引用聖句:エペソ人への手紙4章1節
そして、 エペソ人への手紙1:18-19
とあります。また、 テサロニケ人への手紙第II、1:11-12
また、 ペテロの手紙第II、1:10-11
と、書いてあります。今日、前二回に引き続き、わがしもべモーセという題でモーセの生涯を学んでみたいと思います。 モーセは、上からの光によりエジプトを去り、心のエジプトから開放され、荒野で四十年教育されてから、神はご自身のご奉仕にモーセを召し給いました。このモーセの召しの体験は、まったく個人的な体験でした。 主なる神は、モーセに親しく個人的に、お会いになったのです。 私たちも失われゆくたましい、たましいに対する深い同情をもっているから、ご奉仕するだけでなく、まことの召しは人間の同情心から起こるものではなく、主なる神が個人的に、その人にお会いになって、召し給もうたとき、その人は初めて神に召された人となるのです。 主はモーセのために、モーセを召したのではありません。神はご自身の民を解放するために、用いる道具としてモーセを召し給もうたのです。主が召し給もうなら、それは主の道具として召し給もうのです。 ところで、道具とはどういうものでしょうか。ギデオンは、主の道具でした。士師記6章の34節に次のように書いてあります。 士師記6:34
と書いてありますが、原語では、主の霊がギデオンを着たという意味になっています。すなわち主の霊がギデオンの中に満ち満ち、ギデオンはただ主の霊を包む着物のような者となった、という意味です。 まことの主のしもべは、ギデオンと同じように、聖霊を包む着物のようなものです。それに比べると私たちは、何とかけ離れたところにいることでしょう。 道具は、そこにあるだけでは役に立ちません。用いられなければ何の役にも立ちません。モーセは、あのホレブの山で燃える柴を、神の火を見て召し出されました。ここでいう神の火は、聖霊を意味しています。 主によって、聖霊によって召し出された主のしもべは、ギデオンがそうであったように、聖霊の着物にすぎず、また聖霊を満たす器にすぎません。ですから神のしもべは、聖霊に満たされていなければ何の役にも立たない着物や器にすぎないのです。 ギデオンやモーセのように、私たちも、主の霊により満たしに満たされた器となりたいものです。 ガラテヤ人への手紙3:27
あなたがたはキリストを着たのですと書いてあります。モーセは、神の炎により召されましたが、今日は、神の炎による召しについて学んでいきましょう。 モーセが召された召しの背後には、二つの見逃すことのできない理由がありました。その一つは、イスラエルの民がうめき、叫び、悩み、その苦しみが神の耳に届いたということです。 二番目は、神が昔、アブラハムに約束された契約が成就されねばならないという理由があったのです。 モーセは、召されたときはエジプトで教育を受け、言葉にもわざにも、力のあったあの偉大なモーセではありませんでした。モーセは、神の霊によって召されたときは、ただの羊飼いでした。 主なる神は、偉大な人や、自分で何かできると思っているような人を、召し給いませんでした。荒野に生えてる目立たない柴のような、へりくだった人を召し給いました。目立たない荒野の柴は、ホレブの山の上で神の火によって、盛んに燃やされました。荒野の柴のようなへりくだった目立たない羊飼いモーセは、神の火によって燃やされました。 モーセが神の火によって召し出されたとき、もうすでに彼の全生涯の三分の二、八十年が過ぎ去っていました。モーセは、八十年はまったく無駄であったと考えていたかもしれません。 しかし、主なる神の目からは無駄がありません。モーセがそれまでに過ごした八十年は、何のために必要だったのでしょうか。モーセが空っぽの器となるために必要だったのです。 燃える柴は、モーセは神に見捨てられなかった、というしるしです。神は柴の中からモーセを呼んで、「モーセよ。モーセよ。」と、親しく個人的にモーセに呼びかけ、モーセを今まで見放しにしておられなかったことを明らかにされました。 出エジプト記3:14
