今日は、出エジプト記第3章1節から7節までを少し学びたいと思います。この前は、如何にしてモーセが召し出され、聖霊をうちに宿して、神に用いられる器になったかを学びました。また、召しについて三つのことを考えたのです。 ・第一番目は、召しの条件。 ・第二番目は、召しの方法。 ・そして第三番目は、召しの理由でした。 召しの条件はどういうものだったのでありましょうか。いったい、いつ主なる神はモーセを召されたのでありましょうか。モーセがまったく失望し、まったく空の器になり、完全に明け渡したときに、主はモーセを召されました。 召しの方法はどういうものだったのでありましょうか。どのようにして、主なる神はモーセにお会いになったのでありましょうか。生きたご自身が火を点じた、盛んに燃え上がる、消えることのない聖なる預言的な炎によって、主はモーセにお会いになりました。 そして三番目は、召しの理由はいったいどういうものだったのでありましょうか。なぜ主なる神は、モーセにご自身を現わされたのでありましょうか。 神は、ご自身がいかなる方であるかと、モーセに示したかっただけではありません。主は、モーセにご自身のいのちを分け与えたかったのです。そしてモーセを道具として、イスラエルの民の救いのために用いたかったのです。そのために主なる神はモーセに現われ給いました。 この前、主の霊が燃える炎となって、当たり前の、何のとりえのない荒野の柴に燃え移り、盛んに燃えたことは話しましたがいったい、この柴は何であるかについては話しませんでした。 私たちは神の山、ホレブの荒野の柴のように神の火に燃やされ、その火が消える。ご聖霊さまがうちに宿り、いつも御霊の火によって燃やされ、御霊を包む着物のようにならなければ、まことの神のしもべとなることはできません。 ところで、あの燃えて消えなかった柴は、だれだったのでしょうか。それは、主イエス様でした。モーセは、主イエス様を表わすところのあの柴を見、イエス様と交わりを持ちましたから召し出されたのです。 主なる神がご自身を現わされるときには、いつも御子イエス様を通してなさいます。クリスマスは、神が肉体をもって現われた日を記念する日ですが、神はこのときもイエス様を通してご自身を現わしておられました。 また主なる神は、人間を救うにも、御子によって救われました。 コリント人への手紙第II、5:19
と書いてあります。神は、キリストにおいて、世をご自分に和解させた。同じように主なる神は、モーセに現われたとき、イエス様を通して現われました。そして神はモーセにご自身を現わすだけでなく、ご自身のいのちをモーセの中に注ぎたいと思って現われたのでした。 あの偉大な神は、モーセのような者の中に住みたいと心から望んでおられたのです。 モーセが神によって召されたのち、モーセの心には、神の火が灯されていました。聖霊がモーセの心の中で燃えていました。そのとき、神はモーセを用いて、イスラエルの民を救い出されたのです。 主なる神のご目的は、イスラエルの民をエジプトから導き出すことだけではありませんでした。主なる神は、イスラエルの民を通してご自分を、外に現わしたかったんです。 後に民たちに造った、あの幕屋に神の栄光が満ち満ちていたと書いてありますように、幕屋は神の栄光に包まれました。主なる神は、イスラエルの民を通してご自身を現わされました。 同じように、聖霊の時代である今の時代においても、主なる神は人々を救うだけでなく、救われた人々の作っている家庭、主のからだなる教会を通して、ご自身の栄光を現わそうとしておられるのです。 かつて、モーセの時代のイスラエルの民の敵たちが、幕屋を見て、神の栄光を見て恐れたように、今の時代にも私たち、神の民を世人が見て、恐れおののかねばならないはずです。 ところで神は、どのようにしてイスラエルの民を救い出されたのでありましょうか。まず、神がひとりの人のところへやって来て、その人のうちに宿り、その人を通して民を救い出されたのです。 取るに足りない小さな人間の中に宿り給もうた、偉大な神だけが人を救いえるのです。 主イエス様は、当たり前の、見栄えの無い柴のようなお方でした。