篇の作者であるダビデは、その119篇、一番長い詩篇でありますけれど、やはりずっと読むと、みことばとは、ダビデにとってすべてのすべてであったと、はっきり言えます。 詩篇119:18
また、大いなる獲物を捕えた者のように、主のみことばを喜ぶようになります。 詩篇119:160
そして、162節ですね。 詩篇119:162
主のみことばを通して、新しい力が上にあるものを思う兄弟姉妹の中に入ってくるのです。 上にあるものを思う兄弟姉妹の目は、上にあるものに向けられ、目前におかれた目標に向かって急ぎ、前進する競争者になるのです。 この競争の最後には勝利が待っています。この勝利は、イエス様の再臨が行われた時に明らかになります。 ペテロは、当時の信ずる者に、この事実について次のように書いたのであります。 ペテロの手紙第I、1章の13節です。 ペテロの手紙第I、1:13
心を引き締め、身を慎む兄弟姉妹は、絶えず目を覚まし、主を待ち望む兄弟姉妹です。心を引き締めとは、すなわち完全に、徹頭徹尾、主の恵みを信頼することを意味しています。 恵みとは、人間の行いと正反対に、イエス様が我々のためになして下さったことです。したがって、本当の競争者は、100%主の恵みを信頼して走るものです。 すなわち、自分自身の力に頼らず、ただ主が明らかにされる目標だけを目指して走る兄弟姉妹です。 本当の競争者の目的とは何でしょう。ピリピ人への手紙3章20節から21節。よく葬儀の時にも引用される個所です。 ピリピ人への手紙3:20
ただ信じているだけではなくて、 ピリピ人への手紙3:20-21
我々の思いは、絶えず目標を意識し、永遠なる一つの目標だけにすべてを集中していなければなりません。それとは反対に、目標が一つに定められていない場合には、主から与えられた力でもって目前におかれた目標に向かって前進することはできません。 それは、パウロの証しが正しく言っている通りです。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と。 パウロはまず第一に、競争者の召しについて語っています。その召しは、ただイエス様おひとりだけであり、すべてのものはイエス様を通してなされる。 もう一回、ピリピ人への手紙を見てみましょうか。3章の4節からお読みいたします。 ピリピ人への手紙3:4-7
第二番目に、競争者の霊的な目標について、パウロは、また次のように述べています。 すなわち、ただイエス様のために行われるということです。8節です。 ピリピ人への手紙3:8-9
彼は、イエス様の素晴らしさを見たとき、もうイエス様だけと思うようになりました。 第三に、競争者の努力と力についてパウロは語ったのです。すなわち、イエス様とともに上に召して下さる主の勝利を得ようと努めているということです。 10節からです。 ピリピ人への手紙3:10-14
そして、第四に、競争者の幸いな待ち望みにつて、パウロは、前に話したように述べたのです。 すなわち、いつまでもイエス様と一緒になること。20節です。 ピリピ人への手紙3:20-21
イエス様によって、完全に捕えられていることこそ、あらゆる力の秘訣です。 イエス様によって捕えられた者だけが、目標を捕えるようになります。ですからこの3章の12節に書いてあります。 ピリピ人への手紙3:12
救われた目的とはそれなんです。あらゆる勝利は、主に属する者を前進させるものです。すべて耐え忍んだ試練は、その兄弟姉妹の信仰を強くします。イエス様の助けを体験した者は、その喜びを増し加えられるのです。 ある神学校で、学生たちは一つのテーマ、すなわち、「全能なる神と悪魔」について論文を書くことになったのです。彼らには、ただ4時間しか与えられていなかったのです。 その論文は、あらかじめ三つの部分に分けられるべきでした。すなわち、第一番目、全能なる主、二番目、悪魔の存在と本質、第三番目、全能なる主と悪魔との関係、すなわち、悪の発生とそれが赦されていることの問題。この悪を主なる神が支配なさり、光の国によって、闇の国が支配されることなどについて、書くのが当然でした。 けれど一人の学生は、主なる神の全能、主なる神の偉大さ、主の愛、主の知恵、主の真実、主の善、そして、あわれみなどについて夢中になって書いたのです。 突然、終わりの時間がやってきたのです。彼は、ただ主のことについて初めから終わりまで書き続けたが、それはすべて感謝と喜びに満ちたものでした。 彼は、時間になった時に、「悪魔に時間なし。」と書いて論文を出したのです。 先生が、その学生に対していかなる評価を与えたのか、もちろんわかりません。けれど、私たちは、「悪魔に時間なし。」というこの言葉から、多くのことを学びとることができるのではないでしょうか。 私たちの心が、本当に主イエス様によって満たされているならば、悪や悪魔が入り込むところは全然ありません。その時に、私たちの心は、いわばイエス様によって占領された地域のようなものになるのです。 我々の心が、上にあるものを思うならば、罪やこの世のものはまったく力を失い、私たちは別の使命と目標を持つようになります。我々の時間は、主のものとなります。 イエス様を喜ぶことは、我々の周囲に張り巡らされた要塞のようなものとなります。イエス様が我々を捕えてくだされば、くださるほど、罪はその力を失います。 私たちはイエス様のための時間を、多く持てば持つほど、我々の敵である悪魔のための時間は、ますます少なくなります。 「悪魔に時間なし」 ドイツのケルンにある画廊で、大きな油絵があります。それは、旧約聖書で出てくる士師記のサムソンを描いたものでした。それを見ると、サムソンは細い紐で縛られ、小さな子供がその紐を持って、巨人サムソンを導いています。 そのサムソンの髪の毛は断ち切られて、大地に落ちている。この髪の毛は、サムソン自身がすべての生活を主に捧げたことの証明となるものでした。 けれど、サムソンは罪によって、霊的な力は失ってしまっていたのです。いかに小さな罪があっても、罪を犯した者は悪魔に縛られてしまうのです。 ただ主にすべてを捧げつくすことが、本当の力の秘訣です。 ただイエス様との霊的な交わりだけが、勝利の生活に導くのであります。 歴代誌第IIの16章、何回も、何回も引用された箇所ですけれど、 歴代誌第II、16:9
勝利を得たいと思う兄弟姉妹は、すべてを主に明け渡さなければなりません。このようにまったく主イエスに委ねたキリスト者だけが、本当に恵まれた、祝福された者です。 競争者の真の生涯は、焦点が二つある楕円、すなわち、自分自身とキリストの生活でなく、イエス様というただ一つの中心しかない円のようなものです。 もう一回読んで終わります。コロサイ人への手紙の1章18節です。 コロサイ人への手紙1:18
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