引用聖句:出エジプト記1章6節-2章10節
ヘブル人への手紙11:23-26
兄弟がお読みくださいました、出エジプト記の1章6節から2章の10節まで。また、ヘブル人への手紙11章の23節から26節を見ると、モーセは本当に神によって豊かに用いられたしもべであったことを、知ることができると思います。 もう一箇所、お読み致したいと思います。 ヨシュア記1:1-2
と、書いてあります。ここではっきり、「主のしもべモーセ」、また、「わたしのしもべモーセ」と、書き記されてるのであります。 モーセは、主の御心にかなった神のしもべでした。モーセは、いったいどうして、神のしもべと呼ばれたのでありましょうか。一言葉で言いますならば、モーセは、主イエス様に非常に似ていたからです。 もし私たちは、神のしもべとして生きようと思えば私たちは、主イエス様の御姿に変えられなければならないのであります。 どの点でモーセは、主イエス様に似た者だったのでありましょうか。 申命記5:5
と。この箇所を見ると、主とイスラエルの民族の間に立った人は、神のしもべであるモーセでした。彼はいったいどうして、神のしもべと呼ばれたのでありましょうか。 彼は、主とイスラエル人の間に立ったからです。彼は、御心にかなったとりなし人、祈り人だったのであります。この点についても彼は、主イエス様に非常に似ていた人物でした。 テモテへの手紙第I、2章の5節に、主イエス様について次のように書いてあります。 テモテへの手紙第I、2:5
神と人との仲介者は、イエス・キリストですと、書いてあります。人間となられた主イエス様は、神の全人類との間に立ち、仲介者となられたのです。モーセも、主とイスラエル民族の間に立った者だったのであります。 ほかの似てる点もあります。民数記12章の3節に、モーセという神のしもべについて次のように書いてあります。 民数記12:3
すなわち彼は、世界一の謙遜してる人だった者だったんですね。彼はかつて人殺しでした。非常に速く怒った者。殺人の罪まで犯してしまった者は、地上のだれにもまさって、非常に謙遜な者となった。なんという奇跡でありましょうか。 また、主イエス様は、次のように言うことができたのであります。 マタイの福音書11:29
わたしは心優しく、へりくだっています。これは主イエス様の告白でありました。 また聖霊は、ヘブル人への手紙の著者を通して、次のように判断したのであります。 ヘブル人への手紙3:5
と書いてあります。モーセは、忠実なるしもべだったのであります。 生きてるまことの神ご自身が、全能なる神はモーセを指して、わがしもべ、モーセと呼ぶことができたのです。 パウロは、テサロニケの信者たちに、あなたがたは偶像を捨てて、神に立ち返り、生きてるまことの神に仕えるようになったと、書き送っています。聖霊はまた、私たちに対しても、次のように呼びかけておられます。 コリント人への手紙第II、5:15
と書いてあります。よみがえった方のために生きる。これは、私たちの人生の目的であるべきです。 しかしいったいどうしたら、私たちはモーセのように、まことの神のしもべになることができるのでありましょうか。また、今の時代における主に対するご奉仕とはいったいどのようなものでしょうか。 この問いに対する答えは、使徒の働き26章の16節から18節までに書き記されているのであります。 使徒の働き26:16-19
このみことばに示されていますように、ご奉仕のひとつは、異邦人の心の目が開かれ、罪の暗やみから異邦人が解き放たれ、救い出され、神の光のうちに、神の御力のうちに導き出される。このために働くことです。 しかし、今の時代におけるご奉仕は、それだけでは十分でありません。もうひとつ大切なことがあります。それは、 エペソ人への手紙4:13
と書いてあります。これが、新約時代におけるご奉仕の大切な一面です。 まことのご奉仕は、常にこの二つの面を備えています。すなわち、伝道だけではなく、もう一つの面、すなわち自らを顧み、キリストの恵みに生きる。よみがえられた主のために生きる。という面もなければいけません。 多くの人々は、未信者が悔い改めると、それで満足しています。しかし神のみことばは、また神の御心は、そこで終わりではありません。悔い改めて、信者になったクリスチャンは、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで、至ることを望んでおられます。 ここまで考えなければ、まことのご奉仕とは言えないのであります。 パウロは、まことのご奉仕を知っていました。ご奉仕は、どういうものであるかということを知っていましたし、そのようなご奉仕をなさったのであります。 使徒の働き20章の26節と27節の中で、彼は自分の奉仕の内容について、少し述べています。 使徒の働き20:26-27