しかしそのうちには、神が宿っておられました。主イエス様は、見たところ普通の人間と少しも変わっていませんでした。しかし、その中に神の炎が燃えていました。ですから人々を救いに導くことができたのです。 モーセは召される前、もう少し品のよい柴でした。自らよしとする柴でした。そのときも、モーセは火を持っていました。燃えていました。しかしその火は、エジプト人を殺してしまいました。 神によって点けられた火でないこの火は、実に悲惨な結果をもたらしてしまいました。 しかし後に、上から神によって火を点けられたモーセは、イスラエルの民をエジプトから救い出すことができたばかりではない、つぶやき逆らうイスラエルの民と四十年の間、荒野の旅する忍耐がありました。 モーセのうちに住み給もう神は、イスラエルの民を救いました。主イエス様のうちに住み給もう神は、全人類を贖い出されました。ペテロのうちに住み給もう神は、一日に三千人の人を救い出されたのであります。 空の器があり、そこに神の霊が満たされるとき、そこではいつも人々が救い出されていきます。 コリント人への手紙第II、4:7
と書いてあります。私たちは、この宝を土の器の中に持っていると書いてありますが、私たちは、主の栄光、燃えて尽きない炎、ご聖霊さまを土の器の中に持っているのです。 その測り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが現われるためですと。 主なる神が私たちを召し出される条件は、まず私たちが土の器、役に立たない空っぽの器となることであり、次に自らの火をもたないことです。 モーセは、私は語ることができないと、自分の無力さを神に訴えています。このように神の条件を満たしたときに初めて、測り知れない神の力が臨んでまいります。そして、そのとき初めて私たちは、パウロと同じように、私たちはこの宝をもっていると言うことができるのです。 モーセは数年の間、神を望み見、神の御心を行なおうと努力し、神のためのことを気遣い、救おうといたしましたが、みな自分の力で行ないました。しかし今や、モーセは突然、神を見、うちに神を宿し、今度はモーセではなく、モーセのうちに住み給もう神が働き始めました。 モーセはもう自分の力で、自分の努力で、主に仕えることをしなくなりました。その結果、モーセは、神がすべてのことを御手のうちにおさめて、執り行なってくださることを身をもって体験しました。 今や、主がすべてを行なってくださいます。モーセに残された使命といえば、ただ主に従順に従っていくということだけです。 これからしばらく、燃えさかる柴によってモーセに現われ、モーセを召された主について学んでみましょう。出エジプト記の3箇所をお読みしたいと思います。 出エジプト記3:6
出エジプト記3:15
出エジプト記4:5
と書いてあります。アブラハムの神である、全能の主。すなわちアブラハムの神は、全能の神です。 二番目に、イサクの神である、よみがえりの主。すなわちイサクの神は、よみがえりの神です。 そして三番目に、ヤコブの神である、聖めの主。すなわちヤコブの神は、聖めの神です。 この三つの点に分けて少しだけ考えてたいと思います。 第一番目は、アブラハムの神は、全能の神です。アブラハムの生涯を学んでいきますと、神が全能なるお方であることがよくわかります。主なる神が全能であることが現われる。それは栄光です。 主なる神は、アブラハムの生涯を通して、ご自身が全能なるお方であることをはっきりと示されました。アブラハムは、ですから神の栄光を拝しました。 使徒の働き7:2
と書いてあります。栄光の神がアブラハムに現われた。全能なる神が御手を差し伸ばし、アブラハムの上に置き給い、行くべき道を、神の御心を示されたのです。 このアブラハムの神がモーセに現われました。神はモーセを通して働きたかったんです。あなたがたはわたしを選んだのではなく、わたしはあなたがたを選んだのですと、イエス様はかつての弟子たちに言われたのであります。 自ら神を選んだのではない。全能なる神によって選び出されたという確信をもつ人は幸いです。全能なる神が人と一つになって、結び付いています。アブラハムの神と、自らの名前の肩書きにアブラハムをつけています。この結び付きと交わりの秘密は何でしょうか。 聖書は度々、アブラハムは神を信じたと言ってます。 ローマ人への手紙4:3
