引用聖句:出エジプト記12章12節-14節
エペソ人への手紙2:12-13
ヨハネの手紙第I、1:7
先週の日曜日、私たちはモスクワで多くのソ連の兄弟姉妹と交わりすることができたのです。ある兄弟は、イエス様の流された血の大切さについて話されたのです。 これがきっかけで、今日もこのイエス様の流された血について、少し一緒に考えてみたいと思います。 もちろんだれでも分かりますけども、聖書は私たちに理論や教えを伝えようとしてるのではない。事実を伝えようとしてるのです。 聖書の中でもっとも大切な事実は、イエス様の流された血潮です。血の中にいのちがある。血が流されればもういのちがない。 私たちは、聖書の事実を、頭の中に蓄えてる知識として知るだけではダメでして、生活の中にどうしてもその知識が満たされていなければ、日々を生活することはができない。それほどに体験的に知らなければならない。 今読まれました出エジプトの箇所は本当に大切です。 出エジプト記12:12-14
私たちは毎週聖餐式を、パン裂きをするのはそのためなのではないでしょうか。生活の中に生きてゆく知識を私たちはどうしても必要です。 この知識は頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、われわれの人格から切り離して考えることのできないほど深くに沁み込んでる知識です。 私たちは今の世とは、末の世であって、暗黒の時代です。そして日々を生活するためには、岩のような堅いしっかりとした土台が必要です。 この土台は今話したように、この生活の中に沁み込んだ知識、聖書に書かれてる主の永遠に変わらない事実でなければいけないと思います。 主のご計画とはいったい何なのでしょうか。みなさん、よく知られてる箇所ですけど、ヨハネの福音書6章の40節を見るとイエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書6:40
わたしを ヨハネの福音書6:40
例外なく ヨハネの福音書6:40
結局良い行ないをして、一生懸命努力するものなのではない。わたしを見ることによって、永遠のいのちを持つようになるとあります。 もちろんそれだけではない。主のみこころとはもうひとつなのではないでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙の4章19節に次のように書いたのです。彼の心の叫びのひとつでしょう。 ガラテヤ人への手紙4:19
私は安心できない、子を喜べない、辛い。主のご目的とは、私たちが救われて、神の子どもとさせられる者となることだけではない。イエス様の御姿に似せられていくことであると、この箇所を通してはっきり知ることができるなのではないでしょうか。 一人一人は自分の強い点また自分の弱い点を知ってるでしょ。私たちも自分の一番弱い点を銘々知っていることなのではないでしょうか。 そして主のみこころのにかなう勝利の生活を願い、それがために祈りましたけど、その結末は敗北に終わったことがあるかもしれない。一体どうしてなのでしょうか。 まことの土台をもっていないせいなのでしょうか。聖書の知識をもっていなかったせいなのでしょうか。 人間には多くの悩みや苦しみがありますけど、それに対する主の備えはいつもご自身のひとり子であるイエス様です。 アメリカ行くと、日本でたまに見えるんですけど、車の後ろに、英語で書かれています。 「ChristIsTheAnswer」、結局、主イエス様が答えである。それはもう知ってると言われるかもしれない。けど、もしそれを知ってるならばなぜ自分の力で勝利の生活を送ろうと努力するなのでしょうか。 イエス様だけが勝利の生活を送らしめることができるのです。パウロは自分の信仰生活において、勝ち得て余りあると証したのです。 ローマ人への手紙8:37
とあります。パウロは勝利の秘密を握ってました。 それはガラテヤ人への手紙2章20節にあるとおり、「われ、もはや生きるにあらず。キリスト、わがうちに有りてくるなり。」、「私は十字架につけられた者です。もう生きてるのは私ではない。私のうちにおられるイエス様こそがすべてである。」 私たちは自分自身で勝利の生活を送ることはできません。私たちのうちに住むイエス様だけが勝利の生活を送ることができるお方です。 ですから、われわれのうちにイエス様の御姿が形作られてくるということを本当に大切なことであると言わなければならない。 「主イエスは、どうして私をこのようなお取り扱いの中にお入れになるなのでしょう。」と思ったことがあるなのではないでしょうか。 「私にはどうしてこんな悩みをもつようになったなのでしょうか。苦しみがあるなのでしょうか。」 それは自身が死んで亡くなり、あなたのうちにイエス様が生きておられるという、本当の知識に達するように主が導いておられます。 私たちは色々悩みをもってるけど、主はそれに応えますときに、イエス様を私たちにお示しになります。そのほかのどのような方法もお取りになりません。 人間の過ち、わがままとイエス様が流された血潮こそが聖書の中心テーマです。主のみことばは、われわれの罪とまた、イエス様の流された血潮の価値をはっきりと述べてます。 これに関してちょっとローマ人への手紙から二、三箇所拾い出してみたいと思います。まず、 ローマ人への手紙3:23-26