と、書いてあります。全体。余すところなく。これは本当に強い言葉ですね。パウロは、神の計画全体を、余すところなく宣べ伝えたんです。これこそ、パウロのご奉仕が、祝福された秘密です。 パウロは、ご奉仕をしながら、神のご目的をはっきりと心に描いて、それをひたすらに目指し、求めておったのです。モーセもパウロと同じでした。出エジプト記の15章13節に、モーセは、主に向かって祈ったのです。 出エジプト記15:13
と書いてあります。あなたはこの民を、聖なる御住まいに伴われた。伴われるであろうと、書いてないんですね。未来形ではなく、過去形に、「伴われた」と書いてあります。不思議ではありませんか。 実際問題として、そのときイスラエルの民は、まだ旅行の始めであり、聖なる住まい、すなわちカナンの地には、まだまだほど遠いところにあったんです。しかしモーセは、神の御心を心に描き、また見えないところを信仰によって見、あなたの聖なる御住まいに伴われたと、うたったんです。 聖書を見てまいりますと、モーセは模範的な神のしもべであったことがわかります。それとともにモーセは、主イエス様とよく比較されています。 申命記18章15節のみことばは、非常に大切な言葉でありますが、このような言葉があります。これは、モーセがイスラエルの民に言っている言葉なんですが、 申命記18:15
と書いてあります。私のようなひとりの預言者を起こされると、書いてありますが、このひとりの預言者は、ほかならぬ主イエス様ご自身です。ここでモーセは自らを、主イエス様と並べて、比較していますが、使徒の働きの中で、石で打たれて、輝かしい殉教の死を遂げたステパノは、モーセとイエス様を比較してるんです。 今読みました箇所の引用になりますが、使徒の働き7章の37節に、 使徒の働7:37
またパウロも、コリント人への手紙第Iの中に、私たちの先祖はみな、モーセにつくバプテスマを受けたというとともに、イエスにつくバプテスマを受けたと言い、モーセは、すなわち、主イエス様の雛形であることをはっきりと言ってます。 モーセは、神のしもべモーセは、こんなにも頻繁に、主イエス様になぞらえられ、主イエス様と一つにされています。私たちも、私たちの行なうご奉仕が、自ら出る、ではなくて、ご奉仕の中心が、いつもイエス様であるように、イエス様と深い交わりを持ちたいものです。 まことのご奉仕は、主にために働くというよりは、むしろ、生活を通して、主を現わしていくことであると、言ったほうがいいと思います。 生活を通して主を現わしていくことは、決して簡単なことではありません。それは十字架を意味しています。 そこには悩みも苦しみ、誤解も数限りなく起こってくることでしょう。モーセはまことのご奉仕をするために、八十年の苦しみの訓練のときが必要でした。モーセは八十年かかりました。 私たちも八十年、訓練のときが必要なら、これも困りますが、短い間、まことの働き人となるということも考えられません。 今日、おもに、一緒に考えてみたい質問は、どうしたらまことの神のしもべとなることができるか、という質問ですね。 今まで二つの点、すなわち、御心にかなった奉仕とは何か。そして二番目は、モーセとイエス様との比較。この二つの点について、考えたんですが、最後にいかにして、主のしもべとなるかという点について、考えたいと思います。 まことの神のしもべとなるために、欠くことのできない、六つの土台石が必要です。 第一の土台石は、競走と闘いです。 ヘブル人への手紙の12章の1節の後半に、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか、と書いてあります。救われるために、競走と闘いが必要ないんです。 けども、神のしもべになろうと思えば、私たちは、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けなければならないのであります。 モーセは、戦いの中に生まれ落ちました。モーセが生まれ落ちたところ。それは戦いの世界でした。モーセは二つの国の真中に生まれました。 出エジプト記1:22
と、書いてありますが、これはどういうわけかと言いますと、ご存知かも知れませんが、一度に捕われの身となっているイスラエルの民は、どんどん増え広がり、非常に強力になってきました。 エジプトの王パロは、これを見て、もしイスラエル人にエジプトの国を取られたならいけないと思い、それ以上、イスラエル人が増えないように、イスラエル人の生む男の子は、生まれたら、すぐ殺されなければいけないという命令を出したのです。 モーセが生まれたのは、ちょうどそのような時でした。モーセは戦いの中に生まれ落ちたと言いましたが、まことに、モーセは戦い以上のもの、いのちの危険にさらされて生まれたのです。 モーセの母は、かごあみ、そこに生まれたばかりの幼子モーセを入れて、川の岸、葦の中に隠しました。これはモーセの母の考えたばかりではなく、主なる神が、そうさせたのです。 モーセが、かごに入れられて置かれた場所は、死の川、ナイル川の岸辺でした。しかしモーセの母は、全能なる神は死の川、ナイル川からでもモーセを救うことができると、信じていたのです。 これは実に、見事な救いの雛形ですね。