ガラテヤ人への手紙3:6
とあります。救いに至る信仰は、私たちと神を結ぶ帯です。私たちは信仰によって、全能なる神と結び付くことができるのです。もし私たちが、全能なる神と結び付いてるなら、神の全能なることは、私たちの生活を通して外に現われていくはずです。 アブラハムの生涯を通して、それは明らかになったのです。 ヘブル人への手紙11:8
と、書いてあります。また、 ヘブル人への手紙11:17
とあります。信ずる者の生活を通して、主の栄光が現われていくはずです。われはアブラハムの神、全能なる神である。 神はアブラハムと堅い交わりをもっていました。ですから神はアブラハムに、 創世記18:17
と言われました。またアブラハムは、また神はアブラハムを、友と呼んでおられたのです。 イザヤ書41:8
ここでわたしの友、アブラハムと書いてあります。そしてヤコブの手紙の2章23節にも、同じことが書き記されています。すなわち、 ヤコブの手紙2:23
アブラハムは神の友と呼ばれました。そして、 歴代誌第II、20:7
と、あります。ここでも、あなたの友アブラハムと書いてあります。主なる神は、友なるアブラハムに、ご自身のご計画を全部告げられました。主イエス様がどのようになさるかも、アブラハムは神に教えられ、知っていました。 ヨハネの福音書8:56
こういうふうに、主イエス様はアブラハムについて証ししたのです。アブラハムはわたしの日を見た。アブラハムはわたしの日を見て喜んだと、大いに喜んだと書いてあります。 このアブラハムの神が、同じ神がモーセに現われました。モーセはアブラハムを友と呼んだ神が、自分にも現われ、わが友モーセ、わがしもべモーセと言われるのを知ったのでした。 モーセは、この神との親しい交わりが、自分にとってはどうしても必要なものであることを深く知りました。全能なる神、アブラハムの神が、三つの点をもってモーセに現われたことをモーセは知りました。 ・その一つは、アブラハムの神は、全能の力をもって自分を救い出されたということ。 ・二つ目は、主なる神はその力をもって自分を選び出されたということ。 ・三番目に、アブラハムの神はまったく準備を自分のためになしてくださるということ。 この三つをモーセは知ったのです。モーセは荒野の四十年の訓練において、自らの真相を教えられました。失敗も自らよく知っており、本当に虚しくなっていましたので、神の山ホレブで神の火を見たとき、それは失望のモーセに希望の火を灯したのです。 このとき以来、モーセはアブラハムと同じように、なすあたわざることなく、全能なる神との親しい交わりがほしいと、思い続けるようになりました。とともに、モーセはそのとき、今、自分に現われ給もうた神は、アブラハムの神であるばかりでなく、自分の神でもあることを深く知ったのでした。 私たちも同じように、神はアブラハム、モーセの神であるばかりでなく、われわれの神でもあることを深く知りたいものです。 続いて第二番目に、わたしはイサクの神であると、神は仰せになっています。イサクの神は、よみがえりの神です。私たちは、アブラハムの神が全能の神であることを知りましたが、その神はイサクをよみがえらせた、よみがえりの神でもあることを学んでみましょう。 イサクの誕生は、よみがえりの神のなし給もうた奇蹟でした。よみがえりの神は、すでに年老いて子を産めなくなった母、サラから子どもイサクを生み出しました。このようにして、生まれたイサクが大きくなったとき、神は父アブラハムに、その子イサクをモリヤの山に連れて来て、いけにけとしてささげよと命ぜられました。 しかしアブラハムは、神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていたので、神に従順に従い、イサクをささげました。すなわちアブラハムは、神がイサクをよみがえらせる力のあることを信じ、主に信頼しました。 主なる神が天から約束して言われた言葉をアブラハムは信じていました。 創世記22:17