とありますが、主はモーセに、「あってある者。」というご自身の姿をお示しになりました。モーセが神に出会って、この日は普通の日でした。羊の群れをその日も荒野の奥に導いて、神の山ホレブに来たところが、神の召しがそこに待っていたのです。 これでも分かるように、神の召しは人の努力では与えられません。一方的に神のなさるわざです。モーセが出会った神の炎は、いったいどういう炎であったのでありましょうか。 六つのことが言えると思います。 ・第一番目は、モーセが出会った神の炎は、生きている炎でした。 ・第二番目は、神によって点けられた炎でした。 ・第三番目は、盛んに燃え上がる炎でした。 ・第四番目には、燃え尽きない炎でした。 ・第五番目には、聖なる炎でした。 ・そして第六番目は、預言の炎だったのであります。 モーセが出会った神の炎は、どういうものだったでしょうか。第一番目は、生きている炎でした。 モーセが柴を見ておりますと、柴は火に燃えているのに、その柴は無くなりませんでした。盛んに燃え続けていました。これは神の本質を現わしています。「わたしは、わたしはある。」、永遠から永遠に、変わりなく生き給もう神が燃える柴に現われたのです。 もし私たちがモーセと同じように、生きている炎によって召しだされた者なら、私たちの証しも永遠に生きて、留まる証しとなるはずです。 もし神の霊によって、私たちが生かされてるなら、人々は私たちのところに引き寄せられ、私たちのうちに生ける神を見るでしょう。これに対してもし人々が、私たちのところに来て、すぐに失望してしまうなら、私たちのうちに神の霊が盛んに生きていないのであり、私たちはギデオンや、モーセのような神のしもべたりえないのです。 パブテスマのヨハネは、やはり神のしもべでした。ヨハネは自らを、「自分は荒野で呼ばわる行為である。」と言いました。彼は、自らを人に現わそうとしませんでした。ただの行為でした。神の行為でした。 ヨハネが叫んだとき、多くの人々は神のみもとに立ち返っていたではありませんか。 もし私たちも、神のしもべとなりたいなら、ただの行為にならなければいけません。まことの神のしもべは、いつも生き給もう神に仕えるという特権を喜んでご奉仕しています。 モーセが出会った神の炎は、どういう炎だったでしょうか。第一番目は生きている炎でした。第二番目は、神によって火を点けられた炎でした。 神の山、ホレブに燃え盛った柴の火は、人間が点けたのではありません。神自ら点けられた火でした。 旧約聖書の神の住まいである幕屋に灯された神の火も、人間が点けたのではありませんでした。神が上から下した火でした。私たちキリスト者は聖霊の宮です。 私たちも上から火を灯されなければいけません。主イエス様は、私は地上に火を投ずるために来たと仰せになりました。しかし、主イエス様は地上に火を投ずる前に、まず自ら死を通らなければいけませんでした。 モーセも、神の火により召し出される前に、荒野で四十年間死の訓練を受けました。 そしてモーセのこの火の体験は、続くご奉仕の源となったのです。私たちのご奉仕の源は、どこにあるでしょうか。私たちは、神によって火を点けられた器でしょうか。 詩篇104:4
と、書いてあります。主なる神のまことのしもべは、聖霊によって火を点けられた人です。 アロンの二人の息子は、主の前に火を焚いて、殺されてしまいました。同じように私たちも、生まれながらの性質をもち、生まれながらの賜物を用い、自分の力でご奉仕をしようとするなら、結果は永遠に残る実が残らないことになります。 私たちの奉仕は、いっつも聖霊に導かれ、聖霊の満たしのうちに行なわれるようになりたいものです。 モーセが出会った神の炎は、どういう炎だったでしょうか。第一番目は、生きている炎でした。第二番目は、神によって火を点けられた炎でした。 そして第三番目は、盛んに燃え上がる炎です。 モーセの見た柴の炎は、盛んに燃え上がってる炎でした。柴はみな、燃え盛っていました。まったく失望し、自らのうちに何の良きもののないことを見いだし、空っぽになり、裸になったモーセに、神は盛んに燃える炎のうちに現われ給いました。 私たちの全生涯も、盛んに燃えて尽きない炎となりたいものです。そうなるためにはまず、燃える炎のうちに、自らを現わし給もう神にお会いしなければなりません。まことの神のしもべは、この燃え盛る炎がどうしても必要です。悪魔は、そのようなことは起こらないと惑わします。 神の山、ホレブの柴は盛んに燃えましたが、そのとき、神の御心も、神の民イスラエルの救いのために燃え盛っていたのです。主なる神は、ほかの民も御心に留めておらりれましたが、特にイスラエルの民を祝福しようとして、切ないまでの気持ちをもっておられたのです。 ヨシュアは、イスラエルの民のためなら、神が太陽の運行もお留めになると経験しました。燃えて輝く炎は、神が聖霊をもって、私たちをまったく満たしたいということを表わしています。 