すなわち、主イエス様はモーセが入れられたかごのような救いの方舟となってくださいました。全人類は、イエス様の方舟の中に入れられました。 主イエス様が十字架につき、死に給もうた時に私たちもともに死に、よみがえられた時、私たちもともによみがえらされました。 主イエス様は死の川、ナイル川から、モーセと同じように、私たちをも引き出されたのです。モーセという名の意味は、引き出された者という意味です。 モーセは、死の川から引き出され、エジプトの王、パロの娘の子とされました。私たちは、罪の力から引き出され、神の子とされました。私は救われた、私は神の子となった。主イエス様は私のものである。私はイエス様のものであると、心から喜ぶことができる身となったが、二、三週間後で、戦いがやってきました。 この世の公、パロのごとく、サタンは力を尽くして、神の子どもを主イエス様から引き離そうと努めます。そして悪魔は、往々にして成功します。 サタンにやられていながら、それに気が付かないのこそ危険です。サタンは、あたかも自分が光の天使であるかのように装ってやって来ます。そして、私たちは今、このような戦いに面と向かっています。 サタンは、おのがときにいくらもないことはよく知っています。悪魔は、神の子を霊的に成長させないようにする力は、超自然の力です。主のしもべは、その生活の始めから、絶えざる戦いの真中に立たされています。 もし悪魔が、私たちを攻撃してこないなら、私たちは主のために役に立つしもべとはなれません。第一の土台石は、戦いです。競走です。 第二の土台石は、信仰です。 ヨハネの手紙第I、5章の4節に、私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利ですと、モーセは、生まれ落ちるなり信仰によって守られました。お母さんは、信仰によってモーセを救いました。 ヘブル人への手紙11:23
どうして、王の命令を恐れなかったのかと言いますと、神を恐れたからです。 ヘブル人への手紙の11章は、よく信仰の英雄の書と言われています。しかし多くの人々は、人物に気を取られて、その人の信仰がどうであったか、信仰を深く考えません。が、しかし、ヘブル人への手紙11章で大切なのは、信仰です。 主なる神に対するまことの奉仕をするためには、信仰が一番大切です。モーセの生涯は、生まれ落ちるなり、信仰とは切り離せない生涯でした。 神の国の歴史を見ますと、実の残る奉仕をした神のしもべたちは、深い信仰の根を持っていたことがよく分かります。それらの神のしもべは、多くの問題や苦しみを持っていました。しかも、おおい切れないほどの問題を背中に背負っていました。 一つの例は、パウロであります。パウロは、コリント人への手紙第Iの1章8節、9節に、次のように書かなければならなかったのであります。 (テープ A面 → B面) コリント人への手紙第II、1:8-9
ご存知のように、パウロは決して誇張して、大げさに言ってはいません。けども彼ははっきり、私たちは非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けなければならなかった。 どうして耐えることができたのでありましょうか。彼は、あらゆる悩み、あらゆる苦しみの目的を分かったからです。すなわち、もはや自分自身を頼まず、神により頼む者となるためです、と書いてる。 モーセの両親は、信仰を持って、モーセを三か月の間隠しました。しかも聖書は、モーセの両親は、王の命令をも恐れなかったと、言っています。何がそうさせたのでしょうか。両親の信仰が、恐れを取り除いたのです。 大部分のイスラエル人は、おそらくパロの力は恐ろしい。今は従うより仕方がないと、パロを恐れて、パロに従ったでしょ。 しかし信仰は、自らをパロに従わせません。信じる者には不可能なことはないと言わせました。ほかの人々は、パロを恐れ、パロに従って、自分はそうしない。神に従おうというのに、モーセの両親は、断固とした信仰の態度を取りました。 歴史を見ると、同じようなことが見られます。神に喜ばれるまことの奉仕をした人々は、地上の生涯の間、一人ぼっちでした。死んでからのち、初めてあの人は、信仰の人であったと崇められています。 私たちの一人一人は、どうすることのできないような困難にぶつかるかもしれません。そして、「もうダメだ。望みがない。」とくじけてしまうなら、神のまことの奉仕者とはなりません。 信仰は、主の力と主の富を余すところなく自分のものとする力です。モーセの両親は、「できないことはない。主はなしたもう。」と信仰の決断をしてから、ほかの人々とは別ものとされました。ほかの人々から離れ、寂しく過ごさなければならなかったかもしれません。 信仰とは何でしょう。それは主との結びつきです。もし、主との親しい結びつきがあるなら、パロとパロの命令は、少しも恐ろしくありません。 もし私たちが、神のしもべとして、多くの苦楽による人々を、サタンの力から神の力のうちに導き出そうとするなら、何といってもこの信仰が必要です。神との結び付きが、交わりが必要です。 第一の土台石は、競走と戦いです。