アブラハムは主のみことばを信じていました。そして決して失望することを知りませんでした。 イザヤ書60:22
と。弱き者を強くし、小さき者を大いなる者とするのは、よみがえりの神、イサクの神です。アブラハムの神、イサクの神が私たちに語りかけてくださったなら、このすばらしい神にすべてを任せましょう。 モーセは自分を救い、選び出された神が、よみがえりの力をもった神であることを知っていました。 死んで枯れてしまった骨のような者でも、主は生き返らせることがおできになります。どんなに惨めに失敗してしまった者をも、再び正しめることがおできになります。この神に信頼するならば、決して失望に終わることがない。 不可能なことを可能にする、よみがえりの神であると、モーセは神に深く信頼してきました。 よみがえりの神がどこに現われるんでしょうか。もしある人がゼロとなったとき、その人によみがえりの神は現われ給います。モーセはまったく失望し、まったく空の器となり、完全に自分のすべてを主に明け渡したときに、よみがえりの主はモーセに現われたのです。 アブラハムについて次のようにローマ人への手紙4章に書いてあります。 ローマ人への手紙4:17-21
とあります。主なる神はご自分を現わしたいのです。ですから、人々を絶望の中に追いやります。 パウロの経験について読んでみましょう。 コリント人への手紙第II、1:8-9
パウロはことを大げさに言わない人です。主なる神がご自身を現わすには、これらの悩みと苦しみが必要だったのです。 エゼキエルは同じことを経験したのです。 エゼキエル書37:11-14
エゼキエルは、主なる神は冷たい死んだ石からでさえ、子をおこすことができ、墓の中から民をよみがえらせることのできるお方であることを知っていました。 よみがえりの神は、死の匂いのする墓の中から、星のように多くの子孫を生み出すであろうと約束されました。 燃える柴を通してよみがえりの神、イサクの神がモーセに現われ給もうたのです。そして、モーセはこのよみがえりの神は、その御力をもって自分の通るエジプトからイスラエルの民を導き出そうとしておられるということを知りました。 初めに、モーセがエジプトの王、パロの宮殿で生活した四十年の間に、モーセは自分は自分で何でもできると思ってました。次にモーセは、四十年ミデアンの荒野で主の教育を受けましたが、そのときモーセは、自分は何もできないことを悟りました。 それに続くもう四十年、モーセは神とともに働きましたが、そのときのモーセは、自分は神によってすべてのことができると確信して立っていました。 それはモーセが、全能なるアブラハムの神、よみがえりの神、イサクの神を目の当たりに見、その力にあずかったからです。 最後に短く、第三番目の点になりますが、神はご自分を、「わたしはヤコブの神である。」と言っておられることについて考えてみたいと思います。 創世記32:22-31
とあります。ヤコブの神は、聖めの神です。自我からの開放の神です。ヤコブという名前は、「欺く」という意味をもっています。ヤコブはいつも自分の利益を考えてる人でした。 神は二十年の間、ヤコブのそのような自我につける性質を砕こうとして、語り続けましたが、ダメでした。ヤコブも神に奉仕しようと思っていましたが、ヤコブのする奉仕はみな、自分の力で、自分のためにする奉仕でした。ヤコブのような方法では、神のご目的は達成されません。 神はご自分の方法をもって、ご自分の目的を成し遂げられます。ヤコブはそれが分かるまで、長い間かかりました。ヤコブは策略によって長子の特権を兄エサウから奪い取り、また父を騙して、長子の祝福を受け自ら罪を選び取りました。 妻は自分で選び取るものではありません。主から与えられるものです。また、騙してラバンの富を奪い取りました。その結果はどうだったでしょう。ヤコブは、原へ逃げなければならなくなりました。 そしてヤコブは、ベテルで神に出会いましたが、けがれた自らが神に会ったとき、これは何という恐るべき所だろうと叫びました。ベテルは神の家という意味です。 テモテへの手紙第I、3:15