あなたは、全世界に一人しかいない人のように、主なる神は心をあなたに集中して、愛しておられるのです。 モーセが出会った神の炎は、どういう炎だったでしょうか。第四番目には、燃えて尽きない炎でした。 この燃えて尽きない炎は、私たちに何を教えてるのでしょうか。この炎は、私たちの神が望みの神であることを物語っているのです。モーセの生きていた五百年前に、神はすでにアブラハムにカナンの地を与えるという契約を結んでおられました。 それから五百年経った今、神はモーセを用いて、この契約を実現しようとしておられます。 エジプトの王宮にいたモーセは、それを知りました。しかしモーセは、この神の大信用を成し遂げるために、四十年の間待たなければなりませんでした。 その神モーセは、疑いもし、失望もしたことでした。しかし今、モーセは神の山ホレブで、燃えて尽きない神の火を目の当たりに見て、わが神は望みの神であるということを新しく知ったのでした。 モーセの時代には、神はご自身の民、イスラエルの民に御心の全部を傾けておられましたが、今は違います。主なる神は今、全世界のあらゆる国民から救われて、神につく人々を選び出し、それらの人々に御心の全部を傾けておられます。 そして、神は最後のご目的として、これらの選民によって全宇宙が支配されることを望んでおられます。これらの選民の当主、ご自身の栄光を全宇宙に現わしたいのです。神はこのご目的を決して、捨てることをなさいません。必ず達成させます。 モーセを召し出されたときに、燃えて尽きなかった炎のように、主のご目的は諦めることを知らず、望みに燃えてこの目的に進んでいるです。主なる神は、ご自身のご目的を成し遂げないではおられません。何があっても、燃えて尽きない炎のように、ご目的を最後まで成就されます。 私たちは主に召されました。ですから神は、私たちを悔いることを決していたしません。 ローマ人への手紙11:29
と書いてます。神の賜物と召しとは、変えられることがないとありますね。主は私たちの状態を、みなご承知のうえで、召してくださいました。ですから、私たちがどんなに足りない者であっても、神はこれを後悔することはいたしません。 主は私たちのうちに始められたわざは、だれによっても、また何者によっても、妨げられることはありません。 イザヤ書62章の10節から12節までに、次のように書いてあります。 イザヤ書62:10-12
とあります。これは主の変えられることのない選びの民に対する約束です。 モーセが出会った神の炎は、生きてる炎でした。神によって火を点けられた炎でした。盛んに燃え上がる炎でした。燃えて尽きない炎でした。 神の火は、決して消えることがありません。しかし人間の点けた炎はすぐに消えてしまいます。なぜ人の火は、神の火と違ってすぐに消えてしまうのでしょうか。その理由の一つは、敵である悪魔が食い尽くすべきものを求めて歩き回っているからです。 火を消そうとして、歩き回っているからです。 モーセの生まれる前に、サタンは何とかしてモーセを食い尽くそうと思って、政治的にまた、社会的にモーセを抹殺の契約を立てていました。 悪魔は、モーセが神のしもべとなり、神の御手に握られた道具となることを前もってよく知っていたから、そうしたのです。しかし、全能なる神は、モーセを豊かにお守りになりました。最大の敵であったエジプトの王パロの娘をさえ、神は用いてモーセを守り給もうたではありませんか。 モーセが生まれ落ちたときに、悪魔は吠え猛る獅子のように、モーセを攻撃してきました。しかし、神はモーセをお守りになったのです。その次に今度は悪魔は、吠え猛る獅子のようではなく、光の御使いに似たような姿をもって、モーセを攻撃してきました。 光の使いのような姿をとってモーセの中に入り込み、モーセのうちに燃える火を消そうとしました。 モーセはすさんだ、貧しい生活をしていませんでした。何でもできる。すべてのものが自分のものとなる。エジプトの王子としての生活をしていたのでした。悪魔は、そこにつけ込んで来ました。 第一の攻撃により、この攻撃の方がどんなに恐ろしかったか知りません。エジプトとエジプトの宝をモーセの目の前に差し出し、誘惑し、モーセの心の火を消そうとしました。 サタンは今、私たちをそのようにして攻撃してるかもしれません。よく心の目を開く。サタンの誘惑に陥らないようにしていなければ、私たちの火はすぐに消えてしまうでしょう。 火が消えてしまう二番目の理由は、希望を失ってしまうせいです。 