ローマ人への手紙5:8-9
キリストの血によって義と認められた。これこそが初代教会の喜びのもとでした。主なる神も、正直な人間も、悪魔も罪の事実を認めざるを得ない。 最初の人アダムは、神に対して不従順であったために、主なる神と人間の間に隔たりができてしまったのです。一つの壁ができたのです。 聖書は不義が、罪が神と人との間を隔てたのですとあります。 イザヤ書59:2
したがって主なる神は、全人類はことごとく罪の下にあると言っておられます。前のローマ人への手紙に戻りまして、 ローマ人への手紙3:9-12
未信者だけじゃなくて信者もそうなんです。結局罪によって主に対して隔ての壁ができてしまっただけではなく、良心の呵責も生じてきたのです。罪を犯し、主との間に隔たりができたため、人間には良心の呵責が生じました。 主の霊、聖なる神が人の心に働くとき、全人類はことごとく罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。放蕩息子の告白は次のものでした。 ルカの福音書15:18
私たちは良心の呵責をもっておりますが、悪魔はそれに付け込み、私たちに「お前は罪を犯した。ダメな者だ。」と言います。 結局悪魔のひとつの名前は、訴える者です。 ヨハネの黙示録12:10
主も人間も悪魔も罪の事実を認めています。だから三つのことがら、その第一番目:主に対する罪、第二番目:良心の呵責、そして第三番目:悪魔の訴えを解決することが考えられないほど大切です。 けど、一体どうしたらこの三つの問題を解決することができるなのでしょうか。 私たちは最初に人間のあらゆる困難、苦しみに対する主の答えはいつもただ一つ、ご自身の御子である主イエス様にあると言いました。 この三つの問題も、もうすでに主イエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、イエス様の流された血潮によって解決されたのです。 すなわち主なる神と人間との間を隔ててる罪という名の壁は、イエス様の流された血によってもうすでに取り除かれたのです。主との交わりができるようになりました。 それから、イエス様の十字架の血潮をよく知るならば、われわれの良心の呵責は消えて無くなります。「赦されたー!罪に定められことがない。」と確信するようになります。 だから私たちがイエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。このようにイエス様が十字架で流された血潮の力は、無限に効き目が価値あるものであります。 主に対して、私たちの良心の呵責に対して、また悪魔の訴えに対して十二分の効果をもってるのです。 私たちが「霊的に成長したい。進歩したい。」と思うならば、どうしてもイエス様の血潮の限りない力を知る必要があります。 イエス様が十字架にお架かりになり、そのとき流された血潮の絶大な価値を知らなけれならない。この知識なしにイエス様にお従いすることはできないのですから。 だからこの三つのことをもうちょっと詳しく考えたいと思います。 まず第一番目。イエス様の流された血潮は、まず、主なる神のためでした。主なる神のために流されたのです。 だから前に読みました箇所の中で、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」とあります。イエス様の血潮はわれわれの贖いのために流されました。 私たちの罪が赦されて、主なる神に仕えることができるためになぜか流されたのです。私たちが主なる神にさばかれないようになるためにも、どうしても罪の赦し、贖いが大切です。 罪の赦しはほかの宗教また、あるいは教え、道徳的良い行ないによってはやって来ません。ただイエス様の流された血潮の事実によってのみ、罪の赦しがなされます。 けどもイエス様の血潮はまず、主なる神のために流されたことを覚えるべきです。まず私たちのためではない。 もし私たちがイエス様の血潮の価値を知ろうとするなら、私たちはまず主なる神がイエス様の血潮をどのように考えておられるか、知らなければいけない。 もし私たちが、主なる神が、イエス様の血潮をどのように考えておられるかを理解していないなら、イエス様の血潮はわれわれにどんな意味があるかも分からないからです。 御霊が、主なる神が御子主イエス様の血潮をどのようにお思いになってるかを私たちに教えてくださるとき初めて、私たちはイエス様の流された血潮の尊さを知ることができるのです。 旧約聖書を見ると、「贖いの血潮」という言葉が百回以上出てきますが、いずれも贖いの血潮は主なる神のためであると言ってます。 旧約聖書における一番大切な意は、いわゆる贖罪の意でした。 今日もちろん全部読むことができないけども、レビ記の16章は、贖罪の日のことを詳しく伝えています。二、三節だけ読みましょうか。 レビ記16:15-17