第二の土台石は、信仰と信頼です。 第三の土台石は、解放と自由です。神による解放です。 アブラハム、イサク、ヤコブの神の、あのヤコブは、「神よ。私を祝福してくださらないなら、あなたを離しません。私はあなたを離しません。私を祝福してくださらなければ。」と、祝福を迫り、ついに神による解放を経験した主のしもべの一人でした。 モーセの場合も同じでした。もし主なる神が、モーセを祝福し、守ってくださらなかったならば、モーセは生まれ落ちるとすぐ、パロの手で殺されていたはずです。本当に心から主に仕えようと、志す神のしもべは、望みのない行き詰った状態に、遅かれ早かれ、追い込まれる者でしょう。 主なる神に頼らなければ、どうすることもできない、といった状態に追い込まれるのです。 そのようなところに追い込まれると、私は話すことができない。あらゆるご奉仕もできない。何もかもダメだと、まったく失望してしまう人がたくさんいます。そのようなところに追い込まれると、主の御前にありのままの姿で出て、叫び求めましょう。 主はそれに応えて、解放してくださいます。その解放の経験は、回心の経験よりさらに大きく、喜ばしい経験です。解放は、神のものとなるために、必要なのではありません。が、しかし、私たちがモーセと同じように、神のしもべとなり、闇のうちにいる人々を神の光のうちに導き入れる人となるのに、解放の経験が必要なのです。 解放された者には、限りない主の満たしがともなうのです。出エジプト記の2章の10節に、彼女はその子をモーセと名づけた、彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。 モーセという名は、引き出された者という意味です。モーセは、神による救いと、解放を経験した人です。 四つのことが言えると思います。 ・第一番目は、モーセは王のもとで教育を受けるために、死の川、ナイル川から引き出されました。 ・第二番目は、成人してから、モーセは、神と荒野で親しく交わるため、この世から、パロの影響から引き出されたのであります。 ・第三番目は、イスラエルの民は、エジプトから導き出すために、荒野の孤独から引き出されました。 ・そして最後に、四番目になりますが、モーセは神の栄光を拝し、親しい交わりに入るために、イスラエル人の間の宗教的な煩わしさから引き出され、シナイの山に連れ出された という、四つのことが言えると思うんですね。 モーセは、引き出された神のしもべでした。私たちも、まことの神のしもべとなるためには、モーセと同じように引き出され、解放されなければいけないのであります。それがために、ヤコブのように、「私を祝福してくださらないなら、あなたを離しません。」と、私たちも神に迫りたいものです。 まことの神のしもべとなるために、六つの土台石が必要です。 第一番目は、競走と戦い。第二番目は、信仰と信頼。第三番目は、解放と自由。 そして第四番目は、主の支配です。 ヨハネの黙示録の2章の13節に、引き上げられた主は、自分に属する者たちに対して、次のように言われたのです。 ヨハネの黙示録2:13
わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。聖書でエジプトと言えば、これはこの世を表わしています。この世は、悪魔の力のもとにある世界です。神から離れてる世界です。 モーセはこのエジプトで生まれ、エジプトで教育を受け、エジプトの環境で生活しました。しかし、いったいだれがモーセをエジプトに導き給うたでしょうか。神ご自身です。 パロのもと、サタンの影響の下に導かれるとは、何という導きでしょう。四十年間、神はエジプトにモーセを留め置いて、訓練しました。そこでモーセは色々な苦しみを通らせられました。それは、まことの神のしもべとなるための、尊い訓練だったのです。 もし、エジプトにおける訓練がモーセに無かったなら、モーセは決して、神に用いられるしもべとはならなかったでしょう。主なる神は、私たちにも、「わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」と、言っておられます。 全世界は悪魔の王座です。ですから私たちがどんなに暗い所を通らされても、不思議ありません。私たちは、サタンの王座のある所に住んでるのですから。 しかし、忘れてはいけないのは、そのような所に導き給もうたのは神である。永遠の愛をもって、私たちを愛しておられる全能の神であるということです。サタンの座の上に光り輝く神の座があるのです。 いったいどうして主なる神は、訳の分からない所を、暗い所を、通らせるのでありましょうか。それは私たちが、悪魔の支配に落ちてる人々を、神の光の中に、導き入れることのできる主イエス様の、満たしにあずかった神のしもべとなるためなんです。 わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座があるとありますが、しかしこれは、尊い主の学校です。主なる神は、私たちが示されてる使命にかなう者となることを望んでおられます。 私たちが救われた恵みに留まらず、キリストの満たしに至ることを、主は心から願っておられます。 神のしもべとなるための土台石は、競走であり、信仰であり、解放であり、主の支配であります。また五番目には、私たちがまったく世の人と違った一種のものとなることです。 ヨハネの福音書17章の16節に、主イエス様は、祈りの中で次のように述べたのであります。 ヨハネの福音書17:16