モーセは、四十年間待たねばなりませんでした。この、長い間待たねばならない時間は、モーセにとって色々な影響を与えました。日が過ぎ、年は去り、以前約束し給もうた神の約束はだんだん、遠くなっていってしまいます。 まだ神の約束の状況を見ることができません。この間モーセは焦りました。もし神がやらなければ、自分がやると言って、エジプト人を殺してしまいました。モーセが自らやったことは、失敗に終わりました。 モーセは神の目的を知っていましたが、待つ時期がありました。しかし忍耐し切れずに自ら行なって、失敗を招き、希望を失いそうになってしまいました。 私たちも、神の目的を心のうちに深く知りながら、なかなかそこに到達できないことがあるかもしれません。そのようなとき、焦って、望みを失ってしまう危険があるわけです。 火が消えてしまう理由は、扇ぎまわってる悪魔。二番目は希望を失うわけ。 第三番目は、絶えず誤解され続けることです。 モーセは、パロの娘の子と呼ばれることを嫌い、将来に約束されていたエジプトの多くの宝をきれいに捨て去り、神の民のために尽くす決心をいたしました。 そしてモーセは敢然と立ち上がり、神の民の敵エジプト人を殺しました。しかしそのとき、自分の兄弟、イスラエル人はモーセを理解してくれませんでした。 モーセは自らのいのちを気遣って、エジプトを離れ、ミデアンの地に逃げなければなりませんでした。モーセは辛かったと思います。 神が自分を召して、イスラエルの民の解放者としてくださった。だから自分は今、エジプト人を打った。しかし民は自分を理解してくれず、いのちを気遣って自分は遠くへ逃げなければいけない。モーセは矛盾に苦しんだことと思います。 しかし、そのあとのモーセはどうだったでしょう。イスラエルの民を率いてエジプトを出、荒野の四十年間さまよったとき、モーセはやはり誤解され続けでした。 モーセが率いていたイスラエルの民は、神の民であり、信者でした。しかもこの民は、モーセを理解せず、モーセを攻撃し、批判し、モーセに逆らい続けました。 モーセの心のうちに燃えている火は、風前の灯のように消されそうにならないはずがありません。モーセはそのようなとき、いつも神の山、ホレブで目の当たり見た燃えて尽きない神の炎を思い浮かべて、裏切ることのない、極みまでご真実な神におすがりし、常に光を受けて立ち上がったのでした。 私たちもどんなことがあっても、真実な主におすがりしていきたいものです。 燃える神の炎は、モーセがそれを見たとき、モーセの心のうちにも灯されました。モーセが神にお会いしたとき、親しく神を拝しました。ですから、神のご性質がモーセの中に注ぎ込まれました。 モーセは、神が燃えて尽きさる柴の中から「われはありてある者なり」、わたしは「わたしはある」という者であると語られて以来、モーセの心に燃えて尽きざる炎が灯されました。 この燃えて尽きざる炎は、モーセをまったく解放しました。そしてこのモーセにより、すなわち、燃える火を心の中に宿してるモーセにより、イスラエルの民はエジプトから導き出されたのでした。 モーセが神の山、ホレブで見た炎は、第五番目に聖なる炎でした。 この炎は、普通の炎とは違っていました。この炎は、神の聖い臨在を示す炎でした。炎は燃えていましたが、燃え尽きませんでした。この炎は、役に立たないものを燃やし尽くし、役に立つものを成長させる炎でした。 もし主が臨在し給もうなら、主は私たちの不義、不法を焼き尽くし、主の御心にかなう者を芽生えさせてくださるはずです。 ヘブル人への手紙12:29
とあります。モーセが炎を見定めようとして、それに近づきました。すると神はモーセに、「ここに近づいてはいけない。」と言われたのです。なぜでしょう。主なる神は、モーセの本来のあり方を教えようとされたのです。 次に、「足から靴を脱ぎなさい。」と言われましたが、これは自らの計画や、自らの思いを捨てて、ただ神にのみ頼りなさいという意味です。伝説によりますと、モーセはエジプト軍の長官であったということです。従ってモーセには、人々を指揮し、指図する癖がついていました。 しかしそのようなものを捨て、すべて主にゆだね、主に信頼しなさいと、神はここで教えたのです。燃えて尽きない炎は、どこまでも臨在し、耐え忍ぶ神の性質を示しています。これはモーセにはなかった性質でした。 モーセは、神に召し出されて、まことのご奉仕のあたる前に、まず自らの靴を脱がなければなりませんでした。