とあります。この日には、すべての民は幕屋に集まり、自分の罪の身代わりの子羊を殺し、大祭司はその血を神の臨在し給う至聖所に携えて行き、その血潮を七たび振り注いだと記されています。 犠牲の子羊は幕屋の前庭で、すべての民が見ている前で殺されました。けど、その血を至聖所に携えることのできるのは大祭司だけでした。 大祭司は民の罪を贖うために、血を携えて聖なる主の御前に出ていきます。この大祭司はもちろんイエス様の雛形です。ヘブル人への手紙の9章を見ると次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙9:11-12
とあります。大祭司が一人で、主の臨在し給う至聖所に行ったと同じように、われわれの救い主なる主イエス様も、ひとりで十字架に架かり、血を流され、三日目によみがえり、天の父のみもとに贖いの血潮を携えていかれました。 大祭司は血を携えて民から離れ、まず主の御前に出ていきました。主はその血潮を見て満足されました。 これを見ましても、血潮はまず、主なる神のためであることは分かります。 贖いのもうひとつの雛形は、前に読みました箇所です。 出エジプト記12:13
エジプトを出るにあたり、イスラエルの民はみな傷のない子羊を殺し、その血を家の柱と鴨居に塗らなければならなかったのです。 神はその血を見て、わたしはその家にわざわいを下さずその家を通り過ぎると約束してくださったのです。 イスラエルの民が、もちろんエジプト人の見えるところに血を塗ったということは、主がその血を見られるようにしたかったからです。 人々はうちの中で羊の肉を食べておりました。人々にはその血は見えなったのです。この出エジプト記に記載し、イスラエルの民が殺した傷もしみもない子羊は、もちろん言うまでもなく主イエス様の雛形でした。 主なる神は聖であり義であられますから、罪ある人間を贖うためには罪なくきのを罪とする必要があったのです。 血を流すということはいのちを与えるということです。なぜならいのちは血にあるからです。ヘブル人への手紙の9章22節。聖書のもっとも大切なことばのひとつでしょう。 ヘブル人への手紙9:22
結局すべての宗教の中心は、ちっぽけな人間は何を信ずるべきか、やるべきかです。 聖書の中心とは違う。主は、どうしようもない人間のために何をなさったのか。イエス様の血が流された。イエス様がいのちを捨て、血潮を流されたとき、父なる神はそのみこころを満足されました。 「わたしは血を見るならば、わざわいを下さずに通り過ぎる。」と言われたのです。「わたしはわたしの子、主イエスの血潮を見るならば満足する。」と主は言われます。 これこそ私たちが知らなければならない、主なる神の永遠に変わることのない事実なのです。 私たちはイエス様を信じて救われる前に、私たちの良心は曇って死んだようなものでした。けど今、イエス様を信ずる者として、主なる神に不従順なとき、それは罪としてわれわれの良心に敏感に響いてきます。 そのようなとき私たちは自分ばかりを見つめ、イエス様の血潮の価値を忘れてしまい、がっかりしてしまいます。われわれの罪はイエス様の血潮より大きいかのように考えてしまいます。 私たちはどうしてそんなことになってしまったの〜?私たちはなにかこの身に感じたいのです。そしてその感じ方により、イエス様の血潮の価値を判断したいのです。これは大変な誤りです。 血潮はまず主なる神のために流されました。イエス様の血潮は主なる神にとって、どんなに全き価値をもってるかを知る必要があります。 私たちの感ずることは大切ではない。主のみことばを信じ込むことが大切です。すなわち、聖書はなんて言っているか?それだけなんです。 私たちはイエス様の血潮の価値を信じなければならない。なぜならば、主は次のように言っておられるからです。 ペテロの手紙第I、1:18-19
主なる神が、「御子主イエス様の血潮は、人間のすべての罪を取り除くために十分である。」と言っておられますから、私たちは、主と人間とを隔ててた罪の壁がまったく取り除かれていることを信ずることができるわけです。 分かったからじゃない。聖書はそう言ってるからです。 主は聖であり、義であられます。その主なる神が、「血潮はすべての罪を覆うために十分である。」と言っておられます。 イエス様の流された血潮とは、ともに父なる神のためでした。 二番目。イエス様の血潮と信ずる者が主のご臨在のうちにはいることのできる関係について、ちょっとだけ考えたいと思うのです。すなわちイエス様の血潮をよく知るならば、われわれの良心の呵責は消えてなくなるんです。 主はイエス様の血潮を心から満足されました。このイエス様の血潮は、われわれにも十分であるはずです。 ヘブル人への手紙10:22