とあります。 ヤコブは逃げていたとき、表面的には富んでるように見えましたが、心のうちには満足がありませんでした。ヤコブは兄のエサウを憎んでいました。彼は自分の家にいるのに平和がありませんでした。 次に彼は、ラバンと争ってしまいました。その結果、良心の呵責がヤコブを責めつけます。自分で自分を救おうとしましたが、それは負い目を増すばかりでした。 このヤコブに神は、アブラハムの神とし、またイサクの神として語りかけられました。神はヤコブをまったく解放し、ヤコブの神としたかったんです。 ついにヤボクの渡しで、ヤコブは神と相撲を取りました。そのときに、神はヤコブに、まえの名前は何というのかと尋ねられたとき、ヤコブは、「ヤコブ。欺く者です。」と答えました。 ヤコブは神に追い詰められ、自分の罪を認め、言い表わしたのです。その瞬間に神は、「わたしはヤコブの神である。」と言われたのです。 神の山、ホレブで燃える柴の中から現われ給もうた神は、このヤコブの神でもありました。モーセはあのとき、ヤコブの神は自分を自我の生活から開放したいのだ、ということを知りました。 ヤコブを見捨てず、聖め、ヤコブの神となられた神は、モーセを聖め、モーセの神となろうとされたのです。全能なる神は、アブラハムと一つとなり、アブラハムの神となられました。なぜでしょうか。 アブラハムが自分の弱さを認め、どーしても全能なる神の力を必要とし、これを認めたからです。同じことがモーセに起こりました。モーセは自分の無力と無能力を深く悟り、神に、私ははなすことができません、と言い訳をしました。 そのときに、その場で神は、われは全能にしてなすあたわざることなく、アブラハムの神であると、全能なる御姿をモーセに現わし給いました。 モーセが、私は何もできませんと神に告白したとき、神は、「それはいい。それがわたしの目指すところだった。何もできない器を通してわたしは自分の思うことをすることができる。」と言われました。 よみがえりの神は、イサクと一つになり、イサクの神と呼ばれました。なぜでしょうか。イサクは絶望の淵を何度も通りました。この望みのない状態のイサクと、神は結び付きました。人がまったく絶望し切ったときに、神はご自身を現わすことがおできになります。 モーセはエジプトの王子ではなく、一介の羊飼いになり下がったとき、神はモーセに現われ、イスラエルの民を救い出し、目覚めさせるよみがえりの神として、ご本質を現わし給いました。 聖めの神はヤコブと結び付いて、ヤコブの神と呼ばれました。なぜでしょうか。聖めの神は、性格の弱いヤコブのうちにご自身を現わしたかったんです。ヤコブは自らに絶望し、自分の罪を神に告白してから神の御心にかなった器となりました。 この聖めの神はモーセにも現われました。この聖めの神により、人殺しモーセは、世界で一番柔和な人となることができたのです。 モーセの奉仕の底には、無力、それから見る影も無い枯れた骨、まったく打ち砕かれた自己の生活がありました。このモーセに、全能なる神、よみがえりの神、聖めの神が満ち満ちて、モーセの奉仕のすべてとなり給もうたのです。 この学校に、主が私たちをも導いておられます。私たちの場合は四十年ひとところで学び、続く四十年をご奉仕するといったことではありません。訓練とご奉仕が並行してあります。 まことのご奉仕は、主のために働くことではありません。全能なるよみがえりの、また聖めの神が、空の器である私たちを通して外に現われ給もうことです。 私たちはこの土の器が、神よりの宝をもつ、その度合いに従って多くの人々を救いに導き、またキリストの満たしにまで至らせることができるのです。一方では、主は、私たちを空にし、虚しくし、また他方で主は私たちを立て上げ、ご自身の御姿に変えていかれるのです。 私たちもモーセと同じように、アブラハム、イサク、ヤコブの神を自らのものとして、まことの神のしもべとなりたいものです。 |