すなわち、自らをまったく捨て去らなければなりませんでした。 私たちの場合も同じです。主の御顔を親しく拝するには、まず自らの靴を脱ぎ、おのれをまったく捨てなければいけません。それは神の順序です。 それはもちろん、十字架にきて救われる意味ではありません。救われたのち、主の十字架を負い、主の御足跡を辿ることを意味しています。 モーセが神の山、ホレブで見た炎は、最後に六番になりますけども、預言の炎でした。モーセの時代に一番大切なのは、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導き出すことでした。 このためにモーセは、燃える炎によって召し出されたのですが、この炎は、未来の時代に起こることを預言していました。モーセは、前にも一緒に学んだように、主イエス様の雛形です。 イエス様は預言の炎によって預言されたように、それからしばらくののち、全人類を救いに導くためにおいでになりました。 救われている私たちも、主とともに多くの人々を主のもとに導き、それらの人々をキリストの満たしにまで、至らせるために働く者です。 出エジプト記3:12
出エジプト記19:18
出エジプト記24:17
とあります。この三箇所を見ると分かりますが、すなわちモーセが召されたときには、燃える柴がありました。しかしそのあと、モーセは燃える山に出会わしました。 これもまた、私たちに対して約束を意味しています。燃える柴の経験をした者は、続いてほかの人々を同じ経験に導くことができます。燃える柴を経験したモーセに導かれたイスラエルの民、みんな燃えるシナイ山を目の当たり見るというすばらしい経験をしました。 私たちは、自分で経験しないことを、人に伝えることはできません。どんなにお話しても、それが自らの体験でなければ、人々に生きて働きません。もし私たちがモーセの如く、主のしもべとして奉仕したいならば、モーセと同じ体験が必要です。 モーセは燃える炎を見たとき、モーセ自身も炎によって変わりました。私たちも主のために奉仕する燃える炎となってるでしょうか。 主なる神は、頭のいい人、色々できる人を求めてはいません。どんなに貧しい、荒野の柴のような者でもいい、その柴をご自分の火によって燃やし、用いたいのです。 モーセは神のしもべでした。神は今日もしもべを求めておられます。 私たちは聖霊の火によって、神のしもべとなることができます。ギデオンは、うちに聖霊を宿し、聖霊を包んでいる着物のようなものでした。 アブラハムには一人の忠実なしもべ、エリエゼルがありました。エリエザルはある日、主人アブラハムの息子、イサクの花嫁を捜しに荷を負わされて遠くへ旅立ちました。 しもべの使命は、イサクの花嫁を見つけ出すだけではなく、花嫁をイサクのもとに連れて来て、イサクのものとさせる使命でした。 神のしもべの使命は、失われゆく人々を導いて、救いに入れることだけではありません。花嫁を見つけ出すことだけではありません。救われた信者をキリストの花嫁とし、まったくキリストと一つにさせることも主のしもべとしての大切な務めです。 もし私たちが、聖霊により火を点けられ、私たち自身が生きてる炎となるなら、まことの神のしもべです。 アブラハムは、ただ一人のしもべをもって用に立てました。それと同じように、今日主なる神はただ一人の忠実なしもべ、すなわち聖霊をお持ちになっておられます。この聖霊により、目立たない荒野の柴は、盛んに燃えて尽きない炎と飾られました。 主の御心は、荒野の柴のような私たちが、神の火を、ご聖霊を持ち運ぶ者となることです。もし私たちがそうなったら、柴の裏から神の御声を聞くことができます。そのとき柴はほとんど目に入らず、神だけが、外に現われます。 モーセにとってなかなかできなかったのは、自分がとりえの無い、普通の荒野の柴であるということを素直に認めることでした。モーセは何か優れた、特別な柴でありたかったんです。モーセは四十年かかって、自らの真相をわきまえ、知ることができたのです。 主なる神は、特別にきわだった柴を求めておられません。きわめて普通の柴を求めておられます。主なる神は、自らを、「ありてある者。」と仰せになりました。 この、「ありてある者。」は、まったく無きに等しい者の中に宿り給もうて、自らを現わしたいのです。 私たちも神のしもべ、モーセのように、普通の荒野の柴になりたいものです。バプテスマのヨハネと同じように、彼は必ず栄え、私は必ず劣ろうという心を、主の前に絶えず持ち続けたいのです。 |