このみことばは何を意味してるなのでしょうか。 今までは、主なる神と人を隔てていた罪という名の壁がありました。だから絶えず良心に咎を覚えて苦しんでいたのですが、今やイエス様の犠牲の血潮が流され、このすべての、この罪の壁が取り除かれ、贖われ、良心の呵責は消え去ったのです。 もし私たちが、この永遠に変わらない事実の上に立つなら、われわれの良心の呵責は跡形もなく消え去ってしまうのです。 信仰生活には二つの事がらがいつも平行していなければいけません。それは信仰に満ちた心と咎めの去った良心です。 もし咎めの去った良心を絶えずもち続けなければ、私たちの信仰生活は前進しません。 ですから私たちは、日々しつこくイエス様の血潮の無限の尊さを味わい知らなければならないのです。 私たちは祈ると何を土台にして祈るなのでしょうかね?イエス様の血潮なのでしょうか。それともほかのものなのでしょうか。 私たちはきよきが必要であり、主イエス様の血潮をくぐって初めて、主なる神の御前に近づくことができるということをいつも考えてるなのでしょうか。 それとも、今日は一日穏やかに過ごした、主のために何か行なった、満足だというところから祈りの心が湧いてきて、そのような気持ちを、気分を土台に祈るなのでしょうか。 もし気分を土台に祈るなら、それは絶望への第一歩と言わなければならない。なぜならば、気分の良い日は、一週間にそんなにたくさんないからです。 われわれの祈るときの土台とはなんなのでしょうか。 良心の平和は気分の上に成り立つものでは決してありません。ただ、流された主イエス様の血潮を受けるときにのみ、良心の平安があるのです。このことを知ることは本当に大切です。 ヘブル人への手紙10:19
またあるときは、今日は注意深く一日の信仰生活を送った、いつもよりも多く祈り、多く聖書を読み、主の御前で黙想のときを長くもった。だから喜んで主の御前に近づくことができると思う人があるかもしれない。 またこんなこともあるでしょう。朝ご飯のとき、うちの者となにか少しゴタゴタがあり、面白くないときもあったり、また朝、目を覚ましたとき、気分がすぐれず、イエス様との関係がなにか思わしくないように思い、したがって、今日はよく祈ることができないなどということもあるでしょう。 私たちは何を理由に、何を盾に取って主に近づくなのでしょうか。定まりのないわれわれの感情をもとにして主に近づくなのでしょうか。 それとも、岩のように動かない土台、すなわち主イエス様は私の過ち、わがまま、罪のために血潮を流して、主なる神はそれを心から受け入れ、満足し給うたという永遠に変わらない事実に基づいて主に近づくなのでしょうか。 私たちがいくらむきになって真剣に祈っても主は聞き入れ給いません。ただイエス様の血潮をくぐって主に近づくときにのみ、主はその祈りに聞き給います。 イエス様の血潮は永遠にその力を失いません。ですから私たちはいっつもはばからずして、しかも喜びをもって主の御前に近づくことができるのです。 私たちがなにかやったからじゃなくて、ただイエス様の流された血潮のゆえに、主の御前にいずることができるのです。たとえ私たちがおととい、昨日今日どんなにすばらしい経験をしたとしても、それをもとに神に近づくことはできません。 ただ流された主イエス様の血潮をくぐってのみ、主の御前に出ることができるのです。 今日は良い日だった、昨日は良き日だったというその気分によっては、主に近づき得ません。ただイエス様の贖いの血潮によってのみ、近づきうるのです。 私たちはイエス様を受け入れたとき。イエス様の血潮を信じたとき、主との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。イエス様の血潮によってまったく取り除かれました。 エペソ人への手紙2:13
キリストの血によって近い者とされた。けども、信者となった今もやはり、ただ一つの霊をもって、すなわちイエス様の血潮のゆえに、主に近づくことができるのです。 ヘブル人への手紙10:19
ヘブル人への手紙10:22