と。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。愛するみなさん。これは動かすことのできない事実に対する主イエス様の証しです。 モーセは心の中で、自ら自分はほかの者と違うことを確信していました。ほかのエジプト人とまったく異種の者であることを自覚していました。 自分は、エジプト人とともに生活をしていますが、しかしエジプト人と同じではありません。もし私たちがこの世の人々を、主なる神に導く者となりたければ、自分はこの世とはまったく違った者であることを自覚しなければいけません。 もし、少しでもこの世と妥協するところがあるなら、神はその人を用いたがらないでしょう。 この世との異種性は、いつも現われます。この世の人々は、違った種類の人間であり、私たちにつまずきます。感情を害することもあります。。 わたしがこの世の者でないように、彼らもこの世のものではありません。 真理であられる主イエス様は、こう仰っています。これは自分で世の人と違った者になろうと思ってなれるものではありません。主イエス様の御姿に変えられて、初めて、本質的に、世のものと違うものになることができるのです。 主イエス様は、この世に生きておられたとき、ほかの人間にはみられない友情とあわれみに富んだお方でした。しかし、ほかの人間と本質的に違ったお方でした。わたしは世のものではないと言っておられるとおりです。 主イエス様は、自分は彼らと違う。いつもこの自覚をもっておられました。これはイエス様のご奉仕の力の源でもあったのです。この内面的な相違こそ、神のしもべの生涯の力の秘密なんです。 この内面的な相違は、モーセの心にイスラエルの民をエジプトから導き出したいという、強い願いを起こさせました。もし私たちも、この世の人々を、自分が本質的に違うということを深く知るならば、何とかしてこの世の人々を神の国に導きたいという、深い願いを持つようになるでしょう。 パウロもモーセと同じく、自分は、周りの者と本質的に違うということを自覚していました。 使徒の働き26章の29節に、パウロは次のように告白したのであります。パウロはこう答えたんですね。 使徒の働き26:29
自分は違う。けども、みんなは私のようになってもらいたいと、パウロは心から願って、そのために祈ったのです。 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。この力の秘密を深く知りたいものです。 最後の土台石は、おのれを捨てることです。 マルコの福音書8:34
と。先ほど私たちは、世の人とまったく本質的に違うものであることを述べたんですが、そこには、常に妥協の試みが伴っています。しかしもし、私たちが神のしもべとして生きたいのならば、はっきりとした立場を取る必要があります。 それは、おのれを捨てて、神に従うことです。モーセはいったい、どのような態度を取ったのでしょうか。 ヘブル人への手紙11:25
彼はよく考えて、自覚して、そして選んだんです。何を選んだかといいますと、苦しむことを選び取りましたと、書いてあります。 どうしてでしょうか。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。ただ思っただけではなく、確信したんです。 彼は報いとして、与えられるものから、目を離さなかったのです。報いはもちろん、物ではありません。主イエス様ご自身です。彼はイエス様から、目を離さなかったから、この選択をすることができたんですね。苦しむことを選んだんです。 もしモーセが妥協するなら、モーセには、すばらしく高い地位と名誉が与えられたはずです。モーセはエジプトの皇太子でした。もし妥協したならば、当時、世界最大の文化を誇っていたエジプトの富は、全部モーセの懐に転がり込んできたはずです。しかしモーセは、自らを捨て、自らを否定いたしました。 変貌山に現われたことからして、モーセはおそらく、旧約時代の最高の人物であったと想像できます。 申命記34:10
と書いてあります。 モーセは、一族の宝を捨てたかいがあったでしょうか。決してそうではありません。救われるためにおのれを捨てる必要はないんです。しかし、神のしもべとして用いられるには、おのれを捨てることが大切です。 しかも、そのためには最愛のものさえ、ささげなければなりません。贖いが必要です。神のしもべとして、おのれを捨てることより、以上のことをする必要はありません。 しかし、それ以下であっても断じていけません。おのれを捨て、主に従いましょう。 |