信仰生活の第一歩は、イエス様の血潮によって踏み出されますが、信仰生活のひと歩みひと歩みもイエス様の血潮によってのみ歩むことができるのです。 くどいように、イエス様の血潮のことを話したんですけど、それは、「一番信仰生活に初歩なことだ。もう分かりきってるABCなのでないか。」と思う人がいるかもしれないけど、一番困ることには、人間はその初歩を忘れやすいなのではないでしょうか。 死に至るまで、やがて天に召される日まで、このイエス様の血潮によって歩み続けなければならない。そうしないと悪魔の勝利になります。 イエス様の血潮は流されました。主なる神はこれをまったく良しとされたのです。ですから血潮はわれわれにとっても十分価値あるものです。 私は弱い存在です。弱いところたくさんもってますけど、その弱いところを見てるだけでは決して強くなれえない。 また私たちは、私たちこの群れが祈りに乏しい群れであると思うかもしれないけど、そう考えているだけでは何にもならない。はばからずして恵みの御座に近づきましょう。 そして主に、「イエス様、私は流された血潮の価値を深く知らない。けど、あなたはそれを良しとされた。だから血潮はわれわれにとっても十分であるということを信じます。イエス様の血潮をくぐって御前に近づきます。」と言いましょう。 このようにして主に近づきますと、良心の咎は消えされます。良心の咎が消えさえると、私たちのうちには、大胆が湧き上がってきます。ですから、 ヘブル人への手紙10:2
云々とありますが、もはや罪の自覚が無くなるのであるとありますが、これは主イエス様の血潮の価値を深く体験した人のみ言える言葉です。 これらの人々にとって、主の血潮をに対する知識はおのおののいのちになってます。頭の中に蓄えた知識ではない。 このような人は、パウロと同じく、「罪を主に認められない人は幸いである。」と言いうる人です。イエス様の血潮によって、罪という壁は取り除かれ、良心の呵責は消えてなくなくなっただけじゃなくて、私たちがイエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。 イエス様の血潮と兄弟を訴える者、すなわち悪魔に対する勝利について最後にちょっとだけふれて終わりたいと思います。 イエス様に属する者を訴えることは、今日悪魔のする一番する大切な仕事のひとつでしょう。私たちはいったいどうしたら悪魔に打ち勝つことができるなのでしょうか。 イエス様の血潮によってのみ、悪魔に勝ち得ることができるのです。 イエス様の血潮はもうすでに流され、もうすでに聖なる父と人との間を隔てていた罪の壁は取り除かれたのです。 そして今や、主なる神は人間のがわに味方になって立っておられます。ですからどんなに悪魔が訴えてきても、その訴えはむなしいものです。もし私たちがイエス様の血潮をしっかりと信ずるならば。 ヨハネの手紙第Iの1章の7節。本当に考えられないほど大切です。 ヨハネはこの手紙を書いたときおそらく百歳以上だったんです。ご老人として一番大切なことだけ触れたのです。 ヨハネの手紙第I、1:7
御子イエスの血はすべての罪からわたしたちをきよめます。このみことばは、われわれの信仰生活の毎日にとってなんと尊いみことばでしょう。 このみことばに、「すべての罪、おのおのの罪から私たちをきよめる。」と書いてあります。 主は光でいますと、主の光のうちを歩むならば、私たちの罪は大小に関わらず、意識する意識しないに関わらず、すべてきよめられていることです。 ですから悪魔は訴えても無駄です。悪魔はどんなに訴えても無駄です。 イエス様の血潮のゆえに、今や主がわれわれの味方となっているからです。 ローマ人への手紙書8:31-34
血潮はまったく満足させられたものであるという知識の確信が必要です。 悪魔がやって来て訴えています。「おまえは罪を犯した。主はもはやおまえを用いられない。」、このようなとき悪魔の訴えに耳を貸すと、敗北に終わります。 なぜ私たちは悪魔の言葉を信ずるなのでしょうか。それは、私たちはまだ、自分のうちになにか良いものが残っていると考えてるなのではないでしょうか。 私たちが自ら行なってできることは罪ばかりです。われわれの受け継いだ罪の性質は、なにをできるの?罪を犯すことしかしないと聖書ははっきり言ってるのです。 それ以外の何ものもなすことができません。 これはやっぱり深く知りたいものです。悪魔がやって来て、「お前は罪を犯した。」と言うとき、「それは前から知っている。私は自分のうちになんの良いところもない。けど私のためにイエス様の血潮がある。主なる神はこの血潮を満足させておられる。だから私ははばからずして主の御前に祈ることができる。」と言うことができるはずです。 もし私たちはこの主の血潮の価値を忘れますと、悪魔が勝利を取り、でしゃばってきます。 主だけが訴える者、すなわち悪魔に打ち勝つことができるのです。主はもうすでにイエス様の犠牲の死によって打ち勝ったのです。 もし私たちは、主の血潮の価値を十分に知るならば、悪魔が付け込む余地は全然なくなるはずです。主の血潮を目の前から決して追いやってはなりません。 イエス様の血潮は主なる神の満足されたものであり、イエス様の血潮は私たちの平安の源でもあります。 この事実は、悪魔の訴えをまったく退けます。われわれの力と平安と喜びの源は全部イエス様の血潮の中に含まれています。 イエス様の血潮を深く喜び、主の血潮に心からの感謝をささげ、さらに生きて前進しようではないでしょうか。 |